山藤の家にはお嬢様がいらっしゃる。 そのかんばせは麗しく、心映え美しく聡明で、例えるならば百合の花。 匂い立つ、今も盛りの穢れなき乙女。 華のようなご令嬢。 「何をされてるんですか、お嬢様」 綺麗なお召し物を土に引きずり、当家のお嬢様は茂みに身をひそめてしゃがみこんでいた。 また何をしているんだ、この方は。 「ひっ」 たまたま見つけてしまったので後ろから声をかけると、お嬢様は飛び上がって尻もちをついた。 ああ、この前仕立てたばかりのドレスなのにもったいない。 振り返るって俺の顔を認めると、お嬢様は化け物を見つけたように動揺する。 「なぜここにいるの、高柳!?」 「庭師が参りましたので、相談をしておりました」 「ええ!?聞いていないわよ!」 「旦那様には申し上げおりましたが」 まあ、確かにいつものはこんな茂みは通らないから、驚かれるのも無理はないか。 しかしこの動揺ぷりは。 「く!覚えてなさい!」 良家のご令嬢らしからぬ捨て台詞を残し、お嬢様は立ち上がった。 スカートの裾翻し、俺から逃げ出すように駆けて行く。 「きゃあああ!!」 そして3歩先の裏道で、穴にはまって姿を消した。 お嬢様は腰のあたりまで穴に埋まり、抜け出せずにもがいている。 「………何をなさってるんです、お嬢様」 「は、早く助けなさい、高柳!」 「この穴はお嬢様が掘られたんですか?」 この屋敷裏の道は、俺の通り道だ。 たまにだが、他の使用人が通ることもある。 全く、他の人間がはまったらどうするつもりだったんだ。 まあ、だからこそ見張ってらしたのだろうが。 「な、なんのことかしら」 「………」 お嬢様は目を逸らして、しらを切る。 この状況でしらを切ってもどうにもならないだろうに。 聡明なお嬢様なのに、こういうところは幼いころから変わらない。 仕方ない。 「わたくし一人ではお嬢様を助けることができません。恐れ入りますが少々お待ちください。今、人を呼んできます」 「や、やめて!やめなさい高柳!」 「しかし、このまま穴の中にいる訳にはいかないでしょう」 「お父様に知られたら、また叱られてしまうわ!」 「やはりお嬢様が掘られたんですね」 「ぐ」 言葉に詰まって黙り込む。 まあ、そもそも隠せていなかった訳なのだが。 なんだか疲れて、不敬なことながらため息が漏れてしまう。 「はあ。ではお手を」 「は、早くなさい!」 「はい」 手を掴み引っ張ろうとしたが、うまくいかない。 仕方なくお嬢様の両脇に手を回す。 「………っ」 「よっと」 ずぼっとかぶを抜くようにお嬢様の穴から引っこ抜く。 なかなか深い穴を掘ったものだ、また。 これはお嬢様お一人では掘れない。 下男の山寺辺りが手伝ったな、全く。 「何よ!やっぱり一人で助けられるんじゃない!」 引っこ抜いて穴の脇に降ろすと、お嬢様は腰が抜けたように座りこんだ。 そして顔を真っ赤にして食いついてくる。 「お怪我はありませんね?」 「な、ないわ」 「よかった」 一通り様子を見るが、お言葉通り怪我をした様子はない。 ひっそりと胸を撫で下ろす。 お嬢様が恥ずかしげにスカートの裾を直して立ち上がる。 「申し訳ございません。私一人では無理かと思ったのです」 「何よ!私が重いって言うの!」 「お嬢様も大きくなられましたね」 「失礼な!」 幼い頃は腕の中におさまってしまうぐらいだったのに、本当に大きくなられた。 先ほど感じた重みと柔らかさは、昔とは全く違うものだった。 「覚えていなさい、高柳!」 お嬢様は顔を真っ赤にさせたまま、先ほどと同じ捨て台詞を吐く。 ああ、後でこの穴は埋めさせないとな。 誰かがひっかかっては危ない。 「このことは旦那様にご報告させていただきます」 「え」 ぴたりと動きを止めて、今度はみるみるうちに顔を青くする。 俺は一礼して、勝手口の方に回る。 「それでは失礼いたします」 「きー!!!」 お嬢様の金切り声が、裏庭に響き渡っていた。 「お前にも苦労かけるな、高柳」 ご報告を終えると、旦那様は疲れたように息を吐かれた。 まあ、僭越ながらお気持ちは分かる。 「いえ、お嬢様が少々悪戯好きなのは昔からのことですし」 「全く。あれはお前にばかり反抗するから」 「執事としての分を弁えず、大変申し訳ございません」 「いや、お前はあいつにとっては兄のようなものだ。