ゆらゆらと、夜の街はネオンが綺麗。
赤、青、黄色。
原色のランプが、混じり合って揺れる。

昼の街とはまるで違って、どこか別世界みたい。
いっそ別世界だったらいいのに。
ここが、違う世界だったら、いいのに。

どこか連れて行って。
私をここから、連れて行って。

もうこんなところいたくない。
誰か、私を、連れだして。



***




俯いていると、影がさして視界が暗くなった。
また、鬱陶しい馬鹿がきた。

「どうしたの?一人」

一人座り込んでいると、すぐ馬鹿が声をかけてくる。
私は答えず、俯いたまま。
顔も見えない誰かは、何回か何か話しかけていたが、それでも無視していると悪態をひとつついて去っていった。
くだらない。

またしばらく一人きり。
ただ、夜が過ぎるのを待つ。
別にここにいたい訳じゃない。
どこにも行く場所がないだけ。

時間が早く、過ぎればいい。
ケータイゲームで時間をつぶしていると、また、影がさして視界が暗くなる。

「ねえねえ」

誰かが、前にたっている。
私に見えるのは、足だけ。
趣味の悪い色のデニム。
ああ、鬱陶しい。

私はそれでも、ケータイゲームから目を離さない。
趣味の悪い男は、まだ何か話しかけている。
そしてまた、しばらくして去っていった。

いっそ、あいつらについて行ったらいいだろうか。
次、声をかけられたら、ついて行ってみようか。
今よりは時間が過ぎるのが、早くなるだろう。
メシぐらいおごってもらえるだろうし。
別に、ヤりたいなら、ヤらせてもいい。
こんな体、どうでもいい。
よし、次の奴が声をかけたら、ついて行ってみよう。

「何してるの?」

その声に、驚いて顔を上げる。
近づいているのに全然気付かなかった。
そこには、よく見知った顔。

「危ないよ。早く帰ろ」

困ったように笑う顔は、うんざりするほど見飽きている。
穏やかな声は、小さい頃からずっと傍にあった。

「うるさいな。あんた一人で帰ればいいでしょ」
「メイを置いて帰れないよ」
「うるさい!!」

気遣うような声にウザくて、思わず怒鳴りつけてしまう。
すると、辺りを歩いていた奴らが、じろじろとこっちを見る。
胡散臭げに、キレやすい十代から距離を置く。
くそ、こいつのせいだ。

居心地が悪くなった場所から離れるため、重い腰を上げた。
目の前に立つ奴を無視して、足早に立ち去る。

「帰るの?メイ」
「うるさい!」

嬉しそうに声を弾ませるから、私はまた声を上げてしまう。
すると、やっぱり周りの奴らの視線が刺さる。
小さく舌打ちして、更に足を速める。
けれど、やっぱり奴はついてきた。

「ついてくんな」
「やだよ、メイが帰るまで、一緒についていく」
「あんな家、誰が帰るか」
「じゃあ、ずっとついていく」

くそ、こんな奴にひっつかれてたんじゃ、何もできやしない。
私は今度は大きく舌打ちして、仕方なく家に足を向けた。
まあ、この時間なら、あいつらと顔を合わせることもないだろう。
朝の早いあの女はもう寝ているだろうし、あの男は帰るのが遅い。
私のいく方向が分かったのか、アキラは嬉しそうに声をあげた。

「一緒に帰ろ」

そして少し早足で、私の隣に並ぶ。
ああ、本当に鬱陶しい。
いつも、こんな時だけ、傍にいるんだから。

こんな時しか、傍にいてくれないんだから。



***




「メイ!どこに行ってたの!」

もう寝ているかと思ったのに、まだ起きていた。
ヒステリックに喚き散らす、醜い女。
こんなんだから、旦那に愛想をつかされるんだ。
私はシカトして、自室に向かう。

「最近、いっつも遅いでしょう!何してるの?まさか悪いことしてるんじゃないでしょうね」

ああ、うるさいうるさいうるさい。
消えてしまえばいいのに。
シカトしてるのに、ババアはいつまでもついてくる。
このババアごと、こんな世界、本当に消えればいいのに。

「またそうやって黙り込んで。そういうところ、あの人にそっくり。どうせあんたたち、私のこと馬鹿にしてるんでしょ。あの人も今日も遅いし、どこの女と遊んでるんだか。あの人がああだから、あんたまでこんな風になっちゃうし」
「うるせーな。ヒステリーババアと顔あわせたくねーんだよ」
「なっ」

