「おい、秋庭」 「桜川?」 後ろから声をかけられて振り向くと、そこには少女と見紛う愛らしい顔立ちをした少年が立っていた。 相変わらずにきび一つない白い肌は、見た通りの柔らかさと滑らかさだということを知っている。 知りたくなかったが知っている。 いや知りたかったが、知るための方法が想像と大きく違った。 「前にこれ忘れてっただろ」 桜川は手をひらりとはためかす。 そこには見覚えのあるブレスとリングを持っていた。 「ああ、気付かなかった」 「外した時、お前意識飛んでたしな」 「………」 それがどう状況だったかは、考えたくも思い出したくもない。 いつまで俺はこいつにいいようにされるのだろう。 この可愛い容姿と、華奢に見える体、そして見事な猫かぶり。 それに騙された俺は馬鹿だったと、心の底から後悔している。 あの頃の俺に、やめておけと助言してやりたい。 「………どうも」 込み上げる感情を押し殺し、受け取ろうとするが桜川は渡す前に手を引き、すたすたと歩き始める。 「………なんだよ」 宙に浮いた手をどうしたらいいか分からないまま、桜川を追って歩き出す。 なんだろう、だいたい勝負を挑むのは俺の方なのだが、また勝負でもするのだろうか。 いや別に勝負したい訳じゃないのだが。 しかし桜川は俺のブレスとリングを持って歩きながら、予想に反して低く言った。 「秀一が部屋にいない」 「………」 そういえば、俺は今日所用で部屋を空けていた。 いつもは資料室でしけこんでいることが多いようだが、あいつがあの犬を連れ込んでいる可能性はある。 出来れば部屋にはいないでくれ。 「………せめて暴れるなら部屋の外にしろよ」 「あいつ次第だ」 本当にやめてくれ。 こいつらの怪獣大戦争なんてもう二度と見たくない。 つーか、やるなら頼むから外にしてほしい。 「くっそ、秀一の奴、よりによってあんな奴に懐きやがって」 桜川は犬の突然の反抗がよほど腹だたしかったのか、最近ずっと機嫌が悪い。 歯をぎりっと噛みしめ、地の底から響くような声で言う。 怖え。 「………本当に、あの犬が柳瀬に懐くとは思わなかった」 あいつの桜川への心酔っぷりは半端なかったのに、すっかり柳瀬に懐いている。 そのおかげで、俺がとばっちり喰らってんじゃねーか。 いやまあ、俺も協力したけどさ。 「………強いやつにはなびきやすいんだよ。昔から道場の師範とかにも懐いてたしな」 根っからの下僕体質ってことか。 ドMだな。 いやまあ、柳瀬と桜川と付き合ってられる時点でドM確定だけど。 本当に犬だな。 「あの犬って、なんであんなビビりで卑屈なわけ?」 桜川は顔を顰めて大きくため息をつく。 そういう顔をしてすら、翳ることすらない美貌は本当にずるいと思う。 散々酷いことされてるし、ガチで鬼畜なのに、可愛いせいでギリセーフになってしまう。 「………よくある話だ。あいつの父親と母親はうちに仕えてる使用人って奴で、母親が浮気疑われて、逃げるんだか追い出されるんだかして、何年かして戻ってきたと思ったら秀一置いて消えた。たぶんどう考えても普通にあいつの親父の子供だけどな」 「ああ、まあ、よくある話だな」 まあ、今時そこらに転がっている話ではある。 桜川は軽く肩を竦めて、柔らかく綺麗な栗色の髪を掻き上げる。 「浮気相手疑惑の筆頭はうちの親父。なんかまー、昔から秀一の親父とうちの親父で確執があったみたいで、よく知らないけど泥沼。で、それに巻き込まれたのがあいつ」 なんかどんどん昼ドラ的になって来たぞ。 