チャイムを鳴らすが、スカスカとした感触を残すだけで音は鳴らない。 仕方なくノックをするが、はめ込まれた曇りガラスがガシャガシャとなるだけで、中から人が出てくる気配ない。 「鷹矢さん?」 どうしようかと思案していると、後ろから声をかけられた。 驚いて振り向くと、そこには兄と一緒に住んでいる同居人の姿があった。 相変わらずあまり感情の見えない、能面のような顔をしている。 「あ、えっと」 黒い目でじっと見つめられると、何を言ったらいいか分からなくなる。 相手は、黙り込んだ俺に検討違いの理由に至ったらしい。 「黒幡です。先輩に用事ですか?」 「あ、はい」 「先輩は今日は帰ってくると思うので、どうぞ入ってください」 「………はい」 淡々と感情を見せない声で言われて、つい頷く。 兄がいなかったらこの黒幡と名乗る男に言伝を頼んでさっさと帰ろうと思っていたのだ。 しかし口を挟む隙を与えず鍵を開けて家の中に入ってしまう男に、今更帰るとは言いづらかった。 「ただいま」 家の中に入ると、黒幡は一旦立ち止って誰もいないのに帰宅の挨拶をする。 それから上り框に上がり込み、俺のためにスリッパを用意する。 この前も思ったが一つ上の男とは思えないぐらい、対応がしっかりしている。 「お邪魔します」 俺はそう声をかけて、黒幡の後に続いた。 狭い居間に通されると無表情の、俺と同じぐらいの背の男は荷物を置いて台所へ向かう。 「お茶淹れますね」 「あ、えっと、お構いなく」 黒幡の言葉に、慌てて首を横に振る。 正坐して小さな机の前に座りこんでも、落ち着かない。 やっぱり帰ればよかったかもしれない。 黒幡は台所との境目で立ち止り、面白そうに俺を見る。 「鷹矢さん、礼儀正しいんですね」 「そう、ですか?」 「はい。いいですね」 それだけ言って台所に入っていった。 礼儀は家の躾けも厳しかったこともあり、それなりに叩き込まれている。 でも、俺としては粗野で自由な、次兄に憧れてやまなかったのだけれど。 周りを目を気にしてちまちまと礼儀正しくしている自分が、小さく見えてくる。 峰兄のように、奔放にあるがままに振る舞い、それでも愛されるような魅力的な人間になりたかった。 「おはぎ、食えますか?」 「はい」 「よかった。昨日作ったんです。お口に会うかどうかわかりませんが」 「あん………、あなたが作ったんですか?」 「はい。だからまずかったらすいません」 そう言って差し出してきたのは、三色の小さなおはぎだった。 小豆ときなこと黒ゴマのようだ。 この前は茶巾絞りだったっけ。 なんとも渋いラインナップだ。 見ていると食欲が沸いてきて、いただきますと断ってからきなこのおはぎに手を伸ばす。 口に入れるともっちりとした潰されたもち米の感触と、きなこのほのかな甘みが口に広がる。 「………」 家で食べる高級店の和菓子という訳にはいかなかったが、なんだか優しい素朴な味だ。 本当に一つ上の男が作ったとは思えない出来栄え。 峰兄は、こいつの料理の腕に惚れたんだろうか。 きなこをさっさと平らげて、こんどは小豆に手を伸ばす。 そこで黒幡が自分は食べずにじっと俺を見ていたのに気付く。 「………じっと見ないでください」 「あ、ごめんなさい」 「おいしいです」 感想を待っているのかと思って、正直に告げる。 憧れる兄の男の恋人。 それはとても複雑な気分だが、だからといって反発するほどガキでもない。 どちらかというと悪印象な奴だが、それでももてなしてもらって文句なんて言えない。 「お口にあいましたか?」 「はい」 頷くと、黒幡は無表情ながらも目を細めてわずかに表情を緩ませた。 どことなく嬉しそうに自分の皿も差し出してくる。 「よかった。いっぱいあるんで食べてください。あ、鳴海さんからいただいたクッキーもあるんです。食べますか?しょっぱいものがいいなら漬物もあります。お腹空いてませんか?煮物なんかもありますけど」 「これで十分です!」 食べ物攻めにあいそうなので、俺は慌てて強い口調で言った。 