彼女は今日も、高い高い塔の上。


***




ガシャン!

彼が叩きつけたグラスが、高く耳触りな音を立てて粉々に砕けた。
相変わらず、暴力的な男。
自分の思うどおりにならなければ癇癪を起こす。
子供と同じだ。
図体だけがでかい、子供。

「なんだ、その態度は」
「ごめんなさい。気に障った?こんな態度しかできないの」

左頬に鋭い衝撃をうけた。
本当に、暴力的な男。
反動で横を向いてしまったので、視線を戻しつつ私は笑ってみせる。
目の前の哀れな男を、嘲笑う。
彼は、苦々しげに眉をしかめ、唇を歪める。
ああ、醜い。

「笑うな」
「何が気に入らないの?気に入らないのだったら、さっさと私なんて追い出しなさいよ」
「誰がお前を自由にさせるか。自由にさせたら兄貴の元へにでもいくつもりか?ふざけるな」
「あの人、もう結婚してるんでしょう?今さらどうするって言うのよ」

馬鹿にしたように肩をすくめる。
いや、実際馬鹿にしているのだ。

髪を強くひかれ、息がかかるくらい顔が近付く。
彼はどこか狂気すら秘めた目で、笑う。
歪めた唇で笑う。
エリート然とした、切れ長の目、厚い唇。
兄によく似た端正な顔なのに、もったいない。

そういえば、この人の兄は、こんな醜い表情はしなかった。
いつも、穏やかな人だった。

「は!お前なら妻子のいる男を奪い取るくらいやるだろう」
「自分の夫のしつけもできないような女に、そんな甲斐性ないわよ」

もう一度、殴られた。
痛い。
明日はまた顔が腫れるだろうか。
ま、でかけることもないからいいんだけど。

「そうだ、俺がお前の夫だ。よく覚えておけ。逆らうな」
「そんなに主張しないと不安なの?可哀そうね、怖がりな私の旦那様」

突き飛ばされて、ベッドに押し倒される。
またいつものパターンだ。
彼はネクタイをゆるめながら、私にのしかかる。
強い雄の匂いを感じて、顔が自然と強張る。

「仕方ないだろう、俺のかわいい妻は誰にでも足を開く淫乱だからな」
「そうね、女は好きでもない男に抱かれて濡れるわ。内臓だからね。守るための防衛反応。誰に抱かれても、濡れるのよ」
「本当にかわいい奥様だよ」
「ありがとう、大好きな旦那様」

また殴られた。
短気で、暴力的な男。
足を割り開かれ、下着を破るような勢いではぎとられる。

「せいぜい淫乱らしく、濡らして腰を振れ」

胸を握りつぶすぐらいの強さで掴まれる。
手が震える。
また我慢の時間だ。
目をつぶる。

暗闇だ。
強い雄の匂いがする。
私はひそやかに息をついて、力を抜いた。



***




「昨日は、いつもよりうるさかったな」
「あはは、ごめんね。昨日はあの人、いつも以上にヒートアップしちゃって。何またご飯食べてないの?おいで食べさせてあげる」
「サンキュ」

そう言って、年若い、まだまだ少年といった風情の男の子は、ベランダを乗り越えて入ってきた。
私はジャラジャラと足の鎖を鳴らしながら、リビングの奥のキッチンに向かう。

「なんか食べたいものある?」
「肉」
「はいはい」

彼は勝手知ったる他人の家とばかりに、靴をベランダに放りなげてリビングの椅子に座り込む。
そして、対面式カウンターから顔を出した私の顔を無表情に見やった。

「顔、めっちゃブスなんだけど」
「昨日は三発殴られるわ、三発やられるわ、散々よ」
「あんたの旦那、体力あるな」
「ほんと、絶倫よね。ていうかあんたも若いんだから三発ぐらいできるでしょ」
「中坊の頃ならいけたかも。今はそこまで勃起を維持できるかわかんない」
「情けないわね。そういえば、怒ると持続力あがるみたいね。そんなもんなの?」
「しらねーよ。怒ってセックスなんてしたことない」
「まあ、それはそうよね」

適当に冷蔵庫の中から豚肉を取り出し、適当に野菜といためる。
少年は明るく日の差すリビングの椅子の上で、猫のように丸くなっていた。
表情のない彼は、どこか本当に猫のようだ。