うちは割と新しい成り上がりに属する家だが、桜川はいわゆる旧家だ。 そういうドロドロが似合うな。 「元々優しいって訳じゃない母親に捨てられて、裏切者の子供として父親からは無視と罵倒のコンボ、兄貴からは母親を奪った敵で邪魔者で奴隷、家の人間からは腫れもの扱い。あいつの親父はうちじゃ偉い人間だから、下手に手を出せない。秀一の処遇については、うちの親父も口出さない。つーか面白がってる。だから誰も庇う義務も権利もないし、関わりたくない。全員からいないもの、厄介者として扱われてた」 重い重い重い。 どんどんヘビーになってくな。 別にあいつの事情なんてここまで聞きたくないんだけど。 「俺が初めてあいつを見たとき、傷だらけだし、人とうまく話せないしでいつでも隠れてびくびくしてた。で、まあ、放っておけなくて面倒見てた」 まあ、そりゃあいつが懐くのは当然のことだよな。 そういや、優しくしてやったのが桜川だけとか言ってたっけ。 「俺の傍にいるとあんまり怒られない、叩かれない、ご飯も忘れられないって言ってはじめて笑った。あの時は家の人間全員ぶち殺そうかと思ったわ」 胃にもたれるほど重い。 聞きたくねー、そんな虐待話。 「てことで、俺はあいつが幸せになるのを見届ける義務があんだよ」 あー、しかもなんかムカムカするわ。 なんだこれ、本当に胃が持たれたのか。 あいつの聞きたくもない事情を聞いたせいか。 変なもん食ったっけ。 ムカムカして、イライラする。 「………なんで俺、お前にこんなに話してんだよ」 桜川は自分で話したくせに、俺を睨みつけてくる。 こいつは本当に理不尽だ。 「いや知らねーよ。聞いたけどさ」 「何ペラペラ話してんだよ、くっそ。なんかお前の前だと気を緩むんだよ」 苛立つ桜川とは裏腹に、ムカムカしていたのがなくなった。 本当になんだ、これ。 俺なんかの病気だろうか。 「おら、さっさと開けろ」 そしてとうとう部屋についてしまった。 桜川が、上から目線で言い放つ。 誰の部屋だと思ってるんだ。 くっそ、聞いてしまう俺も俺だが。 頼む、どうか部屋にいないでくれ。 「いるなよ」 小さくつぶやいて、恐る恐る鍵をひねり、ドアを開く。 「お帰り」 「………いるし」 部屋の中から、ルームメイトの低く通る声が聞こえてくる。 桜川が俺を押しのけるようにして、部屋の中に入り込む。 ああ、もう修羅場はごめんだ。 「………っ」 息を飲む音がして、桜川が立ち止まる。 そして、その手を強く握りしめ、震わせている。 ていうか握ったままだった俺のブレスとリングが壊れそうなんだが。 勘弁してくれ。 「桜川………?」 正直逃げたがったが、仕方なく部屋の中に入り覗き込む。 そして俺も息を飲んだ。 「うわ………」 犬は、想像通りそこにいた。 ていうか柳瀬のベッドの上にいた。 ベッドのヘッドに寄りかかり座って本を読んでいる柳瀬の膝の上に頭を預け、毛布を腹に巻きつけるようにして気持ちよさそうに丸まって寝ている。 眼鏡をかけていない分いつもよりあどけなく、なんだかまるで本当に犬のようだ。 そこまではまあいい。 まだいい。 ただ、事後だということを匂わすかのように、その体よりも大きめのシャツを着て足は剥き出しになっている。 こいつに一切興味のない俺でも一瞬ドキリとするしどけなさだった。 つーかおい、彼シャツかよ、柳瀬。 痛ってえ。 そういうキャラだったっけ。 「静かにしろ、起きる」 柳瀬は、俺と桜川を見て指を一本立ててうっすらと笑う。 そして、雨宮の頭を優しく撫でる。 