千秋ちゃんの日常

「ねえ、晴お兄ちゃん、一番大事なものを思い浮かべてみて」



***



私は昔、とても悪い子だった。
思い出すと、あの頃の自分を馬鹿!って叩きたくなるぐらい。
馬鹿でとっても悪い子だった。

今はだいぶよくなったが、小さい頃は小児喘息や色々なアレルギーを持っていて、そして待望の女の子だった私は両親から浴びるように愛情を注いでもらった。
家族皆が、私を愛してくれた。
だから私は、叶わないことなんてないと思ってたし、誰もが私に関心を持つのは当然だと思っていた。
私は深山家の王女様だったのだ。

だから晴お兄ちゃんが入院してから、家族の関心が目立たない二番目の兄に注がれるようになったが、気に入らなかった。
活発でリーダー気質でガキ大将の一番上の兄と違って、大人しくてなんでも言うことを聞く兄を、私は完全に下に見ていたのだ。
そんな兄に皆が気を使うようになったのが、気に入らなかった。
特に憧れのお兄ちゃんである叔父が、兄を溺愛するのが許せなかった。

私は我儘を言ったり甘えたりして皆の関心を買おうとした。
両親はやっぱり私を甘やかすけれど、叔父は頑として私を甘やかそうとしなかった。
何よりも兄を優先させた。
私はそれがどうしても、許せなかった。

「ねえ、晴お兄ちゃん、それちょうだい」

だから、私は兄が大事にしていた地球儀をねだった。
兄が叔父に貰った、硝子の地球儀。
あまり物に執着することのない兄が、飽きずにじっと見ていた。
私は別に、そんなもの欲しくはなかった。
でも、叔父が兄に与えたものだから、奪ってやりたかった。

兄は一瞬戸惑ったような顔をしたが、いつものように、何も言わずに地球儀を私に渡してくれた。
私はそれを当然だと思っていた。

けれど、後でそれが両親と叔父に知られ、私はこっぴどく怒られた。
お兄ちゃんの大事にしていたものを奪うなんてどういうことだ、と。
お兄ちゃんがくれると言ったんだ、と私は主張した。
兄は、本当のことだといって同意した。

だが叔父は鼻で笑って、そんなはずはない、嘘つきは悪い子だ、と言った。
いつも私に甘い両親が私を怒ったこと、叔父が私を馬鹿にしたこと、それに愚かにも傷ついた。
悔しくて悲しくて、そして怖くて。
甘やかされて我儘で馬鹿だった私は、癇癪を起した。
全部、兄とこの地球儀のせいだと思った。

「こんなもの、いらない!こんなもの、欲しくないもん!」

そして、テーブルの上にあったそれを払って、床に叩きつけた。
硝子の球体は、大きな音を立てて、キラキラと光りながらいくつもの欠片になる。

「………」

その時の兄の顔が、いまだに私の脳裏に残っている。
いつも冷静で感情を映すことの少ない目が、揺らいだ。
何か言いたげに、少し開いた口は、すぐに閉ざされた。
それは、怒りでも、悔しさでも、なかった。

ただ、傷ついたような、悲しい顔だった。

「………あ」

当然、両親と叔父は怒った。
けれどそれを止めたのは、他でもない兄だった。

「それは、僕が千秋にあげたものだ。だから、千秋がどう扱おうと問題ない。でも、聡さん、もらったものを壊したのは、ごめんなさい。僕が千秋に、壊れやすいものだと教えなかったのがいけない」

さきほどの傷ついた顔は夢だったんじゃないか、というぐらいに、兄は冷静だった。
あの頃の兄も、まだ小学生だったはずだ。
けれど、全ての感情を飲み込んで、兄は私の頭を撫でた。
全てを、諦めた。

「ご、めん、なさい」

そこで、私はようやく取り返しのつかないことをしたのだと分かった。
馬鹿な私は、ようやく理解することが出来た。
兄が、今までどれだけ、私に、私たちに、遠慮して、諦めてきたのかを、なんとなく理解できた。
どうしようもない罪悪感が襲ってきた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「大丈夫。怪我はない?」

ぼろぼろと泣き出した私を、晴お兄ちゃんは優しく抱きしめてくれた。
それが温かくて優しくて、私は消えてしまいたくなった。
自分がどれだけ悪い子だったのかを、知ったのだ。

