「………」 その日、新堂が年上の旧友の元へ訪れると、古い洋館の主は沈痛な面持ちで応接間のソファに座っていた。 仕事を息子に譲り渡してからめっきり丸くなった男には珍しい、難しい顔だった。 「よお」 「………ああ、いらっしゃい」 以前は常に張り詰め厳しい色を浮かべていた顔は、今ではすっかり柔和な皺を刻んでいる。 年若い友人の訪れに、疲れた顔をわずかに緩ませた。 もう20年以上にもなる付き合いに、遠慮やへだたりはない。 「どうしたんだおっさん?」 「………」 近寄って聞くと、柏崎耕介は無言で綺麗なブルーの便箋を差し出してきた。 ソファの前のテーブルには、同じ色の封筒が置かれているl その封筒と便箋は見覚えがある。 「お、守からの手紙か?どうしたんだ?」 たまに自分の元にも送られてくる、柏崎の養い子からの手紙だ。 目に入れても痛くないほどに可愛がっている養い子からの手紙を見ているにしては、暗い表情だ。 「読んでみてくれ」 読んでいいのか、と聞くことなく頷いて目を通す。 どうせ手紙の送り主は新堂が手紙を読んでも全く意に介さないだろう。 あぶなかっしいまでに自分に関わることに頓着しない子だ。 それに、過去のことがあってか人には壁を作りやすいが、柏崎の周辺の人間には無条件で懐くため、新堂のことはとても慕っている。 手紙を読むことぐらい、なんとも思わない。 『この前初めて女の人とセックスしました。先輩と違って柔らかくていい匂いがしました。挿入は気持ちよかったのですが、気持ちよさでは男相手の方が気持ちいいかもしれません。けれど、女性のおっぱいは気持ちがいいです。揉んでいると幸せな気持ちになりました。いっぱい触らせてもらいました。ふわふわでふかふかしていました。あんな感触なもの、触ったことありませんでした。初めての感触に、とても感銘を受けました。女の人は笑っていました。とてもいい人でした。セックスは面倒なので先輩とだけで十分ですが、おっぱいはまた触りたいです。どうしたらいいでしょうか。それにしてもおっぱいというのは………』 一通り目を通してから、こらえきれずに新堂は噴き出した。 「ぎゃっはははははは!ぎゃあっはははは!」 「………」 延々と続く女性の胸への賛美と考察に、腹が痛くなるほど笑う。 興奮をあまり感じない、淡々とした言葉がまた笑いのツボをくすぐる。 君の嘘なんてすぐに分かると言い続けたせいか、養い子は養い親には全てをさらけ出す。 そこは少し隠しておけよってところもさらけ出す。 この家にいた時には性的な興味が酷く薄く見え、心配になったものだ。 いまいち表情が動きにくいし、彼女を作ろうとガツガツしていないところもあり、性欲がないのかとも思えた。 それなりに友人は作っていたが、柏崎以外自分の世界にはいれないかのような盲目的な敬愛は危うくすら見えた。 このまま他人に興味を抱けなかったら問題だと思ったことすらあった。 冗談半分にAVなどを差し入れたりした時は、楽しかったと言って活用していたようだが。 その差し入れについて後で保護者からハードクレームを受けたのも懐かしい思い出だ。 「だ、だめだ、腹いてえ、やべえ、なんで後半こんな論文みたいになってるんだよ、さ、最終結論は女性の胸に贅沢を言うのはよくないって、でもDカップがいいって、ぶ、ぶは!うは、うはは!!」 「………はあ」 けれど、半ば無理矢理大学に出して一人暮らしをさせた甲斐はあったようだ。 一年半後には男と寝たと報告があり、その半年後には童貞喪失。 むしろ性に対しては奔放だったようだ。 それが分かっただけでも一人暮らしをさせた成果はあっただろう。 「ついにあのボーズも大人になったかあ。処女喪失の時と同じように赤飯炊くか、赤飯。千代さんに頼んでおくわ」 「………私は育て方を間違ったのだろうか」 「また迎えに行くとか言いだすなよ」 「………」 途端に渋面を作る柏崎。 どうやらちょっと考えていたらしい。 