私の手を導いたのは、いつだってこの大きな手だった。 「………ユリウス、ここは」 他の者には内密に、と連れてこられたのは、据えた臭いのする汚らしい路地裏だった。 ごみや汚物や、なにやら検討の付かないもので満ち溢れ、そこには同じく不潔な人間たちが死んだような目で横たわっている。 私たちを見て胡乱げに眺めているもの、薄ら笑いを浮かべるもの、殺気に満ちた目で睨みつけてくるもの。 もはやその命の火が消え、ごみと同じように打ち捨てられているかつては人であったものも、その中にはあった。 死と腐臭と汚泥に満ちた場所だった。 ぎゅっと繋がれた手に力を込めると、大きな手はそっと握り返してくれた。 「ここは貧民窟です、レギオン様。私から離れないように」 「………ひんみん、くつ」 聞いたことのない言葉だった。 見たことのない景色だった。 こんな汚らわしい場所も、死に満ちた空気も、絶望に満ちた目をしている人々も。 そのどれも、全て私の周りにはなかったものだった。 以前城下に訪れた時もこんなものはなかった。 みんな活気にあふれ、幸せそうに笑い、生活していた。 「なぜ、この者たちは………」 「殿下は世界を知りたいとおっしゃいました。あなたの普段いる城も真実、この場所も、紛れもなくこの世界の真実です」 ユリウスが私を殿下という時は、私に何かを教えたい時がある時。 幼馴染で幼い時よりの教育係でもあった従者は、城下に身を堕としていた時もあり、私よりずっと世事に詳しい。 昨日、馬番の子供と話していた時に、私は世界を知らないと言われた。 彼は私が王子であろうと物怖じしないで話してくれる子で、他の人間に見つからないようにひっそりと友達として付き合っていた。 彼の話すことは、教師は教えてくれないようなことや、本に載っていないことばかりでとても新鮮で楽しかった。 いつも元気でにこにことしている彼が、その日はどこか元気がなかった。 理由を聞いてもなんでもないと言っていたが、しつこく聞く私に根負けして話してくれた。 『母が、病気になったのです』 『大変だ、すぐに医者を呼ばなければ』 『無理ですよ』 『なぜだ?』 私の疑問に、彼は少しだけ苛立ったように眉をひそめた。 けれど根気強く説明してくれる。 『私たちに医者を呼び、薬をもらうような金はないのです』 『金?』 『はい』 『医者を呼ぶには金がいるのか』 彼はますます渋面を作る。 しかしその理由が私には分からない。 私が風邪などで体調を崩せば、医者がすぐに飛んできた。 医者とは、どこにでもいて、すぐに飛んでくるものだと思っていた。 そうか、民が医者を呼ぶには金がいるのか。 彼は、その金がないということか。 『では、ユリウスに医者の手配をさせよう』 『………お気持ちはありがたいのですが結構です』 『なぜだ?城の医者に御母上を診させよう。それなら金はいらないだろう』 我ながらいい提案だと思った。 城の医師はきっと無料なのだから、金はいらないだろう。 しかし彼は大きくため息をつく。 『………一度見てもらっても、仕方ないのです。薬を定期的に与え、栄養をとらなければ』 『栄養?何か偏ったものを食べているのか?私もよくユリウスに怒られるぞ、嫌いなものもちゃんと食べなさい、と。御母上も好き嫌いはいけないな』 口うるさい教育係は、嫌いなセグのサラダを残すとすぐに叱った。 それには栄養があるのだから残すな、と。 私の言葉に、馬番の息子ははっきりと分かるほどに不快な表情を見せた。 『王子、あなたはとても好ましい人間だと私は思っている。これは、あなたの境遇なら仕方ないと思っている』 『なんのことだ?』 『だが、あなたは、世界を知らなすぎる』 何を言われたのか、一瞬分からなかった。 そしてその言葉を理解して、侮辱とも言えるその言葉に頭に血が上る。 『なんだと!?』 『不敬なことを申し上げました。大変申し訳ございません。仕事があるので御前を失礼させていただきます』 問い詰めようとするが、彼はいつもよりもずっと他人行儀な様子で去って行ってしまった。 仕事があると言われたらそれ以上追いかけることなどできない。 ユリウスに仕事の邪魔だけはするなと言われている。 だから私はすぐにユリウスの元へ駆けこんだ。 