俺には婚約者がいる。
誰よりも大嫌いな婚約者がいる。


***




「ねえねえ、羽田さんって、蔵月君の婚約者って本当?」

甘ったるい砂糖でコーディングされたような声で、俺にとっては馴染みになった質問をされた。
ちらりと見上げると、クラスの女子が3人ほど連れだって横に来ていた。
公開している訳でも、隠している訳でもないが、どこからともなく知れ渡る。
俺はいつものお決まりの答えを返す。

「そんなの、親が決めた昔のことだよ。関係ない」
「あ、でも本当なんだ」
「俺はあんな女とどーこーなる気は全くないけどな」

当然だ。
親同士が勝手に決めた、婚約者。
それも、古くは主従関係だった御家柄。
あいつが俺に傅くのは当然。
あいつと俺の関係は、ただそれだけだ。

「だよねえ、だって、羽田さんじゃねえ」
「あれじゃ、ねえ」
「だってさ、あの人さ、身長何センチだよ」

178センチだ。

「なんか、胸っていうより、胸筋って感じだよね」

体脂肪10%切ってるからな。

「ねえ。蔵月君の方が綺麗なぐらいだし」

まあ、俺は身長172センチしかないし、筋肉もついてない。
顔立ちだって、こうやって女子にまとわりつかれるぐらい、整っている。
女顔だ。

「ありえないよねえ」

女子達が口々に残酷さを滲ませながら、くすくすと笑う。
いつのまにかギャラリーが増えている。
俺の態度から、それくらい言ってもいいと判断したのだろう。
それからあの女の悪口大会が始まる。

「あ」

その時教室の入り口に、噂されている張本人が現れた。
教室の中が一瞬にして静まり返る。

「永人(えいと)、もう帰れる?」
「………」

長身でショートカットの凛々しい顔をした女は、自分が何を言われていたか分かっているだろうに、顔色一つ変えず教室の中に入ってくる。
そしてギャラリーを掻きわけ、俺の机の隣に来ると、癪に障る低い声で言った。
こうしてこの女がいっつも俺を連れ出すのを、クラスの女子共はよく思ってなかったのだろう。
今日は俺の許可を得たと思ったのか、盛大に不満を漏らし始めた。

「えー、蔵月君、帰っちゃうの?」
「遊びにいこうよー」

別に遊びに行く気分でもなかったが、ちょうどよかった。
俺はちらりと長身の女を見上げる。

「て、ことだ。お前だけ先に帰れよ」
「でも」

俺の言葉に眉を顰める羽田。
こいつは別に、俺の態度に眉を顰めている訳ではない。
ただ、自分の役割を果たせなくなるのが嫌なだけだ。
それがまた苛々として、声が荒くなる。

「鬱陶しいんだよ。さっさと帰れよ」
「………分かった」

困った子供の悪戯に呆れる大人のように、羽田はため息をついた。
そしてギャラリーの楽しそうな視線を気にすることもなく、ピシリと背筋を伸ばしたまま後ろを向く。

「………羽田」

その綺麗な背筋が浮き上がる背中に、つい、声をかけてしまう。
羽田はちらりと振り返る。
振り返られて、自分が動揺する。
別に何か声をかけようと思っていた訳じゃない。

「なんでもねー、とっとと帰れ」

その言葉に、羽田はやっぱり顔色一つ変えずに振り替えった。
そしてそのまま教室から出て行ってしまう。

「やだあ、蔵月君嫌がってるのに、鬱陶しい」
「ねえ?」
「あの人が婚約者とかありえない」

いなくなった途端、女子共が騒ぎ出す。
ああ、キーキーうるせえな。

でも、あんな女が俺の婚約者なんて、確かにあり得ない。
身長178センチで、体脂肪率10%切ってる女なんて、女として見れるわけ、ないだろう?



