「わー、久しぶりだね。芙美さん!」 その時、間違いなく私の顔は引き攣った。 胸が引き絞られ、キリキリと痛む。 忘れていたと、もう癒えたと思っていた傷から、生々しく血があふれ出す。 手が震える。 足から力が抜けて、座り込んでしまいそうだ。 「こんなところで会えるなんて奇遇だね」 にこにこと、そばかすの浮いた幼い顔を、更に幼くさせて笑う。 柔らかいくせっけの髪が、近づく度にふわふわと揺れる。 2年前より、背が伸びた。 手足が伸びた。 まだまだ幼さは抜けきらないけれど、男臭くなった。 私より少し小さいくらいだったのに、私を抜いて見下ろしている。 小型犬のような愛らしさは、大型犬の精悍さを備え合わせた。 けれど、誰でも警戒を解いてしまうような無邪気な笑顔は変わらない。 高めの甘い声で、私の名前を呼ぶのも変わらない。 「芙美さん芙美さん、また会えて嬉しいよ」 この場から逃げ出したかった。 この男と、二度と会いたくなかった。 逃げたのに。 だから逃げたのに。 無様に、情けなく、この上なくみっともなく逃げたのに。 忘れ去ったと思ったのに。 もう、過去だったと思っていたのに。 いまだに痛みを持って、あの頃の屈辱が、哀しみが、苦しみが、蘇る。 ああ、この無邪気な顔を叩き潰してやりたい。 私をかき回して、私を振り回して、そして私を否定した。 この男が、怖い。 あの後のことはほとんど覚えていない。 ただ、大騒ぎになっていたのはうっすらと覚えている。 返り血を浴びていたことをを、問い詰められた気がする。 また殴られて、なじられた。 でも、それに対しても、もう何も感じなかった。 何もかも、どうでもよかった。 いっそ私の呼吸を止めて欲しかった。 存在を消して欲しかった。 何も考えたくなかった。 何も感じたくなかった。 痛みを、これ以上感じたくなかった。 でも、自分で死を選ぶほどの気力もなかった。 ただ、息をしてそこにいた。 私は息をするだけの肉の塊だった。 大騒ぎがあって、妹がまた倒れて、祖父と両親はそのことで私をまた怒鳴りつけ、打ち据えた。 私はそのまま夏休みに入るまで学校へ行かず、夏休みに入ると共に転校させられた。 病院に入れるという意見もあったようだったが、世間体が気になったのだろう。 寮のある、遠い学校へ気が付いたら入れられていた。 金を払えば、ある程度の融通が効くような学校へ。 あからさまなやっかい払いだ。 あくまでも私を見ない家族が滑稽で、大笑いした覚えがある。 ほとんどの感情と反応をなくし、時折叫び、笑う私を家族は薄気味悪そうに見ていた。 すべてを失った。 家族も学校も夢も、何もかもを失った。 けれど、心のどこかでほっとしていた。 これでもう、何も感じなくてすむ。 家族に認められようと足掻いて苦しい思いをしなくてすむ。 最初から何もないんだから、もう失うことはない。 それは心から、安心できる事実だった。 そして何より、あの男と会わなくてすむことに、安心した。 次あったら、私はどうなってしまうか、分からなかった。 半年ほどは、死んだように過ごした。 誰と話したか、何を考えていたか、ほとんど覚えてない。 ただ、息をして、勉強をして、食べて、寝た。 それこそ機械のように与えられる義務をこなしていた。 ただそこにいた。 けれど私を苦しめるもののない生活は、忘却という手段をくれた。 時間の流れが、私が生きることを許してくれた。 徐々に辛い思い出を見ないようにすることがうまくなり、思考を取り戻していく。 完全に忘れることはできないけれど、見ないようにして生きていくことができそうだった。 このまま自分を誤魔化していくことが、できるんじゃないかと思った。 2年の時間が、傷口をゆっくりと塞いだと、思った。 けれど、思い知った。 傷は塞がってなんかいなかった。 見なかったようにしていただけ。 気付かない振りをしていただけ。 癒えることなんて、なかった。 だって、今でもこんなにも痛くてたまらない。 「芙美さん芙美さん、会いたかったよ」 怖い、怖い怖い怖い怖い。 会いたくなかった。 あなたに会いたくなかった。 誰よりも、あなたに会いたくなかった。 「家にも全然連絡してないんだって?千津がいつも心配してる」 彼の口から妹の名前がでる。 今更なのに、胸がざわついて、頭に血が上った。 ああ、本当にこの人はなんて私を打ちのめすのがうまいんだろう。 「俺のこと、忘れてない?忘れられてたら、寂しいな」 忘れることなんて、ない。 忘れることなんて、できるはずがない。 ボロボロになった私を救い、そしてもう一度引きずり落とした男。 「芙美さんがつけた傷はまだ跡が残ってるよ。見るたびに芙美さんを思い出してゾクゾクした」 うっとりと胸をなぞる。 あなたがつけた私の傷は、いまだ膿んで私を苦しめる。 笑っていない目の、暗い色も変わっていない。 「さあ芙美さん、今度は何をして遊ぼうか」 彼の変わらない無邪気な笑顔が私を絶望に突き落とす。 家族を失ったことよりも、夢を失ったことよりも、あなたの偽りが苦しかった。 私に優しくしてくれた。 私を見守ってくれていた。 答えを聞いてくれた。 答えを待っていてくれた。 温かい時間をくれた。 楽しさを、思い出させてくれた。 あの5日間が、私の中では宝物だった。 あんなに楽しかった日々はない。 今ではもう、思い出すだけで息ができなくなるけれど。 私はきっと、あなたが好きだった。 きっとあれが、初恋だった。 |