彼から受けた侮辱をすべてユリウスに訴える。 十も年嵩な幼馴染は、いつも通り冷静な表情で私の言葉に一つ一つ頷いた。 そして、深い黒の色をした目を細めてゆっくりと頷いた。 『そうですか、あの方は本当にあなたに沢山のことを教えてくださいますね。なんとも素晴らしい教師です』 『何がだ!私はこの前も教師に褒められたのだぞ!勉強も武道も、歴代でも稀なほど習得が早いと!その私に対して世界を知らないだと!』 私は幼いころから聡明と言われ続けていた。 剣の腕も頭脳も、世継ぎの王子である兄よりも、ずっと王に相応しいと噂されていた。 そして、自分でも密にそう自負していた。 兄よりもよほど自分の方が賢く、強いと。 私と同年代のものよりも何倍も早く多く知識を身につけ、知らないことなどないと思っていた。 それなのに、彼とユリウスは、そんな私を世界を知らないと言う。 それがたまらなく腹が立った。 『あなたは、初めて友人と喧嘩する苛立ちと哀しみを覚えています』 『………』 『意思がうまく伝わらないもどかしさと、怒りを知りました』 けれどユリウスはそんな私の怒りに構うことなく、教育係としての態度を崩さない。 そして私は、それにうまくいなされてしまう。 私のことを知りつくした幼馴染に、結局敵うことはない。 『それは得難い経験ですね。あなたのような身分の人が易々と知ることはできない』 確かに、私は対等な人間などいない。 喧嘩をしたいと思っても、出来るものではない。 ユリウスだって、教育者としては怒ることはあるが、対等な喧嘩などしたことはない。 だからこそ、彼のように私に物おじせずに接してくれる人間は、貴重だったのだ。 『あなたはそれで、どうしたいと思うのですか?何か言いことがあって、ここへ来たのでしょう?』 ユリウスが、私に目線を合わせて問う。 だからこいつには敵わないのだ。 『………私が世間知らずというなら、何を知らないのか、彼が何に怒りを覚えたのか、知りたい』 『彼が何を言ったのか知りたいですか?彼の言う世界を』 『勿論だ。私を世間知らずなどと言う世迷言は二度と言わせないぞ』 『それでは明日は価値観の違いの授業といたしましょう』 ふっとユリウスが優しく笑う。 いつも冷静な従者が、こんな表情はめったに見せることはない。 私の言葉は、彼を何か喜ばせたらしい。 『あなたのどんな身分であろうと分け隔てなく耳を傾ける素直さ、弱きものに手を差し伸べる優しさ、そしてそのたゆまぬ向上心は、あなたの賢い頭脳や剣の腕などよりもはるかに稀なる才能だと、私は思っております』 そして次の日、私はこの貧民窟に連れてこられた。 治安が悪く危険が伴うと言うことで、服はいつものものよりずっと貧相なものに変えてある。 袖を通すことすら躊躇うような、堅く仕立ての悪い服。 それでも、今この目の前にいる人間たちよりも、ずっと上等なものだった。 衝撃で、うまく言葉が出てこない。 こんな世界があるなんて、知らなかった。 この国に、こんなところがあるなんて、知らなかった。 「………この者達はなぜ、こんな不衛生な場所にいるのだ」 「他に行くところがないからでしょう」 「なぜ!?家など沢山あるだろう!」 「家に住むにも金子はいります。土地を買う対価、人の持つ土地に住まわせてもらう対価」 「………だが、国民には農業に携わるのならば、土地は保証されるはずだろう」 「税を納められぬものは、その土地にはいられません」 「なぜ税を納められぬのか!?」 「なぜだと思われますか?」 ユリウスは、いつものように私に考えることを促す。 中々この教育係答えをくれない。 それがひどくもどかしいが、その分自分で答えに至れた時は何倍も喜びを得ることが出来る。 だから、私は必死に今まで習った知識を総動員して考える。 「凶作などで、収穫が少なかったせいだろうか」 「それもあるかもしれませんね」 「他にもあるのか?」 「それはご自分でお考えください。あなたの持っている知識で想像はつくことです」 「分からぬ!」 「ではもっと深くお考えください。帰ってからでもかまいません」 癇癪を起しても、ユリウスは教えてくれない。 唇を噛むと、長い指が私の唇に触れた。 噛むな、ということだろう。 仕方なく、とりあえず考えることを変える。 