そのまま興奮して喘息の発作を起こすまで、私は泣いて謝り続けた。


***



「ねえ、晴お兄ちゃん、一番大事なものを思い浮かべてみて」

お兄ちゃんの部屋で、私は勉強を教わっている。
ふと顔を上げた先にあるのは、ボロボロの硝子の地球儀。
あの後欠片を拾い集めてお母さんと叔父さんに手伝ってもらって接着剤でくっつけたけれど、地球儀は元のようには輝かなかった。
歪な形の球体を、それでもお兄ちゃんは大事に持っている。

「どうした?」
「いいから、思い浮かべてみて」
「分かった」

お兄ちゃんは素直に視線をちょっと遠くに向けて、そして頷いた。
そしていつも甘えるように上目遣いにお兄ちゃんを見上げる。

「ね、それ、私が頂戴って言ったらくれる?」
「それは駄目だ」

即答だった。
一瞬びっくりしてしまう。

「ごめん、でも、それは、聞けない」

お兄ちゃんは、ちょっと申し訳なさそうに眉をひそめて、それでもきっぱりと断る。
昔と変わらず何にも執着のないお兄ちゃん。

「そっか」
「千秋?」
「そっかあ」

私は自然と嬉しくなって、胸がいっぱいになる。
ああ、そっか。
お兄ちゃんにも、出来たんだ。
誰にも渡したくない、大事なもの。

ああ、それなら、よかった。
その大事なものを、お兄ちゃんが、失いませんように。

鈍く光る地球儀に、私はただ願った。

柴村の日常

「ねえ、篠原君って、どんな人?」

篠原に興味が出たのは、横井のそんな一言だった。
それまでも出席順で前の席にいるので話しかけはするが、あまり興味はなかった。
話しかけても反応悪いし、なんか暗いし。
全然仲良くなろうとも思ってなかった。

聞いてきた時の横井のちょっとはにかんだような笑顔が忘れられない。
俺が見た横井の表情の中でも、1,2を争うかわいさだった。
横井はいつでもかわいいんだけどさ。

それで、篠原に初めて興味を持った。
勿論ライバル心バリバリ。
親しげな顔して近付いて、色々聞き出して、それを横井に教えた。
ちょっぴりの悪意と打算を持って。
横井と話す格好のネタになるっていうのと、篠原の株を下げてやろうってのと。

まあ、ねつ造とかするまでもなく、篠原はつまらない奴だった。
話しかけても反応が薄い、いつでも暗い、友達も少ない。
運動神経が結構よくて、成績は中の上。
同じ中学校の奴らに聞いたが、中学時代はいわゆる委員長タイプで、周りを仕切る堅い奴だったらしい。
別に嫌われてもないが、少し鬱陶しい。
今の篠原からは全然想像がつかないが。

横井に包み隠さずそれを伝えたが、横井は愛想を尽かすことはなかった。
逆にもっと興味をもったようで、しくじったと思った。
正直、篠原にはどちらかというとライバル心と嫉妬心と言う悪感情を持っていた。

それが変わったのはいつだっただろうか。
いつでもむすっとしていた表情が柔らかくなっていった。
俺の話にも興味深そうに耳を傾け、少しづつ会話が続くようになって、誘いにも乗るようになってきた。
俺も、嫉妬心とは別のところで、段々篠原と話すのが楽しくなってきた。

まるで子供みたいに無邪気で、変なところで毒舌でいい加減で。
感情表現豊かで男のくせに料理とか好きで、すぐに泣く変な奴。

今思えばあれはきっと、恋人が出来たころだったんだな。
恋で変わるとか、分かりやすい奴。

やっぱり俺は横井が好きだし、横井に笑っていてほしい。
だから横井が傷つくのは嫌だし、篠原のために泣くところなんて見たくない。
とはいっても、二人がうまくいっても嫌だし。
応援してやりたいけど、応援したくない。
でもやっぱり横井が暗い顔をして、あいつの言葉に一喜一憂しているのを見るのは辛かった。

冗談めかして、俺にしときなよって言っても横井は笑うだけ。
真剣に捨て身にもなれない臆病な俺。

だから八つ当たり混じりに、あいつが横井をふった時、子供みたいにシカトとかした。
本当に子供だったと思う。
実際あの二人がうまくいっても、複雑だったんだろうし。

「柴村と、友達になれてよかった。俺、柴村、好きだ」

でも、あいつが泣きそうな顔でそんなこと言うから、もう全面降伏。
泣く子には適わない。
子供って本当に最強だと思う。
愛の告白かっての。
もう照れる暇もないくらいの直球勝負。