人気のない郊外のこの家に、訪れる人はほとんどいない。
周りには夏に避暑に訪れる金持ちの別荘ばかりで、住んでる人すらいない。
まったく、物騒たらありゃしない。
別荘荒らしでもきたらどうするのかしら。

猫のような少年は、どうやら何か事情があって、この辺の空き別荘にもぐりこんでいるらしい。
特に事情は聞いたことはない。
ただ、初めて会った時は、彼も顔いっぱいに痣をつけていた。
その辺の事情でここに逃げてきているのだろうと予想する。

うちの家から聞こえるあまり平和的でない物音を聞いて、様子を見に来たようだ。
大きく広がったリビングの窓からうちの様子を覗いていたので、つい招き入れてしまった。
彼は私の体についた痣と、足についた鎖付きの足輪を見て無表情に眉をひそめた。

『何、そういうプレイなの?』
『………まあ、そういえばそうなのかしら』

それが、彼とのファーストコンタクト。
懐かしいわ。
私は夫にこの家に閉じ込められていることを告げた。
足の鎖も、顔の痣もすべて夫の仕業だと。
すると、彼はこう言った。

『なんか、童話にそういう奴いたよな』
『童話?』
『塔に閉じ込められて、逃げられない奴』
『ああ、ラプンツェル?』
『だっけ?』
『ふふ、そうね、私髪長いし。いいわね。ラプンツェル。長い長い髪の女。あれ、確か美人って設定だし。いいわ、そうよ、私はラプンツェル。王子様を待ってるの』

私の夢見がちな言葉に、彼は冷笑した。
痛い女だな、とかなんとか、そんなことを言われた。

「ふふ」
「何?」
「なんか、あんたと会った時のこと思い出しちゃって」
「昔の思い出に浸るのは、ババアの証だぜ?」
「ま、そりゃあんたと比べればババアですよ」

出来た朝食兼昼食をリビングに持っていくと、彼はサンキュと礼を言った。
ありがとうとごめんなさいがちゃんと言えるのはいい子だ。
あの頃からなんとなく、彼は食事をたかりにくる。
夕飯はどうしてるのかしらね。
たまに食材をあげるけど。

私は夫と一緒に食事をとっていたので、向かい側の椅子に腰かけて彼と同じように椅子の上に丸くなる。
ああ、そろそろ足の包帯かえなきゃ。
後は付けるところを定期的に変えてくれるように頼もう。
壊死しちゃうわ、これじゃ。
足をさすりながらお茶を飲んでいると、旺盛な食欲を見せていた少年が無表情でぽつりと問う。
そういえば、彼の痣はすっかり消えた。
私と違って。

「昔の彼氏の思い出とかには浸らないの?」
「そりゃ、たまには思い出すわね」
「今でもやっぱり好き?旦那の兄貴だっけ?」
「……………」

優しく頼りになって、穏やかだったあの人。
夫と同じように頭の出来も顔の出来もよくて、エリートコース約束されていた優秀な人。
端正な顔に、優しい性格。
非の打ちどころのない人だった。
非の打ちどころのない恋人だった。

私が、夫に無理やり抱かれた時も、最後まで信じてくれた。
思い出すと、胸が痛い。
彼を裏切ることは、あれ以上はできなかった。

「逃げたい?」

懐かしい思い出に浸っていると、もう食べ終っていた彼がこちらを見ていた。
私は笑ってからかう様に聞く。

「何?あんたが逃がしてくれるの?」
「好きでもない女の人生背負えるほど懐広くない」
「それでいいわよ。好きな女ができたら、死ぬ気で守ってやりなさい」

そうよ、男だったら好きな女を死ぬ気で守りなさい。
誰にもとられないよう。
誰にも傷つけられないよう。

他の女なんてどうでもいいから。
一人の女を守り通しなさい。



***




「おかえりなさい」
「………………」
「無愛想ね、ただいま、ぐらい言えないの」

夫が帰ってくるのは、週に3日から5日程度。
仕事の関係で遅くなった場合は、都内にあるマンションに泊まっている。
遠すぎるこの家に、せっせと帰ってくるその心意気には尊敬だ。

