「あ、あの白萩」 「はい?」 「つぼみがついてますね。あれ、確かこの前の手紙で書いてありましたね。残暑が厳しくて辛いけど、花が咲くのが楽しみだって」 ふと視線を向けた先にあった縁側に面した小さな庭。 初秋の夕暮れの中、楚々としたつぼみを身につけた木が目に入った。 絹さんは、眩しいように眼を細めて同じように庭に目を向ける。 「祖母が好きだったんですよ。だから、咲くのが楽しみで」 あ、そうか。 この前の手紙ってことは、この人が書いていたのか。 「………そうですか。咲いたところを見てみたいな。また、来てもいいですか?て、あ」 自然と、そんな言葉が口をついて出る。 言ってから自分の発言に驚いて、顔が熱くなって俯く。 いつもなら緊張するような、年上の美人。 それなのに、この人に対しては、なんだか久々に会った幼馴染のような、不思議な懐かしさと気安さを感じる。 親しみ、郷愁とかそんな感じのものなのだろうか。 だから思わず、そんなことを言ってしまった。 だが、絹さんはにっこりと笑って頷いてくれた。 「はい、是非。あ、ケータイ番号聞いていいですか?」 「あ、はい!」 快い承諾に、焦って俺は鞄の中を漁る。 つっこんだ手に、紙の束の感触を感じて、あ、と声を上げる。 「どうされました?」 「あ、いえ、えっと、赤外線でいいですか?」 「………私、実は分からなくて…、えっと、どうやればいいのかしら」 困ったように眉を寄せると、絹さんは一気に幼く見えた。 その焦ったようにわたわたと携帯を操る姿がかわいらしくてつい噴き出してしまう。 「………すいません、こういうの、苦手で」 「あ、す、すいません!あ、えっと、よければ貸してください」 「お願いできますか?」 笑ってしまったのをごまかすように、白く細い手から携帯を受け取る。 自分の使っているものとはもちろん機種は違うが、なんとなく適当に押していると赤外線の機能を発見した。 一瞬、手帳の中に男の名前はあるのだろうか、なんて邪念が生まれる。 すぐに振り払って、自分の携帯も操作し、赤外線通信を始める。 「えっと、ここをこうして、こうするとできます」 「あ、えっと、こっちで、あ、できた!」 「はい、これで俺の携帯番号が入っているはずです」 「はい、中津、中津、あ、あった!すごい!」 携帯から上げた顔を、口を開けて輝かせる。 落ち着いた大人の女性なのに、そんな仕草は存外子供ぽくて、本当にかわいい。 想像していた、いとさんのイメージに限りなく近い。 つい、少しだけ胸が高鳴る。 「最近の携帯はすごいんですねえ」 「次は、絹さん、え、いえ、えっと、その倉敷さんの携帯番号教えてください」 つい絹さんと呼んでしまって、俺は慌てて言い直す。 祖父にならっていとさんと呼んでいたから、その流れでつい名前で呼んでしまった。 恥ずかしい。 ますます顔が熱くなる。 電気がついてなくてよかった。 夕日の赤できっと、顔の色までは分からないはずだ。 絹さんは気にした様子なく、自然に返してくれた。 「絹でいいですよ、祖母と混じっちゃうし。で、えっと、こうですよね?」 「はい、それで大丈夫です。あ、今度は送信で、はい、そうです」 そうして、無事ケータイ番号の交換を終える。 一仕事終えて、ふっと絹さんが息をついた。 「じゃあ、今度メールしますね。もうすぐ花も咲くだろうし」 「はい、あ、うちも庭のキンモクセイがいい匂いなんですよ」 「素敵ですね。写メしてくれますか?匂いも写メできるといいのに」 「本当にそうですね。とりあえず姿だけでも………って、くっ」 頷いて、また俺は笑ってしまった。 絹さんはきょとんとして、俺を見つめる。 「どうしました?」 「いえ、なんか、おかしくて。ずっと文通してたのに、メールとかいきなり現代的で、違和感が」 「あ、ふふ、そういえばそうですね。これも、文通ですかね。メル友」 「時代は進化してますね」 「本当に、進化しすぎて、おばちゃんはもうついていけません」 おどけて言う絹さんに、二人して笑う。 