顔を真っ赤にして、ブスなババアはますますブスになる。
私はさっさと階段を駆け上って、自室にこもった。
きーきー鳴いているババアの声が、上まで響く。

ベッドの下にいっぱいに入った収納箱から、CDを引っ張りだす。
音楽をかけて、声をかき消す。
そのままベッドに突っ伏して目を閉じる。
しばらくして、今度は玄関が開く音が響いた。

音楽の音を上回る、金切り声が上まで響く。
怒鳴りつける、男の低い声が聞こえる。
耳障りな声は、いつまでもいつまでも、響いている。

うるさいうるさいうるさい。
消えてしまえ。
あんな奴ら、いなくなってしまえ。

ああ、いやだ。
こんな世界いやだ。
誰が、連れて行って。
私をここから連れて行って。

こんな世界、消えてしまえばいいのに。



***




リビングに入ると、ババアは黙り込んで朝食の用意をしていた。
私は椅子に座って、トーストにかじりつく。
流しで洗いものをしながら、ババアはぶつぶつと聞えよがしに何かを言っている。

「全く、私が毎日毎日何をしても、あんたたち、何も言わないのよね。あの人も、外で遊んでばっかり。あんただけはあんなにならないように育てたつもりだったのに、父親そっくりになっていくし、本当、うんざりよ。こんなはずじゃなかったのに。あんたさえいなければ、こんな家、さっさと出て行くのに」

一気に食欲がなくなった。
毎日毎日、毒を吹き込まれる。
ババアの愚痴を聞くたび、鉛を胸にため込んでいく気がする。
空気が重くなる。
体が、重くなる。

半分トーストを食べたところで、我慢できなくなって立った。
こんなまずいメシ、食えるか。
メシと一緒に、毒を飲み込まされる。

「ちょっと、メイ!?」

その言葉を無視して、私は家からさっさと出た。
ああ、こんな腐った世界、さっさとなくなってしまえばいいのに。

どいつもこいつも、死んじまえ。



***




「どうして、そんなことするの?」

学校について、鞄の中に弁当が入っていることに気付いた。
イラついて、中庭のゴミ捨て場までいって、それを捨てた。
すると、後ろからまた鬱陶しい声が聞こえる。

「せっかくお母さんが作ってくれたお弁当、どうして捨てるの?」
「あんなババアが作ったメシなんて、食いたくもない」
「お母さん、早起きして、毎日作ってるんだよ」
「うるせえな!あの女の自己満足なんて知らねーんだよ!」

なんのつもりだ、あの女。
毎日毎日毒を撒き散らしながら、家事はしようとしている。
それで自分の立場を守っているつもりか。
鬱陶しい。
いやなら、すべて捨てて出て行けばいいんだ。
ジジイも私も嫌いなら、さっさと出て行って一人で暮せ。
それもできないくせに、ぐちぐち言ってんじゃねーよ、あの馬鹿女。

「メイ、言葉が悪い」
「うるせーな!!」
「メイ」

悲しげな響が、声にこもる。
少し責めるように、眉をひそめる。
アキラは、小さい頃よくやっていたように、私の頭に手を伸ばそうとした。
けれど、少しためらって、その手を引いた。

最近いつも、そうだ。
昔は頭を撫でてくれた。
ずっと一緒にいてくれた。
それなのに、最近はこんな時しか傍にいない。
アキラは、アキラだけはずっと一緒にいてくれると思ったのに。
こいつも、あいつらと一緒だ。
結局、裏切るんだ。

「メイ、メイはもう高校生だよ」
「だからなんなんだよ!」
「自分のことばかりじゃなくて、お父さんとお母さんのこともちゃんと見て」
「あんな自分勝手な奴ら死んでしまえ!」

うるさいうるさいうるさい、何も分からないくせに。
お前に何が分かるんだ。

「メイ!逃げても何も変わらない!」

鬱陶しいアキラの声を背中に、私はその場を駆けだす。
勝手にセックスして、勝手に産んで。
勝手に夫婦になったくせに、私のせいで別れられないと、子供に押し付ける。
最低な奴ら。
そんな言い訳しないで、さっさと別れちまえ。