彼はいつもどおり不機嫌なようだ。
出来のいい顔に、屈託のない笑顔を浮かべたのを見たのは、彼の兄と付き合っていた時が最後かも。
ああ、それでも今日はいつもよりなんかどす黒いオーラが出ている。
今日は特に彼が不機嫌になるようなことはしてなかったはずだけど。

「どうしたの?いつも以上に顔が怖いわよ」
「兄貴から、電話があった」
「あら、懐かしい、なんだって?」
「お前がどうしているか、聞かれた」
「元気よ。素敵な旦那様に大事に大事に守られて、いたせりつくせり姫様稼業」

綺麗な家に囲われて、なんでもかんでも与えられ、夫の帰りを待っている。
女として最高の状況じゃない。
ただ、自由がないだけでね。

彼は私に近づくと、私の長い髪をとってひっぱる。
このくせやめてほしいわ。
そのうち私禿げるんじゃないかしら。

「まさか、お前、兄貴に連絡とってるんじゃないだろうな」

思わず呆れてしまう。
溜息をついたのがばれてしまったのだろう。
彼は眉を吊り上げた。

「おい!」
「どうやって連絡するのよ、携帯も取り上げられて家電もなくて。鳩でも飛ばす?」

私の生意気な軽口に、大きな手が頬を打つ。
本当に余裕のない男。

「黙れ!」
「あなたが聞いたんじゃない」
「絶対、逃がさないからな。兄貴になんて渡さない。お前は俺のものだ。誰にも渡さない。お前に自由なんてやらない。逃がさない。許さない。ここから出さない」

髪をひっぱり、顔を近づけ彼は唇を歪めて笑う。
可哀そうな男。
疑心暗鬼で心がいっぱい。
彼の心に平安はない。

「逃げようがないわよ」
「うるさい、絶対に、誰にも渡さない。逃がさない」

まるで、しがみつくように抱きしめられる。
肩に顔を埋められて、熱い息が肌にかかる。
ゾクゾクと背筋に悪寒が走り抜ける。
すがりつく男を、私は嘲笑う。

「本当に、可哀そうな人。私は、逃げないわよ。ていうかこの状態から逃げられるってどんなミラクルよ」
「黙れ。まあ、俺のザーメン臭い中古の女なんて、誰も欲しがらないだろうけどな」

中古って。
またすごいことを言う。
まあ、私の体のどこもかしこも、この人の雄の匂いが染みついている。
まるでマーキングのように。

「中古で使い古しの女なんて、さっさと捨てなさいよ。優しい私の旦那様」
「うるさい、無駄だ。絶対お前に自由はやらない」

噛みつくように、口づけられる。
ていうか、噛みつかれた。
血の味が口に広がる。
欲情の匂いが、部屋に立ち込める。

さあ、また我慢の時間だ。
そして私は眼を閉じる。



***




「今日はあんまり腫れてないな」
「今日は一発しか殴られなかったから。セックスもいつもよりは優しかったわよ」
「そりゃよかった」

今日もいつものように、彼はリビングに自由に入り込む。
遠慮ってもんがないわね、最近の子は。

「で、今日は何を食べるの?」
「肉」
「はいはい」

今日は奮発して牛肉にしてやろう。
まあ、食材だけは腐るほどある。
定期的に運ばれる日用品は私と、夫には多すぎる量だ。

朝っぱらからステーキを焼いて出してやると、彼は声をあげて喜んだ。
ああ、ちゃんと子供らしく笑えるんじゃない。
いいわね、私が言うことじゃないけどまっすぐに育ってほしい。

「そういえばさ、俺がここにいるってばれたら俺どうなるの?」
「殺されるんじゃない?」
「…………洒落にならねえ」
「何を今さら」

あの人が、私に近づく男を許すはずない。
いや、最近の飛ばしっぷりだったら、女ですら許さないかもしれない。
いつの間にあんなに壊れたのかしら。

「あんたはどうなるの?」
「殺されるかもね」
「洒落になんねえなあ」

さて、どうなのかしら。
それは私も興味がある。
あの人は、私を殺すのかしら。
それともいい加減逃がすのかしら。
無表情な猫のような少年は無表情にぼそりと洩らす。

「俺、ここにくるのやめようかな」
「あら、残念。あんたと話すかワイドショー見るかぐらいしか暇つぶしがないんだけど」
「暇つぶしかよ」
「それ以外に何があるのよ」

閉鎖された家には、娯楽がとことん少ない。
ネット環境は外部と連絡をとるかもってことで取り上げられてるし。
雑誌も、頼んで買ってきてもらうくらい。
テレビか、ゲームか、本ぐらい。
その中で彼は格好の話し相手だった。

