聡さんの昔話1 |
「迷惑をかけて、ごめんなさい」 意識を取り戻したまだまだ小さい甥っこの、第一声はそれだった。 それが、この甥っこに興味を抱いた瞬間だった。 *** 「美晴、ずっと痛かったんじゃないか?」 「痛かったと思う」 「どうして、誰にも言わなかったんだ?」 「すぐに治ると思ったから。お腹を壊したのだと思っていた」 もうすぐ手術の時間が迫っている。 病院に辿りついて受付を済ました後に、美晴はトイレでぶっ倒れていたらしい。 トイレで嘔吐しながら、そこで気を失ったようだ。 医者から教えられた病名は、急性虫垂炎。 だいぶ進行しているので、緊急手術ということになった。 今は痛み止めを打たれて一時収まっているようだが、やっぱり痛むらしく顔を顰めている。 けれど、それを俺に対して訴えることもない。 たまたま実家に荷物を取りに帰った際に電話があって、一番早くにかけつけられたのが俺だった。 緊急入院したと聞いた時は、驚いたもんだ。 「じゃあ、病院へ行く前にどうして誰も言わなかったんだ?」 「自分一人で出来ると思ったから。前にも、風邪引いたとき一人で病院に行ったし」 腹痛と嘔吐の症状は、絶えまなく続いていたはずだ。 冬休み中だったから学校は行ってないとしても、一人で我慢していたのか。 俺が思わず顔を顰めると、美晴は怯えるように顔を曇らせた。 「何か、いけないことをしてしまった?ごめんなさい」 美晴の印象は、薄い。 兄貴の子供の三人のうち、一番大人しくて一番優等生だ。 正直優等生な子供よりは、いたずらっ子の長男とこまっしゃくれた末っ子がかわいかった。 実家に帰った時も、美晴と遊んだ記憶はほとんどない。 だからよく覚えていないのだが、この子はこんなにも遠慮がちで人の顔色を窺うような子だっただろうか。 「いけないことなんて、してないよ。悪かった、痛いことに気づかなくて」 「………ごめんなさい。忙しいのに、迷惑をかけて」 「迷惑だなんて思ってないよ。かわいい甥っこのためなら、いつだって駆け付けるさ」 けれど美晴は困ったような顔を崩さない。 ベッドの上で小さな顔を青ざめさせながら、必死に言いつのる。 「聡さん、もう帰って大丈夫だよ。用事あるでしょ」 「とりあえず兄さんと義姉さんが来るまではいるさ」 「………お父さんとお母さんが来るの?」 美晴はますます困ったように、途方にくれたような顔をした。 悪戯して大事なものを壊してしまった後のように。 「勿論来るさ」 「来なくても大丈夫だよ。聡さんが荷物持ってきてくれたし」 「これから手術だぞ、そういう訳にはいかないだろう」 「………」 ぎゅっと小さな手で布団を握りしめ、俯く。 病気の時は、たとえ風邪でさえ心細くなって、両親の手を求めるものじゃないだろうか。 なのに、なぜこの甥っこは、ここまで両親の訪れに怯えているのだろうか。 「お父さんとお母さんに来て欲しくないのか?」 「迷惑を、かけたくない」 「………さっきから迷惑だ、迷惑だって言っているが、誰も迷惑だなんて思わないぞ。子供が病気なら親は心配だ。それに俺だってすごい心配だ」 「お父さんもお母さんも聡さんも忙しいでしょ。僕一人じゃ駄目なの?一人で出来るよ」 そりゃ忙しいが、病気の子供を放っておける両親がいるだろうか。 兄貴も義姉も、そんな薄情な人間ではない。 なんでも一人で出来るって主張したいガキの強がりかと思って、つい強くたしなめてしまう。 「ガキが一人で入院なんて出来るわけないだろ。お前一人で生きていると思うなよ。今回だってもっと早くに具合が悪いってお前が言ってたらこんな大騒ぎになんなかったんだ」 「………ごめん、なさい」 「怒ってる訳じゃない。具合が悪いなら言ってくれ。急に病院から呼び出されたりしたら寿命が縮む」 美晴は、俺の言葉にじっと何かを考えているようだ。 そして、俯いたまま、ぽつぽつと話し始めた。 「………さっき、看護婦さんにも言われた。親御さんは何も知らないのって。そんなのおかしいって。