その表情は、本当に雨宮が可愛いと言うように柔らかく解けている。 そのあからさまに甘い仕草にこっちがざわざわとして恥ずかしくなってきた。 お前誰だよ。 色々な意味で怖えよ。 「………」 隣の桜川から冷気が漂ってくる気がする。 ちらりと覗くと、その視線だけで射殺しそうなほどに柳瀬を睨みつけている。 怖い。 こっちも怖い。 「………情緒不安定なやつにつけ込みやがって。さぞ簡単だったんだろうな」 「そうでもないぞ。こいつには大好きな大好きなご主人様がいたからな」 柳瀬の言葉に、桜川が更に拳を握りしめる。 俺のブレスとリング。 もういい。 諦めよう。 「主とかそういうのは、本当はいらねーんだよ!こいつはそのうち可愛い彼女見つけて、優しい奥さん見つけて、子供でも作って幸せな家庭つくんだよ!」 「お母さんかよ」 あまりにも過保護な言葉にうっかり突っ込んでしまった。 「うっせー、俺はこいつの兄貴なんだよ!保護者なんだよ!悪い虫を放っておけるか!」 「頑固おやじかって、いって!殴んなよ!」 もう一回突っ込んでしまうと、頭を思いきりはたかれた。 くっそ本当にこいつ理不尽だ。 やっぱりあの時逃げておけばよかった。 こんな修羅場、関わりたくない。 「保護者として、そいつに相応しくない奴は排除する義務があるんだよ!」 柳瀬は犬を撫でるように雨宮の頭を撫でながら、肩を竦める。 「こいつは保護者なんていらなかった。兄貴なんていらなかった。ただ守ってくれて支配してくれる人間が欲しかった。分かってるだろう?」 「そんなん、大人になれば勘違いって気づくもんなんだよ!あの胸糞悪い家から離れられて、一人立ちできるかと思ってたら、こんな糞野郎にひっかかるとか」 そこで桜川は手に持っていた俺のブレスとリングを投げ捨てる。 あー。 いやもういいや。 ていうかすでにもう歪んでいた気がする。 「ああああ、もう、本当にこいつ馬鹿!あー、もう、くっそトロい!この間抜け!」 そして癇癪を起すように頭をくしゃくしゃと両手で掻き回す。 そんなにイラつくならもう放っておけばいいのに。 あの犬は自分で柳瀬を選んだんだし。 今の安心しきった様子は、特に酷いことされているようにも見えない。 まあ、柳瀬から狙われたならちょっとやそっとじゃ逃げられないと思うけど。 「ん………」 桜川が騒いだせいか、雨宮が小さく声を出す。 別に黙る必要はないが、なんとなく部屋が静まり返る。 「あ、れ、きょうすけ?」 雨宮は寝ぼけた舌足らずな声で、柳瀬の名前を呼ぶ。 そして目をゆるりと開けて、目を瞬かせる。 「こっちだ。起きたのか、秀一?」 柳瀬が頭をもう一度撫でると、雨宮が柳瀬を見上げる。 そこに柳瀬がいたことが嬉しかったのか、子供のように無邪気に笑う。 「おきた、きょうすけ」 気持ち悪く甘えた声で、柳瀬の名前を呼ぶ。 そして、雨宮は寝ぼけた無防備な表情のまま、柳瀬の膝の上で伸び上って、キスをする。 「おはよう、秀一」 柳瀬もキスに応え、犬の背を撫でると額にキスをする。 まるでドラマのワンシーンのような見ていて微笑ましくなるかもしれない光景。 しかし、無理やり見せつけられてるこちらとしてはたまらない。 だから誰だお前。 そして、隣から氷点下以下の気温を感じる。 「………おい」 「っ」 地を這うような声に、犬の表情が一気に強張る。 「え、み、瑞樹!」 そしてこちらを見て、一瞬であからさまに顔が真っ青になった。 今までの安心しきった様子とは違い、恐怖と焦りでいっぱいになる。 