以前の経験から警戒しつつ、恐る恐る旧友の家に入り込む。
廊下には誰もいないし、中から変な声が聞こえてくることはない。
そこでようやく声をかけることにする。

「ごめんください」

するとパタパタと奥から相変わらず無表情な長身の青年が現れた。
俺の顔を見て、軽く会釈をする。

「ああ、いらっしゃい、鳴海さん。先輩は居間です」

何事もないようにスリッパを出しながら奥を指し示す。
この子はこの家を出ていたはずだが、戻ってきていたのか。
聞いていいものかどうか分からず、俺は無言で黒幡君の後に続く。

「随分早いな」

居間ではデカイ男が味噌汁を啜っているところだった。
そのふてぶてしい態度に、苛立ちが増して行く。
今日の予定を確認しようと何度も連絡したのに全く出ずに、わざわざ迎えに来てやった先輩に対してこの態度。
本当にいつか土下座させて謝らせて、その頭を踏みにじってやりたい。

「峰矢、お前携帯ぐらい出ろ。昨日は家にもいなかったみたいだし。今日は外せないと言ってあっただろう」
「ああ、わりい」

心配になって急いで駆け付けたのに、この一言で済ませる気なのか。
済ませる気なんだろうな。
まあ、こいつに何を言っても今更だ。
なんだかんだ言って、大事な予定をすっぽかしたりは、よほどじゃないとしないんだけどな。
こいつは自分の置かれている立場と言うものは、ムカつくくらいに理解している。
いっそ本物の馬鹿だったらもう少しは可愛げがあったものを。

「ったく」

だから俺は、毒づくだけで許すしかない。
ああ、本当に腹が立つ。
ぼーっとして見えるぐらいに無表情な黒幡君が、会話が途切れたのを見計らって問いかけてくる。

「鳴海さん、朝メシは食ってきましたか?」
「いや」

峰矢をさっさと捕まえないといけないから、とりあえず朝一でやってきたのだ。
首を横に振る俺に、黒幡君がありがたい申し出をしてくれる。

「じゃあ、食ってきますか?」
「いいのかい?」
「ええ、簡単なものしか出来ませんが。和食と洋食どちらがいいですか?」
「じゃあ、ありがたく。峰矢と同じものでいいよ」
「はい」

そして台所に姿を消す。
前に一度ご相伴に預かったことがあるが、彼の料理は中々うまい。
一流料理人のようと言う訳じゃないが、素朴な家庭料理は懐かしい温かみがある。

どうやら、本当にこの家に戻ってきたらしい。
荒れ切っていた家の中は全部片付いている訳じゃないが、大分こざっぱりとしている。
黒幡君一人いるだけで、家が途端に息づき始めているようだ。

10分ほどで、手際良く俺の前にはうまそうな朝食が並べられた。
白いご飯と大根のみそ汁、キャベツの浅漬け、出汁巻き卵、そしてさわらの西京漬け。
あまりにも理想的な朝食に、空腹だった胃がきゅうっと音を立てた。
いただきますもそこそこに、俺は出汁巻き卵を口に運ぶ。
わずかに甘みのある出汁の香りが、ふわりと口の中で溶けた。

「うまい」
「よかったです」

お茶を淹れてくれながら、黒幡君が軽く会釈をする。
本当にこの子は、嫁としては最高だ。
いっそ女の子だったらよかったのに。

「君は食べないのかい?」
「今、食欲なくて。後で食べます」

一人給仕をしている黒幡君に問うと、彼は首を軽く横に振った。
具合でも悪いのかと聞こうとすると、峰矢がそこで口を挟んだ。

「俺のザーメンの飲みすぎじゃねえの」

思わず啜りかけた味噌汁を噴き出しそうになる。
黒幡君は全く動揺せずに、峰矢の分のお茶を注ぐ。

「二回しか飲ませてくれなかったじゃないですか」

今度はなんとかこらえた。
峰矢も黒幡君の返しに一歩も引かずに言い返す。

「一回はケツにも飲ませてやっただろ」
「もっと飲みたかったのに」
「お前が失神したせいだろ」
「叩き起こしてくれてよかったです」
「何回ヤるつもりだよ。お前は俺を殺す気か」
「先輩だったら一晩だっていけるって信じてます」
「じゃあ今晩頑張ってやるよ。失神しても殴って起こすからな」
「魅力的ですが、なんか今日は満足してるので、もういいです」

