もう少しで、三十。
後五カ月で三十。
もう人生の折り返し。

二十代なんてあっという間だった。
結婚なんてまだまだ先でいいと思ってたら、あっという間に三十代。
そしたら周りは皆いつのまにか結婚してて、私は寂しく負け犬女。
合コンもお誘いも少なくなって、焦るばかりの怖い現実。

このまま、結婚できなかったらどうなるの。
このまま、一人だったら将来どうするの。
結婚しなきゃ、暮らしていけない。
将来一人なんて耐えられない。
この仕事なんてずっと続けられない。

「あ、これ、平気だった?」
「平気ですよ。これ、おいしい!」

誘う前に、好みぐらい聞いておけよ。
まあ、和食嫌いじゃないからいいけど。
でも個室ぐらいとっておけっていうの。
うるさい居酒屋。
声もよく聞こえない。
本当にこの人、女慣れしてないのね。

「そっか、よかった」
「いいお店ですね」
「結構おいしいよね」

ほっとしたように、目の前の男は笑う。
生え際ちょっと後退気味。
将来ハゲそう。
まあ、顔はそこまで悪くないからいいかなあ。
生理的嫌悪感はないし。
キスしても耐えられるレベル。

「あ、サラダ取り分けますね」
「ありがとう」
「お酒もないですね。何か頼みますか?」
「あ、そうだね、えっと」

ていうか私のグラスも空いてるんだよ。
気付けよ。
本当に気が効かないなあ。

「高岡さんは趣味なんなんですか?」
「友達とバーベキュー行ったり、サッカー見に行ったりするな、よく」

つっまんない趣味。
友達も少なそうだし。
まあ、こいつ年収6〜700万ぐらいだっけ。
専業主婦はさすがに無理だろうけど、パートぐらいでなんとかなりそうだし、まあまあよね。

「へえ、私もサッカー見てみたい!」
「あ、そう?じゃあ今度行ってみようか」
「………ルールとかよく分からないんですけど」
「教えてあげるよ!」

うわ、いきなり元気になった。
こういう男の俺が教えてやるっていうのウザイわ。
まあ、それでいい気分になれるならいっかあ。
正直サッカーとか本当に興味ないんだけど。

「嬉しい!じゃあ今度一緒に行ってください!」
「ぜひ一緒に行こうか」

まあ、こいつでいっかあ。
女慣れしてないせいか、優しそうだし。
ちょっとそこがウザくもあるけど、性格悪いよりはいいわよね。

友人の紹介で知り合った三十二歳のエンジニアさん。
つまらなそうな、ちょっとキモくてウザいけど、こんなもんよね。
優良物件はもう皆売れちゃってるし、残りモンなんてこんなもん。

もう私、あの会社で働きたくないし。
辞められるなら、なんでもいいかも。
お母さんもうるさいし、友人みんな結婚しちゃってるし。

これで、いっかあ。



***




「いってらっしゃい」
「いってくるね」

いってらっしゃいのキスをして、夫となった男が出て行く。
私は朝食を片付けて、洗いものして洗濯干して、その後パート。
おばちゃん達に囲まれて、スーパーでレジ打ち。

「はあ」

仕事、やめなきゃよかったかなあ。
おばちゃん達の愚痴とか聞いてるだけで頭痛くなる。
あの人たちと一緒にされたくない。
でも、今更仕事に戻れもしないしなあ。

今日の夕飯何にしよかなあ。
毎日夕飯考えるのも面倒。
あの人、いっそ1カ月ぐらい出張いってくれないかしら。

おいしいもの食べに行きたいなあ。
マッサージ行きたいし。
でも、あんまり無駄遣いできないし。
ああ、つまらない毎日。

「おかえりなさい」
「ただいま」

7時過ぎには旦那が帰ってくる。
もっと遅くでもいいのに。

「………ご飯、そうやってくちゃくちゃ食べるのやめて」
「え」
「あんまりよくないよ」

イライラを抑えつけて、私は極力優しく言う。
本当は怒鳴りつけてやりたいぐらいイラつく。
前から気になってたんだけど、この人お米食べる時だけくちゃくちゃ言うのよね。
すっごいキモい。