「あ、あ、あ」 どこに逃げようとしたのか、雨宮はベッドから転げ落ちそうになる。 しかしその寸前で、柳瀬に腰を引き寄せられ、その腕に納まる。 「こら、危ないだろう。落ちて怪我したらどうする」 「や、柳瀬、でも」 大事な瑞樹に変なところを見られて、恐慌状態になった雨宮はきょろきょろと柳瀬と桜川を見比べる。 そして桜川が低い声で命じる。 「おい、とっととこっち来い、秀一」 「え、で、でも。あ、えっと」 「俺の命令が聞けないのか」 「み、瑞樹」 しかし余裕の表情で笑う柳瀬の手は、雨宮の腰から離れない。 桜川がイライラとしたように目を細める。 雨宮は不安に顔を歪め、今にも泣きそうだ。 「………お前ら、いい加減苛めやめろよ」 図体がでかい癖に、まるで小動物が苛められてるかのようだ。 見ていられなくて、つい口を出してしまった。 ていうか修羅場はよそでやってくれ。 俺のいない時にやってくれ。 「ちっ」 桜川が忌々しそうに舌打ちして、踵を返す。 「あ、瑞樹っ」 雨宮が慌てて追いかけようとして、その前にちらりと後ろの男に視線を送る。 柳瀬は小さく笑うと、その手を離し雨宮をベッドから下す。 「行っていい。追いかけろ」 「あ、ありがとう!」 雨宮は顔を輝かせて礼を言う。 いや、そこ礼を言うところなのか? どう見ても引っ掻き回したのは柳瀬だよな。 どこまで下僕体質なんだこいつ。 本気で犬だ。 そのまま駆けて行こうとする雨宮はその場ですっころんだ。 「…?え?」 そして転んだ自分に驚いたように目を瞬かせている。 こいつもこんな奴だったっけ。 「おい、眼鏡。そんで服」 「あ」 柳瀬のベッドサイドにあった眼鏡と服を指さしてやると、雨宮は顔に理解を浮かべる。 眼鏡かけてねーのに気づかないほど切羽詰まってたのか。 「あ、ありがとう、秋庭!」 そして気持ち悪くなるぐらい素直に礼を言って、慌てて眼鏡と服を身に着ける。 こいつ今、俺に礼を言ったって気づいてんのかな。 優等生らしくいっつもきっちりと着込んでいる制服を、だらしなく身に着けてから雨宮は再度駆け出す。 「京介、じゃあ、また」 「ああ」 慌てながらも柳瀬には一言かけて、転げるように出ていく。 本当に、犬だ。 「随分優しいな秋庭」 「さすがに俺でも哀れになってくるわ、あれ」 あんな単純な馬鹿だから、この男に好きにされてんだろうな。 どんな手を使われたのか知らないが、すっかりこの壊れてる男に飼われてしまっている犬を、気の毒にも思う。 「ま、桜川から離れるなら俺としては文句はないし」 そうなれば、特にあいつに対して何も思うことはない。 桜川があいつのことを気にするのを見ているのは、イライラしてくるが。 「お前はあいつ苛めるのが楽しいの?」 「人聞きの悪い」 柳瀬はベッドの上で、軽く肩を竦める。 一見優等生のくせに、どこか退廃的な雰囲気を身にまとう、イカれた男。 「必死になって助けを求めて縋ってくるのが可愛いだろう」 「………」 「あいつは泣き顔が一番可愛い」 「あー」 本当にそう思っているように、満足げに笑う。 あー、本当にお気の毒。 まあ、あいつも幸せそうだからいいんじゃないかな。 こいつの足の上で微睡む姿は、桜川の隣にいるときよりもずっと安らいでいて見えた。 それに柳瀬も、あいつの前では見たこともないくらい気持ち悪い顔をしていた。 結果オーライ。 終わりよければすべてよし。 うん、二人の世界で勝手に生きてくれ。 「俺風呂入るわ」 「どうぞ」 まあ、せいぜい頑張れ。 心の中でエールを送りながら、俺はバスルームに入った。 |