「なぜ、このように不健康そうなのだ」 「不衛生な環境、食糧不足、流行り病、様々な理由があります」 「食糧が足りないだと?」 「ええ、この中には何日も食べてないものなど何人もいるでしょう」 食糧が足りないなんて、そんな事態が想像もつかなかった。 城にいれば食糧なんていくらでも手に入った。 毎度の食事ごとに城の調理人がその腕をこらして美味しい食事を作ってくれた。 お腹が空けば、更に食事やおやつを用意された。 「なぜ、民はこのように苦しんでいるのに、私は何不自由なく暮らすことができるのだ」 こんな世界があるなんて知らなかった。 食糧なんて当たり前にあって、清潔なベッドも、仕立てのいい服も、そこに用意されているものだった。 用意できない生活があるなんて、想像したことすらなかった。 「なぜだと思われますか?」 やはり答えは与えられない。 なぜか。 私がこのもの達と違うこと。 それは。 「私が王族だからだ」 「その通りです」 「王族はなぜ、食べ物に困ることもなくあのような豪奢な城に住むことができるのだ?」 「さて、なぜでしょう」 王族の暮らしは、主に民たちの税によってまかなわれている。 この者たちが税を払えず土地を追われたと言うのに、私たちは温かい食べ物を食べ、豪華な衣服を身にまとっている。 この者たちの生活の糧を、私たちが奪っていると言うことだろうか。 「間違ってはいけませんよ、殿下」 また唇を噛んでしまうと、そっと握った手に力を込められた。 堅く大きな、温かい手。 「王族は罪、民が正義ではありません。王族は民をまとめ他国からその土地と身を守り、よりよく導いていく責があります。そのため民から税を徴収し、国と自らの生活のために使うのは当然のことです。他国への体面もありますから、ある程度贅を凝らすのは問題ありません。あまりにも貧相な統治者は他国にも民にも侮られることでしょう。民と王族では課せられたものが違う」 そう言われても、胸にわだかまるもやもやとしたものが消えてはくれない。 王族はその責があるからと言っても、この者たちのようなものが苦しんでいるのに、このような暮らしをしていてもいいのだろうか。 「ここに堕ちたものは何か事情があり、やむを得ずここに来た者もいるでしょう。けれど自ら堕落し、ここに辿りついたものもいる」 見上げた黒い目は、やはり静かに凪いでいた。 幼い頃は城下に身を置いていた男は、こんな世界をすでに知っていたのだろう。 「なんでこんなところにいるんだ、こんな身なりのいい坊ちゃんが」 「いいものつけてるな」 「なあ、金くれよ、金、苦しんだよ、金、金、金くれよ」 気がつけば、路地にいたもの達がこちらを見ている。 いつもよりもずっと貧相な服だとはいえ、やはり分かってしまうのだろう。 じりじりとにじり寄ってくる。 痩せ細った体。 血色の悪い顔。 ボロボロの衣服。 ここに来る前に道具袋に入れたマントの飾り止めを取り出そうとする。 赤玉のついた宝飾品は、きっと少しは金になるはずだ。 「今、施しをしてどうなりますか。この者たちは酒と麻薬に侵されたものがほとんどです。すぐにその金は泡と消えましょう」 けれど、教育係は私の手をそっと止める。 彼の言葉が、脳裏によみがえる。 『一度見てもらっても、仕方ないのです』 彼の言葉が、今なら分かる。 一時的に助けたとしても、その後ずっと助けることは、出来ない。 私にそれだけの力は、ない。 「私は………」 自分の無力さに、絶望する。 私は王族だ。 民を守るものだ。 高貴な、国を率いて行く責任を持つものだ。 それなのに、目の前にいる人間一人、救うことはできない。 「さあ、これ以上は危険です。今日の授業はここまでとなります。帰りましょう」 大きな手にひかれ、言われるままにその場を後にした。 尻尾を巻いて、逃げた。 私は世界を、現実を見て、逃げ出した。 私の手を導いたのは、いつだってこの大きな手だった。 「決めた」 「何をでしょう?」 あれから何年たったことだろう。 いつでも傍らにいた男は、今も私の傍らにいる。 まあ、当然のことだが。 兄の廃位により第一王位継承者となった日から、私はずっと考えている。 あの日、ユリウスから教えられた現実を今度こそ変えられるよう、考えてきた。 