割れた鍋に、綴じた蓋。 全く昔の人はうまいことを言ったもんだ。 - 鳴海 -カラカラと、懐かしい音を立てて玄関が開く音がした。 「お邪魔します」 低くも高くもない、どこか感情のこもらない平坦な声が響く。 パタパタと長くもない廊下を歩く音がして、リビングというより茶の間といった風情の部屋の引き戸が開いた。 「やあ、お邪魔してるよ」 「こんにちは、鳴海さん」 軽く手を上げて挨拶すると、足音の主は玄関先の靴ですでに来客を知っていたのだろう、驚くことなく挨拶を返す。 相変わらず痩せ気味であまり血色はよくない。 容姿は悪くはないが、見た目に必要以上に気を使わないせいで地味の一言。 あまり動くことのない表情と共に、それはより目立たない印象になっている。 性格も大人しく控え目で、すすんで前に出ることはない。 正直、この男と峰矢がなんで長いこと一緒にいれるのかが謎ではあった。 「お茶淹れますね」 「ああ、ありがとう」 この家の家事全般を担っている黒幡君は、慣れた様子で茶の間の奥にある台所に向かおうとする。 どんな反応を返すかと思っていたが、いつもと全く変わらない様子。 ちょっとつまらなくて、からかい半分声をかける。 「この前は悪かったね」 「この前?」 黒幡君は足を止めてふりかえり、小さく首を傾げる。 無表情に聞き返されて、なんだかちょっと気まずい気分になる。 もしかして、彼はなかったことにして済ませようとしていたのだろうか。 「一昨日のことだよ」 「一昨日?何かありましたっけ?」 「………」 彼はまるで本当にわかってないかのように、軽く目を瞬かせる。 まあ、確かにこういう場合はなかったことにするのが正しい作法だろう。 からかって遊ぶつもりもあったが、彼のためにも今更だがその演技の乗ることにするか。 これ以上つっこむのも無粋ってものだろう。 「いや」 なんでもない、と言おうとした時、ちゃぶ台の前に座っていた峰矢が面白そうに口を挟む。 「一昨日だよ」 「一昨日?俺、鳴海さんに会いましたっけ?」 ますます首を傾げる黒幡君。 そこで峰矢が、くっと堪え切れなくなったかのように笑った。 「玄関でハメてた時」 古い友人の家は、昔ながらの二階建ての木造日本家屋だ。 玄関先のわずかなスペースは、家主の無頓着から昔は名もなき草が自由を謳歌していたが、今は同居人のおかげかある程度すっきりはしていた。 木の枠に曇りガラスのはまったレトロな玄関を勝手に開ける。 チャイムは壊れているし、ノックしたところで家主が出てくることは滅多にないからだ。 「はぁ、あ」 開けた瞬間、濡れた声と共に視界に入ってきた光景に、言葉を失った。 状況を理解するのに、数瞬かかる。 「………」 玄関をあけたすぐそこの廊下で、家主とその同居人が重なりあって寝ていた。 ストレートに言えば、セックスをしていた。 「よお」 細く白い体に圧し掛かったまま、動揺することなく峰矢がこちらを見てにやりと笑う。 疎らに髭を生やし少しこけた頬は獣を思わせる獰猛さを滲ませ、情欲に上気した表情は女なら近寄っただけで妊娠してしまいそうな色気を放っていた。 「………こんにちは」 俺は間抜けにも、そんな答えを返すことしかできなかった。 峰矢の情事を見るのは、実は初めてではない。 高校時代に美術室をラブホ代わりしていたこの馬鹿が、女と寝ているところを見たのは一度ではない。 「何か、用か?」 「え、ああ」 息を軽く乱しながら、峰矢が体を起こす。 すると振動が響いたのか、その下にいた白い体の持ち主が、声を上げる。 峰矢の情事を見るのは初めてではない。 それなのに、今こんなにも動揺しているのは、峰矢が組み敷いている相手のせいだった。 寝ているとは聞いていたが、現実感が伴っていなかったのだ。 