私は犬を飼っている。 馬鹿で間抜けで言うことを聞かない、壊れた駄犬が一匹いる。 初めて見たタツヤ君は臭くて汚い子供だった。 彼は夜の公園で一人、草を食べていた。 「………何してるの?」 本来なら近づかないだろう。 そんな怪しくて汚くて臭い子供、普通の子供だったら目を逸らすだけだ。 ただ、私は暇を持て余していた。 父親と名乗る男が現れると、私は家を追い出される。 そしてそのまま夜中まで帰ることは許されない。 別に帰ってもいいのかもしれないが、見たくもないものを見ることになる。 一度、あまりにも寒くて帰った時に、心から後悔した。 そんな訳で、暇で暇で仕方なかったのだ。 「………」 「ねえ、何してるの。草、おいしい?」 「え」 呼んだのに無視されて、ついもう一回声をかけてしまう。 すると草を口にくわえながら、彼はようやく振り返った。 そして宇宙人にでもあったような驚きに満ちた顔で私の顔をまじまじとみる。 「それ、おいしいの?」 「………」 大きくてまんまるの目をパチパチと瞬かせる子供に、段々と苛々としてくる。 ボサボサの髪、薄汚れた服、ガリガリの手足、傷だらけの体。 見れば見るほど、汚い貧相な子供だった。 細く小さいから、自分よりも年下だと思って疑わなかった。 「聞いてるの?それとも聞こえないの?」 「………俺に、聞いてるの?」 「他に誰がいるの」 そこでまた驚いたように目を瞬かせる。 頭が悪いのだろうか、この子は。 話しかけたことに後悔して、いい加減立ち去ろうかと思った。 ただ、なんとなく、話す人が欲しかったのだ。 一人で過ごす時間は、長すぎる。 「おいしいの?」 「おいしくないよ」 「じゃあ、なんで食べてるの?」 「お腹が空いたから」 彼の行動は単純明快。 お腹が空いたから、食べられそうなものを探していた。 それだけだ。 でも、私は全く理解できなかった。 いくら自分も普通の子供とは違うとはいえ、幼い私は知らなかったのだ。 親に食事を与えられない子供がいるなんて。 親に殴られる子供がいるなんて。 親に毎日罵倒される子供がいるなんて。 そしてあの時話しかけたのが、タツヤ君にとって半月ぶりの人との会話だったなんて。 タツヤ君は私と出会った時は、すでにすっかり壊れていた。 彼の周りの人は丹念に丹念に、それはもう驚くほどの熱意を持って、彼を微に入り細に入り丁寧に壊した。 彼の置かれてる環境の劣悪さは、少し接しただけですぐに判明した。 「トーコちゃん!」 一応普通に話すことは出来るらしいので、私は外に出された時は彼とよく話すことになった。 彼は公園にいることが多くて、時にはそこで眠ってもいることもあるようだった。 だから暇な時は、ちょうどいい話相手だったのだ。 私も友達はいなかったし、外で時間を潰すのは退屈だった。 タツヤ君も当然友達はいないので、私が彼に友好的に話しかける唯一の人間だった。 だから、私の顔を見ると嬉しそうに駆け寄ってきた。 「はい、タツヤ君」 「ありがとう、トーコちゃん!」 「いっぱい食べてね」 私はお小遣いはいっぱいもらっていたので、それで食料を買い込んで彼に与えた。 パンやお菓子、時にはお弁当を買って与えるとタツヤ君はそれを本当に嬉しそうにいっぱい食べた。 おいしいおいしいと何度も何度も言っていた。 家で与えられる食事は気まぐれで、空腹を抱えていることが多いらしい。 話しかけてくれて、食料をくれる人ということで、タツヤ君はすっかり私に懐いた。 まるで、尻尾をぶんぶんふって近寄ってくる犬みたいに、全身で私に好意を表わした。 それは、ずっと一人だった私とって、悪い気分がするものじゃなかった。 「タツヤ君、臭いよ。お風呂入ってる?」 「………お風呂、嫌い」 「なんで?」 「冷たくて、痛い」 タツヤくんにとってのお風呂は親にホースで水をかけられて、タワシで洗われることだったらしい。 そんなの誰だって嫌に決まっている。 服だって洗濯されることもほとんどないようだし、みすぼらしくて汚くて臭い子供。 そりゃ、誰だって近づかない。 「お風呂入ったよ、トーコちゃん!」 そして次に会った時、彼はびしょ濡れになって現れた。 どうやら前回会った時に私が臭いと言ったことを気にして、毎日公園で水をかぶっていたらしい。 私がいつ来るか分からないのに、律義に毎日毎日水浴びをしていた。 初夏に近い、暖かな陽気だったからよかったものの、真冬だったらどうなるか分からない。 きっと真冬でも、タツヤくんは水をかぶり続けただろう。 「馬鹿!」 さすがにその時は怒ったけれど、どうしたらいいのか分からなかった。 綺麗にすることは大切だ。 