夜半過ぎに家に帰ると、同居人が居間に座っていた。 電気もついてない暗い部屋の中、座り込み、じっと俺を見上げている。 「………何してんだ、お前」 「おかえりなさい、先輩」 「ただいま」 問いかけには答えずに、どこか座った目で俺を見ている。 電気をつけると眩しそうに目を眇めた。 「で、何してんだ?」 もう一度問うと、同居人は座り込んだまま切り出した。 「先輩、謝ってください」 「は?」 予想外過ぎる意味が分からない言葉に、俺は間抜けな声を出す。 けれど目の前の男は動じず、もう一度静かな声で繰り返した。 「俺に謝ってください」 「何寝言言ってんだ、お前」 よりによって俺に謝れとか、とうとう本格的に頭のネジが吹っ飛んだのか。 見下ろして睨みつけると、珍しく睨み返してくる。 「大川が哀しむから、謝ってください」 本当に意味が分からない。 こいつはいつも意味が分からないが、今日は三割増しに意味が分からない。 「誰だよ、大川」 「大川に興味があるんですか?駄目ですよ。大川には松戸がいるんだから」 「だから誰だよ、大川」 興味も何も、知りもしない。 しかし松戸ってのは覚えている。 確かこいつの友人だかなんだかの冴えない男か。 同居人はふざけた様子もなく、大真面目で俺をじっと見上げている。 「大川は美人です」 てことは女か。 そういやあの松戸とかいう男の隣にいてきゃんきゃん吠えていた女がいたな。 「ああ、なんとなくわかった。あの気の強そうな女か」 「気は強いかもしれません。でも美人なんです」 「まあ、美人だったな」 確かに気が強そうなつり上がった目も、大きめの形のいい口も、すらりとしたスレンダーな体に相まってきつそうな美人だった。 割と好みのタイプではあった。 「でもおっぱいが小さいんです。残念です」 「そりゃ残念だな」 本当に残念そうに、がっくりとうなだれる。 馬鹿なことを言っている変態の傍らにしゃがみこみ、口元を嗅ぐ。 案の定、嗅ぎ慣れた甘い匂いが目の前の男から漂っている。 「お前、飲んでるな」 「酒っておいしくないです。あれ、皆おいしいんですか?」 「………もしかして初めて飲んだのか?」 「ビール苦いです。おいしくないです」 なんだか拗ねたようにぶつぶつと言っている。 じゃあ飲むなと言いたいが、完全なる酔っ払いと化した人間に言っても無駄だろう。 そういや、こいつが酒飲んでるところって見たことねえな。 「何杯飲んだ?」 「なんですか、俺が飲んじゃ駄目だっていうんですか。先輩はいっつも飲んでるくせに」 絡み酒だったのか。 じっと睨んでくる様子は、叩きつぶしたいほどに生意気な面をしている。 「うざいな、この酔っ払い」 「………俺、うざいですか?うざいんですね。うざい奴でごめんなさい」 「本当にうざいな」 途端に落ち込んだ様子でごめんなさいと繰り返す。 俺の作品に関わること以外は一切無感情なのに、酔うと箍が外れるらしい。 本気でうざいので無視して寝ようかと思うが、俺に謝れとかアホなことを言い出す理由を知りたかった。 「で、大川がどうしたって?」 「大川、おっぱいが小さいんです」 「そりゃ無念だな」 「はい、大川いい奴なのに」 可哀そうというように、眉を下げる。 大川にとっちゃ余計なお世話にもほどがある同情だな。 殴り倒されても文句は言えねえぞ。 「お前巨乳好きだったのか?」 「おっぱいは大きい方がいいです。ふかふかしてて、気持ちがいいです」 「別にあってもなくてもどっちでもいいけど、てちょっと待った。お前、いつおっぱいなんて触ったんだ」 「この前亜紀さんとセックスした時です」 「だから亜紀って誰だよ。ていうかお前はいつの間に女と寝てるんだよ」 「おっぱい、気持ちがいいです」 「そりゃよかったな」 こいつは性欲なんてなさそうなすました顔して、何気に節操がない。 