「くろはた、くん」 峰矢の下にいるのは、この家の同居人である地味な青年だった。 大型の肉食獣に捕えられた草食動物を見るようなその光景は、痛々しさすら感じる。 シャツは上半身に纏ったまま、剥き出しの白く細い足を峰矢に絡みつけている。 その足はしなやかだが、明らかに女性とは違い柔らかさがない、男の足だ。 「急ぎか?」 峰矢が額に汗を浮かべながら、聞いてくる。 別に、急ぎの用事ではない。 さっさと帰るのが、マナーだろう。 「あ、ん!せん、ぱい、やめないで、もっと、やだ、やめ、ないでっ」 峰矢が動きを止めたせいだろうか。 黒幡君が切羽詰まった声で、峰矢の手を取り意識を自分に向けようとする。 いつもの冷静で表情の動かない、どこか植物のような空気を持つ彼とは、同じ人間には思えなかった。 「せんぱい、さわっ、て、もっとさわって、ねえ、さわって、みて、おれのこと、みて」 もどかしいように自ら腰をくねらせ、甘えた声で自分を組み敷く男の名を呼び、淫蕩に笑う。 峰矢の手を、その指を誘うように口に含み、舐める。 快感に蕩けているその表情は、完全にノーマルな嗜好しか持たない俺でも一瞬ぞくりときた。 たった今目の当たりしているはずなのに、目の前の人物がいつもの地味でストイックな黒幡君とは結びつかずに全くの別人に思える。 「この淫乱」 峰矢が楽しそうに笑って、黒幡君とつながっている腰を揺する。 すると黒幡君は一際声を上げて、背をのけぞらせた。 「あ、はあ!はい、おれ、いんらん、です。ねえ、おねがい。いや、やめちゃ、やだ、あ、んっ、はあ」 子供のような舌足らずな調子で、もっとと強請るようにその腕を峰矢の背中に回して引き寄せる。 峰矢の関心を買おうと、必死に口に、頬に、耳に、首に、吸いつき、腰を振る。 「ねえ、もっと、ぐちゃぐちゃにして、そのてで、さわって」 おぼつかない口調で淫猥な言葉を繰り返す黒幡君には、俺の姿は見えていないようだった。 普通の子だと思っていた。 ちょっと変わったところもあるが、常識人だと思っていた。 しかし常識人が、人に見られているにも関わらず、ここまで乱れるものだろうか。 もしかして、見られると興奮するとかそういう性癖を持っていたのだろうか。 「いっぱい、うごいて、ね、あ、いやぁ、ああ!!」 体をくねらせ、嬌声をあげ、峰矢に必死に絡みつく。 目の前の光景が、ひどく非現実的だ。 「最後まで見て行くか?」 峰矢の言葉に、我に帰る。 ピーピングの趣味はない。 「………出直すよ」 「悪いな」 全く悪びれない声を背中に、丁寧に玄関の扉を閉じて、その場を後にした。 「お前が俺につっこまれて、泣きながらもっとっておねだりしてる最中に来てたんだよ」 峰矢が性格の悪さを滲ませるようないやらしい口調で告げる。 不思議そうに首をかしげていた黒幡君は、目をまた何度か瞬かせる。 「ああ」 そこでようやく思い当ったというように、一度頷く。 そして相変わらずの無表情で俺に軽く頭を下げた。 「それはすいません。おかまいもせず」 予想外の反応に、一瞬言葉が出てこなかった。 まさか、もしかして、さっきのはなかったことにしようとしていたのではなかったのか。 「………気付いてなかったの?」 「はい。基本的に先輩とセックスしてる時って意識飛んでるんですよね」 悪びれることもなく、照れることもなく、彼は言いきった。 その表情に、動揺の影は欠片も見えない。 「………」 何と言ったらいいのか分からなくて、つい黙り込んでしまった。 峰矢がくっくっと喉の奥で押し殺すように楽しそうに笑う。 「だから言っただろ、淫乱だって。下手したら俺が絞りとられる勢いだからな」 「すいません」 黒幡君が、まったく謝罪の気持ちを込めずに言う。 あまりにも予想外の反応に、固まってしまった。 