「バイト代でもくれれば、いくらでも暇つぶしさせてやるよ」
「毎度飯食わせてやって、まだ足りないの?ま、いいけど。何が欲しいの?」
「やらせてくれる?」
「やりたいの?別にいいけど」

そう言うと、彼は立ちあがり、座っている私に覆いかぶさる。
近づくと、彼の肌のきめ細やかさが分かる。
若いっていいわね、お肌すべすべ。
昔は旦那もこんな感じだったのよね。

「あの人にやられまくってるからガバガバかもね」
「………萎えるな。なんつうかもっとこうさ」
「女に幻想抱いていると、後が辛いわよ。女の頭の中なんて、中二男子ぐらいエロでいっぱいなんだし」

その時、リビングの玄関側の扉が開いた。
私と少年は同時にそちらを向く。
そこには、この家の主が立っていた。

「え」
「あら、おかえりなさい」

夫の顔がみるみるどす黒く歪んでいく。
握りしめた拳が、震えている。

「………何を、してるんだ」

あらら、これは本気でやばいわね。
私は覆いかぶさっていた少年の胸を軽く押す。
そして小さく囁いた。

「さっさと逃げなさい。本気で殺されるわよ」
「………あんたは?」
「死ぬことはないでしょ。ていうかあんたがいる方が都合悪いわ。さっさと消えて」

この少年がいる限り、彼の怒りのボルテージは上がり続ける。
視界にいなくなってくれたほうが、なんぼかマシだ。
さすがに三角関係の果て、夫が愛人と妻を刺し殺す、なんて三面記事は見たくないわ。

しかし、少年は私を置いていくことを躊躇っているのか、迷うように窓と私をちらちらと見る。
案外、義理堅いのね。
私は笑って、もう一回胸を押す。

「早く。間男はケツをまくって逃げるものよ」

そう言うと、彼は決心したように、ジャンバーをとりあげてベランダからひらりと消えた。
身軽ね。
若いっていいわ。

それまで突っ立っていた夫が、私に近寄り髪を引っ張る。
痛い。
いつもより、力がこもっている。
その眼には狂気。
憎しみ。

「やっぱりお前は、これだけやっても、すぐに男を咥えこむ。この淫乱!」
「淫乱淫乱って、私、あなたとあの人ぐらいしか経験ないわよ」
「兄貴の話はするな!お前は俺のものだ!」

殴られた。
血の味がする。
口の中が切れたのか。
続けざまに、椅子を蹴られた。
丸まって座っていたので、簡単に転げ落ちる。
痛い、腰を打った。
すっかり、手加減を忘れている。
襟首を掴まれ、引っ張り上げられる。
首がしまって、苦しい。

血走った目をした男が、目の前にいる。
手が震える。
ばれないように、しっかりと握った。
私は挑戦的に、夫と視線を合わせる。

「あの男はどこでひっぱりこんだんだ。これだけ自由を奪っても、まだ男を誘い込む余裕があるのか。まだ足りないのか。本当にどうしようもない売女だな」
「あの子が迷い込んだのは、事故みたいなものなんだけど。一応言っておくけど、やってないわよ」

