加奈はその日、鬱蒼とした林に包まれる閑静な日本家屋に足を運んでいた。 正確に言えば、その中にある、道場に。 生徒会メンバーに、麻生の身辺を探らせる指示を与えた後、加奈はすぐにこちらへきていた。 昔から有川を知っているという、押上に会い話を聞くために。 有川と麻生の仲は、どう考えても今日や昨日のものではない。 全力で認めたくはないが、深く長い付き合いがあるのは、さすがに想像できる。 それならば、押上も知っているかもしれないと思ったのだ。 ついでに道場に来ている有川のあんな姿やこんな姿をみることが出来れば言うことはない。 一石二鳥な、その作戦は、加奈を奮い立たせるものだった。 道場の中は相変わらず閑散としていた。 数人の人間が、広々とした道場で稽古をしている。 加奈はまず有川の姿を探したが、見渡すまでもなく見当たらない。 あの長身の少年の姿は、どんな時でも加奈の目に一番に入ってくるのだから。 「あ、加奈ちゃんいらっしゃーい」 それでもキョロキョロと辺りを見渡していると、そんな声がかけられた。 明るく、朗らかで響く声。 加奈が声の方向を見ると、壁際に道着を身に着けた押上の姿があった。 大きな体を、朗らかな笑顔。無精ひげを生やし、その姿はクマと形容するにふさわしい。 加奈は無言でそちらへ向かう。 にこにこと笑いながら迎える押上。 そして、加奈は無言で腕を振りかぶると、無言でその顔に殴りつけた。 「いっでー!!!何すんだよ、いきなり!加奈ちゃんの拳はマジで痛いんだって!」 突然で理不尽な攻撃に、押上は抗議の声を上げる。 もっとも、加奈の攻撃には手ごたえがなく、やはり押上にはダメージがなさそうだ。 そんなところも腹立たしく、加奈はもう一発殴ろうと拳を振り上げる。 けれど押上はやんわりと、しかし強い力で加奈の拳を下ろさせた。 「何よ、なんなのよ、俺なんかしたっけ?」 「あの女よ!あの女!あの女なんなのよー!!!」 「え、あ、あれは違う!あの娘とはちょっとご飯を食べただけで、う、浮気とかじゃ」 「やかましい!誰があんたの女性関係聞いてんのよ!」 「え、違うの!」 「そんなもん興味ないわよ」 ひどい、と傷ついた顔を見せる押上を見せるを綺麗に無視して、押上の道着の襟元を掴みかかる。 自分の半分しかないような少女に掴みかかられ、押上は子猫にじゃれられるような困った笑顔を見せる。 「あの女よ!麻生韶子よ!」 「うあ…………」 その名を聞いて、押上は天を仰いだ。 明らかに、その名を知っている反応だ。 「なんなのよ、あの女。馨ちゃん知ってるの!?」 「あちゃー…、やっぱ出てきちゃったか。せっかくひーちゃんに彼女が出来るいい機会だと思ってたんだけどなあ」 「やっぱり知ってるのね!?」 襟元を掴まれ揺さぶられ、強面をなさけなくゆがめる押上。 「いや知ってるつーかなんつーか……」 「なんでもいいから教えなさい!あいつの正体とか、弱みとか、弱点とかー!」 「いや、最後の二つは一緒……」 加奈の興奮が頂点に達し、押上が小さく突っ込みを入れた瞬間。 「そんなことがお知りになりたいのかしら?」 どこまでも女らしい、穏やかな落ち着いた声が割って入った。 何よりも癪に障る声が聞こえ、加奈は顔をゆがめてそちらを向く。 そこには相変わらず柔らかな微笑を浮かべた、やせぎすの眼鏡の少女がいた。 「現れたわね!麻生!」 「こんにちは、加奈さん。馨さんも、ご無沙汰しております」 「あー……、お久しぶりー……」 「ご健勝そうでなりよりです。勝手にお邪魔して申し訳ございません。」 押上の襟からようやく手を放し、突然の闖入者に指を刺す加奈。 困った、というより苦い顔をして、手を振る押上。 いつも朗らかな、彼らしくななくため息をついて三つ編みの少女に向かいあう。 「……なにか、御用かな麻生さん」 「そうよそうよ!何の用よ!」 明らかに歓迎されていないその様子に、しかし麻生は動じる様子はない。 「響のことで」 いつかと全く同じことを言って、穏やかに微笑む。 有川の名前が出たことで、加奈は更に頭に血が上る。 わたしだって名前呼びしてないのにー!!!! 「本日はこちらをお休みさせていただきます」 「おや、どうしたの?」 「少し体調が優れなくて」 「ええ!?」 その言葉を聞いて、加奈が怒りを表情から焦りの表情に変わる。 いつも強くて、穏やかで優しい有川。 