神崎がノックをすると、小さく応える声がした。 「どうされたんですか?」 ドアを開けると、麻生は机に向かったまま誰かを確かめずに問う。 買い上げた後に改装したのだろう、有川の部屋とその隣の部屋の二室はリビングに取り付けられた扉で行き来出来るようになっていた。 麻生が主に使用しているという隣の部屋は、大きな本棚と机の他には目につくもののない、殺風景な部屋だった。 「あれ、響ちゃんじゃないってわかったの?」 驚かせようと思っていた神崎が肩をすくめると、椅子を回転させて麻生が振り返る。 貧相な少女は制服からジーンズとゆったりとしたシャツに着替えていた。 お下げと眼鏡はそのまま、やはり飾り気のない地味な少女は女性らしい微笑みを浮かべている。 「響はノックしませんし、それに響だったらわかります」 「相変わらず、すごい愛だね」 「ええ、私は響を愛していますから」 呆れたように苦笑する神崎に、悪びれることなく麻生はうなづく。 その臆面のない言葉に、神崎は今度こそ溜息をついた。 「それで、どうされたんですか?」 「あ、そうそう。ご飯できたって」 「ああ、ありがとうございます。すいません、後でいただきます、と伝えてください」 「一緒に食べないの?」 「今はキリが悪いので」 PCに向かって何かしていたのか、麻生が顎で机を軽くさす。 神崎はそちらを見て、そして部屋を改めてぐるりと見渡す。 天井まで届くような本棚にぎっしりとつまった本は、経営学や経済学、トレーディング、各種専門書などが並び、およそ思春期の女の子らしくない。 余裕のある大きな机には2台のPCと1台のノートと周辺機器が置かれ、まるでオフィスのようだった。 それを仰ぐように眺めて、神崎は感心したように息をつく。 「すごいね。SOHOみたいだ」 「そんな立派なものでもありませんよ。使いこなせませんし」 「家ではずっと勉強?」 「そんなこともありませんけど、まあ、勉強はしてます。まだまだ至りませんが」 謙遜もせず、ただ事実のみを述べる。 麻生にとっては勉強をすることは誇示することでもなんでもないのだということがわかる。 「はあ、麻生の家を継ぐのも大変だね」 「私はそんなに出来がよくありませんから。その上女。足りないぐらいです。今は好きにさせてもらってしまっているし」 「出来た答えだなあ、本当に優等生だね」 「自分で選んだ道です。為すべきことを為すだけ。私はそれをするためにいるんですから」 部屋の中には、麻生のプライベートがわかるようなものは何もない。 ただ、無機質なものに囲まれ、そこで機械のように義務を果たし続ける少女。 神崎は細い切れ長の目をさらに細めて、麻生を見下ろす。 「そんなに、響ちゃんが大切?」 「どういうことですか?」 「全部全部、響ちゃんのためでしょう?」 「麻生の家を継ぐことですか?いいえ、それは私のためですね」 椅子に座ったまま神崎を見上げる麻生。 眼鏡の奥の目は静かで、感情の動きは見えない。 神崎はどこか意地悪そうに笑うと、次の質問を続ける。 「じゃあ、響ちゃんが家を継ぎたいって言ったら?」 「響がそんなこと言うとは思いませんけど」 「仮定の話だよ、仮定の話。IFの世界」 「仮定ですが。そんなどうにもならない話、面白くもなんともないでしょう」 「そう?面白いよ。可能性は無限大だからね。ね、そうしたらどうするの?」 諦める様子のない神崎に、麻生は珍しく嫌そうに顔をしかめる。 仕方ないといったように、小さくため息を漏らした。 それでも視線を一回下に向けると、思考を巡らす。 「そうですね………」 少し考えて悪戯ぽく笑うと、もう一度神崎を見上げた。 「やっぱり私が継ぎますね」 「おや、響ちゃんの希望は聞いてあげないの?」 「聞きますよ。でも、今の麻生を継いでも響にいい環境ではありませんから。私が先に継いで響の反対勢力をひきつれて、まとめて失脚します」 にこにこと笑って言い切ると、神崎は一瞬黙り込む。 そして心底嫌そうに顔をしかめた。 「うわあ、末期だね。ひくわ」 「それほどでも」 本当に一歩後ずさる神崎に、麻生は礼を言ってみせる。 その態度に、神崎はやはり嫌そうな顔をした。 更に自分でもしつこいと思うくらい先を続ける。 神崎自身、つっかかりすぎだと分かっていたが、止められない。 「でもそんな自己犠牲みたいなことをしたら、響ちゃんは気にするんじゃないの?優しい子だから心を痛めるでしょ。君の独善的な独りよがりの優しさで彼を傷つけるの?」 「ええ、きっと痛めるでしょうね。傷つくでしょう」 応えて麻生は真剣な顔で頷く。 質問の応酬を、どこか楽しんでいるかのようにも見えた。 「でも、響は麻生を継ぎたいなんて言いませんから。