恋とは一体どういう感情なのだろう。 基本的に人を利用価値以外で計ったことがない。 親しみや愛着ぐらいは、沸いてはくるが。 たまったら近寄ってきた女相手に吐きだす。 面倒くさいことは、そこら辺にいる奴らにやらせる。 利用価値のある奴とは親しくする。 人でなしで、最低な男。 それが俺だ。 仕方がない。 だって、俺はケダモノだから。 - 池 -幼い頃から、訳の分からない激しい衝動が、身の内にあった。 抑えていると中側から食い破られてぐちゃぐちゃになる、渦巻く熱。 躾けの出来ない獣のようなそれは、自分でも消化できずに、周りに当たり散らすことしかできなかった。 堪え切れない衝動は、暴力となって最初は物に、そして人に向けられた。 何度叱られ時には殴られても、俺の衝動は収まらなかった。 俺の衝動に方向性をつけたのは、ババアだった。 両親ですら手を焼いていたケダモノを、面白がって躾け始めた。 野生の肉食獣を飼うのは初めてだと言いながら笑っていた。 運動をさせたらどうかということで、野球やらサッカーやら弓道やら体操やらをやらされた。 抑えられないなら発散してしまえと習わせられた古武道では、好きなだけ人を殴れるのがよかった。 運動することである程度はコントロール出来るようにはなったが、それでも俺は飢えていた。 自分でも何に飢えているか分からない。 けれど俺は常に、何かに渇え、埋められないものを埋めるものを探していた。 抑えきれない衝動は、周りへの攻撃性となって、誰も俺に近づかなかった。 大人ですら目を逸らしたほどの、手のつけられないケダモノだった。 それが見つかったのは、小学校も半ばだったか。 ババアの知り合いの男が、好きに描けと、画用紙と絵具を与えた。 風景を描け、花瓶を描け、お父さんの顔を描け。 そんなつまらないお題は与えられず、好きなように描けと言われた。 好きなように絵具をぶちまけろ、と。 そこで俺はようやく、息が出来た気がした。 自分の中の衝動を、思うがままにぶちまけた。 絵具をチューブから直接ひねり出して筆も使わずに手で思うがままに世界を描いた。 大声で笑いながら描いたそれは、とても絵と言われるようなものではなかった。 けれど、俺は、生まれて初めて満たされた。 満足するということを、その時知った。 自分の中の衝動を、形にする方法を、吐きだす方法を、ようやく知ることが出来た。 俺はその時、ようやく生まれた気がした。 笑い声は産声だった。 それから俺は人間になれる方法を知った。 衝動を抑え、周りに合わせ、擬態する方法を知った。 けれど中身はケダモノのままだ。 だから、人間に恋心なんて抱ける訳がない。 鍵を差し込んで捻ると、軽く抵抗を感じた。 試しに扉に手をかけると、カラカラと音を立てて開いた。 玄関に脱ぎっぱなしにしていた靴が綺麗に片付いている。 物が散乱していた廊下も、何もなくなっている。 どうやらあいつが帰ってきたらしい。 こうなると分かっていたが、昨日の今日で早いことだ。 本当にあいつの俺の作品への執着っぷりは、イカれている。 けれど家の中は真っ暗で、明りがついている様子はない。 またアトリエでトランス状態になってでもいるのだろうか。 家に上がり込み、廊下の奥に向かう。 居間の前を通りすがろうとして、中に座り込む人影を見つけた。 「………何やってんだ、お前」 暗闇の部屋の中でぼんやりと座り込んでいる男に、さすがに軽く驚く。 俺の声に、痩せぎすの男は、顔を上げた。 「………せ、んぱい」 居間に入って近づくと、掠れた声で俺を呼ぶ。 それからいつもは全く動かない表情を、くしゃりと歪めた。 俺の作品を見た時とはまた違う、不安でいっぱいの泣きそうな顔。 「どうしよう、先輩、どうしよう」 「何が?」 珍しく取り乱して、うわ言のように繰り返して俺のシャツを掴んでくる。 一瞬蹴り飛ばしそうになるが、こらえた。 「どうしよう、耕介さん、耕介さんが」 「だから何が」 どんなに混乱している時でも動かない表情と態度はどこへやら。 子供のように慌てふためいて、俺に縋ってくる。 セックスの時以外でこいつが俺に縋ることなんてない。 よっぽどコウスケさんとやらのことで焦っているようだ。 「新堂さん、電話したら、家誰も出なくて、耕介さんが」 「おい」 話にならないので、俺は座り込むと、その白い顔を軽くはたく。 実際の力よりも派手な音がして、その音に驚いたように、男はパチパチと瞬きを繰り返す。 その目に、ようやく俺が映る。 