和志君の昔話1

「お前はちょっと真面目すぎるなあ。お母さんそっくりだ」
「あんたはお父さんみたいにいい加減になるんじゃないわよ!」

そんな言葉を聞きながら育った。


***




学校周りのランニング最中、裏でチームメイトが三人座っているのが見えた。
俺はため息付きつつ三人に注意する。

「おい、ちゃんとやらないと駄目だろ」
「えー、見逃してよー、篠原真面目すぎー」
「監督に怒られるぞ。ほら、後三週」
「面倒くせーなー」

チームメイトがぶつくさ言いながらも、ようやく走り出す。
監督は見てないといいつつ実は見てるんだから、サボったらすぐバレるのに。
どうして真面目に出来ないんだろう。
案の定走り終えた途端、監督の怒鳴り声が響いた。

「おい、生野達、サボってただろ。連帯責任だ、全員後5周追加」
「えー!!」

部員全員から不満の声が上がる。
しかし監督の怒鳴り声に叶うはずがなく、しぶしぶ全員走り出す。

「部長ー、ちゃんと見張っておけよー」
「篠原、あいつらすぐサボるんだから叱れよ」

走り出していく同級生が、俺にそんな言葉をかけていく。
あいつらも見ていたはずだけど止めなかったのに、責められるのは少々理不尽だ。
けれど、確かに部長として皆を監督しなければいけない責任はある。
それを達成できていないのは、自分のせいだ。

「ごめんな。あいつらには言っておく」

だから素直に謝って、俺も一緒に走りだした。


***




「ただいま」
「お帰りなさい」

家に帰ると、母さんはいつものように少し不機嫌そうだった。
また父さんが帰らないって言ったのかな。

「全くもう、お父さんたらまた飲みですって」
「仕方ないよ、仕事だから」
「仕事な訳ないでしょ。遊びよ遊び。あの人は本当にいい加減なんだから」

耳にタコが出来そうなぐらい聞かされた父への不満。
確かにお父さんは適当で、よくいえば大らかな人だ。
友人が多く遊びまわっていて、週の半分は家にいない。
仕事ってのも確かにあるんだろうけど。

「兄貴は?」
「宏一も今日は帰らない、ですって。あの子は本当にお父さんそっくり」

まだ高校生の兄貴も、友達が多くいつも遊びまわっている。
髪は金髪でピアスじゃらじゃら。
ああいうの、あんまりよくないと思うんだけどな。
お母さんが怒るのも無理はない。

「あんたはあの二人みたいにいい加減な人間になるんじゃないわよ」

そして母の文句は、いつもの言葉で締めくくられた。
俺もまたいつものように素直に頷く。

「分かってるよ。腹減った。ご飯」
「はいはい」

そこでようやくお母さんは笑顔になった。
やっぱりお母さんは怒るより、笑っていてほしいなって思う。

俺は、真面目な人間にならなきゃ。

和志君の昔話2

「生野、サボるなって」

少しふざけたところのある親友は、今日も姿が見えないと思ったら部室でゲームをしていた。
毎度のことで、少し疲れてくる。
監督に怒られるのは俺だし。

「だってさ、俺サボっても速いし」

ゲームから目を逸らさないまま、生野は別に自慢するでもなくそんなことを言った。
それは確かだ。
生野は部の誰よりも速い。
全国大会には一歩及ばなかったが、県大会では3種目に渡って上位に食い込む活躍を見せた。
まだまだ成長し続けている。
その将来性を買われて、高校にもスポーツ推薦が決まっている。

「………確かにお前は速いけど、だからこそ余計に後輩とかが緩くなるだろ。お前エースなんだからもっと先輩らしくしてくれよ」
「はいはい。全く部長さんは真面目だなー」
「少しは部長に協力してくれ」
「でも俺後輩にも愛されてるもん」

つまらなそうに生野はゲームを放り出して、ようやく部室を出て行った。
確かに、口うるさい俺と違って、生野は後輩に好かれている。
あの少しふざけたところも勝手なところも、実力と人懐こさと相まって、魅力的に映るのだ。
一緒にいて、俺も楽しい。
監督だって口うるさくいいながら、結局人好きのする生野を許してしまう。
喧嘩をしながらも、一番のお気に入りだ。
怒られるのは、いつだって、俺だけ。