子供が病気なのに気付かなかった親は、周りの人から、あまりよく言われないよね」 出てきたトンデモ意見に、思わず頭が真っ白になる。 これが拗ねて出てきたような言葉ならともかく、どうやら美晴は真剣にそれを心配しているようだ。 予想以上に、この甥っこの思考は斜め上らしい。 ガキの強がりや反抗期とか、そういう訳じゃないようだ。 なんでいきなり世間体の話になるんだ。 いや、そりゃ世間体悪いだろうけど。 そもそも家で絶対具合悪そうにしていただろう息子に気付かなかった親が一番悪いだろう。 なんでこいつがそんなこと気にしてるんだ。 「………そういうことじゃなくてだな」 「僕は、やることを、間違えたんだ。ごめんなさい。余計に迷惑をかけた」 「………美晴」 なんて言ったらいいのか分からなくなった。 大人しい親の言うことをよく聞く真面目な優等生。 それが美晴の印象だった。 正直、手はかからないがつまらない子供。 美晴は、こんな子供だったか? 「美晴!」 「美晴、大丈夫!?」 そこで連絡を受けてようやく兄貴と義姉が駆け付けた。 血相をかえている二人を前にして、美晴は顔をますます青くした。 「あ、ごめん、なさい。ごめんなさい」 「美晴?」 「ごめんなさい。迷惑かけて、ごめんなさい。こんなことになって、ごめんなさい」 美晴は、泣きそうに顔をゆがめながら、ただ両親に謝り続けた。 | 聡さんの昔話2 |
「美晴、山に行ってみようか」 素直な甥は、不思議そうな顔をしながらも頷いた。 基本、何を言われても逆らうことはしない。 そう、この甥っこは、反抗したり嫌がったりすることは全くしない。 なんでも、誰の言うことも言うことを聞く。 生意気な長男や、こまっしゃくれた末娘と違って、ただ全てを受け入れる。 嫌なことも、いいことも。 いや、嫌だって思ってることすら分からない。 楽しいことも悲しいことも、感情を表わさずただ飲み込んでいる。 まるで感情を出すことが罪だとでもいうように頑なに。 そのおかしさに気付いたのは、この前の美晴の入院の一件だった。 兄と義姉が仕事を放りだして駆け付けたことに、美晴はずっと謝り続けた。 泣きそうな顔で、ごめんなさいと言い続けた。 謝ることなんてないと言っても、迷惑かけてごめんなさいと謝り続けた。 両親の仕事を邪魔したのが、とんでもない罪だと言うように。 誰も気づかなかった。 美晴がこんなにも家族に対して萎縮していることに。 誰も見ていなかった、美晴のことを。 出来のいい、大人しい、手のかからない。 美晴に対する形容詞はそんなものだった。 手のかからない、誰の手も煩わせないいい子だった。 だからこそ、誰も美晴に気を止めなかった。 美晴が努めて、人一倍努力して、いい子でいようとしていたことに気付かなかった。 気付いた時には遅かった。 もう美晴には父の言葉も届かないし、母の手も必要としない。 両親というものは美晴にとっては我儘を言う存在でも、愛情をもらう存在でもなくなっていた。 兄も妹すらも、親しい存在ではなかった。 兄は大人しい弟に興味を払わなかった。 妹は大人しい兄を見下していた。 美晴は二人に望まれればなんでもしたし、何もかもを捧げた。 自分の大事なものだろうとあげるし、仲間外れにされても特に気にしない。 そんな不自然なことに、ようやく気付いたのだ。 気付いた両親が、なんとか美晴の心を解きほぐそうとした。 けれど、二人がどんなにその愛情を注いでも、美晴は余計に恐縮するばかり。 一度はパニックに陥って、過呼吸すら起こした。 急に与えられた手は、甥には受け入れられなかった。 兄も義姉も困り果てた。 病院に行くことも考えた。 だから、その前に俺が名乗り出ることにした。 病院にかかった方がいいのかもしれないが、その前に美晴の感情を引き出してみたかった。 それは暇つぶしだったのかもしれない。 興味本位だったと言われれば、確かにそうだ。 ただ、このガラス玉のような目をした甥に、色々なものを見せてみたかった。 汚いものも綺麗なものも詰め込んで、感情で溢れさせたいと、そう思ったのだ。 | 聡さんの昔話3 |