ああ、本当に、今までの二人だ。
なんでこの二人は会話が全部下ネタに行くんだ。
爽やかな朝の陽ざしの中、どうしてここまで下世話な話ができるんだ。
黒幡君は、いつもは普通の子なのに、どこかズレている。

「二人とも、朝からそういう会話をするのは控えてくれ」
「ああ、すいません」

黒幡君はそこでようやく言葉を切る。
別にシモネタで赤面するほど純情でもないが、男同士の情事の話なんて、進んで聞きたいものでもない。
美味しい朝食がまずくなる。

「それにしても」
「はい?」

本当に、いつもの黒幡君だ。
小池先生の研究室で会った時のような頼りなさは全く見られない。
いつも通り無表情で、いつも通りどこかふてぶてしく、いつも通りズレている。

「黒幡君、自分の気持ちの整理がついたんだね」
「はい、鳴海さんにもご迷惑おかけしました。ありがとうございます」

ふっと、どこかぎこちなく笑う。
それは不器用な笑い方だけれど、今までの彼にはない柔らかい表情だった。
思わず、息を飲む。

「………」
「どうしました?」
「あ、いや、これでお前の女遊びも収まるのか」

一瞬見とれていたのを誤魔化すように峰矢に話を振ると、ご飯二杯目を平らげた男が面倒くさそうに眉を顰める。
わずかに髭の生えたその顔は、本当に男臭い魅力に溢れている。

「は、なんで?」
「なんでって」

聞かれたこちらが戸惑う。
これでこいつが落ち着いてくれたら、何も言うことはない。
もうこいつの女遊びの後始末をさせられるのはごめんだ。

「二人は、恋人同士になったんじゃないのか?」

二人揃って、瞬きをして、不思議そうに俺の顔を見つめる。
まるで俺が海の色がピンク色だと言ったかのような反応だ。
黒幡君がお盆を抱えたまま、峰矢に視線を送る。

「………恋人なんですか、俺達?」
「さあ?まあどっちでもいいけど」
「はあ。そうなんですか、鳴海さん」

いや、そんな不思議そうな顔で聞かれてもこっちが困る。
黒幡君はこいつに恋をしていて、それで家に戻って収まったってことはそういうことじゃないのか。

「恋人じゃないのか?」
「どうなんでしょう?」
「………黒幡君は、こいつが女とこれからも遊んでもいいのか?」
「え、駄目なんですか?」
「いや、駄目っていうか」

普通好きな人間が他の奴と寝るっていうのは、嫌なことじゃないのか。
それとも男性同士の恋愛というのはそういうのを気にしないのか。
そこで黒幡君が俺の言いたいことを理解したのか、一つ頷く。

「ああ、そっか。嫉妬ですか」
「あ、ああ」

そんなストレートに聞かれても困る。
嫉妬するのは黒幡君であって俺ではない。

「別に俺だけにしてくれとか言いませんよ。ていうかこの人の性欲全部相手してたら俺死にます」
「やってやってもいいぞ」
「遠慮します。それにあんた、すぐに飽きますよ。思う存分他で発散してきてください」

