夜も更けて、麻生が隣室へ足を向けるとそこはとんでもない惨状が広がっていた。

リビングのソファには酒の空き瓶がゴロゴロと転がっており、投げつけたのかあたりにクッションだの雑誌だのが散乱している。
その中心地に赤くなって転がっている有川と、それにひっついて幸せそうに眠っている加奈がいた。

「……これは……ひどいですね」

思わず、と言ったように漏らす麻生。
一人せっせと空き缶などを片づけていた吉川がすまなそうに眉を下げる。

「ご、ごめん、止めたんだけど」
「ああ、別にかまいませんよ。片づけるのは響だし」

さらりとひどいことを言って、麻生は床につっぷしている兄に目を向ける。
ぴったりとくっ付いているかわいらしい少女にも視線を移しちらりと苦笑した。
そして、吉川と一人ソファで酒を飲み続けている神崎に声をかけた。

「でも、このままだと風邪ひいてしまいますね。とりあえず響、病み上がりだから運ぶの手伝ってもらえますか?」
「はいはーい」
「ああ」

調子よく返事をして神崎が立ち上がると、手前にいた自分の従妹に手をかける。
腰をつかんで持ち上げるが、しっかりと有川のたくましい腕にひっついた加奈は離そうとしない。

「お、頑張るな。よっと」

おっさんくさく掛け声一つ、従妹を持つ腕に力を入れる。
しかし加奈は起きもしない上に、有川にひっついたままだ。
ぶらぶらと神崎に持ち上げられたまま、腕だけは接着剤でくっついたかのように有川から離れない。

「………すごいな」
「すごいですね」
「……本当に起きてないのか?こいつ」

何度もゆすっても、引きはがそうとしても、加奈は有川から離れない。
いくら軽いとは言え、人一人抱えていた神崎はさすがに疲れて一旦従妹を元の場所に戻す。

「困りましたね。加奈さんは風邪とかひかなそうですけど、響はこう見えて体弱いんですよ」
「………えーと、いや、まあ、確かに加奈ちゃんは風邪ひかないけどね」
「神崎さんどうにかしてくれません?響がまた熱をぶり返してしまうわ」

あくまで自分の兄のことしか言わない麻生になんとも言えない顔をして、神崎は少し考え込む。
そしてダイニングの椅子ににかけてあった響のエプロンを取ってくると、それを加奈の前につりさげた。

「ほ〜ら、加奈ちゃん。響ちゃんはこっちだよ」

すると、加奈は眠ったまま、エプロンに飛びついた。
今日の夕食のハンバーグと響のにおいが染み付いたエプロンに頬を擦り寄せとろけるように微笑む。

「まあ、一本釣りですね」
「………本当にうまくいくとは」
「………本能で生きていると言うかなんというか」

楽しそうにコロコロと笑う麻生と、複雑な顔で加奈を見つめる神崎と吉川。
ともあれようやく有川から加奈を引きはがずことに成功した三人は、有川をその隙に寝室に運ぶ。
実質運んでいたのは神崎と吉川で、麻生はそれを当然のこととしてただ見ていた。
筋肉質で長身の有川の体を細身の神崎と小柄な吉川が額に汗しながらなんとか寝室に運ぶ。
運び終えた時にはクーラーの効いた室内でも汗ばみ、二人の息は上がっていた。

「終わった……」
「お疲れ様です、それじゃ」
「ま、まだあるのか」

小柄な吉川はよりダメージが大きく、ソファに座り込みぐったりしている。
それを見て麻生はくすくすと笑うと、まだ比較的元気な神崎に話しかけた。

「さて、後は加奈さんですけど、神崎さん」
「はいはい?叶ちゃんでいいよ」
「いえ、結構です。加奈さんをあちらの部屋に運んでくださいます?」
「あっち?」
「ええ、こちらと同じ間取りで同じ部屋に私の仮眠室があります」
「ああ、わかった」

物わかりのいい返事をすると、リビングの床に転がっていた従妹を軽々と持ち上げた。
従妹を見つめる顔はいつもの胡散臭いものではなく、どこか安らいでいる。
その様子をじっと見ていた麻生に気付いて、神崎は話を変えるように問いかける。