俺みたいに真面目な奴と言われる人間は、決して人に好かれたりは、しない。



***




その日の放課後、監督に呼び出された。
次の大会のオーダーの話ってことは分かっていた。

「篠原、今度の大会なんだがな」
「はい」
「すまないが、リレーのオーダーからお前を外そうと思う」

申し訳なさそうに目をそらしながら、監督が言った。
一瞬、言われたことを理解したくなくて、聞き返しそうになった。

「………」
「お前が頑張ってくれてるのは知っている。だが、今後は1、2年で部を引っ張っていかなきゃいけない。次に部の要になる奴に少しでも経験させてやりたいんだ」

監督は俺と目を合わせない。
分かってる、そんなの綺麗事だ。
俺はそんなに速くない。
人一倍努力しても、レギュラーの奴らには追いつけない。
もっともっと努力すればいいのかもしれない。
監督に言えば、努力が足りないって言うだろう。
母さんに言ってもそう言うだろう。
けれど、そうしてもきっと追いつけない。
それは、半ば確信だ。
前回、前々回の大会だって、部長っていう立場のお情けで出してもらったようなものだ。

でも、入賞はできたんだ。
だから、今回も出してもらえると思っていた。
最後だ。
中学校最後の大会だ。

「………」
「お前は立派な部長だ。部長として、皆をサポートしてやってほしい」

部長。
そうだ、俺は部長だ。
なら、部のことを考えなければいけない。
部のためにすべきことはなにか。

「………はい」

それは、この返事だけだ。
実力から言ったら、二年の関本が出るのが妥当だろう。
俺なんかが出るよりはずっといいはずだ。

「ありがとうな。お前ならそう言ってくれると思ってたよ」

監督がようやく笑って、俺の目を見返してくれる。
だから俺は笑って、こう返すしかなかった。

「………部の皆には、その方がいいと思いますから」


***




「ただいま」
「おかえりなさい」

母さんは今日も不機嫌だ。
父さんと兄貴の靴はない。
それなら、次の言葉はもう分かっている。

「今日もお父さんと宏一は帰ってこないって。本当にどうしようもないわ」
「………うん」
「あんたは、あの人たちみたいになるんじゃないわよ」
「………うん」

いつものように、頷く。
でも、お父さんも兄貴も友達がいっぱいいるよ、母さん。
お父さんは仕事が出来て、人に信頼されている。
兄貴は、ふざけていても勉強が出来る。

「さ、ご飯にしようか」
「うん、荷物置いてくる」

ねえ、お母さん、本当に真面目っていいことかな。
真面目な俺は、本当にいい子なのかな。

なんか、すごく疲れた。
最後の中学校の大会。

あれが、正しい選択だった。
それに、結局俺が何を言っても、監督は関本を出すだろう。
なら、仕方がない。

あれが、正しい選択だった。
俺は、部長なんだから。

和志君の昔話3

「篠原、次のリレー出ないの?」
「うん、関本が出る」
「………監督に言われたの?」
「うん」
「そっか。残念だな」
「………でも、まあ、実力だったら関本が上だしな」

そっか、とだけ生野は言った。
そこでがっかりした自分が、恥ずかしかった。

俺は多分、もうちょっとだけ、引きとめてくれるのを期待していた。
俺が監督に言ってやるよ、とか言われるのを、少しだけ期待していた。
自分では言えない。
だから、少しだけ、期待していた。
それでなくても、もう少しだけ、残念がってくれるんじゃないかって思っていた。
三年間、一緒に頑張ってきた。
最後に一緒にリレーに出たいって、言ってくれるんじゃないかって思ってた。

実力も努力も足りない俺が、引くのは当然なのに。
そんな自分が、恥ずかしかった。


***




その日は、大会が一週間前に迫っていた。
一応補欠ではあるから、靴を持って帰って手入れをしておこうと思っていた。
それなのに靴を部室に忘れてしまって、途中で引き返した。

駆け足で戻った部室の中から、声が聞こえた。
そういえば皆、アイスを食べにいくって言っていたっけ。
俺はなるべく早く帰らないと母さんが怒るから断ったけど。
まだ部室にいたのか。
あんまり遅くまで残っていると怒られるから、注意しないと。

