「わー、久しぶりだね。芙美さん!」

その時、間違いなく私の顔は引き攣った。
胸が引き絞られ、キリキリと痛む。
忘れていたと、もう癒えたと思っていた傷から、生々しく血があふれ出す。

手が震える。
足から力が抜けて、座り込んでしまいそうだ。

「こんなところで会えるなんて奇遇だね」

にこにこと、そばかすの浮いた幼い顔を、更に幼くさせて笑う。
柔らかいくせっけの髪が、近づく度にふわふわと揺れる。

2年前より、背が伸びた。
手足が伸びた。
まだまだ幼さは抜けきらないけれど、男臭くなった。
私より少し小さいくらいだったのに、私を抜いて見下ろしている。
小型犬のような愛らしさは、大型犬の精悍さを備え合わせた。

けれど、誰でも警戒を解いてしまうような無邪気な笑顔は変わらない。
高めの甘い声で、私の名前を呼ぶのも変わらない。

「芙美さん芙美さん、また会えて嬉しいよ」

この場から逃げ出したかった。
この男と、二度と会いたくなかった。
逃げたのに。
だから逃げたのに。
無様に、情けなく、この上なくみっともなく逃げたのに。

忘れ去ったと思ったのに。
もう、過去だったと思っていたのに。

いまだに痛みを持って、あの頃の屈辱が、哀しみが、苦しみが、蘇る。

ああ、この無邪気な顔を叩き潰してやりたい。
私をかき回して、私を振り回して、そして私を否定した。

この男が、怖い。



***




あの後のことはほとんど覚えていない。
ただ、大騒ぎになっていたのはうっすらと覚えている。

返り血を浴びていたことをを、問い詰められた気がする。
また殴られて、なじられた。
でも、それに対しても、もう何も感じなかった。

何もかも、どうでもよかった。
いっそ私の呼吸を止めて欲しかった。
存在を消して欲しかった。
何も考えたくなかった。
何も感じたくなかった。
痛みを、これ以上感じたくなかった。
でも、自分で死を選ぶほどの気力もなかった。

ただ、息をしてそこにいた。
私は息をするだけの肉の塊だった。

大騒ぎがあって、妹がまた倒れて、祖父と両親はそのことで私をまた怒鳴りつけ、打ち据えた。
私はそのまま夏休みに入るまで学校へ行かず、夏休みに入ると共に転校させられた。
病院に入れるという意見もあったようだったが、世間体が気になったのだろう。
寮のある、遠い学校へ気が付いたら入れられていた。
金を払えば、ある程度の融通が効くような学校へ。

あからさまなやっかい払いだ。
あくまでも私を見ない家族が滑稽で、大笑いした覚えがある。
ほとんどの感情と反応をなくし、時折叫び、笑う私を家族は薄気味悪そうに見ていた。

すべてを失った。
家族も学校も夢も、何もかもを失った。

けれど、心のどこかでほっとしていた。
これでもう、何も感じなくてすむ。
家族に認められようと足掻いて苦しい思いをしなくてすむ。
最初から何もないんだから、もう失うことはない。
それは心から、安心できる事実だった。

そして何より、あの男と会わなくてすむことに、安心した。
次あったら、私はどうなってしまうか、分からなかった。

半年ほどは、死んだように過ごした。
誰と話したか、何を考えていたか、ほとんど覚えてない。
ただ、息をして、勉強をして、食べて、寝た。

それこそ機械のように与えられる義務をこなしていた。
ただそこにいた。

けれど私を苦しめるもののない生活は、忘却という手段をくれた。
時間の流れが、私が生きることを許してくれた。
徐々に辛い思い出を見ないようにすることがうまくなり、思考を取り戻していく。
完全に忘れることはできないけれど、見ないようにして生きていくことができそうだった。
このまま自分を誤魔化していくことが、できるんじゃないかと思った。

2年の時間が、傷口をゆっくりと塞いだと、思った。



***




けれど、思い知った。
傷は塞がってなんかいなかった。
見なかったようにしていただけ。
気付かない振りをしていただけ。
癒えることなんて、なかった。

だって、今でもこんなにも痛くてたまらない。

「芙美さん芙美さん、会いたかったよ」

怖い、怖い怖い怖い怖い。
会いたくなかった。
あなたに会いたくなかった。
誰よりも、あなたに会いたくなかった。

「家にも全然連絡してないんだって?千津がいつも心配してる」

彼の口から妹の名前がでる。
今更なのに、胸がざわついて、頭に血が上った。
ああ、本当にこの人はなんて私を打ちのめすのがうまいんだろう。

「俺のこと、忘れてない?忘れられてたら、寂しいな」

忘れることなんて、ない。
忘れることなんて、できるはずがない。
ボロボロになった私を救い、そしてもう一度引きずり落とした男。

「芙美さんがつけた傷はまだ跡が残ってるよ。見るたびに芙美さんを思い出してゾクゾクした」

うっとりと胸をなぞる。
あなたがつけた私の傷は、いまだ膿んで私を苦しめる。
笑っていない目の、暗い色も変わっていない。

「さあ芙美さん、今度は何をして遊ぼうか」

彼の変わらない無邪気な笑顔が私を絶望に突き落とす。
家族を失ったことよりも、夢を失ったことよりも、あなたの偽りが苦しかった。

私に優しくしてくれた。
私を見守ってくれていた。
答えを聞いてくれた。
答えを待っていてくれた。
温かい時間をくれた。
楽しさを、思い出させてくれた。

あの5日間が、私の中では宝物だった。
あんなに楽しかった日々はない。
今ではもう、思い出すだけで息ができなくなるけれど。

私はきっと、あなたが好きだった。



きっとあれが、初恋だった。




初恋 <終>



BACK   TOP