あの日倒れた有川の苦しげな様子が、あれから加奈の脳裏を離れない。 「………そっか。もうすぐか」 「ええ、だから近頃不安定で。しばらく休むかもしれません」 「……分かった。親父にも言っておくよ。ひーちゃんによろしく言っておいてくれ」 「はい、ありがとうございます。響は押上さんと馨さんを信頼していますから、これからも響をお願いいたします」 そうして深々と頭を下げる。 隙なく、そつのない優雅な身のこなしで。 押上は相変わらず堅い表情だったが、武道家らしいきびきびとした動きで礼を返した。 「ねえ、有川、どうしたのよ!?」 蚊帳の外だった加奈は、麻生の腕をとり、心配げな表情を見せる。 2人の会話の意味は分からない。でも有川のことを言っているのはわかる。 有川が苦しんだり、悲しんだりするのは、いやなのだ。 突然腕を取られた麻生は、一瞬驚いた顔を見せる。 しかしすぐに、いつもの能面のようではない、有川に見せるような優しい笑顔になった。 「響を、心配してくださるのね」 「心配よ!ものすごい心配!どうしたのよ有川!」 「響は大丈夫よ、ちょっと季節の変わり目で風邪を引いただけです」 「本当!本当なの!?」 「ええ、ありがとう加奈さん」 それは本当に、柔らかく優しい微笑み。 加奈は、その表情に面食らう。 いけすかない女が、心から礼を述べている。 「……なんであんたに礼を言われなきゃいけないのよ」 「響を想ってくださって、ありがとう」 心から礼を述べているのは分かる。 けれど加奈は、その礼を素直に受け取ることはできない。 むしろ癪に障った。 「なんであんたに有川のことで礼を言われなきゃなんないのよ!」 「あら、響は私の大事な人ですもの、礼を言うのは当然でしょう?」 「響響言うな!有川はあんたのものじゃないでしょ!」 「あら」 くすくすと、心から楽しそうに笑う。 しかしそれは、先ほどとは打って変わってどこか底意地の悪いもの。 「響は、私のものよ?」 「何ほざいてくれちゃってんの、この女ー!!!!」 思わず掴みかかろうとする加奈を、押上が後ろから押さえた。 「まーまーまーまー、加奈ちゃん落ち着いて落ち着いて」 「放して馨ちゃん!しめる、絶対しめるー!!!」 その様子を見て、麻生は更に楽しそうに笑う。 どこまでも女性らしく上品な笑い方に、加奈は腹が立って仕方がなかった。 「響も、加奈さんに好意を抱いているわ、これからもよろしくお願いしますね」 「あんたに言われると激しくむかつくー!!!」 「それは残念」 「その余裕がむかつくのよー!!!!」 響が自分のものだと見せ付けるような態度。 そして、これほど敵意を持っている加奈をまるで歯牙にかけず、子供をあしらうような扱いが、敗北感を抱かせた。 つかかってきてくれれば、まだしも好意をもてただろうに。 「あんたきらいきらいきらいー!」 「加奈ちゃん、それじゃ子供……」 後ろから押さえつけられたまま、そこれそ駄々っ子のように足をバタバタと暴れさせる。 押上が放せば、本当に掴みかかりそうだ。 麻生はそれでも動じず、にっこりと笑った。 「私は、加奈さんが嫌いではありませんけどね」 「むがー!!!!」 いよいよ腕を振り払おうと力を入れた加奈を更に押さえつけ、押上は顎で麻生を促す。 「あー、これ以上逆撫でしないでよ。うちは道場です。場外乱闘禁止ー」 「放して!放してー!!」 「そうですね、これではこちらに迷惑をかけてしまいそう」 「分かってるなら早く帰ってーお願いーうちの道場が壊されちゃうー」 「了解しました」 口元を押さえて一つ笑うと、麻生は頭を深々と下げる。 「それでは失礼いたします」 「ああ、じゃあね」 押上が片手をひらりと振ると、もう一度だけ軽く会釈して麻生は立ち去ろうとする。 しかし、その直前でふりかえると加奈に声をかける。 「ああ、加奈さん」 「あによ!」 「私の弱点知りたいんですっけ?」 「知りたいわよ!絶対しめるー!!!」 「響です」 「え?」 「私の弱点は、響です。私にダメージを与えたいなら、響を叩くといいわ」 「ん、なこと、できるわけないじゃない!」 意外な言葉に目を丸くする加奈に、立ち去り際に麻生は綺麗な微笑を見せた。 「だから、私は加奈さんが好きだわ」 「なんで殴らせてくれなかったのよ!」 「いや、素人さん殴らないでよ」 「一発、一発でよかったのにー!!!」 「どーどーどーどー」 暴れ牛をなだめるように、押上は加奈の激情を抑えようとする。 