美晴は両親よりは俺に委縮はしなかった。 俺は暇人の道楽ものだから、甥っこを連れまわして遊びたいと吹き込んだ。 素直な甥は、それを信じたようだった。 僕といても面白くないよと言いながらも、暇だから付き合えと言えば付いてきた。 俺は美晴に本を与え、美味しいものを食べさせ、木登りなどもさせてみた。 漫画も見せて、ゲームもさせてみた。 けれど、美晴は無反応のまま。 なんでも素直にやろうとするし、楽しいとは言うけれど、その表情は動かない。 本当に楽しいと思っているのか。 本当はつまらないと思っているのか。 さっぱり分からない。 何を与えても無感動な甥に少々飽きてきたところだったが、それでも思いつくものを全て与えてみることにした。 そこで、一際反応を見せるものがあった。 やはり表情は中々動かないのだが、それでもわずかに楽しそうに見せるものがあった。 数学だった。 数学者の話をした時はガラス玉のような目をキラキラさせて聞いていたし、簡単な算数が分かれば分かるような遊びをしてみたら、夢中になってやっていた。 おそらく楽しんでいたんだと思う。 多分。 数学者を志すものとして、数学が好きってだけで随分この甥っこがかわいくなってきた。 それに、少しでも反応が見えれば、次はもっと引き出せるんじゃないかという気になってきた。 「美晴、山に行ってみようか」 そこで、今度は山に連れていくことにした。 部活は忙しくて入れなかったが、登山は好きだった。 ワンダーフォーゲル部の友人に一から教わり、休みのたびにパーティーを組んで本格的に登ったりもした。 以前に見た山の朝焼けの景色は、ひねくれた俺にも胸にこみ上げるものがあった。 今でも脳裏に焼き付いている、茜色に染まる世界。 自然に触れ合うなんて、いかにも感情が生まれるきっかけになりそうなものだし。 初心者には少々辛い行程だったが、一番印象に残っている山を登ることにした。 山小屋で一泊して、朝焼けを見るコース。 素直な美晴は文句も言わずに小さな体には大きいリュックサックを背負って、後ろから息を弾ませて付いてきた。 何度も後ろを振り返り、一応声はかける。 けれどどれだけ歩いても、美晴は疲れたとは言わない。 顔にはだいぶ疲労の影が見えている。 「美晴、疲れたら言うんだぞ」 「うん」 美晴は素直にこくりと頷く。 でも多分分かってない。 仕方なく、俺はいつものようにやり方を変えることにした。 「いいか、美晴。黙っていて、後で倒れてみろ、そっちの方が皆に迷惑かかるからな」 「………分かった」 「悪化する前の初期に言うのが、一番迷惑がかからない」 「うん」 どうやら理解したようだ。 こういう言い方をしないと、この賢く馬鹿な甥は納得しない。 お前が心配だからなんて言っても、困ったように頷くだけだ。 「………少し、足が痛い」 「早く言え」 途端、本音を吐き出す美晴。 ほら見ろ。 「だいぶ馴らしたけど、やっぱりちょっと豆が出来かかってるな。処理はしておくけどもっと痛くなったらすぐに言えよ」 美晴はやっぱりこくりと頷く。 そしてしばらく休んでから行くことにした。 無理は禁物だ。 「ごめんなさい」 「何が?」 「遅くなって」 またこいつは。 きっと気にするなと言っても聞くことはないだろう。 「ほら、美晴」 「………何?」 「チョウノスケソウ」 「え」 顎でしゃくると、そこには岩肌にへばりつくようにして白い小さな花。 厳しい環境に健気に咲き誇る小さな花は、いじらく見える。 「岩なのに、花が咲くなんて不思議だよな」 「うん」 「綺麗だろ」 「うん」 美晴はガラス玉の目をきらきらとさせながら、花を見ている。 その様子は子供らしくて、かわいらしい。 「もっと沢山の花がある。ゆっくり見て行こう」 美晴は俺を見上げて、ゆっくりと頷いた。 「うん」 | 聡さんの昔話4 |