悪いがこれからもあいつと仲良くしてやってくれ」 親が山藤家の使用人をしており、俺も幼いころからこの屋敷で育った。 両親が死んだ後も、旦那様は俺を家に置き、学校にも行かせてくださり、執事としての教育も施してくださった。 旦那様には返しきれない恩がある。 たかが一介の使用人を家族のように扱ってくださる心の広い、素晴らしい旦那様だ。 「お言葉、恐縮です」 「しかし、あいつもそろそろあのお転婆をどうにかしないと、嫁にも行けなくなってしまうな」 「お嬢様はお美しく、聡明でいらっしゃいます。縁談も振るように舞いこまれるでしょう」 「まあなあ」 渋い顔をしながらも、緩む頬を抑えきれない。 娘を褒められ、旦那様は嬉しそうだ。 しかし、これは本当のことだ。 女学校でも成績優秀で心映えも秀でておりお美しいお嬢様は、すこぶる評判のご令嬢だ。 気の早い家からの縁談はもうちらほらと来ている。 もうしばらくしたら、それこそ選ぶのが大変なほどいい話が舞い込んでくるだろう。 旦那様はもうしばらくお嬢様をお手元に置いておかれたいようだが、そうしたら本格的に縁談を決めるだろう。 お嬢様に相応しい、素晴らしい家柄と素晴らしい人柄の男性を、決めてくださることだろう。 旦那様の部屋を辞して、執事室に帰ろうとする。 その途中で、廊下に紐が張っているのが見えた。 片方は廊下の端の柱に結ばれ、もう片方が廊下の曲がり角に伸びている。 ちょうど足首辺りにくるように調整された、細い紐。 「………」 俺は気付かないふりでそのまま速度を緩めずに足を進める。 そしてもう一歩で紐にひっかかるというところで、素早くしゃがんでその紐を思い切り引っ張った。 「きゃああ!!」 すると廊下の曲がり角からお嬢様が転がりでてくる。 どうしてこの人の悪戯はこう、十にも満たない子供がするような幼稚なものばかりなのだろう。 本来はとても賢い方のはずなのに。 「どうされたんですか、お嬢様。危ないですよ」 「お前が引っ張ったのでしょう!」 「不思議なところに紐がありましたので、どなたかが躓かれたら危ないと処理しようと思ったのです。まさかお嬢様が出てくるとは思いもよらず、大変申し訳ございません」 「くっ」 お嬢様は悔しげに言葉を失い、その美しい赤い唇を噛みしめる。 そしてさっとスカートを直して立ち上がると、俺に指を突き付けて仁王立ちする。 「いつか見てなさい、ぎゃふんと言わせてみせるわ!」 「仰る通り、いつか言葉も失うぐらい言い負かされてみたいものです。私を言い負かすほど成長されたお嬢様を思い浮かべると、高柳は感動のあまり涙がこみ上げてまいります」 「………っ」 一気に顔を真っ赤にしたお嬢様は何かを言おうとして口をパクパクとさせた。 そして結局出てきたのは、予想もしない捨て台詞だった。 「ば、ばーか、ばーか!」 思わず言葉が出てこなくて、走り出すお嬢様を止めることが出来なかった。 ああ、廊下を走ったことも旦那様に叱っていただかなければ。 本当にこんなことでは、いつか夫になられる方に見限られてしまう。 普段はとても素晴らしいお嬢様なのだから、相応しい素晴らしい方と幸せになっていただかなければ。 それこそ、立派に嫁がれるお嬢様を見たら、俺は感動のあまり涙がこみ上げるだろう。 「高柳、しろが死んでしまったの。埋めるのを手伝ってくれないかしら」 「………かしこまりました」 「ありがとう」 お嬢様の手には、可愛がっていらっしゃった文鳥が繻子のハンカチに包まれ乗っていた。 動物の死骸などといった不浄のものをそのように持ち歩かれるのは、使用人としては止めるべきなのかもしれない。 しかし、この方の命を大切にされるところを、尊重しておきたかった。 『高柳、みいが動かなくなってしまったの。動かして』 昔、まだお嬢様が私の腰ほども身の丈がなかった頃だ。 今と同じように目を真っ赤にして、腫れた頬で、俺の元に訪れた。 可愛がっていた老齢の猫が、その腕には抱かれていた。 堅く固まって、もはや動かないことは誰にでも見てとれた。 死というものをどう説明したらいいのか分からず、しばらく黙り込んでしまった。 そして出てきたのは、とても陳腐な言葉だった。 『………薫子様、みいは死んでしまったのです。