「………」

旦那はむっとした顔で黙りこむ。
何よ、文句あるなら言いなさいよ。
それくらいも言えないんだから。
情けない男。

「ちゃんとお風呂入った後、拭いて。バスマットぐちゃぐちゃじゃない」
「あ、ごめん」
「もう!」

濡れたまま体のままで上がるから、そのたびにバスマットはびしゃびしゃ。
その後にお風呂に入る私は、いっつも不快感に襲われる。
だらしない男。

「お前さ、またこんなに一杯買ったの?」
「だって特売だったんだもん」
「だからって買いすぎだよ。前もそれで腐らせてただろ!」

だったらあんたが買物しろって言うのよ。
私だってパートと家事でそれなりに忙しいんだから。
男のくせにぐちぐちぐちぐち。
鬱陶しい男。

「お前さ、ここにあった雑誌どうした?」
「え、捨てたわよ」
「何すんだよ!あれもう手に入らないんだぞ!」
「だってボロボロだったじゃない」
「ふざけんな!!」

珍しく怒った夫にびっくりして、少し言葉を失う。
けれど、理不尽な物言いに苛立ちがこみあげる。
誰が掃除してやってると思ってるのよ。

「だったらちゃんと片付けなさいよ!」
「ちゃんと雑誌ラックにいれておいただろ!」
「捨てて欲しくないなら言いなさいよ!」
「どうしてお前謝れないんだよ!」
「うるさいわね、男のくせに細かいことばっかり!」

本当に神経質でうるさい。
だからこんな年まで結婚できなかったのよ。

「………」

夫は黙り込んで、寝室に行ってしまった。
何よ、女々しいわね。
雑誌の一つや二つ、なんだって言うのよ。

でも、少しだけ罪悪感が沸く。
そんなに大事だったのかしら。
結婚して一カ月、こんなことで喧嘩してたら、後がもたないわよね。
まあいいわ。
私が折れてあげる。
謝ればいいんでしょ、謝れば。
このまま怒られてたら鬱陶しいし。

「あなた、ごめんなさい。捨てる時は確認するわ」
「………」

寝室に行って謝っても、旦那はベッドに横になって寝てしまった。
ああ、鬱陶しい。
人がせっかく謝ってやったって言うのに。
なんなのこの自分勝手な男。

これでいいかと思ったけど、やっぱり失敗かも。
こんな男と、結婚しなきゃよかった。



***




「本当さ、やなっちゃう。結婚焦ったかも。三十になる前に結婚って思って失敗したわ。まだまだ焦ることなかったわ」
『本当だよ、まだまだ遊んでればよかったのに』
「ねえ、もう離婚しちゃおっかな」
『そのあとどうするのよ』
「あの人浮気でもしてくんないかな。そしたら慰謝料もらって暮らすわ」
『ひっどー』

友人との電話で憂さ晴らし。
結婚して仕事やめたら、友達も少なくなったわ。
外に行くことも少ないし、気分は鬱々としてくる。

ああ、やっぱり結婚なんてしなきゃよかった。
適齢期なんてもっと伸びてるし、こんなに焦って結婚することなんてなかった。
お母さんがあんなにうるさく言うからいけないのよ。
あの人と一緒にいると、すごいストレス。
このまま一生一緒だと思うと、お先真っ暗人生終わりだわ。
でも離婚なんて面倒だし、今離婚しても慰謝料なんてもらえないし。
一人でなんて、暮らしていけないし。
何より×がつくとか、あり得ないわ。

「あーあ、こんな風にこのまま年とっていくのかなあ」

新婚旅行まではよかったけど、一緒に暮らし始めて苛立ちは募るばかり。
なんであんな人と、結婚しちゃったのかしら。

「あーあ」

誰かもっと素敵な人は、いないかしら。



***




「………」
「おかえりなさい」

仕方なく笑顔で迎えてやっても、夫はダンマリのまま。
ああ、ムカつく。
なんなのこいつ。
性格がいいのだけが取り柄かと思ったら、性格も悪いとか最悪。

黙ったまま二人でリビングまで行く。
テーブルの上には今日の食事の用意。
後は鍋のものを温め直してよそうだけだ。

「あなたが好きなビーフシチュー、作ったの。ごめんね、大切な雑誌、捨てちゃって」

私がここまでご機嫌取りしてやってるんだから、いい加減にしろよ。
このハゲ。
本当に離婚するぞ、この駄目男。

「………ごめん」
「え?」
「俺も、きついこと言って、ごめん」

心の中で悪態付いていると、テーブルの上を見ながら夫がぽつりと言った。
そして、ゆっくりと私に向き合うと、視線を落したまま手に持っていた何かの箱を差し出す。

「これ」
「え?」
「ケーキ」

何を言ったらいいか分からず、私はそれを受け取る。
その箱は、私が前においしそうって言っていたケーキのお店。
まず、何気なく言った言葉を覚えていたのに、驚いた。
そして、こういうことに詳しくないこの人が、ちゃんと店を調べて買えたことにまた驚く。