「あれ、でもそうするとショウちゃんはどこで寝るの?」
「ああ、私はいつも響の隣で」
「…………」
「…………」

平然と返された言葉に、神崎と吉川は思わず黙り込む。
二人が見た響の寝室は、ベッドは一つしかなかった。
隣ということは、さすがに床で寝ると言うことではないだろう。
確かにベッドはクイーンサイズほどの大きさがあった。

言葉を失った二人に、麻生は漸く自分が何を言ったか気づいた。
口元に手をあてて、小首を傾げると長いおさげが肩から落ちる。

「そうでした。これも変でしたね。考えた方がよさそうだわ。今は保留でお願いします」
「はい、分かりました」
「…………ああ」

行儀のいい返事を返す神崎と、口の中に何か含んだようにもごもごと答える吉川。
吉川の首筋はうっすらと赤くなっていた。
麻生は二人の反応を無視してにっこりと笑うと、再度神崎を促した。

「ではお願いします」
「はーい」

小さな従妹を再度抱え直すと、神崎は隣室に消えていった。
残された麻生は床に転がる空き瓶を持ち上げると、小さくため息をついた。

「ああ、叔父様の大事なカミュまで」
「………ごめん」
「吉川君が謝らなくても」

叱られた子犬のように眉を下げて肩を落とす吉川。
その反応に麻生は楽しそうに声をあげて笑った。

「大丈夫です。叔父は響には甘いから」
「そっか………」
「気にしないでください」

それでも加奈と神崎の暴走を止められなかったことを気に病んでいるのか、吉川の顔は浮かない。
麻生はふっと、視線をそらすと神崎が先ほどまで晩酌していたテーブルの上の瓶を持ち上げると中身を確認するように揺らす。
ちゃぷちゃぷと音を立て、僅かばかり残った酒が存在を主張した。

「私もちょっといただこうかしら」
「お前、それより飯食ってないだろ。食べるか?」
「ああ、そうね。忘れてた」
「飯を抜くと体によくないぞ。お前ただでさえガリガリなんだから」

標準よりははるかに細く華奢、というよりは貧相と言った方がいいような麻生の体をさして吉川は表情を改める。
諭すように言うその言葉に、嫌みの響きはない。
ただ純粋な心配とおせっかいの色が見えた。
麻生は思わず酒瓶を抱えたまま、目を丸くして吉川を見つめる。

「なんだよ」
「本当に、吉川君はいい人ですね」
「だから、褒め言葉じゃない」

いい人、と言われるのに慣れている吉川はその言葉に渋面を作る。
ほとんどがそこには嘲笑を含んでいて、そう言われるのは好きではない。
高校生男子としては、いい人と言われる人間にはなりたくないものだが、性分はなかなか変えられない。
麻生は小さく首を傾げると柔らかく微笑む。

「じゃあ、優しい人です」
「それも褒め言葉じゃない」
「そうですか?私は憧れますけど、優しい人。私はなれません」

なんとも返答しづらい反応を返す麻生に、吉川は黙り込んだ。
まっすぐな褒め言葉に礼を言うべきか、最後の言葉をフォローするべきか。
なんと言ったらいいのか少しばかり考え込んで、小型犬を思わせる小さな少年は全く別なことを口にした。

「とにかくな!飯ぐらい一緒に食え!電気代ももったいないだろう!」
「………すいません。気を付けるわ」

くすくすと心底楽しそうに麻生は笑う。
吉川は少しばかり白い頬を赤く染めると、さらに麻生は女性らしく優しく表情を和らげた。

「でも、響があんな人前で安心して眠るなんて。よほど楽しかったようね」
「楽しいというか………。貴島に無理やり飲まされて倒れたというか」
「響が本当に嫌だったら、別の意味で倒れます。ストレスに弱いから」
「………お前って、甘いんだかきついんだか」
「愛ですよ、愛」

珍しく悪戯ぽく麻生は唇の前で人差し指をたてる。
そうした仕草は大人ぽい冷静な少女を少しばかり年相応に見せた。
兄の話をする麻生は、やはりどこまでも優しい、穏やかな表情を見せる。

「でもよかった。本当に楽しそうで。もう少ししたら、きっと私がついていなくても一人でも平気になりますね」

赤くなってつっぷしていた兄を思い出し、麻生は目を伏せる。
笑顔をずっと崩さない少女を見つめて、吉川はなんとなく思いついたことを告げる。

「………もしかしてお前、わざと飯一緒に食わなかったのか?」
「あら、なんで?」
「自分がいると、場の雰囲気を壊すとか思って」
「そこまで気を使える人間じゃありませんよ。単にやることがあったんです」