もう動くことはありません』 『どうして?』 『人も猫も、命あるものはいつか死にます。死ぬともう動くことはありません。話しません。もう会うことはできません。永遠のお別れなのです』 もっと、優しく分かりやすい説明が出来なかったのかと、自分の語彙のなさに苛々としたものだ。 お嬢様は案の定涙をぼろぼろと流して、かぶりを振る。 『いや、いやよ!いや!みいが動かないのはいや!』 小さなお嬢様の頭を撫でながら、俺は困り果てた。 なんとかお嬢様を傷つけないように、死という概念を説明する言葉をひねり出す。 『そのように薫子様が泣かれては、みいが心配して彼岸に旅立つことができません』 『………彼岸?』 『死ぬと皆、彼岸に旅立ちます。そこには苦しみも何もなく、幸せに過ごすことが出来るのです』 『でも、薫子はみいがいなくて、寂しいわ。みいもきっと、ここにいる方が幸せよ』 『いつかお薫子様が命を終えた時に、再び会うことができるでしょう』 『なら、薫子は今死にたいわ。みいに会いたい』 思わず叱りつけそうになった。 そんなことを言うのではないと。 けれど、幼い少女は今自分で言ったことの重大さを分かっている訳じゃない。 俺の説明が悪かっただけなのだ。 『それではお父様やお母様やお兄様達にお会いすることが出来なくなってしまいます』 『………』 お嬢様は白い猫を抱えたまま、しゅんとして肩を落とす。 『それに、彼岸は一生懸命に生きたものが辿りつくのです。みいはその命を一生懸命生きました。よく食べ、よく遊び、薫子様を楽しませ、慰め、薫子様のお友達として一生懸命生きました。だからこそ、彼岸に辿りつくことが出来るのです。彼岸に辿りつくことができるのは、こちらの世界、此岸を懸命に生きたものだけです』 『………薫子は、みいに会えるかしら』 『いつかお会いできますよ。薫子様がよく食べ、よく遊び、よく笑ってお過ごしになれば。みいに再び会った時、こんなに幸せだったとお伝えできるように生きてくだされば』 大きな濡れた目でじっと見ながら、俺のつたない言葉の一つ一つにお嬢様は頷いてくださる。 もっともっとうまく説明できない自分が本当に歯がゆい。 しかし、こんな俺の下手な説明でも、お嬢様はどうにか納得してくださったようだ。 元より、とても聡明な方だ。 『………分かったわ。みいは、もう戻らないのね』 『………はい、とても悲しいことですが。みいが彼岸に無事に辿りつけることを、祈って差し上げてください』 『………分かったわ』 『ではみいの御墓を作ってあげましょう。薫子様がいつまでも悲しんでいては、みいが迷って彼岸に無事に辿りつくことができません。みいと過ごした日々はこんなに楽しかったよと、伝えてさしあげてください。そうしたらみいは安心して彼岸に辿りつくことができるでしょう』 薫子さまの濡れた頬を拭って差し上げると、小さく頷いた。 感情豊かに揺れる瞳に、少しだけ明るい色が生まれていた。 『うん』 『では参りましょう』 みいの体をうけとり、空いた片手で小さな手をとる。 後でばあやさんにももう一度説明してもらおう。 俺の説明じゃ、本当に理解してくださっているか分からない。 『………薫子が死んだら、高柳にももう会えないのよね』 『ええ、高柳は薫子様にお会いできなくなってしまっては寂しくて仕方ありません。どうか高柳より先に旅立たないでください。高柳は先に彼岸でお待ちして、薫子さまのために紅茶やお菓子を用意しておりますので、どうぞゆっくりおいでください』 『いやよ、いや。高柳がいなくなってしまうのはいや!』 一旦止まった涙がまだボロボロと溢れてくる。 失敗したと思った時にはもう遅かった。 感傷的になっていたお嬢様は、癇癪を起したように泣き続けた。 まだまだ先の話だとなだめすかしても止まらず、ばあやさんに助けてもらうまで、お嬢様は泣き続けたのだ。 「しろは、無事彼岸に辿りつくことができるかしら」 二人で庭に小さなお墓を作って、花を添える。 手を合わせて祈っていたお嬢様が、ぽつりとそんなことを言った。 今ではもうすっかり死の概念を理解していらっしゃるが、俺の言葉を覚えていてくださっているようだ。 「ええ、お嬢様はしろを沢山愛してさしあげました。そしてしろも、沢山お嬢様を愛しました。