なんだか親戚のおばさんのようだ。 家に訪れるとやたらと食べ物を勧めてくるおばさん。 「そうですか」 すると、黒幡は肩を落として、残念そうに俯く。 なんなんだ、こいつ。 そんなに自分の料理に自信があるのか。 人に食べさせたくてたまらないとかか。 どっちにしろ、変な奴。 「………」 小豆を食べて、最後に黒ゴマのおはぎを口に入れる。 小さなおはぎは三つ食べておやつにちょうどいいぐらいだ。 そして黒幡はやっぱり俺をじっと見ている。 「………なんか、俺、珍しいですか」 「いえ。あ、また見てましたか。すいません」 「いえ」 一体なんなんだ。 恋人の弟っていうのは、そんなに気になるものなのか。 最後のおはぎを咀嚼して飲み込み、お茶を啜る。 食べ終わると何をしたらいいか分からない。 知らない奴と二人で体面に座っているのは、ひどく気まずい。 黙りこんでいると、黒幡の方から話しかけてきた。 「鷹矢さん、大学生ですよね。学部なんなんですか?」 「経済学部です」 「経済って楽しいですか?」 「楽しいってものでもないけど、家の仕事考えると経済学んでおいた方がいいから………」 「あ、そっか。なんか会社経営してるんですっけ」 随分軽い扱いに、少しイラっとくる。 俺の家は割と名の通った会社を経営している。 それに対して多少うざったくはあるが、誇りも持っている。 兄と付き合っているっていうのに、そのどうでもよさそうな言い方につい刺々しい声になってしまう。 「峰兄の家とか、興味ないんですか」 「あんまり」 黒幡は気にした様子もなく首を横にふった。 本当に興味なさそうだ。 俺らの周りに寄ってくるのは、家に名前に惹かれる人間も少なくない。 こいつもそういう人間の一人なんじゃないかとちょっと思っていた。 所詮兄の持つ金に惹かれたのではないか、と。 「兄さんが家継げば、こんなボロ屋じゃなくていいところ住めますよ」 「鷹矢さんは、先輩に家継いで欲しいんですか?」 「だって、お祖母様も父さんも母さんも霧兄も、皆、峰兄に期待してるし」 「鷹矢さんは?」 無表情のまま黒幡が首を傾げたた。 思わぬ問いかけに、つい黙り込んでしまう。 「………俺は」 じっと見つめてくる能面のような顔の男。 俺は、確かに峰兄に、家にいて欲しい。 ずっと、傍にいてほしかった。 家を出て欲しくなかった。 でも、それ以上に、家に縛り付けられて欲しくないとも、思っていた。 「俺は、峰兄の、絵とか、彫刻とか、好きだし」 そうだ、俺は兄の作る作品が、大好きだったのだ。 芸術的なセンスなんて持ち合わせてないから理解は出来ていないが、それでも兄の作品に打ち込む姿勢に憧れ、それを皆に認められることに優越感と満足感を覚えた。 皆に褒められる兄が、誇らしくて仕方なかった。 「俺もです」 黒幡は、優しい声で言って、笑った。 それはどこかぎこちないが、嬉しさが滲みでてくるような微笑みだった。 「先輩のお金も、家も、興味ないんです。お金がなかったら、俺がなんとか養います。先輩には作品にただ打ち込んでいてほしい」 「………」 「ただ、実際今養われてるの、俺ですけどね。偉そうなこと言えません」 黒幡は、ひどく嬉しそうに、兄を語る。 無表情で無感動で能面に見えた男が、途端に血の通った人間に見える。 それで、伝わってくる。 俺は周りから愛される才能を持った兄が、そして作品が好きだった。 こいつは、ただ純粋に、兄の作品が好きなのだろう。 その違いが、なんだかひどく哀しくて、苦しい。 「鷹矢さんは、家のお仕事に携わるんですか」 「………多分」 このまま行けば、霧兄を手伝うような形になるだろう。 親族が多い会社内で、真面目に働けばそこそこのポジションは約束されている。 まあ、実力主義でもあるから使えなかったら閑職に回されるだろうけど。 「家、好きなんですか?」 「え、う、うん」 「そうですか。いいですね」 なんだか、どうでもよさそうな返事だ。 本当に他人事。 