そして、無精ひげをぼりぼりとかくと、ため息をつく。 「相変わらず変わらないねー、あの娘は」 その言葉には、どこか苦々しいものが混じっている。 「あんたもそんな態度とることあるんだ」 「え?」 「まあ会うのが2回目だけどさ、とりあえず誰にでも愛想のいい男に見えたから」 そういわれて、押上は苦笑を浮かべた。 「あ、そんな態度出てた?」 「ばっちり」 「俺、あの娘苦手なんだよねー」 「当然の感情ね」 深く頷いて同意する加奈。 その様子に、押上は苦笑を深める。 「悪い子じゃ、ないんだけどね」 「どこがよ、悪いとこだらけだよ、むしろ悪いところしか見当たらないわよ」 「加奈ちゃんに言われちゃおしまい…」 「何か言った!?」 「いいえ、何も言ってません」 するどい目つきで睨みつける加奈に、急いで頭を振る押上。 ふん、と鼻を鳴らして、加奈は再度押上に向き合った。 「それで、あの女なんなのよ」 「何って?」 「有川とどういう関係よ」 「見たとおりの関係だよ」 どこか煙にまくようなその態度に、加奈は再度沸点に達しそうになる。 「どういうことよ!」 「響の行動の、絶対的決定権を持つ人間、てとこかねえ」 飄々とした口調だが、相変わらず表情は苦々しい。 加奈は言葉の意味が図りかね、首を傾げる。 「どういうこと?」 「んーとね、ひーちゃんはこの道場が大好きだよね」 「うん、すっごい好きよね。格闘バカ一代」 「うわあ、言っちゃった。うん、まあ大好きなんだよね。だけど、もし麻生さんがひーちゃんに『道場に通うのをやめて頂戴』って言われたりすると」 「………有川は従うのね」 「あっさりね。すべてを諦めて」 押上の言うことは理解できた。 あの日、生徒会で麻生に『やめろ』と言われた有川は戸惑いは見せたものの、ためらうことはなかった。 即座に意志に従った。 『響は私のものよ』 そう言った、麻生の女性らしい微笑が、加奈の脳裏をよぎる。 「そういうこと。ひーちゃんは彼女に逆らうことは絶対にない。そして、それを疑問にも思っていない」 「なにそれ、ありえないでしょ!」 「ありえないって言われても、昔からそうだからねえ。高校では接触がないって聞いてたから、意外に思ってた」 そういえば、先日押上が学校で有川が1人でいると聞いた時、驚いた表情をみせていたことを思い出す。 あれは、麻生が有川に接触を持っていないことに、驚いていたのだ。 「なんで早く言わなかったのよ!」 「迷ったんだよね、言おうかどうしようか。でもいないって言うならそれでいいかなあ、とも」 「最初から知ってたら知ってたらー!」 「……どうにかなった?」 興奮する加奈に、しかし押上は静かに問いかける。 その言葉に、加奈は言葉につまった。 最初から知っていたとしても、麻生の有川に対する支配力に対抗できる準備が出来たとは、思えない。 しばらく考え込んでから、らしくなく肩を落としてため息をつく。 「………結局、あの2人はどういう関係なのよ」 「2人が話してないなら、あんまり詳しいことは言えないんだけどね」 「………」 「ひーちゃんのためにも、加奈ちゃんの存在は必要だと思う」 「………」 「加奈ちゃんなら、あのどでかい壁を越えることもできるでしょ、力づくで」 「力づくでやっていいの」 「いや、本当に力づくはやめて」 「どうしたらいいのよ」 「そこは愛の力でしょ、愛の力」 珍しく心細げな加奈に、押上はようやく朗らかな微笑をうかべた。 そんな、ふざけたことを言う。 「加奈ちゃんの愛の力で、ひーちゃんに別の世界を見せてあげてよ」 「…………」 「大丈夫、ひーちゃんは加奈ちゃんのこと好きだよ」 その言葉はふざけていて、軽くて、くだらなかった。 けれど、加奈は少し落ち込んでいた心を浮上させる。 愛の力。 その言葉は、なんとなく気に入った。 「……やってやるわよ、絶対。有川の目を覚ましてやる!」 「その調子その調子。ひーちゃんもその意気で押したおしちゃえ!」 「うん、やるわよ。気弱になってなんかられない!あんたは大して役にたたなかったけどね」 ひどいなあ、と言いながらも調子を戻した加奈に、押上は目を細める。 へこみやすいが再燃も早い加奈は、すでに最初の時のような闘志に目を輝かせている。 「でもね、加奈ちゃん」 押上は目を細めたまま、小さな声でつぶやいた。 「麻生さんは、悪い子じゃ、ないんだよ」 |