美晴はその後、卑屈なことも言うことなく一生懸命歩いていた。 たまに足が痛いか、疲れたか、と聞く。 「痛いけれどまだ歩けると思う。けれど、僕にはよく分からないから、聡さん見てみて」 「疲れたけれど、まだ倒れるほどじゃない、と思う」 我慢することに慣れてしまって限界が分からなくなっているらしく、一応俺に判断をゆだねるようになってきた。 まあ、なんでもかんでも我慢していた時より、ずっとよくなったと言うべきだろう。 一応山は楽しんでいるようだ。 花などを説明してやると、ガラス玉の目をキラキラとさせながら興味深そうに聞いている。 相変わらず無表情だから分かりづらいが。 休み休みなんとか歩いて、完全に日が落ちる前になんとか頂上付近の山小屋に辿りついた。 ここで一泊して夜明け前に頂上に向けて出発する。 天気は崩れないようでよかった。 山小屋は夏休みのさなか、やはり混んでいて個室は取れなかった。 予約してくるべきだったな。 まあ、寝るところが確保できただけ上出来だろう。 美晴はやはり疲れてるようで、あまり食事が進んでなかった。 固形は辛いようだったから、バナナとヨーグルトを与える。 しつけが行き届いているからいつも綺麗に食べる美晴が、バナナをがつがつと食べていたのに少し吹き出してしまった。 すると美晴が大きな目で不思議そうに俺を見ていた。 うまいか、と聞くと、すごくおいしい、と少しだけ柔らかい表情を見せた。 それは、はじめてみる表情だった。 相部屋に何人か敷き詰められて、マグロのようにごろごろと転がる。 子供がいるからと端を譲ってもらえた。 美晴を壁際にして、粗末な毛布をかぶる。 育ちのいい甥っこはこんなところで寝たことがないのだろう。 とても居心地悪そうに何度も寝がえりを打つ。 その華奢な体を引き寄せて、薄い背中をなだめるように撫でる。 びっくりしたように体を固くする美晴。 逆効果かと思って離そうとすると、ぎゅっとシャツを握られた。 驚いて目を開くと、美晴は体を丸くして俺に寄り添っていた。 胸に顔を埋めて、目を瞑っている。 その手は、強く俺のシャツを握っている。 何か言おうと思ったが、おそらく何か言えば甥っこは離れて行くだろう。 だから、何も言わずにその背を撫で続けた。 しばらくして、華奢な体から力が抜け、規則正しい寝息が聞こえてくる。 腕の中で無防備に眠る、小さな存在。 それがたまらなく愛しいと思えた瞬間だった。 | 聡さんの昔話5 |
明け方、腕時計のアラームが小さく鳴って、目が覚めた。 腕に何か違和感を感じて寝ぼけたまま見降ろすと、甥っ子がもぞもぞとしていた。 すでに起きているようだ。 結局あのまま抱きしめたまま眠ってしまったらしい。 美晴は何か言いたげにじっと俺を見ている。 「どうした?」 「………トイレに行きたい」 思わず笑ってしまった。 まだ寝ていた人間にうるさいと言われる。 慌てて笑い声をおさめ、小さな声で囁く。 「早く言え。起こしていいから」 俺が抱き枕代わりに寝ていたから、起こしてしまいそうで動けなかったのだろう。 いつから我慢していたのか。 本当に困った奴だと、思わず苦笑が零れる。 けれどそれは不快な感情ではない。 胸の中にあった無反応な甥に対する、面倒くさいという感情が消えている。 半分以上、義務感だった。 困っている兄夫婦と、余計に美晴を邪険に扱いそうな祖母、壊れそうな家族を見ていられなかった。 だから、可哀そうな甥っこをなんとかしようと、好奇心半分義務感半分連れまわした。 それが、たった一晩で、こんなにも可愛い存在になっていた。 不思議なものだ。 「よく眠れたか?」 腕から解放しながら、聞くと美晴はこくりと頷く。 そういえば美晴は、小さい頃から両親と寝ることもなかったな、と思い出す。 あの頃かなり忙しかった兄夫婦は夜が遅いこともあり、面倒はベビーシッターに任せ、当然のように眠るのも一人だった。 祖母が添い寝をしたがった長男と、両親が隣を競い合った妹と違って。 まあ、海外では当然なことだけれど。 身支度を整え、簡易食糧で簡単に朝を済ませ、頂上に向け出発する。 