そこには特に嘘をついているような戸惑いや焦りはない。
ただ、静かに柔らかな表情を見せていた。
少女は女性らしい柔らかな表情をするくせに、その眼はどこか強く存在感がある。
麻生は何も言っていない。
けれど、吉川はそれが答えなのだと思った。

「……お前って、本当に有川が好きなんだな」
「ええ、愛しています」
「………でも、会長の言うように、なんか、変だな」

何を言っているか、というように首をかしげる麻生。
吉川はそっと視線を逸らして、言葉を探すようにピンク色の唇をちらりと舐める。

「……だって、兄妹でそこまで無償の愛ってないだろ。いや、兄妹じゃなくても、そこまで相手に尽くせないだろ」
「尽くしてなんかいませんよ。私は私のために行動してるんです。響を愛しているんです。響のためになるなら、それが私の幸せ。響が喜ぶことをしている、そんな自分が好きなんです」
「…………なんか、辛いな」

やはり、躊躇いもなく、さらりと返す麻生。
そこには本当になんの迷いも感じられなくて、吉川は訳も分からない感情で胸が締め付けられるのを感じた。
痛みを伴い、口の中が苦くなる。

「何がですか?」
「なんか、お前見てると、…………さみしい」

その感情をなんと言ったらいいのか分からなくて、吉川はそう表現した。
本当はもうちょっと違う感情なのかもしれない。
けれど、一番近い感情が、それだった。

少し考える。
何が、そう感じるのか。

ただ、有川のためと言って行動する麻生。
それは、どこまでも健気で、私心はない。
例え自分が悪者になろうが、関係ない。
ただ、ひたすら、有川のために。

けれど。

麻生は、人の言うことを聞いているようで、聞いていない。
有川を愛しているようで、有川の感情すらきっと無視している。
独りよがりの無私の奉仕。
少しだけ触れた麻生の感情は、そんな風に吉川には感じられていた。

それを口にしようとするが、しかし麻生は艶やかに笑った。
決して美人でもなく、外見は女性らしい丸みや柔らかさは伴わない。
けれど、どこまでも女を感じる麻生の笑顔。

「それは口説き文句かしら?慰めてみたい、とか続けてくれるのかしら?」

からかうようなその言葉に、吉川はしばらく黙りこむ。
そして、すぐに耳まで真っ赤にした。

「ばっ!そんなわけないだろ!!!誰がお前なんか!!」
「あらひどい、傷ついたわ」
「あ、そうじゃなくて」
「そうですよね、私なんて加奈さんに比べたら月とすっぽん、ダイアモンドと石炭です」
「いいや、だから!」

傷ついたように眉間に皺を寄せ、口元を片手で覆う。
本当に悲しげに声を低くする麻生に吉川は慌てて、手をふって言い訳をする。
そこに従妹を運び終えた神崎が帰ってきて興味深々に張り込んでくる。

「どうしたのー?何盛り上がってるの?」
「吉川君にお前なんて女じゃないと言われてしまいました」
「うわひど、ヨッシー!女の子に言う言葉じゃないね!」
「ええ、ええ、傷つきました」
「だから違いますってば!!!麻生も!そんなこと言ってねーだろ!!」

普段は仲が悪そうになのに、こんな時だけ息のあった調子で吉川をからかう二人。
吉川は口が達者な人間に挟まれて、顔を真っ赤にした。
そして、話を打ち切るように麻生に指を突き付けた。

「いいからお前は飯を食え!倒れるぞ!酒は飲むな!体に悪い!」

子犬のような少年をからかっていた麻生と神崎は、顔を見合せて思わず、と言ったように噴き出す。
どこまでも人のいい少年に、表情を和らげる。

「本当に、吉川君って優しい人ですね」
「所帯じみてるけどね」
「会長はうるさいです!」
「生意気だなー、慎二君」
「う、いたたたたた!や、やめてください!!」

捕まえられてヘッドロックを喰らわせられると、吉川は情けない叫び声をあげた。
その細く高い悲鳴を聞いて、麻生はまた、屈託のない笑い声をあげた。





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