教室に戻ると、クラスメイトが何か話している。
気にせず入ろうと思ったが、その話題の中心が自分だと気づく。
足が勝手にとまって、ドアの前から動けない。

「あいつさ、さっき中庭にいたんだけど、いきなり怒鳴りだして、マジやばいよ」
「本当に、そのうちナイフとか持って暴れ出すんじゃねーの」
「超こええ。キモいよね。うける」
「マジ、キモいー!」

うるさいうるさいうるさい。
どいつもこいつも、大嫌いだ。
死んじまえ。
消えてしまえ。

誰かお願い。
私をここから連れていってよ。



***




「やめ、ろよ!!」
「うるせーな。誰か黙らせろよ!」
「じゃあ、俺口塞ぐわ」
「殺すなよ」

下卑た笑い方をしながら、脂ぎった手をした男が私を押しつける。
臭い息ふきかけんじゃねーよ。

くそ、くそくそくそくそ。
ヤられてもいいと思った。
どうにでもなれって思った。
でも、こんなのはごめんだ。

複数の男に力で押さえつけられて、好き放題になぶられる。
もうこれ以上、他人に好き勝手にされるなんて、ごめんだ。
これ以上、虐げられるのは、いやだ。
口を押さえた手に、思い切り噛みつく。

「っだ!」

力が緩んだ瞬間、圧し掛かった男の急所を思いきり蹴りあげる。
男は股間を押さえて、その場に転がる。
ざまあみろ、クズ男。

「ぐあ!」

私は鞄をとり、もう一人の男に思いきりぶつけた。
皮の鞄は、鉄が入っていて重い。

「痛っ!なんだこの女!」

顔を押さえて三人目がひるむ。
今しかない。
素早く身をひるがえして、かけ出した。
どこだ、どこにいけばいい。
どうしたらいい。

誰か。
どこにいったらいいの。

「メイ!」

その時、いつもの声が聞こえた。
懐かしい懐かしい、聞きなれた声。

「………アキラっ!」
「こっち!」
「アキラ!」

アキラが向こうで手まねきしている。
私はそちらに向かって、更に足を速める。
心臓が破けそうだ。
怖い。

後ろから足音がする。
助けて、助けてアキラ。

「アキラ!」
「早く、メイ!」

焦った顔でアキラが手まねきしている。
私が最後の力を振り絞って逃げた。

「なんだ、誰だ!?」

後ろから男の声が聞こえる。
大丈夫、逃げられる。
アキラがいるから、大丈夫。

アキラの元まで来ると、アキラも走り出す。
私はその背を必死に追いかけた。

どれくらい走っただろう。
息があがって、酸素がたりなくて、もう走れないと思ったところでアキラは足を止めた。
辺りは明るくて、人通りもある。
もう、大丈夫だ。
私はへなへなとその場に座り込む。

アキラは息もあげないまま、私の前に立って腰に手をあてた。
そして顔を赤くして、怒鳴りつけた。

「馬鹿!!」
「………………」
「どうして、こんなことするの!?」

どうなっても、いいと思ったのだ。
もう、私なんて、どうにでもなれと、思ったのだ。
私がめちゃめちゃになれば、あいつらだって少しは後悔するだろう。
世間体が悪くて、あいつらの面目も丸つぶれだ。

「そんな理由なの!?本当に馬鹿なんだから!」
「馬鹿馬鹿言うな!」
「当たり前でしょ!そんなのお父さんとお母さんが悲しむより先に、メイが傷つく!下手したら死んでいたかもしれないんだよ!?」
「そ、んなの」

死んだら、それはそれでいい。
だって、私が死んでも、誰も悲しまない。
むしろせいせいするかもしれない。
あいつらだって、厄介払いができたとばかりに別れて楽しく人生を過ごすかもしれない。

「メイ、メイが死んだら、悲しい」

けれど、アキラはそう言って、本当に悲しそうな顔をした。
その顔に、ちくりと、胸が痛くなった。
そうだ、あいつらは悲しまないかもしれないけれど、きっとアキラだけは悲しんでくれる。
それはきっと、本当だ。

「メイが好きだよ。何があっても、メイが好き。それは覚えていて」

アキラはしゃがみこんで私に視線を合わせる。
周りの人間はしゃがみこんだ私たちをじろじろと見て行く。
アキラは優しい。
きっとアキラだけは私を思っていてくれる。
なら、なぜ。