それから俺は、先ほど鞄であたった感触を思い出しもう一度鞄に手をつっこむ。 取り出した上質の和紙の束を、絹さんに向けて差し出す。 「そうだ。いとさんの手紙、持って来たんですよ」 「あら、じゃあ、私も和真さんの手紙持ってくるんでちょっと待ってください」 手を合わせて顔を輝かせると、絹さんは綺麗な仕草で立ちあがって奥へ行く。 一人残された俺は、自然と辺りを見回す。 平屋の素朴な、悪く言えば古臭い家。 家具も年季の入ったものが多く、どっしりとした武骨な造りだ。 棚などには土産物なのかペナントや木彫りの熊など訳の分からないものが鎮座ましましている。 初めてなのに、どこか懐かしい匂いのする家。 庭から聞こえてくる夕暮れの街の喧騒。 ヒグラシの鳴き声、子供たちの笑い声、風が草木を揺らす音。 ぼうっと、そんなものに意識を奪われていると絹さんが戻ってくる。 手の中の、綺麗な和紙で作られた箱を机に置く。 同じく和紙の蓋を開けると、そこには色あせたものからまだ綺麗なものまで、手紙の束が整然と仕舞われている。 手紙だらけになった机の上、俺は自分の手紙の中から適当に一つ取り出す。 「えーと、これは一昨年の、冬ですね」 「ああ、祖母が書いていた頃ですね。その頃は私も祖母が文通してたなんて知らなかったです」 二人で身を乗り出して手紙を覗き込む。 絹さんの長い髪がさらりと肩から落ちると、いい匂いがして少し心臓が跳ねる。 邪念に気付かれないよう、俺は手紙にもう一度意識を集中させる。 それは流麗で、少し線の細い女性らしい字。 細やかな時候の挨拶と、体を気遣う言葉は、実際には一度も見ることが敵わなかったいとさんの人柄を忍ばせる。 きっととても、素敵な人だったんだろうな。 "和真さんはお孫さんから半纏をいただいたと仰っていましたね。 今年の冬の寒さは堪えます。さぞ温かいのではないかと存じます。 お孫さんは、本当に和真さんを大事に思っていらっしゃるようで私もいつも嬉しくなります。 私も先日孫が、携帯電話というものを買ってきてくれました。 私の体を心配してくれてのことですが、電話をかけるにも一苦労です。 便利かもしれませんが、逆に私のような人間には不便に感じます。 孫には悪いのですが、結局使わない気がします。" 「………おばあちゃん、こんなこと言ってたんだ」 「携帯あげたんですか?」 初耳だったようで、絹さんは少しだけむすっと頬を膨らませる。 祖父と祖母の手紙。 本当なら勝手に読むことはいけないのことなのだろうが、俺達に罪悪感はほとんどない。 彼らは頼めば普通に見せてくれたし、半分は自分の手紙のような気もしている。 「………この手紙のとおり、結局使ってくれませんでした」 拗ねた響きを潜ませる声音に、微笑ましくてつい笑う。 そうすると絹さんは目尻を染めて俺を睨んだ。 なんか本当に可愛い人だ。 「次に行きましょう、次に。えっと、これは、去年の冬頃」 「………俺が書き始めた奴ですね」 いとさんの手紙を見た後だと、自分の文字の稚拙さがよく分かる。 緊張が分かるような、震えた字、歪んだ語尾。 あの頃は精一杯じいちゃんの字に似せたつもりだったが、見返せば一目瞭然だ。 "段々と寒さが厳しくなってきました。小生の老体には少々堪える寒です。 貴女のお体に障りがないことを祈るばかりです。 さて、先日小生の次女の嫁ぎ先から大根をいただきました。 風呂吹き大根にしてたいらげたのですが、馬鹿な孫食べ過ぎて腹を下しました。 いつまで経っても子供のような孫で困ったものです。 貴女の優秀なお孫さんを羨まし思います。" これを書かされた時の屈辱が甦る。 どんなに抗議しても、じじいはこれを書けと言ってきかなかった。 結局もっと恥ずかしい過去の話にすると言われて、しぶしぶ書いたのだ。 あのくそじじい、あの世にいったら覚えてろよ。 しかし、それにしても。 