和志と美晴の日常

彼はじっとテレビの中のランナーを見ている。
もうトップ集団は出来あがりつつあるが、誰が抜かれても、誰が抜かれそうになっても彼は小さく声を上げて体に力を入れる。
誰を応援する、というものはないらしい。
昔陸上をやっていた彼は、走っている選手たちの鼓動を、自分のもののように感じるのかもしれない。

2時間余りの中継を終えると彼は満足そうに息を吐いた。
そして興奮して目を輝かせて感想を話し始める。
こうして素直に無邪気に話す彼を見ているのは、とても好きだ。

「すごいよなあ、42.195キロもあのスピードでよく走れるよなあ。あの3位の外人すごかったあ。日本人じゃ、やっぱりあのストライドは無理だよ。でも、1位の人はやっぱりすごい綺麗だった」
「ああ、熟練の選手が走る姿は、とても綺麗だ」
「な。あー、俺も東京マラソン目指そうかなー」

足をバタバタとさせて今にも走りだしてしまいそうな彼が微笑ましくて、自然に笑ってしまう。
以前は陸上のことを話す時、少し辛そうな時があった。
今、走りたいと話す彼は、辛い思いはしてないだろうか。

「長距離の選手だったのか?」
「ううん、俺は短距離。200とハードル。でも長距離の方が好きかも。ずーっと走ってるの、好き」

少しためらって、でも問いかける。
彼は、とても走るのが楽しそうに見える。
もっと恵まれた環境で走った方がいいのではないだろうか。

「………部活に、入る気はないのか」
「ない。俺、陸上の才能ないし、競技で陸上やるのもういいや。どんなに頑張ってもどんなに体を痛めつけても、追いつけなくて、苦しくて苦しくて、走るの嫌いになる。嫉妬して、周りの奴ら羨んで、で、それでまた自分が嫌いになって。そういうの、もういいや」

ものすごい逃げの思考だけどさ、と少し笑って膝を抱える。
膝に顎を埋めて、抱えた足の指先を見ながら、彼は続ける。

「一流の選手って、心もタフだよな。きっと。絶対苦しい方が多いのに、絶対逃げないから、あそこにいるんだろうな。苦しくても、嫉妬しても、自分が嫌いになっても、逃げないから一流なんだろうなあ。俺は無理」

俺、心弱いし、と自分を痛めつけるような言葉を言う彼が痛々しい。
彼が弱いとは、思わない。
僕と違って、彼はとても強いと思う。

「逃げてるのかもしれないけど、俺走るの好きだし、ずっと好きなままでいたい。それに部活やると生活部活一色だし、料理出来なくなっちゃうし、バイトもできなくなっちゃうし」

そこで、膝に埋めていた顔をこちらにむけて、悪戯っぽく笑う。

「なにより、美晴と会える時間少なくなるし。俺そんなのやだ」

先ほど前の痛々しい表情を一瞬にして変えて、彼は僕を見て笑う。
その笑顔に、胸が締め付けられるように痛む。

「前は、陸上しかなかったけどさ。今はやりたいこといっぱいあるし、時間足りないぐらい。だから、陸上は趣味ぐらいでちょうどいいや」

それから、彼はまた顎を膝に埋める。
そしてまた指先に視線を戻す。

「でもさ」
「うん」
「俺、中学の最後の大会、やっぱり出たかったな。リレー、出たかったな。俺が出たらきっと負けてたんだろうけど、チームのためには、俺が辞退するのが、正解だったんだろうけど」

僕は彼の才能については何も知らない。
だからそんなことない、なんてことも言えない。
僕は彼のその頃のことを知らない。
誰よりも知っているのは、彼自身だ。
誰よりも苦しんで、誰よりも考え続けてきたのは彼なのだろうから。

「監督も、チームメイトも、皆、俺なんか出なくていいって思ってたけどさ。でも、出たかったな。走りたかった。負けてもいいから」

そこで、言葉を一旦切った。
そして小さく頭を振る。

「ううん、違う」

表情をなくした顔で、自分の足を見つめる。

「結局出られなかったとしても、走る、走りたいって、言いたかった。言えばよかった」

ぽつりぽつりと静かに、感情を込めずに、続ける。

「俺、走りたかったな。走りたかった」

彼はきっと、ずっと後悔し続けるのだろう。
過去は誰も変えられない。
だから、僕にはその後悔を消し去ることはできない。

「僕は」

でも、彼の悲しそうな顔を見たくなくて、僕は彼の体に身を寄せる。
せめて温もりだけでも伝わるように。
彼の感じる痛みが、少しでも癒えるように。

「和志の走る姿は、とても好きだ。とても気持ちよさそうで、見ていると、楽しくなる」

そんな、陳腐なことしか言えない。
どんなに知識を詰め込んでも、彼を笑わせる言葉一つ思い浮かばない。
でも、それは本当のことだ。
僕は、彼が走る姿が、とても好きだ。
それが、少しでも伝わるといい。