「じゃあ、なんで最近ずっと一緒にいないのよ!あんただけは一緒にいてくれると思ったのに!」
「………………」

アキラは、黙りこんだ。
また、私の頭に手を伸ばそうとして、やめる。
どうして、頭をなでてくれないの。
どうして一緒にいてくれないの。
ずっと一緒にいてくれるって、約束したのに。

「とにかく、帰ろ」
「………」
「ね、一緒にかえろ」

誤魔化すように、微笑まれた。
寂しそうに笑っていた。
だから、これ以上は何も言えないくて、私は立ち上がる。

そして二人並んで歩く。
黙って、ただ、歩く。
今日は満月で、街灯が少なくても、明るい。
長い長い影が、一本伸びる。
私の影が、とぼとぼと力をなくして肩を落としている。

「昔、よく二人でこうして歩いたね」
「………」
「メイはよく泣いていて、慰めるのに必死だった」

昔から、変わらない。
ジジイとババアが仲が悪くなってきた頃、家に帰るのが嫌で、私は遅くまで外で遊んでいた。
アキラとずっと、日が暮れるまで遊んでいた。
私は泣き虫で、アキラはよく私を慰めていた。
ずっとずっと、一緒だった。
アキラとずっと一緒だった。

「ね、危ないことはしないで。メイに何かあったら、どうしたらいいか分からない。お父さんもお母さんも心配する」
「あんな奴ら、どうも思うもんか!!」
「メイ、君が思っているより、みんなは君を愛しているよ」
「嘘つき」

アキラは、綺麗事ばかり言う。
したり顔で、説教臭いことばかり言う。
そんなアキラがひどく鬱陶しい。
けれど、アキラは私がどんなに邪険にしても根気強く諭す。
そしてにっこり笑う。

「メイ、大好きだよ」

長い長い影が道に一本伸びている。
私はただ、黙ってアキラの隣を歩いていた。



***




「メイ!どうしたの、その格好!」
「………」
「メイ!メイったら!大丈夫なの!?」

家に帰ると、ババアが顔色を変えて飛びついてきた。
さっきあいつらに襲われたときに、顔をすりむいて、制服は泥だらけだ
ひどい格好。

ああ、うるさいうるさいうるさい。
こんな時だけ、ハハオヤ面するな。
どうせ世間体とかそういったものが気になるだけだろう、クソ女。

「メイ、メイったら、ねえ大丈夫?」

猫なで声を出すな。
気持ち悪い。
聞いていられなくて、部屋に逃げ込む。
ババアはついてきて、ドアの前でもボソボソと何か言っている。

「メイ、大丈夫?………ご飯、下に作ってあるから」

うるさい。
黙れ。
消えてしまえ。

もう、こんな嘘ばかりの世界はいらない。



***




「ねえ、アキラ知らない?」
「アキラ?」

そこら辺にいた奴に聞くと、そいつは怪訝そうな顔をした。
アキラはこのクラスじゃなかったっけ。

「………なんでもない。ごめん」

そう言い残して、私はその場を去った。
そいつは友達とひそひそと話している。
どうせ、私の悪口だろう。
ああ、話しかけるんじゃなかった。
それもこれも、アキラが悪い。
あいつ、どこのクラスだったっけ。

「メイどうしたの?」

イライラして歩いていると、いつの間にかアキラが前に立っていた。
驚いた。
私が目を丸くしていると、アキラは笑って小首をかしげた。

「探してくれてたんだってね。聞いた。どうしたの?」
「………今日、家に来ない?」
「どうしたの、久しぶりだね。メイが誘ってくれるのは」
「うるさいな。来るの、来ないの?」
「行くよ」

嬉しそうに笑うと、アキラは頷いた。
アキラが家を呼ぶなんて、久しぶりだ。
昔はいっつも、家に入り浸っていたのに。

放課後、約束通り、アキラは家に来た。
なんとなく、久しぶりすぎて落ち着かない。
私はベッドの下からCDを取り出してかけた。
流れ出した音に、アキラは眼を細める。

「メイは昔から、この歌手好きだよね」
「悪い?」
「誰も悪いとは言ってないよ」

困ったように、笑う。
なんだか、懐かしい。
我儘ばかり言う私に、それに苦笑して付き合うアキラ。

「アキラが、この部屋くるの、久しぶり」
「うん、そうだね」

しばらく、他愛のない話をする。
最近のわだかまりが溶けていくように、穏やかな時間。
心の中の毒が、消えていく気がする。
アキラといる時間が、一番落ち着く。

「………私は、あんただけいてくれれば、それでいいのに」
「それじゃだめだよ」
「どうしてよ」
「メイは沢山の人と関わって、幸せになってほしいから」
「私は、あんただけでいい!」