まだ夜は明けておらず、辺りは薄闇に包まれている。 うっすらとした明りの中、ただ歩く。 美晴の足はだいぶ痛んでいたが、頂上へ行って、休み休み帰るぐらいならなんとかなるだろう。 しばらく筋肉痛と豆には悩まされそうだ。 登山が嫌いにならないといいが。 そして丁度太陽が昇り始める頃に頂上に着く。 じわじわと、強いオレンジ色が、埋め尽くす雲と山裾を照らしていく。 星と月と夜が、日の光に侵蝕され、消えていく。 世界が、茜色に染まっていく。 まるで別世界に来たのだと錯覚してしまいそうな、自然が織りなす壮大なショー。 「………」 美晴は瞬きを忘れたように、じっとそれを見ている。 口をぽかんと開けて、呆けたように。 その顔を見て、俺には確信が生まれる。 大丈夫。 この甥は感情を忘れたわけじゃない。 喜びも悲しみも、その小さな胸にいっぱいに詰まっている。 今はただ、その感情をうまく認識して、表現することができないだけ。 「綺麗だな」 俺も山を見下ろしながらつぶやくと、美晴が反応して頷く。 「すごく、綺麗だと思う」 「山を気にいってくれたか?」 美晴はガラス玉の目をオレンジ色に染めながらこくりと頷く。 「うん、とても、いいものだと、思う」 美晴の会話には、「思う」という言葉がよく出てくる。 自分の感情も、自分の体のことも、どこか客観視して、他人事のように話す。 苦しいことも辛いことも、全て自分が感じているものではないというように。 それに最近気付いた。 何もかもを我慢して飲み込んで、その末に身に付けたものだと考えると、ひどく切ない。 「そうか。じゃあ、また来ような」 美晴は俺の言葉にぎこちなく頬を緩ませて、僅かに目を細める。 分かりづらいが、それは確かに笑顔だった。 美晴は嬉しそうに笑って、頷いた。 「また、来たい」 初めて聞いた望み。 初めて見た笑顔。 表現できない感情に突き動かされ、その華奢な体を抱きしめる。 「聡さん?」 不思議そうな声で俺の名前を呼ぶ甥。 頼りない存在抱きしめながら、絶対に、この小さな体を感情で溢れさせてやろうと、そう思った。 | 聡さんの昔話6 |
ああ、本当にあの時の美晴は食べてしまいたいぐらい可愛かった。 ひねくれまくっていた俺に母性本能みたいのが生まれてしまうぐらい愛らしかった。 目に入れても痛くないっていうのはこういうことを言うのだろう。 何を言っても、何をしても愛しくて仕方がない。 可哀そうな甥っこへ対する義務感なんてどこかへ吹き飛んでしまった。 あれから、かわいい美晴の世話は俺の趣味となった。 俺が知ってる、いいことも悪いことも全てつめこみ、いっぱいに溢れさせた。 少しづつ感情の表し方を覚えて行くのが嬉しくて楽しくて仕方なかった。 美晴も誰よりも俺に懐いてくれた。 無防備に全てを委ねてくる甥が、もう本当にどうにかなりそうなほど可愛かった。 「ああ、それなのに」 「なんだよ」 「こんな馬の骨に持ってかれるとは」 「それは俺のことか!?」 ソファに寝そべりながら、やってきた甥の恋人を見上げる。 太くつり上がった眉は意志の強さを感じさせる。 手入れのしていな眉や髪がどことなくやぼったいが、まあ磨けばそこそこ光るかもしれない。 「来た途端ご挨拶だな、おっさん」 「俺のかわいい美晴が、こんな人のことをおっさんというような礼儀のなってないガキに持ってかれるなんて」 「いきなり馬の骨呼ばわりする方が失礼だろうが!」 「俺が大事に大事に育ててきたのに」 俺が一生懸命、心血注いで育ててきた甥っこは、最近恋人が出来た。 そしたらすっかり一番愛を注いでた叔父なんて捨てて、恋人に夢中。 ああ、面白くない。 「二人とも、喧嘩をするのはやめてくれ」 美晴が困った顔で仲裁に入る。 『喧嘩じゃない』 思わず揃ってしまった声に、二人同時に嫌そうな顔をした。 思いっきり顔を顰めていたクソガキが、急に美晴に向き合う。 「美晴、一番好きなのは誰だ!」 「和志だ」 「だってよ、おっさん!」 偉そうに見下され鼻で笑われる。 