「あ」

クリスマスの夜、バイトから帰宅した俺は鍵を忘れたことに気付いた。
いつもより早い時間に来いと言われていたので、慌てて出たのが悪かったらしい。
まだ家に先輩がいたので、締める必要がなかったし。
今日はあの人はパーティーとやらで帰ってこないだろうし、さてどうしようか。

無意味にガシャガシャとドアを揺らしてみるが、いくらボロい家とはいえさすがに開かない。
街の明るい雰囲気とは違い、閑静な住宅街はどこまでも静かだ。
ただ俺がやかましくドアを揺らす音が響く。
バイト中は、あんなにも騒がしかったのに、なんだか不思議に思う。
サンタの格好に扮して売るケーキはノルマがきつかったが、ケーキを買っていく人は誰もが楽しそうで、なんだかこちらまで楽しくなった。

「さて、どうしよう」

友人に連絡しようとも思うが、クリスマスに部屋にあげてくれっていうのも空気読めないにもほどがある。
財布と携帯はあるし、ファミレスでも漫画喫茶でも、どちらでもいいから夜を明かすか。

先輩はいつ帰ってくるのだろう。
年末はパーティーとか飲み会とかが立て込んでいるらしく、なかなか帰ってこない。
昨日の夜遅くに帰ってきて、死んだように眠ってまた今日も出かけている。
本当にタフだ。
あの人、別に服の替えがなくても与える人がいるし、帰ってくる必要はない。
となると、リアルに年明けまで顔を合わせないかもしれないな。
しかし先輩と違って俺は後三日はバイトがあるので、家に入らない訳にもいかない。
仕方ない。
明日にでも連絡して、鍵を貰いに行こう。

「………寒」

風が吹いて、自然とぶるりと体が震える。
今日の夜は、大分気温が下がるようだ。
ダウンジャケットを着てはいるものの、冬の風は容赦なく体温を奪っていく。

「………」

冬の夜の、独特なつんとした匂い。
忘れた鍵。
誰も帰ってこない、暗い家。

それは、すっかり忘れていた昔のことを、思いだす。



***




「………寒い」

一際強い風が吹いて、体がますます冷たくなっていく。
耳がちぎれそうなほど痛くて、手袋をしていても指先の感覚がなくなるぐらい冷たい。
まるで自分が凍ってしまったようだ。
塀があるとは言え、庭はやっぱり寒い。
風から身を守るように膝を抱えて小さく小さく丸まる。
手袋越しに息を吹きかけてなんとか指先を温めようとするが、息で湿った毛糸はますます冷たくなっていく。

「早く、お母さん達、帰ってこないかなあ」

今日は義弟の塾の日だ。
皆でご飯を食べてくるだろう。
だからまだまだ、時間はきっとかかる。
図書館を出た時は、確か六時だった。
いつもは七時ぐらいまでお母さんが家にいるけど、今日は早く出たようで、帰ってきたらいなかった。
早い時は九時ぐらいには帰ってくるけど、遅いと十時ぐらいになる。
後、どれくらい待てばいいんだろう。

「鍵、持って出たと、思ったんだけどな」

暗い夜に誰もいないのが寂しくて怖くて心細くて、言葉を口にする。
黙っていると、世界に一人ぼっちになった気がして、自分が消えてしまう気がする。
もう誰にも、俺の存在が見えなくなってしまったかのように感じる。

「おかしいなあ。出る前に、確かめたんだけどなあ」

前にも二回ほど鍵を忘れたことがある。
一回目は図書館の近くのハンバーガー屋さんでコーンポタージュを飲みながら皆が帰ってくるのを待っていた。
そうしたらおまわりさんが来て、どうしたのって聞かれて、家に連絡されてしまった。
そして帰って、お義父さんとお母さんに、こっぴどく怒られた。
恥ずかしいことをするんじゃないって言われた。

二回目に忘れてしまった時は家の周りで遊んでいた。
そしたら隣のおばさんが家に入れてくれて、ココアを飲ませてくれた。
とても嬉しくて、おいしかった。
でも、帰ってきたお義父さんとお母さんに、また怒られてしまった。
人に迷惑をかけるんじゃないって言われてしまった。

だから、それからはちゃんと朝にランドセルに鍵のキーホルダーを入れたか確かめている。
もう、忘れることなんて、全然なかったのに。

前のアパートにいた時は、鍵はポストの中にいれて敷紙の下に置いてあった。
だから忘れても平気だった。
それで家に帰って、部屋を電気ヒーターで暖めて毛布をかぶって絵を描きながら、お母さんを待っていた。
少し寂しかったけど、それでも暖かくて、帰ってきたお母さんが部屋を暖めてくれてありがとうって言ってくれた。
そしてぎゅって、抱きしめてくれた。
それが嬉しくて、俺はお留守番が全然嫌じゃなかった。