ドアノブに手をかけようとして、中から笑い声が聞こえてきた。
薄いドアは、とてもクリアに中の人間の会話を伝えてくる。

「笑うよな、篠原」

自分の名前が出て、ドアノブにかけた手を止める。
ひやりと水をかけられたように、血の気が引いた。
一瞬で体温が下がって、それなのに背中に汗を掻く。

「あいつ、リレーの選抜、監督から言われて諦めたらしいよ」

それは、生野の声だった。
1年の時に同じクラスで部活も一緒で、休日も遊んだりした。
なんでも話しあえる、親友だと、思っていた。
いい加減なところもあるが、明るくて人懐こい、いい奴だった。

「自分から言えよなあ、そんな速くないんだしさ」

こいつの毒舌は、いつものことだ。
そうだ、いつものことだ。
だから、これもきっと、いつもの毒舌だ。

「本当に空気読めないよな」
「あいつさあ、部長だからってえばりすぎだよな。超うぜえ」
「また部のためになるならいいです、とか言ってたのかな」

追随する声も、ずっと一緒に頑張ってきたチームメイト達。
一緒に監督に怒られて、一緒に練習して、一緒に笑って、一緒に頑張ってきた。
ぶつかったりもするけど、いい友達だと思っていた。

「うざいよなあ。いい子ぶりっこめっちゃうざい」
「誰もお前なんて頼ってないって」
「マジウザイ。この前ちょっとサボっただけでうるせーつの。お前先生かよ」

笑い交じりに、とても楽しそうに話しているチームメイト。
笑い声が頭に響いて、頭が痛い。
痛い。
ぐらぐらする。

「遅いくせに部長とかさ、どんだけお前えばりたいんだよって感じ。生野がやればよかったんじゃねーの?」
「やだよ、面倒くさい。あいつが好きで雑用係やってくれてんだからいいじゃん。遅いんだから雑用係でちょうどいいんじゃね?」

みんなに嫌な顔されながら、注意とかするのは、嫌だった。
監督に代表して怒られるのは、嫌だった。
最後まで残って道具を整備するのも嫌だった。
監督とオーダーを決めたりするのも責任が重くて嫌だった。
部長なんて、やめたいって、何度も思った。

でも、いい部活を作りたいって思った。
皆で楽しく、強くなっていきたいって思った。
多少嫌な顔されても、皆は分かってくれてるって思った。
だから、真面目に頑張ろうって思ってた。
真面目に取り組んでいれば、みんな分かってくれると思っていた。
分かってくれていたと、思っていた。

ドアの中に入ろうかと思った。
好き勝手言うなって言おうかと思った。

でも、出来なかった。
聞かなかったことにすれば、また明日こいつらと話せる。
中に入ってしまえば、もうきっと、終わりだ。
生野とも誰とも、もう笑って話せない。

そう思ったら、逃げることしかできなかった。

聞かなきゃよかった。
知らなきゃよかった。
そしたら、俺は皆から必要とされてるって、思っていられた。
多少貧乏くじを引いても、部長だから仕方ないって思っていられた。
皆から頼られているんだから仕方ないって思っていられた。

逃げて逃げて逃げて。
頭が真っ白で。
ぐらぐらして。
気持ち悪くて。

「おかえりなさい」

今日もお母さんは、不機嫌だった。
今日もお父さんと兄貴はいない。

「あんただけは真面目に、あの人たちみたいにならないでね」

母さんの言葉が、絡みつく。
吐き気がする。
怒鳴りつけたい。

真面目にしたからってなんだって言うんだ。
大人の言うことを聞いて、ルールを守って、正しいことをしたからなんだって言うんだ。
あんたのせいで、俺はこんなになってしまった。
皆から嫌われてしまった。
全部全部、母さんのせいだ。
あんたがそんなことばっかりいうから、俺は皆に嫌われたんだ。
母さんがそんなだからお父さんも家に帰ってこないんだ。