そして今日、結論に至った。 「この国、滅ぼそう」 「は!?」 私の突飛な言動に慣れているユリウスでもさすがに驚いたらしく、目を丸くしている。 いつも冷静な男のそんな顔を見れて、楽しくなってくる。 だいたいこいつはいつもいつも取り澄ましすぎなのだ。 「どういうことです?」 「もう駄目だな、この国。無理に持たせようとしても更にひどい壊れ方するだけだ。それならいっそ清々しく派手に私の手で壊してしまおう!」 王族も貴族も民も、全てが腐って腐臭を放っている。 あの日見た光景が何倍にも広がっている。 このままいけば、すぐに他国に付け入られるだろう。 そしてその時、この国を守るだけの力は、私にはない。 「………何を?」 「王政を廃す」 それが、結論だった。 一度壊して、また作り直すしかもはやこの国を守る方法はない。 王族の責任は民を守り導くこと。 そのために民よりも贅沢な暮しをさせてもらってるのだ。 それなら、私はその責任を果たさなければいけない。 「驚かないな?」 傍らに立つ男は、先ほどの驚きをすでに隠して相変わらず静かな黒い目で私を見つめている。 全く頼もしい幼馴染で教育係で腹心の部下だ。 「いえ、驚いております」 「分かってたんじゃないか?」 「数ある選択肢のうちの一つとは考えていました」 どうせ、こいつもそれしかないとは思っていたのだろう。 まあ、こいつの一番の望みは私を立派な王にしてこの国と立てなおすことだから出来れば嫌なんだろうが。 全く、こいつの私への期待にも困ったものだ。 私にだったらなんでも出来ると思って。 まあ、私は賢く強く優しく美しく、非の打ちどころのない王子だから仕方ないが。 「かつて王はこの国に必要だった。けれど、今はもう必要ない」 「………王子」 こいつの望みだったらなんでも聞いてやりたいと思うが、今度は無理そうだ。 王族の責任を果たすためなら、王族なんていらないのだ。 私の望みは、この国を守り、民をより豊かに導くこと。 「それになによりな」 「ええ」 私はユリウスを見上げ、笑う。 「このままだったら私はお前と一緒になれないではないか!」 「は!?」 おお、またこんな間抜けな顔をさせられるとは。 楽しくなってきてしまうではないか。 「王と従者の禁断の愛などまかりならんとお前が頑なに主張するから、私はいまだに清童のままだ。私はこのまま愛してもない妻を娶る気も、お前との悲恋を抱えて美しいまま死ぬ気もないぞ」 「………王子」 ユリウスは頭痛がするように眉間を抑える。 幼馴染で教育係で腹心の部下で、そして何より愛しい人間。 何度口説いても、決して首を縦に振らないつれない愛人。 「王と従者が駄目だと言うなら、私が王でなければいい」 王座も王冠も、私には必要ない。 私の望みはこの国の発展と、民の安寧。 そして、こいつとの未来。 「民もこの国も助かり、私も愛する人間と添い遂げることが出来る!これぞ一石二鳥だ!素晴らしい!」 手を広げて主張すると、渋面を作ったユリウスは大きくため息をつく。 「あなたって人は………」 呆れかえった声。 けれどそこには少しだけ笑いが含まれている。 「勿論付いてくるのだろう、ユリウス」 私は椅子に座ったまま、誰よりも近しいものに手を差し伸べる。 躊躇うことなく、少しの間もなく、ユリウスは私の手を取る。 「当然です。あなたの行くところなら。そこにたとえ黄泉の王が待ち構えようとも。あなた一人にしたら何をするか分からない」 想像通りの言葉。 けれど、少しだけ肩に入っていた力が抜けた。 柄にもなく、緊張していたらしい。 こいつが私に付いてくるなんて、当然のことだというのに。 「ずっとこの手に導いてきてもらった」 「………レギオン様」 そっと口元に持っていき、大きな手に口づける。 指が長く大きく、堅く温かい、手。 ずっとずっと、私を導いてきた、頼もしい手。 「いいか」 そして私は誰よりも信頼する愛人を見上げて、宣言する。 これは誓い。 「今度は私が導いてやる!見てろユリウス。黄泉の国などではない。辿りつくのは天上とも見まがう楽園だ」 私の手を導いたのは、いつだってこの大きな手だった そしてこれからも、ずっとずっと、この手を離すことはない。 |