「皆、早く、帰って、来ないかなあ」

滲んできた涙がこぼれないように、ぎゅっと目を瞑る。
膝に顔を埋めて、風から自分の身を守る。
寒くて、血まで凍ってしまいそうだ。
血までカチカチに凍ったら、パリンって割れてしまうだろうか。
そうしたら、お母さんは、哀しむだろうか。

泣いたら、駄目だ。
鍵を忘れた、俺が全部悪いんだ。
だから、せめて人に迷惑かけないように、いい子にして、待ってないと。

「きーよし、こーのよーる」

自分を奮い立たせるように、学校でならった歌を歌う。
体が震えて、歯ががちがちと鳴って、うまく歌えない。
今日はクリスマスだ。
去年のクリスマスは、お母さんが小さなケーキを買ってきてくれて、二人で食べた。
プレゼント、買ってあげられなくてごめんね、って言われた。
そんなの全然よかった。
俺はお母さんの絵を描いて、プレゼントした。
お母さんは、とっても喜んでくれて、ありがとうって抱きしめてくれた。
プレゼントなんて、いらない。
ただ、お母さんがいてくれるだけで、よかった。

「みーははーのむーねに」

鼻水が出てきたので、啜る。
泣くんじゃない。
でも、後どれくらい待てばいいんだろう。
時計は持ってないから、時間はよく分からない。
図書館で借りた本も、暗くてよく見えない。
コンビニに行くのも、駄目だろうか。
それくらいは、他人に迷惑をかけたことにならないだろうか。

「………寒い、な」

でも、それで何かあって義父と母に迷惑をかけたら、大変だ。
ただでさえ俺は駄目な子なんだから、いい子にしていないと。
だから、俺はただ冷蔵庫のように冷たい風に吹かれながら、ひたすら丸まって皆が帰ってくるのを待つしかなかった。

結局皆が帰ってきたのは十時過ぎ。
和樹はクリスマスのプレゼント抱え、三人で笑顔で帰ってきた。
俺はすぐにお風呂に入ってお布団に潜りこんだけれど、熱が出てしまった。
次の日、学校を休んでしまって、お母さんに、怒られた。

「全くもう、あんたは本当に鈍くさいんだから。ちゃんと荷物を確かめなさいって言ったでしょ!」
「ごめん、なさい。俺、ちゃんと、朝、確かめたんだよ、でもね」
「言い訳するんじゃありません。どこに失くしてきたのかしら、まったくもう」
「………ごめんなさい」

忙しいお母さんに、余計な手間をかけさせてしまった。
鍵を失くしてしまった。
泣きたいぐらい、哀しかった。
情けなかった。
でも、泣いたら余計に男らしくないって怒られるから、我慢した。

お義父さんにも怒られた。
風邪をひいて寝込んで、せっかくのクリスマスプレゼントとケーキを受け取ることが出来なかった。

「お前は本当に軟弱だな。家にこもってばっかりいるからいけないんだぞ。これからはもっと運動をしろ」
「ごめん、なさい」
「せっかくケーキ買ってきてやったのに、無駄になったな」
「ごめんなさい、お義父さん、ありがとう。ごめん、なさい」

せっかくお義父さんが美味しそうなケーキを買ってきてくれたのに、俺は食べることが出来なかった。
食べようとしたけれど、戻してしまって、無理だった。
せっかくのケーキを無駄にして、お義父さんはがっかりしたようだった。
俺は本当に、駄目な奴だ。

ベッドでうずくまりながら、俺はただひたすら二人に謝り続けた。



***




玄関の前でうずくまっていると、なんだか鮮明にあの時のことを思い出す。
あの日と同じくらい、冷たい夜。
暗闇に飲みこまれてしまいそうで、とても自分がちっぽけなに感じる。
誰も自分が見えないのかもしれないという、恐怖と寂寥感。
そんな訳は、ないのに。

今思えば、あの鍵は和樹が隠したんだろうな。
俺は朝出る前に何回も確かめていたし、あの日はそういえば和樹が教科書かなんかを借りるために俺の鞄を勝手に漁っていた。
後になって、思いだしたことだったけど。
あの時分かっていても、無駄だから一緒のことだ。

あれは耕介さんと出会う前だった。
次の年のクリスマスは家で、一人で過ごしったけ。
その次の年からは、毎年耕介さんの家で過ごした。
千代さんの作った真っ白いケーキを食べて、綺麗なご飯を食べた。
耕介さんがプレゼントをくれて、俺も耕介さんに自分のお小遣いで買ったささやかな贈り物をした。