もう一度殴られた。
歯が、少しぐらついた感じがした。
口の中が血の味でいっぱい。
体が震える。
駄目だ、負けるな。

「信じられるか、雌犬が!あいつにむかって、足を開いて腰をふったのか?」
「だから、やってないって。調べればいいでしょ」
「勿論調べるさ」

私の首を大きな手が覆う。
徐々に力が入り、ゆっくりと気道がつぶされる。
呼吸が困難になる。
苦しい。
頭に血が昇る。
脳に、呼吸が行き届かない。

「…こ、ろすの?いいわ、ころ、して」

それはそれで、いいかもしれない。
あなたはそれで犯罪者。

「誰が殺すか。死んで自由になんてさせない。お前は一生生きたまま、飼われるんだ。好きでもない男に抱かれ続けて、生き地獄を味わうんだ」

可哀そうな、人。
それは、なんなのかしら。
あなたの私への感情は、なんなのかしら。
そこにはもう、憎しみしかないのかしら。

意識が飛ぶ寸前に、彼の手が離れた。
乱暴に床にたたきつけられる。
途端に急に酸素が入り込んで、咳きこむ。
目に涙が浮かび、吐き気がする。

床に倒れこんで、咳きこむ私を、彼は見下ろしせせら笑う。
狂気に満ちた目で。

「ああ、でももうお前には少しの自由もやれないな。かわいい奥様は眼を離すとすぐに浮気をする。夫としては、妻に貞淑でいてもらうための努力は惜しまないさ」

強く強く、抱きしめられる。
私を抱きつぶしてしまうように、加減なしに抱きしめられる。
息がつまる。
彼の狂気に、眩暈がする。

「許さない。許さない許さない許さない。お前は俺のものだ。俺のものだ。誰にも渡さない」

彼のかすれた声が、かすかに聞こえた。



***




それから3日後。

少年は、雨戸を閉め切られた家の一角を叩き壊して侵入してきた。
夫はどうしても外せない仕事のため、3日ぶりに家を空けた。
少年は隙を見ていたようだ。
まあ、あの終わりだったら、気になっているのもしょうがないわね。

入り込んで家中を探し回ったようで、物音が色々していた。
そして寝室に入り込み、ベッドに繋がれた私を見て一言。

「あ、生きてた」
「生きてるわよ」

無表情だけれど、さすがに安心したらしい。
無表情なまま、ずるずるとその場に座り込んで大きく息をついた。
そんな少年を見て、自然と頬が緩む。

「心配させたわね。悪かったわ」
「………本当だよ」

彼は私の姿を見て、軽く眉をひそめた。
まあ、見るに堪えない状態だわ。
気持は分かる。

鎖をだいぶ短くした足輪で、ベッドサイドに繋がれている。
首には包帯。
顔は腫れあがっている。
手足は擦り切れて、私は裸。
締め切った部屋は、精液やら愛液やら、淫臭が立ち込めている。
シーツはべたべたなまま。
私の排泄用に洗面器が片隅にあるし。
まだ、してないけどね。

「すげえな、あんたの旦那。もう犯罪レベルだよな」
「結構前からね。ていうかあんたのそれも犯罪よ」

不法侵入に、器物損害だ。
夫に見つかったらただじゃすまないだろう。
確かに、といって彼は笑った。
そしてふらふらと立ち上がると、少年は無表情に戻る。
しばし黙り込む。
それから、まっすぐに私を見た。

「なあ、俺もそろそろ本格的に家出しようと思うんだけど、一緒にくる?」
「え」

何を言われたか分からなくて、私は一瞬黙り込む。
まさか、そんなことを言われるとは思ってなかったのだ。
それから、からかうように笑う。

「前に、好きでもない女の人生は背負えないって言ってなかった?」
「だから、そういうこと」

おっと、これまた驚いた。
趣味の悪い子だ。

「なるほど、そういうこと」

さすがに、ちょっと嬉しいわね。
けどまあ、うら若き少年の人生を狂わせる訳にはいかない。
少しだけ心揺れるけど、この少年に人生かけるほど、私は馬鹿でも若くもない。

「ありがと、でも遠慮しておくわ」
「そっか」
「あら、あっさり」

やっぱり冗談だったのかしら。
いい気になって、ちょっと恥ずかしいわ。
けれど、少年は薄く笑った。
なんて、大人びた表情。
きっと、この子苦労してるのね。
子供らしい表情なんて、ほとんど見なかった。

「なんとなく、わかってたから」

三度、軽く驚く。
瞬きを何度もしてから、私は彼を見上げて問う。

「どうして?」
「あんた、旦那のこと、好きだろ」

四度目の、驚き。
これはまた。
本当にこの子、苦労しているのね。
観察力があるわ。

私は、笑った。
心からの、喜びの笑い。
胸が熱くて、ほんわりと体が温かくなる。
夫を想うと、いつもそう。

「よく分かったわね」
「逃げようと思えばいくらでも逃げられるだろ。俺もいたんだし。留まってる意味が分からない」
「暴力で縛られてるのかも」
「自分で言ってて空々しくない?」
「まあね」