ああ、殴りてえ、このクソガキ。 俺のかわいい美晴が、こんな奴に持ってかれるなんて。 まあ、いじめてもいじめても美晴を諦めなかったその根性は認めてやらなくもない。 「でも、聡さんも大事な人だ。無理にとは言わないが、出来れば二人が仲良くしてくれると嬉しい」 今度は俺が勝ち誇ったように笑う。 すると、クソガキは今度はさっきよりも嫌そうに顔を歪めた。 「無理か?」 途方に暮れたように首を傾げる美晴。 しばらくお互い無言だったが、和志が大きくため息をつく。 「まあ、あんたはものすごく認めたくはないが、美晴の一応叔父さんだ。仕方ないが敬意を払ってやらないこともない」 「偉そうだなあ、おい」 「てことで、ほら、ケーキだ」 ガキが持っていたケーキ箱をずいっと差し出される。 いきなりの話題転換についていけず、素の声が出てしまう。 「は?」 「俺の手作り。お土産」 「どういうこと?」 「一応これから親戚付き合いしていく訳だからな。お近づきの印だ」 俺の前のローテーブルに置くと、ケースを開く。 中には3つのチョコレートのケーキ。 ご丁寧にフィルムにくるまれ、見た目は店で売っているもののようだ。 「さあ、食え!」 なぜか偉そうに得意げに、ケーキを差し出される。 ご丁寧に一人分取りだされ、美晴が皿とフォークをキッチンから取ってくる。 そして無理矢理渡される。 なんなんだ一体。 「………和志、そのケーキに、納豆は」 「今回のは入ってないよ」 「そうか」 なんだその怖い会話は。 突き刺そうとしていたフォークを一旦止めてしまう。 「うまいって。食えって」 しかし半ば強制的にフォークを取り上げられケーキをぶっ刺され、差し出される。 ここで受け取らなければ今度は口に突っ込まれそうだ。 仕方なくため息一つ、黒い塊を口に入れる。 「………」 「どう?」 「………」 正直に言おうかどうか、ちょっと迷う。 けれど、生意気なガキが、不安そうに俺のことをじっと見ている。 その後ろの美晴も不安そうにはらはらとした様子でそんな俺たちを見ている。 全く仕方ない。 「………悪くない」 「本当か!?」 「ああ、まあ、食える」 それは本当のことだった。 スポンジは適度にふわふわで甘みもありしっとりしている。 チョコレートの甘さはしつこ過ぎず、中はとろりと滑らかだった。 ガキはそこでガッツポーズで飛び上がる。 「よっしゃああ!!」 「なんだよ」 「あんたがそう言うってことは本当に結構うまく出来てるんだろ?あんた俺にお世辞なんて言わないだろうし」 「………」 まあ、こいつ相手にお世辞言うようなことはしないな。 見透かされているようで、少しムカつくが。 にやあっと笑って甥っこの恋人は、後ろを振り返る。 「美晴!今度お父さんに会いに行く時、このケーキ持ってくな!」 て、おい、俺は毒見か。 それから俺たちも食おうと言って、人の家のキッチンに勝手に入っていく。 あいつ、いつの間に人の家のキッチン把握してるんだよ。 「美晴、兄貴に会いにいくのか?」 「うん。彼と一緒に会いに行く」 柔らかな表情で笑って、美晴が頷く。 この前は義姉に会いにいったと聞いた。 感情を表すようになってからも家族には懐かず、俺にしか心をひらなかった甥は、最近家族と打ち解けようと頑張っている。 それは少し寂しく、けれどそれ以上に温かい気持ちになる。 「今、楽しいか?」 「うん、楽しい。とても、幸せだ」 「………思う、ってあんまり言わなくなったな」 「え?」 「いや、なんでもない。それならよかった」 美晴はだいぶうまくなった笑顔で、にっこりと笑う。 本当に幸せそうに笑う。 「和志がいて、聡さんがいる。僕は、とても幸せ者だ」 ああ、なんてかわいいんだろう、俺の美晴は。 お前の幸せを祈っている。 いつだって祈っている。 目に入れても痛くない、俺のかわいい甥。 「俺もお前みたいな甥っこがいて幸せだよ」 だからこそ、恋人はいびり倒してやる。 俺と言う障害を乗り越えられないようじゃ、美晴は渡せないからな。 |