耕介さんの家で住み始めてからは新堂さんが加わることもあった。
新堂さんがツリーを買ってきてくれて、皆で飾り付けをした。
俺は千代さんの料理作りを本格的に手伝うようになっていて、スポンジを膨らますことの難しさを知った。
新堂さんが俺に歌を歌えって言って、俺は下手な歌を三人の前で歌わされることになった。
四人で過ごすクリスマスは、楽しくて楽しくて、思い出すと胸が温かくなる。
それは俺の中でイルミネーションのように光り輝いて、賑やかに彩られている。

寒くて哀しかったクリスマスなんて、一年だけ。
たった一年だけだ。
だからこそ、今まで、すっかり忘れていた。
シチュエーションが似ていたから、引っ張り出されてしまった。

「何してんだ、お前」

声がすぐ近くから聞こえて、俺は驚いて顔を上げる。
そこには盛装をした先輩が、呆れたような顔で俺を見下ろしていた。
ビキューナとかいうめちゃめちゃ肌ざわりのいい高級なコートを着て、バーガンディーのマフラーを巻いた先輩はものすごくこの住宅街に似合わない。
上背もあって筋肉もついているこの人がそんな恰好をしているとものすごいいいとこのお坊ちゃんのようだ。
そう言えば、いいところのお坊ちゃんだった。

「あ、れ、先輩?」

なんでいるんだろうと、ぼんやりとした頭で考える。
先輩は軽く肩をすくめる。

「奇行はほどほどにしろよ。家の中にしておけ」
「今日、帰らないんじゃなかったんですか?」
「そんなことは一言も言ってない。今日は面倒な相手だから適当に切りあげた」

そう言えば、今日は帰らないとはまあ、言ってないか。
どっちにしろメシはいらないだろうから、どうでもよかったから聞いてなかった。
玄関の前に座りこんだ俺を、先輩はつま先で軽く小突く。

「俺はお前と違って寒中プレイに興味はないから、さっさと家に入りたいんだが」
「鍵、忘れたんです」

怪訝そうに、先輩が眉を顰める。
まあ、鍵を忘れたからって玄関の前に座りこむ理由はない。
そんな顔をするのも無理はないかもしれない。

「………ないとは思うが、俺を待っていたのか?」
「いえ、そういう訳じゃないんですが」

だろうなと言って先輩は頷く。
それから面倒くさそうに聞いてきた。

「趣味か?」
「いえ」
「家に入る気はあるのか?」
「出来れば入りたいです」

そう言うと腕を掴まれ、引っ張り立たされる。
相変わらず力の強い人だ。
特に座っている理由はないので素直に立つ。

「ならとっとと入るぞ」
「はい」

先輩がカギを開けてくれて、二人で家に入る。
玄関先で、先輩に手を掴まれた。

「こんなになるまで外にいるとか、お前本当に馬鹿だな」
「はあ」

まあ、確かに馬鹿かもしれない。
そのまま手を掴まれ、上がり框に上る。

「ただいま、先輩」
「お帰り。ただいま」
「おかえりなさい」

居間に行ってヒーターをつける間も手は繋がれたままだった。
先輩はいつだって体温が高いから、手がどんどん熱を帯びて行く。

「ねえ、先輩、俺が風邪ひいたら看病してくれますか?」
「すると思うか?」

問いに問いで返されて、考える。
病気なんてかかりそうにないから、看病の方法を知っているか疑問だ。
先輩がおかゆなんて作れるわけがない。
作ろうと思えば器用に作りそうではあるが。
薬がどこにあるかなんてわからないだろう。
病人になにが必要なのか、なんて考えもしないに違いない。

「いえ、よくよく考えたら、むしろされたくありません」
「そうだろう」

なぜか自慢げに、先輩は鼻で笑う。
それから手を離し、高級なコートを無造作に投げ捨てる。

「お前がぶっ倒れても俺は何もしねえぞ。だから、寝込むようなことするな」
「………はい」

そうだ、俺はこの人の世話をしなきゃいけないから、風邪なんてひいちゃいけない。
この人は、俺がいなきゃ生活できないんだから。
この人には、俺が、必要なんだから。

「それなら先輩、温めてくれませんか?」
「あ?」

振りむいた先輩のタイに指をかけ、軽く緩める。
胸に手をおいて、挑戦するようにその強い瞳を見つめる。

「一緒にお風呂に入りましょう。俺を温めて、体の中から熱くして?」

ぺろりと乾いた唇を舐めると、先輩は喉の奥でくっと笑った。
そして俺の腰を引き寄せてくれる。

「仕方ねえな」
「クリスマスプレゼントですよ」
「むしろ、俺がクリスマスプレゼントだろ?」
「じゃあ、沢山くださいね」

先輩が笑って、唇を吸ってくる。
微かにアルコールの匂いのする舌に舌がからめ捕られて、俺まで酔ってしまいそう。
冷えていた体が、じんじんと熱くなっていく。

「……メリークリスマス」

キスの合間に囁くと、先輩も笑いながら返してくれた。





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