「ありがとう」

彼はにっこりと笑って、僕の肩に頭を乗せる。
心地よい重み。

「ありがとう、美晴」

どうかこれから彼に残る記憶が、少しでも彼に優しいものでありますように。

美晴と和志の日常

「この前、千秋と一緒に母さんの研究室に行ってきた」
「へえ」

世間話の合間に、その話題が出た。
聡さんの研究室には行くが両親のところにはあまり行くことがなく、会うことが少ないと言っていた。
両親へのわだかまりを解こうと、努力しているんだな。
そんな真っ直ぐで前向きな美晴が、嬉しい。
変なところで、こいつ自信がなくてネガティブだから。
そんなところ、徐々になくなっていくと、いいな。

「久しぶりだったが、歓迎してくれた。行ってよかった」
「そっか。よかった。きっとお母さんも喜んだだろうな」
「ああ、喜んでくれていたようだ」

思い出すようにして、小さく目を細める。
よかった、いい結果になったようだ。
安心した。
深山も何かすっきりとしたような顔をしている。
ちょっとズルだけど、後で千秋ちゃんにどんな感じだったのか聞いちゃお。

「今度は父にも会いにいってみようと思う」
「うん。そうするといいと思う」

そうして、徐々に徐々に、家族への消えない壁を壊していけたらいい。
俺も、出来ることがあったら手伝いたい。
次はお父さんと、うまく話せるといい。

あれ、そういえば、俺も親父にだいぶ会ってないような。
元気かな。
そういえば兄貴とも全然会ってない気がする。
最後に会ったのいつだっけ。
生きてんのかな二人とも。
まあ、特に別に会いたいとも思わないんだけど。

「君もよかったら一緒に行こう」
「え!」

なんだか顔まで忘れてしまいそうな家族のことを思い浮かべていると美晴が突然とんでもないことを言い始めた。
俺の反応に、美晴は少しだけ顔を曇らせる。
最近は少しの変化でも読み取れるようになってきた。

「嫌か?」
「い、嫌っていうか」

嫌じゃないんだ。
肉親に合わせようとしてくれている気持ちはすごく嬉しい。
嫌じゃないんだが。

「き、緊張する」
「緊張?」

美晴が不思議そうに目を丸くする。
だって、美晴のご両親だぞ。

「なんかこう、恋人の父親に会うってアレだろ。息子さんをくださいって言いに行くみたいな。いや、それはまだ早いよな。ああ、でも気に入られるようにしなきゃだめだな。大学の先生なんだよな?礼儀とかしっかりしなきゃ駄目だよな。せ、正式な挨拶ってどうしたらいいんだろ。あ、それより手土産とか持って行った方がいいよな。お、お父さんって何が好きなんだ!?」

そこまで言って、美晴が小さく噴き出した。
しまった、少し暴走してしまった。

「別に、気にしなくていい」
「で、でも印象悪くしたくない!もしかしたらこれからずっと付き合っていく人なんだぞ!」

軽く言う男にムカついて、ムキになって言い返す。
俺にとっては重大なことだ。

「………」

すると、美晴が一瞬言葉を失う。
そして、空気が変わるように鮮やかに柔らかく笑った。

「もしかしたら、じゃ、嫌だな」
「え?」
「絶対に、父とも母とも兄とも妹とも、ずっと、付きあっていってほしい」

ちょっと、俯いて頬を赤らめる。
それから上目遣いに俺を見て、はにかむように笑った。

「ずっとずっと、僕と一緒にいてほしい」
「み、美晴!」

やばい、かわいい、美晴が超かわいい。
俺は思わず目の前の体を抱きしめた。
なんでこいつこんなにかわいいんだ。
驚くほど頼もしくてかっこいい時もあるのに。

「ずっとずっと、一緒だ。勿論ご家族ともずっとずっと、付き合っていく」
「うん」

美晴も恐る恐る俺の背中に手を回してくる。
ああ、幸せだ。
勿論いずれは俺の義父さんと義母になる人達だ。
老後のことも含めて考えてやる。

「あ、でも」
「なんだ」
「叔父さんとの付き合い方はちょっと考えさせてくれ」




表紙