大人しく地味な外見からこういうのはあまり得意ではないかと思っていたが、そうではないのだろうか。 そういえば前も、軽く峰矢と寝ていると言っていたっけ。 あの時は強がりか何かかと思っていたのだが。 「黒幡君って、結構遊んでたりするの?」 「遊ぶ、ですか?」 「割と女性経験豊富だとか」 黒幡君は、首を横に振る。 「いえ、俺、童貞捨てたの先輩ですし。先輩としか経験ないです」 「童貞じゃなくて処女だろ?お前まだ童貞じゃねーか」 「ああ、そうか。そうですね。てことで経験全然ないです。処女喪失の日も浅い童貞です」 ギャグなのか。 ここは笑うところなのか。 「羞恥心とかはないの?」 「へ?」 「見られて恥ずかしいとか」 「覚えてないんで、なんとも」 そういう問題なのか。 少しは照れたり怒ったりとかないのか。 気まずい気持ちになったりはしないのか。 いや、峰矢は分かるんだ。 峰矢はただのケダモノだからいいとする。 あいつは才能がなければただの極悪のケダモノだ。 ただ、この地味なごく普通の子がこの反応を返すのが意外すぎた。 黒幡君が困ったように、頭を掻く。 「駄目なんですよね。先輩の手に触られると気持ち良すぎて。まあ、何言ったかとか何したかとかはうっすら覚えてるんですけど」 確かに、あの時の乱れっぷりはすごかった。 今目の前にいる人物とはとても同一人物とは思えない、まるで手練手管に長けた娼婦のようだった。 「今度ハメ撮りしといてやるよ」 峰矢が上機嫌に、下らないことを言い出す。 そこでずっと無表情だった黒幡君が、僅かに顔を輝かせる。 「映像にも手を出すんですか?」 期待を滲ませた声に、峰矢が思い切り眉を顰める。 そしてつまらなそうにため息をついた。 「残念ながら門外漢だ」 「………そうですか」 あからさまにがっかりして肩を落とす、黒幡君。 この子が感情を表すのは、本当に峰矢の作品が関わる時だけのようだ。 「それじゃ、お茶淹れますね」 気を取り直したように黒幡君は買物袋を下げて、今度こそ台所に向かった。 その背中を眺めて、思わずため息が漏れてしまう。 「………峰矢、あの子は、ああいう子なのか」 「ああいうがどういうを差すのか分からないけど、イカれた変態だって言っただろ?」 「………なんとなく、分かってきた気がする」 「面倒とかいいながら、いざヤり始めると超ノリノリ。男なんてごめんだったけど、あれが面白くってさ」 くすくすと笑う峰矢は、心底上機嫌そうだった。 今でも一昨日のことが、夢のように感じる。 「あんな地味な子が、なあ」 「貸さねえぞ」 「いらないよ」 俺には、ついていけそうにない。 「君は、峰矢とセックスするのは嫌じゃないのか?」 峰矢がアトリエに作品を探しにいった隙に、お茶のお代りを淹れに来た黒幡君に質問を投げかけてみる。 黒幡君は俺をちらりと見て、少しだけ面倒そうに息をつく。 「最近、嫌に質問してきますね」 「興味が沸いてさ」 「はあ」 地味で目立たない、なんの取り柄もないつまらない男だと思っていた。 なんであの峰矢と一緒にいられるのか、全然分からなかった。 「まあ、すすんでしたいかと言われればそうでもないですね」 黒幡君は、急須から丁寧にお茶を注ぎながらやっぱり無表情に答えてくれた。 ひどく面倒そうだが、付き合ってはくれるらしい。 「でもするんだ?」 「抵抗しても無駄ですし、それにまあ食事とか洗濯とか掃除とかと一緒に、下半身の処理も契約の中に入ってるのなら仕方ないですね」 契約、というのは二人の間で取り決められたものらしい。 峰矢の生活の面倒の全般を見る。 その代わり峰矢の作品に一番に触れられる権利を得る、という契約。 あの我儘暴君を相手にする黒幡君に負担ばかりの契約に見えるが、本人的には破格すぎる条件らしい。 まあ、あいつの才能に惹かれのめり込む、その気持ちは分からないでもない。 