「私の希望は、あんただけだわ」

でも、言えなかった。
言えるはずがなかった。
だから笑って、そうだね、としか言えなかった。

気持ち悪い。
逃げたい。
苦しい。

全部全部、夢だったらいいのに。

和志君の昔話4

次の日、学校に行ったら、普通に生野は笑いながら話しかけてきた。
他の奴らも、親しげに、話しかけてきた。

昨日のことは、夢なんじゃないかと思った。
でも、やっぱり靴は部室に置きっぱなしだ。
昨日の笑い声は、頭にこびりついて、離れない。

もう、うまく笑えない。
もう、うまく話せない。
どうやって笑っていただろう。
どうやって話していただろう。
もう、分からない。
皆の顔を見たくない。
俺をあざ笑う奴らの、顔なんて見たくない。

初めて、部活をサボった。

1年の頃は、部活が大好きだった。
走ることが、大好きだった。
練習すれば練習するほど速くなるのが、楽しかった。
小学生の頃から足が速いって言われていた。
一番初めに、ゴールのテープを切るのが嬉しかった。
練習すれば、もっともっと速くなれるのだと思っていた。

2年になって、中々タイムが伸びなくなった。
でも、速く走りたくて、もっともっと練習した。
当時の部長から、色々言われることが多くなった。
部の仕事をすることが多くなった。
正直、面倒だった。
でも、部のためだし、皆のためになるんだと思ったら、我慢出来た。
でも本当はもっともっと走りたかった。

2年の後半に部長になった。
3年になって、雑用がもっと増えた。
走る時間が、減った。
走っても走っても、タイムが縮まることは、なかった。
どうやっても、俺は生野みたいに速く慣れなかった。

徐々に走るのが、辛くなってきた。

走るのが、苦痛だ。
走れない。
走りたく、ない。
そう思えば思うほど、体が重くなっていった気がする。
その度に、自分の努力が足りないんだと言い聞かせた。

でもどこかで、自分はもう速くなれないんだって、分かっていた。

サボった次の日、部活の皆は大丈夫か、どうしたんだ、なんて言ってきた。
どうせ、俺がいない方が楽しいって思ってるくせに。
みんな笑って、嘘をつく。
心配した、なんて思ってもない嘘をつく。
その白々しい演技に、たまらなく吐き気がした。

でも俺にも、これまで築いてきた環境を崩す勇気がなかった。
だから、俺も笑って嘘をつく。
ここで正直に言って、何になるんだろう。

皆、嘘をついている。
なら、俺一人嘘をつかないのがおかしい。

「体調は平気なんだろう?何サボってんだ。お前は部長なんだから、人の模範になれ。ふざけるな」

監督からこっぴどく叱られた。
生野や他の奴らがサボっても、怒りはしてもこんなに長々と怒らなかった。
生野なんて、この前珍しく最後の部室掃除をしていたら、褒められていた。
俺がいつもやっていても、何も言われないのに。