でも、金持ちはいいな、とか、もう将来が約束されてていいな、という言葉ではなく、ただ、家が好きなのかと聞かれたのは初めてだ。 本当にこいつは、調子が狂う。 それだからか、なんとなく、ぽつりと言う気のなかった言葉が漏れる。 「でも、このまま、家の仕事を手伝うのでいいのか、迷ってる」 「どうしてですか?」 「継ぐのは霧兄一人いれば、十分だし、俺役に立てる訳じゃないし、なんか何も考えずにそのまま家の会社入るのって………」 敷かれたレールから飛び出たい訳ではない。 継がざるをえない霧兄を考えると、そんなことを考えるのも申し訳ない気分になる。 ただ、これでいいのか、って何度も考える。 俺はとりたてて優秀って訳でもない。 家業に携わって、俺は何かの役に立てるのだろうか。 他のところにいって、自分の実力を試した方がいいのではないだろうか。 もっと、俺にふさわしい場所があるのではないだろうか。 黒幡は俺のことをじっと見ている。 「………あんたの、やりたいことって何?」 「俺は、絵に関わる仕事が出来たらいいなって思ってます。難しいですけどね」 「好きなものあるのって、いいな」 峰兄も、こいつも、自分の求めるものが、分かっている。 それは酷く羨ましい。 俺は何に打ち込んだらいいのか、分からない。 このままでいていいのか、もっと他にやることがあるんじゃないのか。 情けなくずっと迷って、揺れている。 ぶれない峰兄が、羨ましくて仕方ない。 「家が好きだから家を手伝うっていうのも、選択肢だと思いますけどね。でも後四年あるし、好きなもの見つかるといいですね。家を手伝ってから外出てもいいし」 「………うん」 「鷹矢さんは、真面目ですね」 真面目って言葉は、好きじゃない。 自分がひどくつまらない人間に思える。 峰兄のように、自由で魅力的な人間になりたい。 「俺、鷹矢さんみたいな人、好きです」 黒幡の言葉に、顔が熱くなってくる。 こいつは一体なんなんだ。 同性の、年もそう変わらない男に、こんなにストレートに好意を示す奴がいるだろうか。 と言っても、こいつって恋愛対象が男なんだっけ。 ゲイの人っていうのはこういうものなのだろうか。 「あ、あの、さんづけしなくてもいいです。あなたの方が年上なんですから」 なんて返したらいいか分からなくて、ただそう言った。 年上の男にさんづけされるのは、慣れない。 「えっと、じゃあ鷹矢君?」 「君はやめてください。鷹矢でいいです」 「じゃあ、鷹矢」 「はい」 黒幡は、さっきと同じように嬉しそうに笑った。 鷹矢、鷹矢と、口の中で何回か繰り返す。 そして嬉しそうにぎこちなく笑ったまま、まっすぐにこちらを見返す。 「じゃあ、俺も守で。後、敬語使わないでいいです」 「あんたも、敬語はいいよ」 「分かった。鷹矢」 そう言って、お互いどことなく落ち着かずに笑った。 なんか、変な感じだ。 兄の恋人は、やっぱり変な人間だ。 「鷹矢、今日、夕メシ食ってかない?」 「………」 「予定ある?」 「いや、ないけど」 「じゃあ、食ってってよ」 「………うん」 途端に打ち解けた雰囲気になった黒幡に、やや強引に頷かされる。 なんか、気のせいか、俺はこいつに好意を持たれているのだろうか。 変な意味ではなく。 そういえばこの前から、随分好意的な感情を持たれている気がする。 峰兄の、弟だからだろうか。 「俺、買物してくるんで、留守番してもらってていい?」 「あ、じゃあ、俺も行く」 「本当?」 「ああ」 この家でじっと一人でいるのも暇すぎる。 だってこの家、テレビも何もない。 兄と黒幡はどうやって暮らしているのだろう。 「じゃあ、一緒にいこう」 黒幡は無表情ながら嬉しそうに頷くと、ジャケットを羽織った。 帰ってくると玄関は開いていて、汚いスニーカーが転がっていた。 どうやら峰兄が帰ってきているらしい。 「あ、もう帰ってるのか」 黒幡は俺を促し家に上がって、真っ直ぐに居間に向かう。 そこには横たわって本を読む兄の姿があった。 「先輩、ただいま」 「おかえり」 この二人が一緒にいるのを見るのは初めてだ。 