分からずやなアキラに、癇癪起こすようように怒鳴ってしまう。
もういらないのだ、ほかの人間なんて。
私はアキラがいれば、それでいい。
もう、こんな世界いらない。

「どっか連れていってよ、アキラ。私をここから連れ出して」
「メイ………」

悲しそうに、アキラが眉をひそめる。
どうして、そんな顔をするの。
どうして、私の言うことを聞いてくれないの。
アキラはいつだって、私の言うことを聞いてくれたのに。

「メイ?」

その時、ドアの向こうから声がした。
いつのまにか、ババアが帰ってきてたのか。
どうしよう、アキラが家にいるなんて知ったら、ババアは怒る。
昔、アキラと遊んでいて怒られたのを思い出す。

「え!」
「メイ、入るわよ」
「ちょ、ちょっと、勝手に……」

そこまで言って、ババアは止める間もなく入ってきた。
そして部屋の中を見回して、不思議そうに肩をすくめる。

「あら、一人なの?誰かいるのかと思った?」

私も驚いて後を振り向く。
アキラは、どこに隠れたのか、部屋の中には誰もいない。
ほっと、胸を撫で下ろす。

「………見て分かるでしょ」
「そうね。お母さん、ちょっと出かけてくるから」
「あっそう」

ドキドキしている心臓を隠すように、私はなおさら冷たくそう言った。
ババアはちょっと不機嫌そうに鼻を鳴らすと、部屋から出て行った。
しばらくして、後ろから声がする。

「ああ、びっくりした」
「こっちがびっくりしたわよ!あんたどこに隠れてたの」
「ベッドの下に」
「心臓止まるかと思った」
「ホントに」

アキラはおどけた仕草で、胸を押さえて息をついた。
それが面白くて、私はくすくす笑う。
アキラもそんな私を見て、穏やかに笑う。
そのまま二人して、くすくすとずっと笑い合っていた。

「メイは、そんなに素敵に笑えるんだから、きっと友達、すぐできるよ」

せっかく久々に楽しい気分だったのに、アキラがつまらないことを言う。
いらない、そんなものいらない。
アキラさえいればいい。
私は、アキラ以外いらない。

「私はアキラがいればいい」
「そんなの、ダメだよ。困らせないで、メイ」
「困らせてるのは、どっちよ!」

アキラは、呆れたように溜息をつく。
そして、立ちあがった。

「アキラ、どこにいくの!」
「帰るよ」
「アキラ!」
「メイ、早く大人になって。じゃないと………」
「アキラ!」

悲しげに、アキラが目を細める。
けれどそれ以上何も云わず、アキラは部屋からそっと出て行った。
取り残された悲しみに、涙が出てくる。
いい知れない不安に、私は胸をかきむしる。

いやだいやだいやだ。
アキラだけいればいい。
アキラがいなくちゃ、いやだ。



***




その日、家に帰ると、また怒鳴り合う声が聞こえた。
ああ、またやってる。
いい加減飽きないのか。
馬鹿みたいだ。
子供の私よりも、ずっと子供。
さっさと別れてしまえばいい。
私の世界から消えてくれ。