暴力でなんか、私は縛られない。
暴力でなんか、抱かれるものか。
支配されそうになったら、殺してでも逃げるわよ。
素直に、束縛なんてされてやらない。

「あんたは本気で嫌なら、すぐに逃げ出すだろ。好きでもない男にやられ続けるほど大人しい性格でもないし。何か目的があるならともかく」
「まあ、ね。あんた鋭いわねえ」

そう、目的がないなら、好きでもない男にやられ続けるなんて、ごめんだ。
まあ、目的があるなら、好きでもない男にでも抱かれてやるけど。
女は好きでもない男に抱かれても濡れるわ。
防衛本能。
自分の体を守るため、濡れるわ。

だから、あの人の兄にだって、感じたふりして抱かれてやったわ。
処女だってささげてやった。
目的があるなら、好きでもない男にも濡れてみせる。

少年は無表情に私を見下ろしている。
私はきっと、とても嬉しそうな顔をしているだろう。
だって、夫を好きだ、なんて告白できるのは久しぶりだ。

「素直になったりしないの?」
「そんなことしたら、あの人、私に飽きるわよ」

子供のように、癇癪持ちで飽きっぽい人。
手に入れたものは、すぐに捨ててしまう。
興味を失ってしまう。

「あの人、自分のお兄さんにコンプレックスありまくりなの。自分の方が優秀で顔もいいのにね。ずっとずっと魅力的よ。何をしても手にいれたいと思うぐらい」

だから、利用した。
そのコンプレックスを利用した。
彼が兄の恋人に興味を持つのはいつものことだった。
私はそれを知っていた。

だから、利用した。

「私、ずっとあの人が好きだったの。だからお兄さんと付き合ったの」

優しくて、穏やかなだけのつまらない男。
非の打ちどころのない恋人。
けれど、刺激が足りないわ。

兄の恋人は、いつも野性味あふれる弟に惹かれた。
だから弟はいつも兄の恋人を誘惑した。
私は、弟になびかなかったただ一人の女。
兄を愛し続けるただ一人の女。

だから、彼は私に興味を失わない。

「一生、縛るわ。あの人は私がお兄さんを好きだと思っている限り、私があの人を好きじゃないと思っている限り、不安を抱え続ける。焦り続ける。信じられない。私に執着し続ける。逃げられない。捕まえる。逃がさない。逃げるなんて許さない」

もっともっともっと。
狂うほどに私に執着して。
私を縛り付けて。
足を折って、手を縛って。
目を隠して、あなたの匂いだけする体にして。

「まあ、大変なんだけどね。感じないふりするのも。あの人とやるとイキっぱなしで困っちゃう」

触れるだけで濡れる。
乱暴につっこまれても、体は柔軟に受け止める。
声を聞くだけで、快感で体が震える。
全く現金な体。
あの人の兄に優しく抱かれる時は、嫌で嫌で感じたふりするのも大変だった。

女は誰に抱かれても濡れるわ。
それは体を守るための防衛本能。
でもね。

好きな男に抱かれると天国に行けるのよ。

「でもね、だから、とても幸せなの」

私は心からの笑顔で、少年に告げる。
いっそ、殺されたい。
私を殺して、あの人は犯罪者。
そして私は、あの人を一生縛れる。
なんて素敵。
考えるだけで、濡れてくる。

少年は苦笑して、肩をすくめた。

「ちょっとだけ、羨ましいわ」
「あんたも、元気でね。幸せになってね」
「ああ。じゃあな」

こんないかれた女なんて忘れて、幸せになるといい。
きっと彼の人生は他の人よりも苦労するだろう。
けれど、そんなこと私の知ったところではない。
私は、夫以外、どうでもいい。
少年は、夫の嫉妬を煽るためのいいスパイスだった。
いい暇つぶしになったわ。

「さよなら」

だから少しの感謝と共に、あっさりと手をふる。
彼もあっさりと余韻を残さず去っていく。

そして私は一人きり。
そして目をつぶって、彼のことを考える。
暗闇の中、ただ夫のことを考える。

「早く帰ってきてね、あなた」

そうよ、私はラプンツェル。
長い髪の女。
高い高い塔の上で、王子様を待っている。

愛してるわ。
誰よりも愛しているわ。

可哀そうな人。
一生、あなたを、愛しているわ。



***




彼女は今日も、高い高い塔の上。
その長い髪で彼を縛る。





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