「ごめんな。俺も悪かった。ちゃんと大事なものだって言えばよかった」
「………」

そうね、それは言っておけばよかった。
でも、確かめもせずに捨てたのは、悪かった気がする。
あなたのものなんて、何を捨ててもいいでしょって気がしていたのは、本当。

「友達にも怒られてさ、他人なんだから少しづつ擦り合わせて、我慢して、お互い想いやっていかなきゃいけないって」
「………」

なんて臭い陳腐な台詞。
そんなの当たり前。
私はこんなに我慢してるんだから、あなたも私に合わせてよ。

「俺達、結婚までの期間結構短かったから、まだまだ、慣れてないこと一杯だけど、俺もいい旦那じゃないかもしれないけど、それでもずっと一緒にいたいから」
「………孝太さん」

きっとあなたも焦って、私で妥協した。
私もあなたで妥協した。
お互いきっと、我慢して、諦めての結婚。

恋なんてものは、してない。
この年で恋なんて笑ってしまう。
信頼なんてものは育ってない。
焦って結婚した私たちは、お互いを知らないまま、お互いの欠点を見ないようにして、妥協して結婚した。

「嫌なことあったら、言ってくれ。俺も言うから。お互い、ちょっとづつ分かり合っていこう」

だから私はあなたに苛立つばかりだった。
どうせ、お互いのことなんて、好きじゃないんだから。
そう思っていた。

「結婚してから、君がもっと愛しくなった。俺は、妻を大事にしたいから。君を、大事にしていきたいから。ずっと、一緒にいたいから」

あなたはこの人を一生愛し続けますか、そう聞かれて、二人で誓いますって言ったわ。
嘘臭いって内心笑いながら。
そんな嘘臭い言葉を、この人はもう一度繰り返す。

「なんて、すっごい、恥ずかしいなあ、これ。うわ、臭い。ごめんな」

そしてそこで薄くなっている頭をくしゃくしゃとかき回して、真っ赤になる。
本当に臭いわ。
臭すぎる。
嘘くさい言葉。

「どうしたんだ久美!?」

でも、なんで、涙が出てくるの。
あなたなんて好きじゃない。
まあまあの、悪くない結婚相手。
一生我慢して、そこそこ人並みの生活が出来るならいい、ってそんなこと思っていたの。

「ううん、ごめんなさい、ごめんなさい」

でも、ごめんなさい。
ごめんなさい。
あなたは、ちゃんと、考えてくれていたの?

女って単純。
こんなことで嬉しくなっちゃう。
女って単純。
ケーキ一つで誤魔化されてしまう。

「もういいよ。俺も悪かったから」
「ううん、ごめん、なさい」

我儘ばかりでごめんなさい。
文句ばかりでごめんなさい。
あなたを騙していて、ごめんなさい。

「私も、あなたが、好きよ。孝太さん」
「久美」

夫が、私を優しく抱きしめる。
前はなんとも思ってなかったのに、なぜか今は嬉しくなる。
嬉しくて、涙が出てくる。

女って単純。
この人の不器用さが、愛しくなる。
女って単純。
私は今、この人に恋をした。

「ありがとう、孝太さん。好きよ」

あなたが好きじゃなかったわ。
あなたなんてどうでもよかった。

あなたの薄い髪が嫌だった。
あなたの汚い食べ方が嫌だった。

でも、あなたの不器用な優しさが愛しいの。
あなたの背を撫でる手が、愛しいの。

「ね、ご飯にしましょ。それで、買ってきてくれたケーキ、食べよう」

だから、食べたいって言ってたチーズケーキじゃなくてチョコレートケーキなのも、我慢するわ。
これくらいは我慢してあげる。

きっとあなたも我慢してるから。
我儘な私に我慢してるから。

まだまだ先は長いわ。
絶対これから喧嘩ばっかり。
絶対お互い、我慢ばっかり。

あなたの友達の言うとおり。
お互い我慢してる。
お互い我慢して、お互い分かり合って、そして夫婦にならなきゃね。

だから、我慢してこう言うわ。

「今度はチーズケーキも食べたいわ」

そしたら、今度はあなたが好きな酢豚を作ってあげる。





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