ババアが、泣き崩れる声がした。
しばらく、静かになる。
この間に、上にいこう。
その時、リビングから静かな、ジジイの諦め、疲れきった聞こえた。

「………もう、やめよう。もう無理だ」
「あなた……?」
「もう、無理だ。………別れよう」

え。
なんて、今、なんて。
何を言ったのかわからなくて、思わず立ち止まってしまう。
長い間に沈黙が落ちて、そして、ババアの小さな声が聞こえた。

「………そうね」

望んでいたことだ。
こんな、醜い争いばかりするなら、別れてしまえ、と思っていた。
なのに、なぜ、今私は衝撃を受けているのだ。
どうして、逃げ出すのだ。

どうしたらいい。
どうしたらいい。
どうしたらいいの。

部屋に駆け込む。
リビングから、私を呼ぶ声が聞こえた気がする。
でも、そんなのどうでもいい。

「アキラ!アキラアキラ!」
「どうしたの?メイ」
「助けて助けて助けて!もういや、こんな世界いや!どっか連れて行って!」

アキラが、私を見て、悲しそうな顔をする。
もういやだ、こんな世界、いやだ。
こんな苦しいものばっかりな世界、いやだ。
消えてしまえ。
こんな世界消えてしまえ。

違う、私が消えたい。
ここから、逃げたい。

「アキラ、どこかに連れて行って!もういや!」
「………メイ」

アキラが、そっと頭を撫でようとする。
その時、ノックする音がした。
体が震える。

「メイ、いいかしら、話があるの」
「入ってくんな!!」
「メイ」

ババアが、勝手に部屋に入ってくる。
終わりを持って、私に近づく。
いやだ。
もういやだ。
私はアキラに近づき、すがりつく。

「アキラ、アキラアキラ!助けて!もうやだ!」

アキラは困ったように、小さく笑うだけ。
ババアは怪訝そうに、小首をかしげた。

「………メイ?一人で何を話しているの?アキラって誰?」
「え………」

部屋の中を見回し、ババアは私に視線を戻す。
一人って。
何を。

アキラは、ここにいるのに。
アキラは今、私の目の前にいるのに。
アキラは。

「………アキラ?」

アキラは悲しい目をして、笑っていた。
昔のように手を伸ばして、私の頭を撫でる。
けれど、何も感触を感じない。
冷たさも温かさも、何も感じない。
その手に触れようとした。
けれど、何も感じない。

「………どう、して」

そう言えば、アキラって、誰。
苗字は何。
どこに住んでいるの。
なぜここにいるの。
望んだ時に、どうしていつも傍にいるの。

ずっと一緒にいた。
それは確か。
でも、アキラは男?女?
何歳?
いつから一緒にいた?

どうして、学校にいるのに、誰もアキラを知らないの?
どうして、アキラと話していると、みんなじろじろと私を見ているの?
どうして、アキラと一緒に歩いているのに、私の影しか伸びていないの?
どうして、アキラには影がないの?
どうして、収納でいっぱいのベッドの下に、隠れることができるの?

アキラ。
アキラって、誰?

「い、やああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」

体の中から、すべての確かなものがなくなっていく気がした。
世界が、壊れる音がする。
どうしてどうしてどうして。

アキラ。
アキラがいればそれでいいのに。

でもアキラって誰。
アキラはなんなの?

もう何もわからない。
私はまた、その場から逃げ出す。

後ろから、ババアとアキラの声が聞こえる。
いやだ、いやだいやだいやだ。
こんな世界もういやだ。
裸足で、外にかけ出す。
どうしたらいい。
どこまでいけばいい。

大通りに飛び出した。
引き裂くようなブレーキ音が迫りくる。
そちらを見ると、運転手の驚いた顔がある。
ああ、ひかれるのか。

「メイ!!」

アキラの声が、聞こえた気がした。
そして、誰かに突き飛ばされた気がした。



***




「アキラ」

私は初めての友達に、そう名前をつけた。
明は、メイともアキラとも読むと、お母さんがいった。
どちらの呼び方にしようか、迷ったらしい。
勉強なんてできなくても、運動なんてできなくても、明るい子に育ってほしい。
そうお父さんと相談したと、言っていた。

むかしむかしの話だ。

だから、私は鏡の中の自分に、その名前をつけた。
もう一人の私。
私の初めてのお友達。

人見知りの私は、ずっと友達ができなかった。
そのうち、お父さんとお母さんが仲が悪くなって。
何を話しても不機嫌そうにするようになって。

寂しくて寂しくて。
だから、鏡の中の私に話しかけた。
それで、少しだけ、さみしくなくなった。
アキラ、と名前を付けた。
今日の出来事、楽しかったこと、悲しかったこと、すべてを話した。

「メイ」

そうしたら、鏡の中の私は、私の名前を呼んでくれた。
嬉しくて、私はアキラにたくさん話しかけた。
すると、アキラは笑ってくれるようになった。
話しかけてくれるようになった。
一緒に、出かけてくれるようになった。