一生懸命生きました。きっと彼岸に辿りつくことでしょう」 するとお嬢様は腫れた顔で、少しだけ笑顔を作る。 泣きはらした顔だが、お嬢様の美貌を損なうものではない。 むしろ痛々しさが加わり、儚い華のような美しさを感じる。 「ええ、私も胸を張って、みいやしろと会えるように、一生懸命生きるわ」 「はい、お嬢様でしたらいつかお会いになることができるでしょう」 「ええ」 そして二人で立ち上がり、屋敷に戻る。 他愛のない会話をしながら、やはり浮かない顔のお嬢様の気分をほぐそうと場にそぐわない軽口を叩く。 「けれど、僭越ですがもう少しお転婆をひそめていただかなければ」 「あれは、お前にだけだもの」 「高柳は随分嫌われたものですね」 「お前がいきなり余所余所しくなるのがいけないのよ!」 ふんと顔をそむけてしまうお嬢様。 とても不敬なことと思いつつも、思わず苦笑が零れてしまう。 「将来お嬢様の伴侶となられる方に逃げられてしまいますよ。旦那様も心配されていらっしゃいます」 「私はお嫁になんて………」 そして自分がまた失敗したことを知った。 俺は本当に、言葉がうまくない。 お嬢様は何か言いたげに、俺の顔を見上げる。 赤い目が、訴えるように俺を見ている。 「高柳、私は……」 「………それでは仕事がありますので失礼します」 その先を聞くことなく、俺はお嬢様に背を向け、逃げ出した。 「お嬢様お茶をお持ちいたしました」 「ありがとう」 部屋に入ると、お嬢様は窓際の椅子に腰かけ座っていた。 ワゴンを引きながら傍らまで近寄り、お茶の用意をする。 お茶を注ぎ終えるまで、お嬢様は窓の外を見たまま黙っていた。 用意を終え一礼して退出しようとすると、お嬢様が口を開く。 「ねえ、高柳」 「はい、なんでしょう」 「いつからお前は、私を名前で呼ばなくなったのかしら」 「使用人として、お名前を呼ばせていただくのは出過ぎております。昔は大変失礼をいたしました」 いつから、か。 お嬢様が女学校に入られた頃だったろうか。 お嬢様の評判が知れ渡り、数々の良家の子女から、誘いがくるようになった頃だったろうか。 お嬢様は窓の外に向けていた視線をこちらに向ける。 いつも生き生きとしていた目に怒りを湛え、きつく睨みつけられる。 「お兄様のことは名前で呼ぶでしょう!」 「克彦様はおぼっちゃまと呼ばれるのを大変厭われておりますので」 「なら、私もお嬢様と呼ばれるのは嫌よ!」 俺は努めて、駄々っ子に困ったようにため息をつく。 するとお嬢様は傷ついたように顔を歪めた。 「………いつから、遊んでくれなくなったの。いつから、まともに相手をしてくれなくなったの。どうして?」 「お嬢様の遊び相手には、もっとふさわしい方々がいらっしゃいます。お嬢様には女学校のご学友も沢山いらっしゃるじゃないですか。一使用人とお過ごしになられるようでは山藤のご息女として笑われてしまいますよ」 「そんなの!私は、高柳と………っ」 そこで、お嬢様の口をそっと抑えた。 触れた指が熱くて、動悸が抑えきれなくなりそうだった。 感じてはいけない熱。 生まれてはいけない想い。 「お嬢様。そのようなお話を聞くのはわたくしの職分を越えております。お茶をどうぞ。お話し相手にばあやさんを呼んできましょう。少々お待ちください」 「高柳!」 「失礼いたします」 なおも言いつのるお嬢様から逃げるように、急いで部屋からワゴンを引いて退出する。 これ以上あそこにいたら、溢れてしまいそうだった。 表情が、崩れてしまいそうだった。 かき乱された感情を抑えるように、胸を抑えて目を瞑る。 「………いつか、彼岸でお会いできることを楽しみにしております。薫子様」 いつか、辿りつくそこで、俺はあなたを待ちましょう。 それを希望として、懸命に生きましょう。 その頃には、あなたは俺を忘れているかもしれませんが。 山藤の家にはお嬢様がいらっしゃる。 そのかんばせは麗しく、心映え美しく聡明で、例えるならば百合の花。 匂い立つ、今も盛りの穢れなき乙女。 華のようなご令嬢。 それは、触れてはいけない華。 硝子箱の中の、高貴な華。 硝子を割れば、消えてしまう。 きっと触れれば折れてしまう。 此岸で触れることは叶わない。 そう、それは彼岸の華。 |