峰矢がにやりと笑って言うが、黒幡君は一蹴する。
けれどその後、少し考えるように口元に手を当てて考え込む。

「でも、そうですね、たまには二週間ぐらい禁欲してもらってその性欲全部俺にぶちまけてくれるとか………」

語尾を濁して、じっと何かを訴えるように峰矢を見る。
対して峰矢はお茶をすすりながらあっさり切り捨てた。

「俺が無理だ」
「………そうですか」

黒幡君が、心底がっかりしたように肩を落とす。
本当にこの子の性的嗜好がよく分からない。
性欲が強いのか弱いのか。

「あのさ、好奇心なんだけど、告白とかしたの、二人とも」

黒幡君は恋をしていると言った。
峰矢は黒幡君が自分に惚れすぎていると言った。
その二人が、どこがどうなって、落ち着いたのか。
怖いもの見たさで、興味がある。

「………」
「………」

俺の言葉に二人はまた同時に黙りこむ。
そんな考えるようなことなのか。
実は、照れていたりとか。
いや、ないな。

「そういや、お前に好きって言わせてねえな」
「言ってませんね。言いますか?」
「別にいいわ」

峰矢は野生の獣を思わせる獰猛さを滲ませ、笑う。
そして黒幡君を挑戦的に見つめた。

「何せ、捨てたら腕を切り落とすって熱烈な告白を貰ったからな」
「ああ、俺は捨てたら殺していいって言われました」
「………そうか」

うん、やっぱり聞くんじゃなかった。
この二人については放っておくのが一番いい。

「まあ、二人がそれで納得してるなら、他人が口を出すことじゃないな」
「そういうことだ」

峰矢が偉そうに頷くが、今回は納得だ。
触らぬ神にたたりなしだ。
聞いても理解できないなら、わざわざ聞く必要もない。
二人の関係は、それでいいんだろう。
一緒にいるのがしっくりくる割れ鍋に綴じ蓋、それでいい。

「しっかし、見事に甘い空気の一つもないな。デートとかしないの?」
「え?」
「は?」

言った途端、二人は同時に心底嫌そうに顔を顰めた。
そこまで嫌か。

「分かった。なんでもない」

俺はおいしいご飯の最後の一口を口に押し込みそう言った。
なんでこの二人一緒にいるんだろうな、本当に。

「どういうのが甘い空気なんですかね」
「じゃあ、せめて名前呼びとかどうだい?」
「名前呼び?」

別にどうでもよくなっていたので、適当に返す。
辛くなることはあっても、この二人が甘くなることは一切ないだろう。

「そういえば峰矢は黒幡君のことなんて呼んでるんだ?」
「守」
「へえ、名前で呼んでるのか」

いつも、アレとかコレとかアイツとかしか言わなかったから知らなかった。
昭和の亭主関白の男か、こいつは。

「なあ、守?」
「はあ」

にやりと笑いながら言う峰矢に、黒幡君は気のない返事をする。

「じゃあ、黒幡君も是非どうだい。いつまでも先輩ってのも味気ないだろう」

正直、黒幡君が峰矢をどう呼ぼうかどうでもいいんだが。
まあ、話の流れだ。
名前で呼び合うところでも見れば、少しはこの二人が恋仲なのだと実感できるかもしれない。
今のままで完全に今まで通りのセフレにしか見えない。

「名前?」

黒幡君は硝子玉のような目で見ながら、首を傾げる。

「ああ、峰矢さん、とかか?」
「お前に言われると気持ち悪いな」
「同感だ」

茶々を入れる峰矢に、俺も同意を返す。
こっちだって鳥肌が立つほど気持ち悪い。

「はあ」

ピンとこないように首を傾げる黒幡君。
それでも俺たちの視線に促され、口を開く。

「み」

けれど、そこで一旦止まる。
自分でも不思議そうに首を傾げる。

「どうしたんだい?」
「あ、いえ、すいません。えっと」

どこか焦った様子で大きく息を吸って、吐く。
それからなぜだか緊張した面持ちで、もう一度口を開く。

「みね……や…」

その三文字を口にした途端、みるみる内に黒幡君の白い顔が真っ赤に染まった。
それはまるで紅葉が色づく様を早送りで見せられたかのような急激な変化。

「………」
「………」
「………あ」

思わず俺と峰矢が、黒幡君をじっと見つめる。
黒幡君はゆでダコのような真っ赤な顔のまま、立ちあがる。

「………す、すいません。せ、洗濯、終わった、みたいなんで、干してきます」

しどろもどろに言い置いて、パタパタと居間から早足で出て行く。
途中廊下と部屋の境のへりでつまづき、よろめいていた。

「………」
「………」

竹の花より珍しいものを見た気分で、じっと黒幡君が消えた廊下に視線を送る。
今のは一体なんだったんだ。

「典秀」
「あ、ああ?」

ぼうっとしていると、向かいに座っていた峰矢に呼ばれる。
そちらを見ると峰矢は無表情に自分で湯呑みにお茶を注いでいた。

「今日、奢ってやる」
「………そりゃどうも」

どうやら、俺はたった今、甘い空気に遭遇しているらしかった。








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