けれど彼の環境ではどうやって綺麗にしたらいいのか分からない。 私は彼にお湯が使えるならそれで汗を拭うこと、頭をシャンプーで洗うこと、タワシで体を洗っちゃいけない事を教えた。 そしてシャンプーとリンス、石鹸などを買い与えた。 彼がそれを使ったのかは知らない。 けれど次会った時、随分悪臭は消えていた。 服は相変わらずみすぼらしく、ところどころ薄汚れていたけれど。 ただの暇つぶしだった。 野良犬に餌を与えているような気持ちだった。 だから最初は家に父親が来る時だけの付き合い。 一週間に一回か、二週間に一回。 けれど気がつけば二カ月も経つ頃には、彼のことがすっかり気にかかるようになっていた。 私のいない間は彼はどうしているのだろうか。 彼はちゃんと食べているだろうか。 体をちゃんと洗えているだろうか。 ずっと一人でいるのだろうか。 気になって、放っておけなくなって、父親が来ない時でも家を抜け出すようになってきた。 どちらにせよ母は仕事で家を空けていたので、誰も止める人間はいなかった。 そして、彼と毎日会うようになった頃。 彼は笑いながら私をぶった。 嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら、私を何度も何度もぶって、蹴った。 何が起こったのか分からず混乱して泣きわめく私に、彼は得意げに言った。 「俺はね、トーコちゃんのこと、大好き!だからね、アイジョーヒョウゲン!」 パーでぶつのは愛情表現。 蹴るのは愛情表現。 彼の言うことが、理解できなかった。 何度も聞き返して、愕然とした。 私の知っている常識とは、かけ離れすぎていて、信じられなかった。 彼にとって親の愛とは、彼を打ちのめすことなのだ。 「………」 理解して、涙が止まらなくなった。 どうしてここまで、他人に対して悪意を持つことが出来るのか、理解できなかった。 彼の周りの人は丹念に丹念に、それはもう驚くほどの熱意を持って、彼を微に入り細に入り丁寧に壊した。 彼は完全に粉々になるまで、悪意に晒され続けた。 肉体的、心理的、性的、あらゆる攻撃が彼を壊した。 彼の両親は、結婚していなかった。 彼の父親と母親は、国から出るお金が目当てで、彼を産み、育てていた。 気まぐれに彼を殴り、飢えさせ、罵り、それによって周りの人間まで彼を馬鹿にすることを、楽しんでいた。 息子と言うストレス解消の道具を、感心するほど有効的に利用していた。 同級生たちは、彼を何をしてもいい相手だと知り、彼を嬲った。 殴り汚し、物を壊し、嘲笑った。 教師も、困った子供とその両親に頭を悩ましていたのだろう。 給食費をろくに払っていない親を上げつらねて、泥棒だとしてクラスメイトの前で給食時間にずっと立たせた。 ノートやペンが用意できないことも多い彼を、忘れ物が多いとしてずっと罵り続けた。 近所の優しくしてくれたお兄さんとやらは、性教育すら知らない彼に、私の母が父にするようなことをさせたらしい。 そしてそれが周囲に気付かれると全部彼のせいにして逃げ出した。 彼は余計に周りに遠巻きに見られるようになり、両親は彼を酷く打ちすえた。 そのどれも彼は無邪気に笑いながら教えてくれた。 彼はそれを苦痛と感じていなかった。 辛いだなんて、一言も言わなかった。 だってそれを苦痛と感じたら、きっともう耐えられなかった。 だから壊れた。 暴力を愛情だと、すり替えた。 彼の両親は自分を愛しているのだと、心から信じた。 「タツヤ、くん………」 涙が止まらなかった。 人間の悪意を詰め込まれて育って、それでもこんなにも真っ直ぐに私を見て愛情を表わす彼が、哀れで仕方なかった。 「トーコちゃん、どうしたの。どうしたの、泣かないで、トーコちゃん」 私を心配そうにのぞき込む彼に答えることもできず、泣き続けることしかできなかった。 私は彼を人間として、育てることにした。 親のいない間に家に連れ込んでお風呂に入らせて綺麗にさせた。 小学校一年生の勉強もおぼつかない彼に勉強を教えた。 自分の古い服を与え、食事を一緒に作り、身なりだけはそれなりに人間らしくなった。 両親の暴力からは、極力逃げろと教えた。 私からぶたれたり蹴られりすることを歓ぶ彼に、他の人間に殴られるなと言った。 すっかり私に懐いていた彼は、私の言うことを全て聞いた。 「うん、トーコちゃんがそう言うならそうする!」 懐く、というよりは心酔する、と言った方が正しいのかもしれない。 彼は私を絶対的な命令者として受け取り、徐々に両親の支配からも抜け出して、体の生傷も減っていった。 私さえいれば誰もいらない、そう思うようになってきた。 