普段真面目にやっている俺は、一回サボっただけで怒られる。
普段ふざけている生野は、一回真面目なことしただけ褒められる。

真面目って、なんだろう。
真面目にやって、何になるんだろう。

みんなからつまらない奴って思われて、言われて、疎まれて。
真面目にやっても、何もいいことない。

でも人に嫌われるのが怖くて、真面目の仮面を外せない。
母さんに怒られるのが怖くて、真面目を捨てられない。

もう、部活なんていやだ。
もう、母さんの愚痴は聞きたくない。
部長なんてやめたい。
父さんと兄貴の悪口は聞きたくない。

走っても楽しくない。
走りたくない。

みんな、嫌いだ。
母さんなんて嫌いだ。
生野なんて大嫌いだ。
部活の皆も、顔も見たくない。

それでも笑って真面目な部長を演じている自分が、何より一番、大嫌いだ。

和志君の昔話5

中学校の後半は、どんなだったか、よく覚えてない。
毎日毎日、苦しくて苦しくて仕方なかった。

最後の大会は、俺は補欠のまま、皆が走るのを見送った。
新しいメンバーで入賞して、俺は笑いながらよかったな、なんて言った。

俺が走りたかった。
俺が走ったって、きっと入賞できた。
どうしてそこに俺がいないんだ。
最後の大会だったのに。
最後のチャンスだったのに。

でも、笑った。
笑って、嘘をついた。
どうせ皆、俺が出なくてよかったって思ってるのだろう。
それなら、変な我儘を言って、余計に呆れられなくない。

部活が終わった時は、心底ほっとした。
ようやく解放されたと思った。
受験勉強をするのすら、嬉しいと思った。
もう部活のことを考えたくなかった。

走るのが、好きだった。
確かに走るのが好きだったはずだったのに。
どうして、走るのがこんなに、辛いんだ。

「部長、今までありがとうございました!」
「篠原、高校行っても、陸上するんだろ?大会で会えればいいな」
「お疲れ。3年間、楽しかったな」

嘘つき嘘つき嘘つき。
お前ら皆、嘘つきだ。
そして俺も嘘つきだ。

「ああ、楽しかったな。ありがとう。駄目部長だったけど、お前らのおかげでいい部活になった」

俺は笑って嘘をつく。
吐き気がする。
気持ちが悪い。

笑ってる奴らが気持ち悪い。
笑ってる俺が気持ち悪い。

みんなみんな、嘘ばかり。

「篠原、志望校違うけど、どこにいっても遊ぼうな」
「ああ、生野。お前だったら高校で全国行けるだろ!応援に行くからな!」
「お前も来れるよ。一緒に行こうな」
「俺はそんなの無理だけど、でも、高校に行っても頑張るよ」

俺は笑えてる?
俺は何を話してる?

生野は何を話してる?
生野はなんで笑ってる?

分からない。
もう分からない。
何もかもが分からない。

もう、笑いたくない。
もう、走りたくない。
もう、話したくない。

もう、こんな思いはしたくない。

和志君の昔話6

高校に入学して、陸上部に入った。
走るのは嫌だったけど、これしかなかった。
母さんも、中学で同じ部活だった奴らも当然って感じだったから、なんとなく、そのまま来てしまった。

完全に惰性だ。
やる気なんてあるはずがない。
速くなんてなるはずがない。

毎日毎日辛かった。
走るのが、苦痛だった。
部活の奴らと話すのが嫌でしょうがなかった。
愛想笑いするのが、疲れた。
足が重かった。
タイムは伸びなかった。
ただ、惰性で走っていた。

もう、うまく人と話せなかった。
どう話せばいいのか、分からなかった。
特にクラスでは、話しかけてくる奴にも、冷たく返すことしかできなかった。
だって、話しても嫌われるなら、もう話したくない。
部活以外で、愛想笑いは、したくない。

母さんの愚痴を聞くのが、嫌だった。
父さんと兄貴の悪口を聞くのは、嫌いだった。
何度も、もう聞きたくないって言いそうになった。
うるさいって叫びそうになった。
真面目になれと、呪文のように繰り返す母さんが、嫌だった。

入学して一カ月ぐらいして、父さんと母さんが大げんかした。
兄貴はいなかった。
泣く母さんと怒鳴る父さんが嫌だった。
もうこれ以上見たくなかった。
もうこれ以上聞きたくなった。

でも、二人をなだめたりして、笑って間に入ったりした。
もういやだ。
もうやめてくれ。
もうこれ以上、なにもしたくない。

ギスギスした家。
父さんがますます帰ってこなくなった。
母さんがずっと不機嫌だった。

俺も家に帰りたくなかった。
吐き気がした。
毎日頭痛がした。

でも笑ってた。
でも話してた。
なんで笑っていられるんだろう。
なんで嫌なのに話してるんだろう。

もう嫌だ。
もう嫌だ。
もう嫌だ。

変わったのは、母さんが仕事を始めてから。
そのうち母さんが、友達に誘われて、外に勤めに出るようになった。
そしたらそっちが楽しくなったらしく、今度は母さんもあまり家にいつかなくなった。

家に帰っても、誰もいない。
家は静かだ。
愚痴はない。
悪口はない。
泣き声はない。
怒鳴り声もない。

ほっとした。
心底、安心した。

もうこれ以上母さんの愚痴を聞くことはない。
もうこれ以上求められることはない。

一人がとても楽だった。
夕飯が冷たくなってようと、弁当がパンになろうと、問題なかった。
家で笑わなくて済むのが楽だった。
家で話さなくて済むのが楽だった。

6月に入った頃に、激しい腹痛に襲われて、熱が出て、吐いた。
家には誰もいなかった。

苦しくて苦しくて苦しくて。
でも誰も助けてくれなくて。
誰も頼れなくて。

もう、訳が分からなくて、泣きながら、ずっと吐いてた。
なんでこんな苦しいんだろう。
なんでこんな苦しい思いしなきゃいけないんだろう。

母さんは最近明るくなった。
笑っている。
俺が話を聞いていた頃は全然笑ってなかったのに、外に出た途端楽しそうにしている。
父さんも兄貴も帰ってこない。
でも笑っている。