「………せんぱ、い」 「まだアタマ大丈夫か?」 「………あ」 そして普段の無表情が戻ってくる。 どうやら正気に戻ったらしい。 俺はその目を覗き込みながら聞いてやる。 「で、コウスケさんがどうしたって?」 ごくりと唾を飲み込んで、大きく息を吸って、吐く。 それから不安を押し隠すようにぎゅっと胸を掴んでぽつりぽつりと話し始める。 「家に、電話しても、誰もでなくて」 「うん」 「新堂さんに電話したら、怪我して、病院行ったって」 新堂って誰だよとつっこみたくなるが堪えて、辛抱強く先を促す。 「それで?」 「どうしよう、耕介さん、怪我、どうしよう」 また先ほどの混乱に陥ってきたらしい。 面倒くせえな。 俺はもう一回、顔を軽くはたいて正気に戻す。 「どれくらいの怪我だって?」 「わか、分からない。新堂さん、心配するなって、でも」 もう一回縋りつくように、俺のシャツを掴んでくる。 割とうざったいが仕方ないからそのままにしておく。 「どうしよう、耕介さん、耕介さん、耕介さん、怪我」 「もう一回、新堂さんとやらに電話したのか?」 「した、けど、出なくて。先輩、俺、どうしよう」 そりゃその新堂とやらの電話を待つのが一番早いだろう。 なにせコウスケさんはこいつの保護者だ。 何かあったらすぐに連絡はくるはずだ。 けれどそんなことを理路整然と説いても、今のこいつには通じないだろう。 「家に戻るか?」 「家、戻る?」 心配なら、姿を見ることでしか納得できないというのなら帰ればいい。 簡単なことだ。 じっとしているより動いている方が気も紛れる。 けれど、男は首を横に振る。 「駄目、だ」 「なんで」 「正月しか、帰っちゃ、いけないって、言われて」 「なんで」 「俺、耕介さんに、頼りすぎる、から」 大好きな大好きなコウスケさんの元へこいつが帰らないのはそういう理由なのか。 あまりのアホらしさにため息が出てしまう。 「アホか」 「え」 「ちょっと待ってろ」 「………あ」 手を振り払って立ちあがると、不安でいっぱいの顔で見上げてくる。 セックスの時しか見れないような、頼りない表情。 理由は気に入らないが、こいつに縋りつかれるのはまあ悪くない。 軽く頭を叩いてから、携帯を取り出す。 「約束なんてもんはな、自分のためにするんだよ。自分の行動を縛るだけの約束なんて、いらねえよ」 こいつの中に深く根付くローズグレイ。 一回顔を見てやるのも、悪くない。 近所に住む知人から車を借りて、家の前に回す。 携帯で呼び出すと、家の中から白い顔をした男がひょこひょこと出てきた。 運転席の窓を開けて、促す。 「乗れ」 「え」 また放心状態の男は、何が何だか分からないと言うように首を傾げる。 ああ、面倒くせえ。 苛立ちをため息で吐きだして、助手席に丁寧に放り込む。 「大体の場所は分かってるけど、近くにいったらナビしろよ。住所分かるな?」 「あ」 そこでようやく、この車がこいつの家に行くためのものだと分かったらしい。 顔にやや赤みが差してきて、目に光が戻ってくる。 ギアをドライブに入れて走り出すと、自分の膝を見つめたまま掠れた声で言う。 「ありが、と、ござい、ます」 「後で倍にして返せ」 まあ、本当はこんなことする必要ないんだけどな。 連絡がつかないなんて一時のことなんだから、連絡待った方が早い。 こいつの家まで車で四時間ほど、着いた頃にはどんな結果であれ決着はついているだろう。 軽い怪我ならなんともないし、酷い怪我なら手遅れ、それだけだ。 「すいません、耕介さんに何かあったら、俺、どうしたらいいか、分からない」 前を向いたまま、ぼんやりとつぶやく。 随分な思い込みだ。 人間なんて誰が死のうが、誰を失おうが、結局食って寝てクソをする。 ふてぶてしいまでにたくましい。 まあ、自分の不幸に浸れるナルシストだったら別だがな。 「大丈夫、なんて言わねえぞ」 「はい」 「何を言おうと現実は現実だ。それを見てから考えろ」 「はい」 「だから見るまで、何も考えんな。今何か考えても無駄だ」 隣から、小さく息を飲む声がする。 そして、ゆっくりと頷いたのが横目で見えた。 「………はい」 ふうっとため息をついてから、シートに深く沈み込む。 そのまましばらく、黙りこむ。 オーディオも付けてない車内は、エンジン音だけが微かに響く。 隣の男はそれでも落ち着かないようにもぞもぞと動いている。 鬱陶しい。 「俺がついてるから大丈夫とかは言わねえぞ」 「期待してません」 「可愛くねえな」 まあ、そんな甘い言葉は言ってやらない。 