***




纏わりつく女子達と適当に付き合ってから、家に帰る。
すると大学生である兄貴が、目を吊り上げて待っていた。
ああ、もう知られたのか。

「永人、お前また玲子ちゃんに迷惑かけたんだってな」

その言葉に、胸の中にくすぶっていた苛立ちがまた再燃する。
どいつもこいつも羽田羽田うるせーんだよ。

「なんだよ、あの女、兄貴に告げ口しやがったのかよ」
「違う、先生から連絡があったんだ。お前は、本当に恥ずかしくないのか。玲子ちゃんに甘えてばっかりで」
「うっせーな!誰が頼んだんだよ!俺が構えなんていってねーよ!」
「永人!」

誰もあいつに面倒見てくれ、なんて頼んでない。
送り迎えなんて、あいつと兄貴と親父とお袋が勝手に決めたことだ。
俺の自由な時間を縛りつけておいて、文句を言われるなんて理不尽すぎる。

「芳人さん、その辺で。私は気にしてませんから」
「………いたのかよ」
「今日は稽古の日だから」

言葉通り胴着を纏った羽田が、奥から出てくた。
頬から伝う汗を、タオルで拭っている。

「玲子ちゃん、君もそんな永人を甘やかすことはないんだ。幼馴染だからって君に甘えてばっかりで」
「いいんです。永人も確かに鬱陶しいでしょうし」
「しかし」

身長が185あって、筋肉が綺麗についている兄貴の隣に並ぶとこの女も女に見えるから不思議だ。
なによりもその無表情が、兄貴の前では憧れを滲ませて赤くなる。
その似合わない女の顔が、何よりも気持ち悪い。

「それより芳人さん、もしよかったら稽古に付き合ってもらえませんか?」
「俺が君の相手、務まるかなあ」
「まだまだ芳人さんには敵う気がしません」
「あはは、そうありたいな。いつまでも君の目標であるように」

そんなの当たり前ですよ、と言いながらも羽田は嬉しそうだ。
この家の跡取り息子である兄貴は、一通りの武術を身につけている。
このデカ女と互角かそれ以上の戦いが出来るのなんて、今や兄貴と各武術の師範クラスと親父くらいだろう。

「永人、明日こそ病院いかないと駄目だからね。嫌がってても、引きずってでも連れて行く」

兄貴との嬉しそうな会話を終えると、途端に無表情に戻って上から目線で言いつけられる。
実際目線は上なんだが。

「そんなデカマッチョ女に側ウロウロされると迷惑なんだよ!鬱陶しいんだよ!下僕の癖に!いい加減俺の周り近寄るなよ!」

俺の言葉に、羽田はため息をついただけだった。
その仕方ないと言う態度が、何よりも苛立つ。
いつからか、こいつは俺に対して怒ることも感情を波立たせることもなかった。
本当に下僕としての態度のように、穏やかに接するだけだ。
苛立ちまぎれに壁を殴りつけて、そのまま背を向けて自分の部屋へ向かう。

「永人!!」

兄貴の怒った声だけが追いかけてきた。



***




「お前、鬱陶しいから近づくなって言っただろ」
「永人が鬱陶しいのは分かるけど、芳人さんにも旦那様にも頼まれてるから。行き帰りぐらいは我慢して」
「親父と兄貴の言うことだけは聞きやがって!迷惑なんだよ!デカくて邪魔なんだよ!そんなにうちに取り入りたいのかよ!」
「ごめんね」

俺がどんなに毒づいても、子供にじゃれかかられるのと同じなのか、こいつは取り合おうともしない。
それにますます苛立ちがつのる。
何を言っても、こいつには俺の言葉は届かないのだ。
俺には、こいつを傷つけることすらできない。

毎朝の死にたくなる登下校時間を終えて、下駄箱まで来る。
羽田が下駄箱を開けると、そこにはかわいらしい手紙が3通ほど入っていた。
今日は3通か。
羽田がその手紙を見て、少しだけ顔を緩ませて鞄にしまい込む。

「モテるな。そんなでも嬉しい訳?随分いじましいのな?」
「慕ってくれるのは嬉しい」
「女にばっかりな」
「それでも、好意はありがたい」
「お前、本当に男に生まれればよかったのにな」
「確かに」