家族のような気安い雰囲気に、少しだけ嫉妬が沸く。 誰にも捕らわれない、家族にだっておもねらない兄が、心を許している。 それが悔しくて、寂しい。 黒幡のどこが、兄はよかったのだろう。 「すぐ夕メシにします」 「ああ」 横たわったまま横着に兄が返事をする。 そこでようやく廊下に突っ立ったままの俺に気付いたようだ。 わずかに顔を上げて、不思議そうに首を傾げる。 俺と似ている、けれどずっと精悍で男らしい顔。 「鷹?」 「あ、えっと」 「どうしたんだ?」 「お祖母様から、これ、渡すように頼まれて」 「ああ、悪いな。郵送で構わなかったんだけどな」 だって、久々に兄に会いたかったのだ。 家に帰ってきても、すれ違いばかりで滅多に会えることはない。 兄は、俺になんて興味はない。 いつだって孤高で、いつだって自由で、いつだって酷い人だ。 「あ、あの」 「ん?」 「げ、元気だった?」 「元気だけど?」 何を聞いてるんだろ、俺。 もっと話したいこと、いっぱいあったのに。 そこで峰兄は、苦笑して体を起こす。 珍しく、聞き返してくれた。 「お前は元気だったか?」 「う、うん」 聞いてくれたのが嬉しくて、胸がいっぱいになる。 でも、それ以上何を言ったらいいか分からない。 「鷹矢、食べられないものない?」 「と、特にない」 「そう」 台所からひょいっと顔を出した黒幡にほっとする。 それから峰兄に視線を向ける。 「先輩、材料切りませんか?」 「切ってくださいって言えよ」 「切ってください」 まさかと思ったが、兄は立ち上がり台所に向かった。 家では横の物を縦にもしない兄が、まさか手伝うのか。 自分の興味のないことには、とことん何もしない人だったのに。 居間から見える台所では二人並んで本当に調理をしているようだ。 「ていうかお前、なんで鷹を名前で呼んでんだよ」 「いけませんでしたか?」 「俺の名前も呼んでみろ」 「無理です」 え、黒幡は峰兄のことは名前で呼んでないのか。 いや、そういえばずっと先輩、だったな。 「ベッドの上では言えるのにな」 「あの時は理性がふっとんでるからいいんです」 二人の会話の意味がじわじわと脳裏に染みわたり、顔が熱くなる。 兄が性に奔放なのは知っていたが、男同士、しかもここまであけすけに会話されるとどうしたらいいのか分からない。 「なんで素面じゃ言えないんだ?」 「………」 兄がからかうように言うと、黒幡が黙りこむ。 沈黙が続いたのでどうしたのかと思って顔を上げる。 「………っ」 するとそこで二人が重なっていた。 調理台の前に立ったまま、二人は顔を寄せて口をくっつけている。 ていうかキスをしている。 ていうか舌入ってる、舌。 「ん」 しばらくして、黒幡が軽く峰兄の体を押す。 「………はい、今はここまででお願いします。夕メシが先です。鷹矢が待ってるんです」 「鷹、お前帰れ」 「え、ええ!?」 急に振られて俺は驚いて声を上げる。 すると黒幡が強い口調でそれを窘めた。 「駄目です」 「じゃあ、鷹の前で犯すか」 「後でサービスするんで、後にしてください」 「サービスも何も、お前いつもセックスの時はサービス満載じゃねえか」 「とにかく、俺は鷹矢とメシを食うんです!」 いつだって平坦な口調で話す男が、声を荒げたことにびっくりする。 黒幡は不機嫌そうに兄の手から包丁を取り上げるとその背を押した。 「あっちで待っててください」 峰兄も、同じように不機嫌そうに居間に戻ってくる。 そして俺を見降ろし鼻を鳴らした。 「鷹、お前あいつに何したんだ?」 「し、知らない」 本当に分からない。 俺は本当に何もしてない。 むしろ嫉妬してたから、結構態度は悪かったと思う。 不機嫌に黙りこんだ兄の隣で待つこと30分後。 黒幡がテーブルにのりきらないほどの料理を用意した。 そして甲斐甲斐しく俺の世話をすることで、兄の機嫌はますます急降下していった。 これがありがた迷惑ってことなのかと、俺はしみじみ思った。 |