俺とのセックスにも簡単にはまるわ、他の男に足を開くは、いつのまにか女と寝てるわ。 女ならまだ許容範囲だが、俺の物のくせに俺の許可なく他の人間と寝るとかありえねえ。 正気に戻ったら体に叩き込もう。 今のこいつには何を言っても無駄だろう。 「セックスは先輩とだけでいいんですけど、おっぱいはまた触りたいです」 「風俗でもいけ」 「お金ないです」 「じゃあ諦めろ」 「………残念です」 どんだけおっぱいに執着してるんだよ。 セックスは俺だけでいいけどおっぱいを触りたいとか、本気で意味が分からない。 俺の理解を超えている。 おっぱいを触ったら、そのまま突っ込みたくなるのが普通の感情だろう。 こいつの男としての本能は壊れている気がする。 とか真面目に考えているのも、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。 「俺は寝るぞ」 「駄目です!」 いい加減疲れたので、酔っ払いを置いて風呂に向かおうとする。 しかし立ち上がろうとする腕を掴まれ引き戻された。 「なんだよ?」 「謝ってください」 「だから何に?」 ようやく最初の話に戻ってきた。 正体不明になるまで酔うってことがない俺には理解できないが、酒はここまで人を壊すもんなんだな。 酔っ払いは俺をじとりと睨みつける。 「俺をレイプしたことです」 「また今更な話だな」 こいつが住み始めてすぐ辺りで犯したから、もうそろそろ1年ぐらい経つんじゃないだろうか。 本当に今更すぎる。 「大川が怒ったんです。先輩にレイプされたこと話したら、ひどいって。大川、先輩に抗議するって言ってました。松戸も怒ってました。だから先輩が悪いんです。謝ってください。二人のために、俺に謝ってください」 こいつ自身、言っている意味が分かっているのだろうか。 しかし追及するのも面倒なので、俺は素直に謝った。 「ごめんなさい」 「ならいいです」 「いいのかよ」 あっさりもらえた許しに、逆に聞き返してしまう。 何がしたいんだ、こいつは。 そもそも、なんで大川と松戸とやらのためにこいつに謝るのかも分からない。 「お前は怒ってないのか?」 「怒る?」 「お前自身はレイプされたことを怒ってないのか?」 最初はぶつぶつ文句も言っていたけれど、特にその後態度が変わることもなかった。 炊事洗濯にセックスが加わっただけ、そんなビジネスライクな感じだった。 ずっと恨みに思っている、なんてことはなさそうだ。 事実、同居人は考えることもなく、首を横に振る。 「痛かったですけど、気持ちよかったですし、別に。俺の体なんかで満足してくれるんだったら全然いいです。先輩の傍にいられるなら」 「俺の体なんか、ね。お前の体は無価値なのか?」 こいつはいつもこういう言い方をする。 本当に自分に価値がないと思っているのだろう。 昔のトラウマかなんかから来てたりするんだろうが。 「健康だから臓器とかは価値があるかもしれません」 「そんな謙遜するな。お前の淫乱さだったら、ウリでもすればそれなりの価値がつくだろ」 「そうなんですか?そうだったら嬉しいです」 変態は本当に嬉しそうに、かすかに笑った。 それから、こいつの大好きな俺の手をとり、そっとキスをする。 愛しそうに、熱い唇が何度も何度もキスをする。 「先輩は、俺に意志がなければ、楽しくないでしょう?」 「あ?」 「俺が、人形だったら、楽しくないでしょう?逆らわなかったら飽きるでしょう?俺の性格を好きでしょう?」 俺の返事なんて期待してないのだろう。 自分の考えを確かめるように、言葉を紡ぐ。 「先輩は、俺を気に入ってたでしょう?だから、寝たんでしょう?あんた、男なんて興味ないじゃないですか。嫌いな人間は視界にも入れない。