だからしょうがない。
結局、俺もあいつのことが好きだから、しょうがない。

「ねえ、篠原君って、どんな人?」

今ならこう答えるよ、横井。

「変な奴。ガキっぽくてすぐ泣くし無愛想」

まあ、今は利害関係もなくなったことだし、心おきなく友好関係を築こうじゃないか。
俺も友達になってよかったよ、篠原。

「でも、素直で楽しくて、いい奴だよ」

深山のお話(森本視点)

「ねえ、君の彼氏は俺らのこと嫌いなのかな?」
「か、彼氏」

彼氏呼ばわりすると、和志君は顔をかーっと一気に赤くした。
おお、純情。

古ぼけた感じがいい雰囲気だし、小ママさんは美熟女だし、珈琲は美味しいらしいし、なかなかいい喫茶店だ。
俺らみたいな高校生が寄りつくような空気ではないが。
ネルドリップの珈琲が売りらしいが、俺は珈琲嫌いだからアイスティー。
そう言うと、和志君は俺も珈琲苦手なんですと言って嬉しそうだった。
瀬古は相変わらず不機嫌なこともあり、和志君は俺に話しかけてくる。
にしても瀬古の機嫌わっりい。
うぜえ。

「え、えっと、あいつが森本さんと瀬古さんに嫌われてるって思ってることですか?」
「そうそう。俺、別にあいつのこと嫌いとか言ったことないんだよね。こいつは言ったらしいけど」

そう言うと、瀬古は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
本当にこいつは深山のことになると、なんか小学生みたいだ。
今深山は小ママさんに呼ばれてカウンターで何やら話している。
その間に彼氏君と交流だ。

「多分、深山二人のこと好きなんだと思います」
「ああ、前にそう言われた。瀬古は四番目で、俺は十番以内なんだって。一番は君だって」
「ば………っ」

和志君はまた顔を赤くしてもごもごとなんか口の中で言う。
何やら深山に文句を言っているようだ。
深山と違ってなんてからかいがいのある子だ。
しばらくして気を取り直したように本題に戻る。

「えっと、ですね。あいつ臆病だから、人に関わるの怖いんです。好きな相手に嫌われるの怖いし、拒絶されるの怖い。だから、たぶん、自分のことを最初から嫌いって思ってるの楽なんだと思います。もう嫌われることないから。これ以上嫌いになられることないから。お二人が好きだからこそ、自分のこと好きだと思いたくないんだと思います。嫌われたくないから」
「なるほどねー」

まあ、そんな感じは受けてたけど。
にしても、ものすごいジレンマだなあ。
単純なくせに複雑な奴。

「和志君は、どうやって深山の心を開いたの?」
「好きって言っただけですよ。大好きって言い続けたんです」

さっきの照れた様子とは打って変わって、和志君は堂々と言い切った。
恥ずかしがることもなく、どこか誇らしげに。
うちも男子高だから、男同士でどーのこーのって話もないわけじゃないが、ここまで堂々としてる奴らは勿論いない。
なんかかっこいいな。

「美晴って馬鹿だから、それぐらいストレートじゃないと通じませんよ。遠まわしな言い方とか言葉の裏の感情とか読みませんから。自分に向けられたものじゃなければ割と鋭かったりするんですけど、自分への好意はなかなか信じません」
「なるほどねー」
「だから、お二人もよかったら、好きってあいつに言ってやってください。多分一回じゃ信じませんけど」

そう言われてもなあ。
そうこうしている内に、深山が席に戻ってきた。
俺たちと話しこんでる和志君に小さく首をかしげる。

「何を話してたんだ?」
「美晴のこと。俺が美晴を大好きってこと」
「ありがとう。僕も和志が大好きだ」

うわ、なにこのいたたまれない空気。
バカップル。
バカップルがいる。
ていうか深山がこんなメロメロな嬉しそうな表情を見せるとは。
和志君の前だと本当に人間ぽい。

「ねえねえ深山」

んじゃ、俺も試してみよう。

「どうした?」
「俺も深山のこと大好きよ」
「………」

お、黙り込んだ。

「どうしたんだ?」
「いや、単に伝えたくて。大好きよ」
「………」

なんか考え込んでる。
疑ってるのかな。
また利用価値とかなんとか考えてるのかね。
難しい奴。

「普通に友達として大好きよ」
「……そうか、僕も森本は好きだ」

お、ちょっと嬉しそうに笑った。
信じてるのかなー。
まあ、とりあえずはこれでいいか。

「ほらほら、瀬古」

俺は隣で見ていた瀬古を促す。
瀬古は一瞬口を開きかけて。
そして我に返った。

「言えるか、そんなもん!」

もう、本当に意地っ張りなんだから。

篠原君のお話(横井さん視点)