みんな、結局俺に何も求めてない。
みんな、嘘をついている。
みんな、好き勝手してる。

なら、なんで俺が、こんな思いしなきゃいけないんだ。
こんな苦しい思いしても、誰も助けてくれない。
誰も気付いてくれない。

もういい。
もういやだ。
もうこんな思いするのは、嫌だ。
もう、我慢なんてしない。

もう、愛想笑いはしない。
もう、話したくなきゃ話さない。
もう、走りたくない。

もういらない。
もう何もいらない。

みんな好き勝手にするなら、俺だって好きにする。
もう、真面目でなんていたくない。

俺は、俺の自由にする。

和志君の昔話7

盲腸は大したことなくて、薬で散らすことが出来た。
でも、適当にそれを理由にして部活は辞めた。

もう、走らなくていいと思うと、ぽっかりと胸に穴が空いた感じがした。
なんかすごい不安になった。
でも、体が、軽くなった。
すっと、胸の中にあった黒くてぐしゃぐしゃして重かったものが、なくなった気がした。

すごい開放感だった。
ああ、自由になれた、って思えた。

笑うのは止めた。
話すのは止めた。
部活の友達に引きとめられても、何も感じなかった。
もうこいつらと話さなくていいと思うと、叫び出したくなるほど嬉しかった。

母さんと話すのが、少し楽になった。
母さんは俺が盲腸だったのに気付かなかったのをすごく気にしてくれた。
泣いてくれた。
心配してくれた。

勤めを辞めると言ったから、それは止めた。
今の距離が、居心地よかった。
家にいても、愚痴は言わない。
家にいても、笑っている。

俺が笑わなくても、何も言わない。
俺が走らなくても、何も言わない。
真面目になれとは言わなくなった。

いい感じに、俺にも家にも興味がなくなった。
でも、俺のために泣いてくれた。

俺のことは、心配してくれている。
それは分かった。

なら、いい。
この距離がいい。
俺も母さんを、本当に大事に思える距離だ。

笑わなくていいのは、楽だった。
走らなくていいのは、楽だった。
誰とも関わらないのは、楽だった。

だらだらとゲームをしながら夏休みを過ごした。
勉強とかした。
暇だった。

何もなかった。
楽だった。
でも、何もなかった。

毎日が無気力に、過ぎていった。
変わらない景色。
変わらない毎日。

楽だった。
でも、目的がないというのは、逆に疲れるというのも、分かった。
何もない毎日は、楽だけどひどく不安になる時がある。
ふとした瞬間に、自分が何もしていないことが怖くなる。
このまま、自分が腐っていく気がした。

怖くなって、それを誤魔化すためにゲームをする。
そしてまた、ふと目の前を見つめて怖くなる。
それの繰り返し。

でも何もする気になれない。
人と関わりたくない。
クラスメイトが話しかけてくるのも面倒だ。
部活の奴らから帰ってこないのかと言われるのが煩わしい。

部活なんて絶対にごめんだ。
愛想笑いなんてしたくない。

でも、このままでもいたくない。

どうしたらいいか分からなかった。
ただ、平穏な、何も変わらない毎日を過ごしていた。
痛みも煩わしさもなく、目的もなく友達もなく、喜びも悲しみもない、毎日。
変わらない毎日。

変わりたくない。
このまま楽でいたい。
もうあんな思いはしたくない。

でも、このままいても、どうにもならない。

「すまない、少しいいだろうか」

バイトでも初めてみようかと思っていたところだった。
駅前で、真面目そうな、地味な感じの男に話しかけられた。
制服は、近くの進学校のもの。
頭が良さそうではある。

「君のことが、好きになった」

それは、変わらない毎日に飛び込んできた言葉だった。




表紙