それは満足と優越感と共に、鬱陶しさと重さを感じる信頼だった。 自分で彼を半ば面白がって育てたくせに、私に全ての選択肢を委ねて纏わりつく彼が鬱陶しくなってきた。 そして思春期を迎えた頃、放課後の教室だった。 その頃、少しだけいいなと思っていた男の子がいた。 けれど私にはタツヤ君が纏わりついている。 当然、健全な男女交際なんて出来るはずもない。 周りの好奇心の目、付き合いに気づいたらしい母親の小言、犬のように纏わりつくタツヤ君。 その全てに苛立って、私はとうとう言ってしまった。 「俺は、トーコちゃんのためなら何でもするよ!」 無邪気に子供のように笑って言った、彼に無性に腹が立った。 何でもするなんて言って、何もできないくせに。 「じゃあ、そこから落ちて」 「うん、分かった、トーコちゃん」 タツヤ君はにっこり笑ったまま、躊躇うことなく校舎の三階から飛び降りた。 一瞬何が起こったか分からず、理解した瞬間、喉が破れそうなほどに叫んだ。 頭の中が真っ白だった。 タツヤ君の名前を叫びながら涙を流し、急いで教室を飛び出し、窓の外に向かった。 幸い下は植え込みで、運動神経もよかったタツヤ君は奇跡的に骨を折ることもなく軽傷で済んだ。 「これでいい、トーコちゃん?もっかいした方がいい?怪我しないと駄目?」 植え込みの横に転がって、タツヤくんは痛みに顔を顰めながらもにこにことして言った。 私が褒めてくれると疑っていないように。 言うことを聞いたのだから褒めてくれると信じて、真っ直ぐに私を見つめてくる。 「馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!勝手に死なないでよ!勝手に死んだら許さないから!」 先生達の慌てふためいた声が聞こえて、集まってくるのが分かった。 けれど、私はタツヤくんにしがみついて泣き叫ぶ。 彼が目の前から消えた時、感じたのは途方もない恐怖だった。 タツヤ君なんていなくなってしまえばいい、って思った。 纏わりつく彼が鬱陶しくて、いっそ消えてしまえばいいって何度も思った。 けれど彼が三階から飛び降りた瞬間感じたのは恐怖。 それは、彼を失うことへの、恐怖。 私は彼がいて、自分は不幸じゃないと感じられた。 彼の世話を焼くことによって自分が必要とされている人間だと信じられた。 彼がいなくなったら、私は不幸だと分かってしまう。 彼がいなくなったら、私を必要としてくれる人がいなくなってしまう。 彼を見下し傍にいることで、優越感と自尊心を満足させられ、自分の存在価値を信じられた。 だから私は、彼といると楽だった。 そして何より、寂しくなかった。 私は彼と出会ってからずっと、寂しくなかった。 彼がいなくなったら、私は一人になってしまう。 そんなのは嫌だった。 失うかもしれないと思った瞬間、そんなことにようやく気付いた。 「勝手に私の前からいなくならないでよ。馬鹿じゃないの。こんだけ世話かけておいて今更逃げようとしないでよ。あんたが死ぬなんて、許さないんだから!」 しがみついて泣きながら怒鳴ると、彼は不思議そうに目を丸くする。 なんで私が泣いているのか、分からないようだった。 「あんたは、黙って、ずっと私の傍にいれば、いいのよ!」 そう言うと、彼はどこか寂しそうに笑った。 「俺、犬になりたかったなあ。トーコちゃんの言うことだけ聞いて、トーコちゃんの傍にいても、許される、犬になりたかった。トーコちゃんに迷惑、かけたくないなあ」 タツヤ君は頭がいい。 壊れてしまっているけれど、賢いのだ。 自分の存在が私の迷惑になっているとおそらくは知っている。 私が疎ましく思ってることを、知っている。 知っているけれど私から離れることは出来ないし、知っているけれど理解することはない。 「トーコちゃん?何、トーコちゃん?」 だからこうやって抱きしめても、彼は不思議そうな顔をするだけ。 温かい抱擁なんてものは、彼は知らない。 彼が知ってる愛情表現は、彼をうつ痛みだけ。 「………」 結局私も、彼を壊した一人。 人間とするなんてうそぶいて、結局自分のために利用した。 自分が不幸になりたくないから、寂しくなりたくないから、一人になりたくないから、彼を利用した。 彼を玩具にして、弄んだ。 「あんたは、犬よ。私の犬。私が、一生飼うんだから!」 だから私は、ただ責任を取るだけだ。 私が壊した私の玩具。 それなら、私が最後まで付き合おう。 私は犬を飼っている。 馬鹿で間抜けで言うことを聞かない、壊れた駄犬が一匹いる。 律義で一途で健気でかわいい、大切な犬がいる。 |