痛めることも傷つくこともありません。何もなりません。だから仮定の話は終わりです」 「なるほどね」 納得したように苦笑して、そして更に質問を重ねる。 何を期待しているのか、どんな答えを求めているのか、神崎にも分からない。 「でも、響ちゃんのために麻生を継ぐのは自己犠牲じゃないの?それは響ちゃんは傷つかないの?」 「先ほども言ったでしょう?私は私のために麻生を継ぐんです」 「君が麻生を継ぐことに、それほどのメリットがあるの?」 「権力もお金も、誰だって欲しいものでしょう?私は器量も性格もよくないし、麻生の権力でも使わないと結婚もできません。それに私、支配欲が大きいんですよ。親の七光りで人の上に立てるなんて幸運です」 そこまで来て、溜息をついて神崎は両手をあげた。 「降参です」 「終わりですか?」 相変わらず女性らしい微笑みを崩さないまま、麻生は首をかしげる。 神崎は最後にひとつだけ、と、距離を詰めた。 麻生は視線を合わせることでそれを許可した。 長身をかがめて、神崎は座り込んだ麻生の耳元で内緒話のように囁く。 「ねえ」 「なんですか?」 「それは、負い目?」 吹き込まれた言葉に、麻生は動かなかった。 麻生の表情から目を離さないまま、神崎はゆっくりと体を離す。 少女は眼を伏せて、質問には答えず問い返す。 「神崎さんは、家を継がないのかしら?」 はぐらかしたような麻生に、神崎はけれど何も言わなかった。 質問に対して、自然に答えを返す。 「俺は兄さんがいるからね」 「でも、神崎のご当主はあなたに期待を寄せてるらしいですね」 「根も葉もない噂だね。兄さんはとても優秀だし、俺は面倒くださいこと嫌いだし」 「それは、負い目ですか?」 試すようにまっすぐに、眼鏡の下の目が神崎を見つめている。 けれど神崎も表情に揺らぎを見せずに穏やかに笑う。 「いいや、ただの我儘さ」 「加奈さんに、響と深い仲になってもらっては困る?」 会話が、途切れる。 微笑みが、二人から消えていた。 そのまましばらくお互いを探るように、見つめあう。 先に引いたのは、神崎だった。 ふっと軽くため息をつくと、また穏やかに笑う。 「分かった分かった、これくらいにしておこうか」 「そうですね、その方がお互いの心の健康のためにいいかもしれません」 「本当にかわいいなあ」 「それはありがとうございます」 皮肉をそのまま受け止めにっこりと笑う麻生。 痩せぎすで貧相なその体は、しかししなやかで折れにくい意志を感じる。 神崎は、自分の従妹との違いを思い浮かべながら、麻生の座る椅子の背もたれをつかむ。 麻生は自然と腕の中に囲いこまれるようになる。 「ねえ、ショウちゃん?」 「…………」 「どうしたの?」 「いえ、なんでもないです」 一瞬黙り込む麻生に、不思議そうに覗きこむ。 しかしゆるく首を振ったので、そのまま神崎は先を続けた。 「ショウちゃんには、やっぱり興味があるな」 「あら、私の魅力を感じ取っていただけた?」 「うん、たっぷりね。だからデートしようか?」 「………は?」 「うん、デート」 珍しく麻生は驚いたように口を開き眼を丸くして、間抜けな声を出す。 神崎はその反応に気をよくしたように、にこにこと笑う。 「どこか行かれるんですか?」 「別にどこに行ってもいいけど、行かなくてもいいよ。室内でも。うわ、ちょっとエッチだね」 「本気ですか?」 「大マジだけど」 神崎が何かを企んでいるのかと、真意を探るように麻生は至近距離の細い眼を覗きこむ。 けれど神崎は邪気なく子供のように笑っている。 「なんでまた」 「どうもこうも、女の子をデートに誘うなんて理由はひとつでしょ?」 「なんですか?」 「下心!」 指をぴしっと一本たてて神崎が言い切ると、室内には一瞬沈黙が走った。 間抜けな顔をして黙り込む麻生。 その顔を機嫌良さそうににこにこと神崎は見つめている。 一瞬の後、麻生はたまらず吹き出した。 楽しそうにころころと笑う。 「ふふっ、そうですね。下心、ですか。わかりやすいわ」 「そうそう。俺はかわいい女の子に目がない男だから。下心たっぷりさ」 「あら、ドキドキしてしまいます。わかりました。いつでも誘ってください」 「うん、じゃあ楽しみにしてて」 「ええ、楽しみにしています」 そこで、会話は終わりだった。 神崎は麻生を解放して、身を引く。 麻生は座ったまま、神崎へ退室を促す。 「それじゃ、響の料理が冷めてしまいます。早く召し上がってください」 「うん、ショウちゃんも早くおいでね」 「ええ、ありがとうございます」 そのまま麻生は神崎が隣室へ消えるまで見送っていた。 ドアが閉まるまで、ずっと。 |