「本当に駄目な場合は勃ちもしないと思うけど、気持ちいいの?」 「はあ。先輩うまいですし。まあ、先輩の手に触れられてるってだけで頭真っ白になっちゃうんですけど」 そういえば、この子は峰矢の手に異常に執着していたっけ。 正確に言えば、作品を作り出す、手に。 いざとなれば手なんていらないとも言いきっていたが。 「そんなにいい思い出来ても、嫌なんだ?」 「面倒ですから。後始末とか体の負担とか。ですからもっと女遊びしてくれると助かるんですけど」 「あれ以上やったらあいつ腹上死だろ」 確かに、と言って黒幡君がちらりと笑う。 あいつはニンフォマニアなんじゃないかと思うぐらい、下半身はゆるゆるだ。 ただ、制作にとりかかっているあいつは他の何もかもをかなぐり捨てられるのだが。 「それに、これ以上先輩に溺れても困りますし」 「え?」 黒幡君が、自分のお茶をすすりながら、ぼそりと漏らす。 溺れる、という言葉が意外で思わず聞き返してしまう。 地味な青年は、自嘲するように苦く笑う。 「この家に住ませてもらって、食費と家賃浮いて、先輩の世話して、先輩の作品に毎日触れられて。割と今、生活の中心が先輩なんですよね」 確かに、今の黒幡君は峰矢を中心とした毎日だ。 でもそれに満足していたようなのに、何が困るのだろう。 「これで先輩とのセックスにはまったら、飽きられた時にさすがに社会復帰に時間がかかりそうです」 その顔はやっぱり植物的な無表情だった。 このどこか人を食った青年が、そんなことを考えているのが意外だった。 「………意外とかわいいこと考えてるね」 「そうですか?」 「まるで恋人に捨てられることに怯える女の子みたいだ」 「近いものあるんでしょうかね?」 自分でも分からないといったように、疑問符をつける。 考えるように、首を傾げる。 「俺も不思議なんですよね。先輩のこと好きじゃないし最低の馬鹿だと思うんですけどね」 まあ、確かにあいつは最低の馬鹿だ。 あいつに才能がなければ、縁を切っていたと断言できるぐらいに、最低だ。 それでも、あいつはその才能があるからこそ、その欠点を含めて全てが魅力になるのだ。 「でも、先輩が作品を作り続ける限り、結局振り回されるんだろうなあ」 どこか諦めたように、珍しく重いため息をついた。 その顔をじっと見ていた俺に気付いて、照れたようにふっと笑う。 お茶を飲み干し、立ちあがる。 「さて、夕食の準備をします。食べて行きますか?」 「あ、ああ」 台所に向かう途中に、黒幡君は一度こちらを振り返った。 「ああ、さっきの話は出来れば先輩には言わないでおいてください」 「さっきの?」 「溺れるのがいやだって、って話です」 「言われたくないの?」 「あの人のことだからそれなら溺れさせてやるって今よりしつこくなりそうなんで」 まあ、確かにそうだろう。 あいつは人が嫌がることが大好きだ。 「逆に君が溺れさせればいいんじゃないか?」 「嫌ですよ、面倒くさい」 本当に面倒そうにため息をつく。 気持ちがいいのも、面倒なのも、峰矢に惚れているのも、嫌いなのも全て本当なのだろう。 地味で大人しくて、なんの取り柄もないつまらない男。 けれど、近づいてみると、意外に面白い不思議な男。 あの飽きっぽく面倒くさがりの男が、傍に置いている理由が、なんとなく、分からないでもない。 「むしろ君が峰矢を振り回してるんじゃないか?」 からかうように笑って言うと、黒幡君はもう一度振り返った。 そして、珍しくにっこりと笑った。 笑うと、途端に明るい印象になる。 「だって、それくらいじゃないと、先輩すぐに飽きるでしょう?」 ああ、本当に、昔の人はうまいことを言う。 割れた鍋に、綴じた蓋。 どこか欠けて壊れた二人は、せいぜい一緒にいてほしい。 |