毒づいても毒づいても、やっぱり気にする様子はない。
羽田はモテる。
俺に近寄ってくる女共とは違う、主に世間知らずの夢見がちな女に。
こんな下駄箱に手紙、なんてベタなことやらかすような痛い女共。
こいつはまた、この手紙に一々返事を書くらしい。
それでまた、取り巻きの女共を作っていく。
運動神経抜群で強くて、無表情ながらも礼儀正しく気遣いの塊のこいつは自然と周りの人間を助けて、そのたびにシンパを作っている。

「あ、あの羽田さん」
「ああ、えっと、会田君だっけ」
「はい、あの、この前はありがとうございました!」

教室に行く前に、ひょろっちい男が話しかけてきた。
ネームプレートの色を見るに、1年。
下級生か。

「気にしなくていいよ。大丈夫だった?」
「はい、あの、この前相談した件、もう少し話を聞きたくて」
「ああ。うん、今日の昼休みなら大丈夫だから、大丈夫だったらおいで」
「はい!」

会田とか言うそいつは、羽田の言葉に頬を上気させて何度も頷いていた。
にこにこと嬉しそうに。
羽田も珍しくにっこりと笑いながら、それに答えていた。

「………なんだよ、あの男」
「ああ、この前、ちょっとね。道場入りたいっていうから紹介する約束したの」

どうせまた、あのひょろい男が苛めかなんかにあってるのを助けたかなんかしたのだろう。
うちの道場のプロモーション、御苦労なことだ。
あの男のキラキラとした憧れの視線も、兄貴を見た途端曇るのだろうか。

「それでまた兄貴に褒められるの待ってるの?」
「そういうことじゃない。彼が強くなりたいって言っただけ」
「お前、兄貴に惚れてんだろ?」
「………」
「お前みたいな男女に、兄貴が落とせると思ってるの?」

羽田は疲れたようにため息をついた。
呆れたように、うんざりといったように。
兄貴のことになると、途端こいつは感情を表す。

「あいつがお前に優しいのなんて、あいつが偽善者だからなんだよ。どこでもいい顔ばっかりしやがって。お前みたいな女、下僕で、道場の名前が売れるから優しくしてるだけなんだよ。どうせうちに逆らえないのにな」

そこでようやく羽田が俺に向き合った。
無表情の中に苛立ちを含ませた顔で、子供に言い聞かせるような口調で言う。

「永人、お兄さんを悪く言うのはよしなさい」

頭が一気に熱くなる。
兄貴にだけは女の表情を見せて、兄貴のことだけはかばう女。
俺の言葉なんて、何一つ聞いてない癖に。

「うっせー!!!」

そう怒鳴りつけて、俺は教室に向けて駆けだした。



***




「永人、帰るよ」
「なんだよお前、待ち伏せしてたのかよ!こえーよ!ストーカーかよ!」

女共と連れだって教室から出ようとすると、そこにはデカ女が立っていた。
そういえば今日こそは病院に連れて行くって言っていたっけ。

「ねえ、いくら婚約者だからって図々しくない?」
「ね、嫌がられてるのに周りうろつくとかさ」
「なんか勘違いしてんじゃない?」

隣にいた女子達が、途端悪意を見せて騒ぎ出す。
俺を庇うためなのか、攻撃していい相手を見つけたためなのか。
どうでもいいけど、こいつらこんな態度見せて男が落ちるって思ってるのか。
こいつらも大概頭が悪い。
俺に寄ってくる女共は、こんなんばっかりだ。

「羽田さんは、男の子の横にいるより、女の子の横にいる方が似合うよね」
「あっはは、言えてる。女子高行ったらモテるんじゃない?守ってもらえそー」
「ああ、本当に頼もしい!私のこと守って守って!」