他人のために泣くこいつに、そんなことを言ってやる義理はない。 「でも、何かしてほしいなら言ってみろ。場合によっては聞いてやる」 欲しいなら、縋りつけ。 嫌がるなら嫌がるほど与えてやる。 欲しいなら縋りつくまで与えない。 「………」 こくりと、唾を呑む音がする。 それから、それを、口にした。 「手を、貸してもらっても、いいですか」 じっと、こちらを見ている気配がする。 あの人形のような黒目の大きな目で、俺を見ているのだろう。 知らず、笑ってしまう。 「サービスだ」 幸いもう高速に乗ったので、道は真っ直ぐだ。 左手を差し出すと、冷たい手が触れる。 いつものように両手で取り、愛おしむように頬を擦り寄せる。 そして、ひそやかに息をついた。 「………ありがとう、ございます」 「事故る前に返せよ」 「はい」 片手でステアリングが出来るように、ややスピードを落とす。 そして、冷たい手にすっかり体温が移ってしまうまで、頬の滑らかさを感じ続けた。 飛ばしに飛ばしまくったおかげで、3時間ちょいで着くことが出来た。 しかし到着したのはいいものの、役に立たない馬鹿はどこの病院かなんてことは聞いてない。 とりあえず自宅に車を回すと、閑静な住宅街に俺の実家並みにデカイ家がぽっかりと場違いに佇んでいた。 「あ、明り、ついてる!」 「おい!」 まだ車を止めてもないのに、横の馬鹿はロックを外して飛び出していく。 家には確かに明りが付いていた。 舌打ちしながら車を敷地内に勝手に乗り入れ、停車する。 すでに変態の姿は見えない。 あいつはどこまで本能で動いているんだ。 仕方なく勝手に邸内に入り込み、暗く長い廊下を歩くと、小さな明かりが漏れているドアがあった。 中からは何人かの話声が聞こえる。 ノックもせずに入り込むと、中には上背が俺よりありそうなデカイ男と一人がけのソファに座る老年に差し掛かった柔和な顔の男。 そしてその前に突っ立っている同居人。 沢山の本棚に囲まれたこの部屋は、どうやら書斎のようだ。 「………君は?」 ソファに座った男が、怪訝そうに俺の顔を見る。 その足にはギプスが仰々しく巻かれていて、それで目当ての人物が判明する。 「なんだ、無事なのかよ、コウスケさん」 そう言い放つと、コウスケさんは眉を顰めた。 本当に全然、元気そうだ。 横に立っていたデカイおっさんが、ドスの効いた顔に笑顔を浮かべる。 「ああ、君が池君か。悪かったな、守を送ってくれたのか」 俺の名前を知っているってのは、あの馬鹿が言ったのだろうか。 ソファに座った男が、不機嫌そうにため息をつく。 「全く、新堂君が余計なことを言うから」 「元はと言えば、あんたが年甲斐もなく木のぼりなんてするからだろうが」 「………それについては悪かったと思ってるよ」 決まり悪そうに視線を逸らす。 それから話を逸らすように、柔和な顔に笑顔を浮かべ俺と馬鹿を交互に見る。 「ごめんね、守君。後、池君だったかな。悪かったね。私は本当に大したことはないんだ」 俺は曖昧に頷く。 別にコウスケさんとやらの心配をした訳じゃない。 うるさくてうざかった男を黙らせるためと、コウスケさんを見てみたかっただけだ。 「………あ」 うるさく騒いでた男は、放心したように突っ立っていた。 ソファの男が慈しみと愛しさに溢れた顔で、傍らの男の手を取る。 「私の大切な守君。ごめんね、ありがとう」 「あ、こう、すけ、さん」 その黒目が大きい目に、みるみるうちに水の幕が張っていく。 驚いて目を見張るコウスケさんと新堂には構わずに、頬を大粒の涙が伝う。 「あ、ああ、ああああ」 そしてその場に座り込み、涙を拭うこともせず声を上げる。 迷子の子供のように、まるで周りに哀しいと言うことをアピールするように、大声で泣き始める。 「あ、ああ、ひっ、う、う、ああああ!!」 それを見ていて浮かぶ感情は、不快だった。 俺以外の人間に心を動かされ、泣き叫ぶこいつを見ているのは酷く不快だった。 俺は所詮、人に擬態しているだけのケダモノだ。 人間に恋心なんて抱ける訳がない。 でも、この、今泣いている男の喉を食いちぎってやりたい凶暴性。 殴り倒して、コウスケさんとやらの目の前で犯していつもの淫乱な姿を見せつけてやりたい情欲。 全ての色を塗りつぶし、指の先まで俺の色で染め直してやりたい衝動。 一つの存在を隅々まで食らい尽くしたい。 その獣欲が恋だというなら、これは確かに恋なのだろう。 |