あんたは俺を気に入ってた」 まあ、制作後の禁欲明けで、目の前にある穴だったらなんでもいいって感じだったが、確かにそれでもこいつ以外だったら男には手を出そうとは思わなかっただろう。 しかもレイプなんて、面倒くさい。 相手に不自由してないのに、どうして後で厄介なことになりそうなことをしなければいけないのか。 確かに、俺はこいつに欲情するぐらいには気に入っていた。 「そうだな、お前の泣き叫ぶ面見てみたくて欲情したな」 そう言うと、人形のような黒い目をした男はぎこちなく、けれど嬉しそうに笑った。 俺に欲情されるというのが、こいつには嬉しくて仕方ないらしい。 どこまでも、突き抜けた変態だ。 「俺はモノじゃないです。俺はサンドバックじゃないです。先輩は俺の人格を無視しません。先輩はひどいですけど、俺の人格を認めた上で、ひどいです。俺と向き合って、それで、ひどいです」 褒められてるんだかけなされてるんだか。 好きなように俺の手を弄る男が、そっと手の平に頬を寄せる。 「だから、先輩なら、いいんです」 密やかにため息をついて、吐きだす。 こいつが俺にべた惚れだと伝わってくる、穏やかな表情。 「先輩は、強いです。自分が優位に立つために、他人を貶めるなんて、考えもしない。だってあんたは何もしなくたって、相手を貶めなくたって、一番だ。あんたは、誰も敵わないぐらい強くて、ひどくて、正直だ」 当たり前だ、俺はハナから全てを持っている。 わざわざ相手を貶める必要なんてない。 最初から全ての人間は俺より下だ。 まあ、ビジネスでライバルを蹴落とすぐらいはやるけどな。 「嘘つきは嫌いです。弱い人間は嫌いです」 小さく、表情を消して、つぶやく。 それはきっと、抽象的なものではなく、誰か特定の人間に向けての言葉なのだろう。 普段、自分のことをあまり話さない男だが、アルコールで感情も口も緩くなっている。 「とっとと寝ろ」 素面ならともかく酔っ払いのたわ言に付き合う気はないので、手を振り払って引きはがす。 すると同居人は不満そうに、頬を膨らませた。 常にない、子供っぽい仕草。 「一緒に寝てくれないんですか?」 「なんでだよ」 「俺に飽きたんですか?」 「本当にうざいな、お前」 絡み酒にもほどがある。 「やっぱり、うざいんですね」 そう言うと、顔をくしゃりと歪めて、目尻に涙を浮かべる。 今度は泣くのかよ、おい。 「やっぱり、先輩の傍にいたいです。ごめんなさい。先輩と一緒にいたいです」 啜り泣きながら、俺の首に絡みついてくる。 本当にどうしようもねえ、この酔っ払い。 だけど、この突拍子のなさが、こいつを気に入っている一因だ。 退屈している暇はない。 仕方なく、胸に飛び込んできた薄い背中を軽く叩く。 「どうして欲しいって?」 「一緒に寝ましょう」 「お誘いか?」 「俺多分勃たないですけど、それでもいいなら」 まあ、こんだけ酔ってりゃ勃たねーだろうな。 俺は反応のない人間につっこむなんてつまらないセックスに興味はない。 「俺はお人形で遊ぶ趣味はないんだよ」 「じゃあ、仕方ないから一緒に寝るだけでいいですよ」 「なんでお前が上からなんだよ」 軽く頭をはたくと、ますます俺に強くしがみついてくる。 「先輩」 そしてそのまま畳に押し倒れた。 覆いかぶさった男は、俺の口にキスを落として微笑む。 「先輩の才能が好きです。先輩の手が好きです。先輩の匂いが好きです。先輩の強さが好きです」 いつもはどんなに言わせようとしても言わない言葉を、大放出だ。 しかし酔っ払いに安売りされても、楽しくともなんともない。 「………先輩」 かすかにつぶやくと上にのった体は脱力して、俺にその体重が圧し掛かる。 しばらくして、すーすーと静かな寝息が響いてきた。 「この酔っ払い」 安心しきったようにしがみついてくる、熱い体。 うざさ半分、面白さ半分、その頭を軽くはたいた。 |