「………へったくそですね、俺」 「いえいえ、立派なものですよ」 字が汚い上に、脱字が多すぎる。 誤字はかろうじてないようだが、精一杯書いてこれだ。 軽くため息をついて落ち込んでいると、絹さんは他のもう一通を取り出す。 「こっちは、去年の夏ですね」 「じじいが書いてた頃です」 やっぱり爺の字はどっしりとして、男らしい。 少しだけ語尾が跳ねる癖があるが、それすら魅力的に感じる。 くそ、じじいのくせに。 "暑い日々が続きますが、夏の太陽は生命を感じさせ生き生きとした緑が目に眩しいです。 先日、孫の和真が大学の同好会で海にいきました。 恋人を作ると意気込んでいたものの、結果は惨敗だった模様。 小生と違って情けない孫で、育て方を間違ったのかと後悔する日々です。" 手紙を握りつぶしたくなるが、これはいとさんのものだ。 そんなことはできない。 だから机の上でただ拳を握った。 「………じじい」 「ふふ」 「笑わないでください」 「和真さんの手紙は、和人さんのことばっかり。本当に仲がよかったんですね」 言われて、言葉を失う。 確かに、じじいの手紙は俺のことが書かれていることが多い。 だが直接言われると、照れくさいというか落ち着かない。 話をそらそうと、今度は俺の手紙の束から一通取り出す。 「えっと、これは今年の3月のですね」 「………祖母が亡くなる、直前のものです。この頃はもう文面も私が作っていたのですが、これは祖母の文章です」 「………」 それはぱっと見、先ほどのいとさんの字との違いはさっぱりわからない。 けれどどこかいとさんの字より線が太く感じた。 しっかりとして、芯の強さを思わせる。 "もうすぐ春になります。春は、河原の菜の花が、とても綺麗です。 菜の花を見る度、和真さんを思い出します。 学生の頃、一緒に帰った時に見た菜の花畑を覚えていますか。 もう今では遠い昔のこととなりますが、今でも鮮やかにあの黄色い花が脳裏に浮かびます。 あなたの学生服は、とても凛々しかった。私もまだ何も知らない少女でした。 二人でただ黙り込んで、家まで帰りましたね。 あの時に戻ってもう一度あなたと菜の花畑を歩けたら、今度はもっと沢山のことを話したい。" それは、じいちゃんがこの手紙を受け取った時に話してくれた、小さい恋の話。 時代もあり、女生徒と二人で歩くなんてほとんどなかった。 それがたまたま下校が一緒になって、ただ黙って家に帰った。 心臓の音がいとさんに聞こえるんじゃないかと、つい早足になってしまった。 いとさんの顔も、見れなかった。 そう、あのじじいが柄にもなく赤くなって照れていた。 いとさんと二人きりで過ごした、ただ一つの思い出。 また涙腺が熱くなるのを感じて、ごまかすように俺はおどけた。 あの時、最後に照れ隠しのようにそっぽを向いて言ったじいちゃんの言葉。 「………じいちゃんも言ってました。今の俺だったら、あそこで口説き落としてたって」 「ふふ」 絹さんが小さく吹き出す。 二人して、そのままくすくすと笑い続ける。 絹さんが手紙を眺めながら、目を細める。 「………春になったら、菜の花を見に行きませんか?そして沢山お話しましょう」 「そうですね。じいちゃんと、いとさんのことを」 「ええ、そして和人さんのことを」 「………はい、そして、絹さんのことを」 これから、どうなるのかなんてわからない。 絹さんのことなんて、何一つ分からない。 分かっているのは、ただいとさんの孫だと言うことだけ。 ずっと文通をしてきた人だということだけ。 だから、話そう。 菜の花を見ながら、白萩を見ながら、大根を食べながら。 語り尽くせぬ、多くのことを。 俺達は手紙の上の文字だけではなく、こうして顔を見て、出会ってしまったのだから。 縁側に目を向けると、白萩のつぼみが夕暮れの赤の中、鮮やかに浮かび上がっていた。 "あの時に戻ってもう一度あなたと菜の花畑を歩けたら、今度はもっと沢山のことを話したい" |