いつか、アキラと遊んでいたら、お母さんに怒られた。
一人でぶつぶつ言って気持ち悪い、やめなさい、と。
意味が分からなかった。
アキラはそこにいるのに。
でもお母さんが機嫌が悪くなるから、私はお母さんにアキラの話をするのをやめた。
それからは、外で会うようになった。
たまに、お母さんの目を盗んで家で遊んだ。

周りの人は、変な目で見たけど。
アキラとは、手もつなげなかったけど。
でも、嬉しかった。
アキラが、大好きだった。

ずっとずっと、一緒にいたかった。
アキラがいれば、それでよかった。

「メイ」

そう言って誰より優しく私の名前を呼ぶあなたが、好きだったの。
ただ、一緒にいたかったの。
現実なんて、いらなかったの。

「ありがとう、メイ。アキラも、メイが大好きだよ」
「………なら、なんで消えてしまうの」

最近ずっと傍にいてくれなかった。
遠くにいってしまう気だと、なんとなくわかっていた。
アキラは、悲しそうに笑う。

「アキラがいると、メイのためにはならないから」
「そんなことない!!一緒にいて!ずっと一緒にいて!傍にいて、一人にしないで!」

駄々っ子のように泣きながらすがりつく。
アキラはいつものように苦笑して、私の頭をなでた。
けれど、その手の感触は、ない。

「メイは一人じゃないよ」
「アキラがいなくなったら、一人ぼっちだ!」
「そんなことない、みんな君を愛しているよ。君が思うよりもずっと世界はメイに優しい」

アキラは、私を抱きしめる。
けれどやっぱり、温かさを感じない。
抱きつきたいのに、抱きつけない。
どうして、アキラはここにいるのに。
アキラだけ、いればいいのに。

「お父さんもお母さんも、不器用なだけだよ」
「あんな奴ら、どうでもいい!」
「そんな、悲しいこと言わないで。お父さんは、メイの誕生日プレゼントだけは忘れない。お母さんは、必ずご飯とお弁当を作ってくれる。ずっと見ていたから、知ってるよ」
「そんなの………っ!!」
「メイのことは、アキラが一番よく知っている」

ずっとずっと一緒にいてくれた。
一番の友達。
大好きな大好きなアキラ。
いつも大人ぶって、私を諭した。
それが少しだけ、鬱陶しかった。

でも、嬉しかった。
私とちゃんと話してくれるのは、アキラだけだった。
だから、嬉しかった。

「みんなみんな、弱いだけだよ。少しだけ、寛大になってあげて」
「やだ、そんな、そんなのやだ。アキラがいればいい」
「もっと笑って、メイ。メイの笑顔はとてもかわいい。きっとみんなメイが好きになる」

そんな、嘘はいらない。
アキラがいなくなったら、私は一人だ。
みんな、私を置いて行く。
アキラだって、やっぱりいなくなってしまう。

「裏切り者!!やっぱりアキラも私を置いて行くんだ!」
「ごめんね、メイ」
「裏切り者!裏切り者裏切り者!」

悲しい顔をして謝るアキラに、胸がいっぱいになる。
置いて行かないで、置いて行かないで。
私を一人にしないで。

「ごめんね。楽しかったよ、メイ」
「う、ううう、う………」
「覚えていて、メイが好きだよ。アキラはずっとずっと、メイが好きだよ」

でも、やっぱりアキラは私を置いて行ってしまうのだ。
止められないのだ。
連れて行ってくれればいいのに。
私を置いて、アキラは行ってしまう。

「大好きだよ、メイ」

泣きわめく私に、アキラは頭を撫でた。
感触はない。
けれど、温かい気がした。

「大丈夫だよ、メイは大丈夫。さあ、目をあけて。きっと世界は優しいよ」

最後にアキラは、優しく優しく笑った。

「大好きだよ、メイ。君を、永遠に愛している」



****




泣きながら眼を覚ました。
頭ががんがんする。
体中が痛い。
白い天井が、眩しい。

「メイ!!」

いつものヒステリックな声が降りかかってきて、うるさい。
そちらに目を向けて悪態をつこうとする。
しかし、言葉は出なかった。

ババアは、涙で顔をびしょぬれにして、ブサイクな顔をしていた。
ベッドの横に座って、拭こうともせず私の顔をじっと見ている。

「………メイ」

ジジイが、その後ろにいた。
泣いてはいないけれど、目が真っ赤だ。
髪をぼさぼさにして、スーツが乱れている。
こんな姿を、見たことない。

何泣いてるんだ、こいつら。
馬鹿みたいだ。
ずっと、私の気持ちを無視していたくせに。
私がいなきゃ、別れられるって毒を吹き込んでいたくせに。
今更、馬鹿みたいだ。