「深山さん、本当にすごい頭いいんですねえ」
「マジ分かりやすい」
「それならよかった。他にも分からないことがあったら言ってくれ」

深山さんは私と柴村君の賞賛に、奢るでも謙遜でもなくふ、と小さく笑った。
表情があまり動かない人だけれど、きっと優しいんだろうなって思う。
表情がでなくて、しゃべり方も平坦だから分かりづらいけど。
喫茶店で一緒になったから勉強教わっているのだが、とても分かりやすく、私たちがどんなとんちんかんなことを言っても笑ったり馬鹿にしたりしない。

「ふふ、篠原君が言ってる通り。深山さん頭良くて、でも不器用そう」
「彼が、そんなこと言っていたのか?」
「うん。頭すっごいいいけど、馬鹿なんだって、あ、ごめんなさい」
「いや、構わない」

ついうっかり失礼なことを言ってしまった。
でも、深山さんは気にした様子はない。

「彼は僕のことを君たちに言うのだろうか?」
「めっちゃノロけてますよー。もうドツきたくなるぐらい」
「もう、柴村君」

まあ、でも本当に時々いらってするぐらいナチュラルにノロけられるけどね。
ふった女の子の前で無神経なんだから。
でも、気を使われないのが、嬉しいのだけれど。

「深山さんは篠原君のどういうところが好きなんですか?」

好奇心から聞くと、深山さんはちょっとだけ首をかしげた。
そしてしばらく吟味するように考える。
本当に真面目な人なんだなあ。

「一言では言えないが………、強くて、前向きなところに、まず魅かれた」
「強い?」

つい問い返してしまった。
私の中の彼のイメージは泣き虫で少し臆病で、でも素直で優しい子。
強いってイメージがなくて、不思議だったのだ。

「ああ、どんなことがあっても、泣いても、落ち込んでも、また立って前向きに道を切り開こうとするところが、好きだ」

ああ、なるほど。
この人は、彼のそういうところを見ていたのか。
そう言われたら、そうかもしれない。
私はどちらかというと、彼の弱いところを見ていたけれど、深山さんは彼の強いところも見ているんだ。
なんか、羨ましいな。

「もう、こっちでもノロけられちゃったね」
「横井が聞くからだろ」
「ね、本当に二人ともラブラブなんだから」

苦笑して柴村君に同意を求めると、柴村君も笑った。
本当に、聞かなきゃよかった。
くすくすと笑い続けると、深山さんが急に表情を改めた。

「………すまない」
「え?」

突然の謝罪に、何がなんだか分からず変な声が出てしまう。
深山さんは、私を真摯な目でじっと見て、そして先を続けた。

「僕は君に嫉妬していた」
「え、嫉妬?」
「ああ、彼があまりに君に好意を持っているから、ずっと嫉妬していた。今も嫉妬している。彼は君の話ばかりする」

突然の告白に、面喰って言葉が出てこない。
こんなに相思相愛の人が、何を言っているのだろう。
ていうか篠原君は一体何を言っているのだろう。

「でも、君の人格はとても好ましいものだと思っているし、僕も君と親しくしたいと思う」

これまたなんていうかストレートな告白だ。
親しくしたいって言われても。
いや、いいんですけど。
なんか、照れるな。

「そして彼とこれからも親しくしてほしいと思っている」
「えっと」
「だから、僕がもし変な態度をとっても、気にしないでほしい」

全然変な態度とられたことなんてないし、嫉妬されてるってことも今知ったし。
むしろ嫉妬していたのは、私の方なんだけど。
なんかもう、本当にこの人達困っちゃうなあ。
素直に嫉妬とかさせてくれないんだから。
しょうがないなあ、本当に。

「大丈夫、篠原君とはずっと友達です」

だから、私はそう言って笑うしかなかった。

「そうか。ありがとう。柴村君も頼む」
「え、ええ!?あ、はい」
「ありがとう」

急に話をふられて焦る柴村君の答えに、深山さんは本当に安心したように笑う。
なんか、篠原君の保護者みたい。

「本当に篠原君が好きなんですね」
「ああ」

深山さんの後ろから、エプロンをつけた篠原君が近づいてくるのが見える。
お代わり聞きにきたのかな。
深山さんは、気付いてくれない。

「三人ともお茶の………」
「彼は、僕の一番大切な人間で、僕の感情の源だから」

あ、真っ赤になった。
もう、本当にこの人達困っちゃう。
馬鹿馬鹿しくなるぐらい、ラブラブ。

幸せにならないと、許さないんだからね。




表紙