その顔に、新堂は呆れたようにため息をついた。 守の手紙からよく出てくる『先輩』の文字。 去年の正月の帰宅の際には、まだそういう関係になってなかったが、それでもよく話が出てきていた。 無表情に熱を込めて『先輩』の作品を語る彼は、まるで恋しているかのようだった。 相当その人の作品にのめり込んでいるようだった。 ただ人間としては人間失格レベルだったようだが。 一応身辺を調べておいたが、身元も怪しくなく、将来を有望される学生だったので放っておいた。 『先輩と一緒に暮らし始めました』 そう綴られたのは、大学に送り出してから1年と少しの後。 心配そうだったが体が壊れそうなぐらいバイトをしていた守がバイトをやめるきっかけになったようなので柏崎は安心していた。 そしてその一週間後 『先輩とセックスしました』 手紙にはそう綴られていた。 若干嫌だったけど、思ったより気持ちよかったので、まあいいか、というような文章だった。 バイトで昼夜なく働いていると知った時も、養い子の元へ飛び出しそうだった養い親はその手紙でついに切れた。 血相を変えて即座に車に乗り込みそうになった柏崎を止めたのは、たまたまそこにいた新堂だ。 新堂が不在だったら、間違いなく柏崎は守の元へ行っていたことだろう。 守の一人立ちは、守の自立のためだけではない。 過保護な保護者の子離れの意味もあった。 守の前では大人ぶってしたり顔で分かったようなことを言っている柏崎だが、守のことになるとすぐに頭に血が上る。 飛び出しそうになったり電話で帰ってこいと言おうとするのを止めるのは千代と新堂の役目だ。 いつも冷静な男とは思えない、取り乱しっぷり。 そもそもなんの血縁関係もないのに無理矢理保護者の座を勝ち取った強引さからしてもそれは明らかだ。 引退して道楽で店をいくつか経営をするだけになってからは、見ることのなかった険しい顔を今もよく覚えている。 『引き取りたい子がいるんだ』 面倒なこと全てから身を引いていた男の、真剣な顔。 酷く驚いたのを、よく覚えている。 「あいつだってもうガキじゃねーんだ。もう成人だぞ?ちょっとくらいの火遊びは見守っててやれ」 「だがこれじゃあ、あまりにも不真面目すぎるだろう」 「いや、逆に真剣で真面目な考察じゃないか。うん、素晴らしい」 「ふざけないでくれ」 不機嫌そうに眉を顰める柏崎に、新堂が苦笑する。 本当に養い子のことになると、途端に我儘な子供のようになる。 「保護者にきちんと報告する辺り、まだまだあんたのかわいい守君さ」 「………あの子は、まだ子供なのに」 「だから成人だって。落ち着けよ、おっさん」 「………守君」 手紙を握りしめてうなだれる柏崎は、養い子の奔放な性生活がよほどショックだったらしい。 逆にここまであけすけなところが、まだまだ子供なんだと思うのだが、そんなことすら分からなくなっているようだ。 守の率直な手紙には、柏崎に対する絶対の信頼が見え隠れしている。 それに、柏崎に出来ないような相談は、新堂にすることだろう。 それが分かっているから、新堂はたいして動揺もしない。 本当は分かってるくせにそれでも落ち込む年上の友人の肩を仕方なくぽんぽんと叩く。 「今度の帰省に『先輩』とやらを連れて帰らせればいいじゃないか。二人で見極めてやろうぜ」 「………」 途端に険しい顔をする柏崎。 それは娘を嫁に取られまいとする父親のようだった。 本当に来たら、うちの守はやらんぐらいは言いだしそうだ。 「ほら、酒に付き合ってやるから落ち着けよ」 「………はあ。そうだな。ちょっと落ち着くよ」 「そうそう、いいじゃないか。若い頃の経験の一人や二人や三人や四人」 戸棚からウイスキーを取り出しながら言うと、柏崎は眉を顰めた。 そして現役の頃を思い出される低い声で言う。 「あの子の性的観念の低さは君のせいじゃないのか?」 「おいおい、俺の責任にするなよ」 どうやら今日の酒は愚痴っぽいものになりそうだ。 |