羽田は顔色一つ変えない。
呆れたように女どもを見下ろすだけ。

「羽田、帰るぞ」
「分かった」

羽田と帰るのも癪だったが、こいつらの頭の悪い発言を聞いているのも面倒になった。
俺は鞄を羽田に付きつけると、そのまま歩き始める。

「………えー、蔵月君?」
「これ以上この女に付きまとわれても迷惑だから、今日は帰る」

そう言い置くと、仕方ないなあとか言いながら女どもは散った。
羽田といたくないから、あの女共と一緒にいるが、それも最近面倒だ。

「永人、付き合う女の子は考えた方がいい。あれじゃあまりにも品がない。永人の品性も誤解される」

自分でもそう思っていたが、羽田に言われると反論したくなる。
涼しい顔して俺のバッグを持っている羽田を睨みつける。

「うっせーな!ブスが口出してんじゃねーよ!俺が誰と付き合おうと勝手だろ!」
「勝手だけどね。出来れば自分を高める相手と付き合った方がいい」
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、お前教師かよ。婚約者ヅラするんじゃねーよ。偉そうに上から話すな!」

羽田はやはり、困ったように眉を顰めるだけ。
俺の言葉に反応しない。
言い返しもしない。
ただ静かに困ったように見るだけ。

羽田は俺に逆らわない。
俺に歯向かわない。
俺の意見を否定しない。
本当の主従関係のように。
あの時からずっと。

「ああ、もう本当に鬱陶しいな。お前の顔見るだけで苛々するんだよ。どっか行けよ。本当にもう顔見せるなよ!」
「………永人は、私がいなくなれば満足?」

見上げると、羽田はやはり静かな顔をしていた。
たくましい二の腕。
こいつが俺を殴り倒そうとすれば、いくらだって殴れるだろう。
俺なんて一瞬で吹っ飛ばせる。
けれどこいつはそれをしない。

「ああ、満足だ!お前が消えてくれたらせいせいするんだよ!お前がいるのが俺のストレスなんだよ!どっか消えろよ!」

そこで羽田は、はあ、と小さくため息をついた。
一つ頷いて、じっと俺の目を見てくる。

「………分かった。そんなに永人の負担になってるとは思わなかった。ごめん」
「………」

ずっと負担だった。
そうだ、その通りだ。
ずっとずっと負担だった。

「今日はこのまま病院まで送るけど、これからは永人の送り迎えに関しては、誰か他の人にしてもらう。」
「ああ、そうしてくれよ。ていうか送り迎えなんていらないんだよ。そもそも婚約者なんて馬鹿馬鹿しいもん、いらねーんだよ」

羽田がふっと、小さく笑う。

「あんなの旦那様の、冗談でしょ。私みたいな身分の人間がそもそも永人の婚約者なんておかしいし」

俺の家は古くから続く旧家で、羽田の家は古くからうちに仕えてきた。
時折姻戚関係を結ぶこともあったのだが、基本的に主従関係は絶対。
現代社会にそぐわない古い慣習にいつまで立っても囚われている。

「それに、私があまりに永人にくっついているから、理由をくれただけだろうし」

羽田の言葉はよどみなく、冷静だ。
まるですでに用意されていた言葉のように。
きっとずっと、言いたかったことだろう。

「本当にごめんね。じゃあ、もう病院だから。帰りは別の人を頼む。事情は私から旦那様と芳人さんに話しておく」

どこか、晴れ晴れした顔に見えた。
ずっと、こんな機会を狙っていたんだろう。
ずっと俺から離れたかったんだろう。

こっちだって晴れ晴れだ。
清々した。
こんなデカ女に付き纏われなくて済んで、すっきりする。

自分で望んだことだ。
ずっとずっと望んでいたことだ。
それなのになぜか俺の口は、それとは違う言葉を紡ぐ。

「それで今度は兄貴に心おきなく取り入る訳?」
「永人が嫌なら、もう家には近づかないよ」

薄く笑って、静かな口調でそう言った。
いつもこうだ。
こいつはいつもいつもいつもいつも。

「本当にお前は鬱陶しいんだよ!」

何を言っても響かない。
俺の言葉なんて聞いていない。
俺が何を言っても何も思わない。

「ごめんね」

だからその時もそう言っただけだ。






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