『みんな、君を愛しているよ』

アキラの声が聞こえる。
そんなの認められるわけない。
ずっとずっと毒を吹き込まれてきた。
体中に毒がまわっている。
こいつらなんて、消えてしまえってずっと思っていた。

「メイ、よかった…、ごめんねごめんね………」

ババアが、泣いている。
うるさい、黙れ、消えろ。
そう言おうと思った。

思ったのに。

声が、出ない。
胸が熱くなる。
どうして、今更。
こんなことぐらいで。
私はずっとずっと我慢してきたのに。
ずっとずっと耐えてきたのに。

それなのに、こんなことぐらいで、なんで涙が出てくるんだ。

ずるい。
こんなんじゃ足りない。
こいつらにはもっともっと謝罪して、私のこれまでを台無しにした報いを受けさせたい。

「メイ、すまなかった………」

ジジイが、私の手をとる。
触るな、キモイ。
そう言いたいのに。

言いたいのに、どうして、言葉が、出てこない。
私は黙ったまま、ただ泣き続けた。

アキラ。
アキラ。
アキラ。

言いようのない、喪失感。
胸にぽっかり穴が空いている。
きっと、これはずっと埋まることはない。

アキラ。
でもアキラ。

胸が、熱いよ。



***




頭を打った程度で、怪我はほとんどなかった。
運転手は、誰かに突き飛ばされたように前に倒れこんだ、と言っていた。
私は、アキラが助けてくれた、と言った。
母は、アキラとは誰かと聞いた。
一番大切な友達だ、とだけ教えた。

そうだ、きっとアキラが助けてくれたのだ。
だから、私は死ぬわけにはいない。
アキラがくれた、命だから。

結局、父と母は、別れることになった。
私は母について行くことになり、今はその調整をしている。

二人とも、私に謝った。
そして、ちゃんと話してくれた。

二人は夫婦としてやっていくことは、無理だった。
けれど、私は愛している。
大好きだ。
私の親であることは変わらない。
家族をメチャクチャにして、悪かった、と。

本当に今更だ。
なんて勝手なんだ。
そんなクサイ言葉、笑ってしまう。

けれど、やっと話してくれた。
誤魔化さず、取り繕わず、話してくれた。

わだかまりはある。
未だに、二人と仲良く話すことなんてできない。
けれど、前より、会話が少し、増えた。
ムカツクという思いは消えない。
裏切られたという思いは消えない。

でも、私は大人になって、とりあえず許してやった。
仕方ないのだ。
この人たちが子供なのだから、私が大人になるしか、ないのだ。
私が寛大になって、許してやるしかないのだ。

別れると決めた後は、二人は仲良くなった。
言い争いがなくなった。
どこかすっきりしたように、さばさばと友人のように接するようになった。

家族でも、他人なのだ。
一緒にいるには、努力と、言葉が、必要だ。
それでも駄目なことがある。
二人は、どうしても、駄目だったのだ。

それは、寂しいことだ。
けれど、どうしようもないのだ。

私は、努力と言葉を、なくなさいようにしよう。
二人は私が好きだといった。
ずっと好きでいてもらうために、私も努力をしよう。

『大好きだよ、メイ』

私も、大好きだよ、アキラ。
まだ寂しいよ。
アキラに傍にいてほしいよ。
アキラと一緒にいきたかったって、思うよ。

でも、アキラはそんなこと望んでないから。
だから、アキラが望んだように、幸せになるよ。

逃げないよ。
この世界で、頑張るよ。

沢山の人と、関わっていこう。
幸せに、なろう。

大好きだよ、アキラ。
私の大切な、友達。

だからいつかまた会った時、頭を撫でてね。
よく頑張ったって、褒めてね。
それまで、私は頑張るから。

大好きだよ、アキラ。

そして私は、手を握りしめて、一歩踏み出す。





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