「義也さ〜ん、朝ですよー!起きてくださーい!」

爽やかな朝、とは到底言いがたいが朝が来た。
下から聞こえてくる声は、夢と信じていたかった悪夢の声。
明るく澄んだ、しかし少し頼りない声が自分の名を呼んでいる。

「よし……」
「うるせえ!起きてる!!」

二階の自室から、階下に怒鳴って黙らせた。

「ご飯出来てるから起きて下さいねー」

パタパタとスリッパの音をさせ、階段からを遠ざかっていくのが分かった。
すっかり主婦気取りだ。
本人としては恩返しのつもりかもしれないが、主婦業をずっと担ってきた義也としてはそれも面白くない。
朝からどん底まで落ちるテンション。
しかしこうしていても始まらないので、ゆっくりと枕から身を離した。

「くそ……」

せっかくの端正な顔を不機嫌で曇らせ、小さく毒づいた。


***



「やだ、おじ様ったら」
「ははははは〜」

身支度を整えて降りてきた階下では、和やかな風景が繰り広げられていた。
制服の上にかわいらしいレースのエプロンを身に着けた少女が、義也の父、義彦の冗談か何かに楽しそうに笑っている。
その光景に、義也のテンションは更に地を這う。

「あ、おはようございます、義也さん」
「おはよー、義也!!」

エプロンをつけた少女、桜が振り返って義也に微笑みかけてくる。
つられてテーブルについていた義彦もにっこりと笑って手をあげる。
まっすぐに悪意のない無邪気な笑みを向けてくる本物の親子のような二人。
この二人の場合、悪意がない、というのが最大の悪意だということをすでに義也は学んでいた。
不機嫌な面持ちのまま、無言で席につく。

「こら、挨拶は一日の始まりだぞ!」
「ふふ、義也さんは難しい年頃ですからね」

めっというように、人差し指を立てて注意する義彦。
朗らかにどこぞのおばさんのように笑う桜。
息の合った二人に、義也の眉間はますます皺が寄る。

「うるさい。タメだろう。ババアみてえなこと言うな」
「え、でも義也さん○○○の○○が○○てないし……」
「○○言うなー!!!!」

とんでもないことを朝っぱらから言う桜をにらみつけ、黙らせる。
悪意がないと思っていたが、本当は悪意の塊のような気もしてきた。

「あ、ごめんなさい。今ご飯持ってきますね」

とりつくろうように桜は微笑み、キッチンの方に向かった。
すぐにお盆を持って、戻ってくる。
先ほどからキッチンは香ばしい甘い匂いを漂わせていた。

「はい、どうぞ」

パタパタとスリッパの音をたて可愛らしく動き回る桜は、端から見たら少女らしく微笑ましい。
すでに用意されていたティーカップやサラダの前に、持ってきた皿が置かれる。

「………これはなんだ」
「パンケーキです。紅茶でいいですか?」
「あ、僕はコーヒーお願い〜」
「はい」
「これのどこがパンケーキだ!!!」

ほのぼのとした雰囲気に、またつっこみどころが流されそうな気がして急いでつっこむ義也。
テーブルの上には三人分の、よく分からない物体がのっていた。
香ばしく、甘い匂いは漂わせているから、食べ物であるような気はする。
しかし座った義也の首の高さほどもあるおばけのQ太郎のような物体を、パンケーキと言うのはすべての料理に失礼な気がした。

「何言ってるんだい。パンケーキじゃないか。こんなにおっきいのは初めてだよ」
「うふふ、ありがとうございます。おじ様」

フォークを持って本当に嬉しそうにする義彦。
少し照れたようにコーヒーを注ぐ桜。

俺なのか…、俺がおかしいのか……。

義也は、明らかに絶対に食べ物ではない気配を漂わせる目の前の物体を眺めながら、深い思考に沈む。
自分の存在自体を考え直しそうになる。

「あ、でもちょっと味が薄いかな〜」

フォークで掬う、というよりは削り取るようにして食べながら、義彦がのんびりと言う。

「あれ、そうですか?」

不思議そうに小首をかしげて、立ったまま自分の分を削り取る桜。

「あ、本当」

口にした途端、顔をちょっとゆがめた。
そうして赤らめた頬をそっと手で覆う。
相変わらず控えめな、女らしい仕草。

「やだ、ごめんなさい。お砂糖と重曹の分量間違えちゃったみたい。私ったらドジで……」
「いやあ、ジャムでも付ければいいよお。女の子がいると華やかでいいなあ」
「うふふ、おじ様ったら……」
「ふざけんなー!!!出す前に気づけ!!!」

あくまでも爽やかな朝を演出しようとする二人に、テーブルを叩きつける。
そんな義也にも、二人は落ち着いている。

「義也はいつもイライラしてるなあ、カルシウムが足りないのかな?」
「ミルクティーにしましょうか?それとも小魚食べます?」

「もう、やだ……」

クールで冷たい視線を売りとする義也が、涙目でテーブルに突っ伏した。



***




ようやく終えた食事の後、二人は一緒に家を後にした。
不機嫌を全開に辺りを睨み付けた義也と、にこにこと控えめに微笑みながら歩く桜。
対照的な二人だった。
モデルをしている義也がこの辺では有名人なこともあり、思わず行く人が振り返る。
いつもとは少し違う、けれど一見平和でのどかな朝の風景。

しかしそこで、義也はなんとも違和感のある視線が混じっていることに気づいた。
ねっとりとした、害意の混ざったような気持ちの悪い視線。
ストーカーじみたファンに狙われた時に似た気配。
またか、とこれ以上ないほどに不機嫌そうに顔をゆがめて辺りを見回す。
正直、これ以上疲労がかさむのは勘弁して欲しかった。
見つけ出したら即刻八つ当たりもかねて、こっぴどく追い払おうと思う。

だが、視線の正体を探ると、女性ではなかった。
二人並んで歩いている50メートル後方あたりの電信柱の影から覗いている暗そうな男。
着ている制服はこの辺りの学校のものではない。
となると義也には心当たりがなかった。
けれど彼の視線は明らかにこちらに向かっていた。
縁の太い眼鏡の向こうから、恨みがましい目つきでにらんでいる。

「なんだ…あいつ…?」

思わずぼそりともらした。
隣を歩いていた桜が反応する。
義也の視線を辿り、暗そうな男を見つけた。
すると少し微笑んで、ぺこりと頭を下げた。

「なんだ、知り合いか」
「いいえ、私のレギュラーストーカーの山田君(仮名)です」
「はあ!?」
「前に彼がいじめられているところを助けたら、妙に懐かれちゃって。それからずっとストーキングされてるんですよー」

視線を前に戻すとにこにことしたまま、なんでもないように説明する。
義也は一瞬言われたことが頭に入ってこなかった。
思わず足が止まる。

「何言ってるんだお前!?危なくないのか!?」
「あ、大丈夫ですよー、山田君(仮名)は大人しいですし。レギュラーストーカーの皆さんは見てるだけですからー」
「……皆さん?」
「ええ、あの前を歩いているカバンをしょった背広の男性はレギュラーストーカー2号の佐藤さん(仮名)です。メイド喫茶でバイトしてた時に常連さんだったんです。盗撮マニアであのカバンの中カメラ入ってるんですよ!後で全部没収させてもらいますけど。で、あそこのマンションから望遠鏡で見てるのが、レギュラーストーカー3号の小林さん(仮名)です。前に女王さまのバイト…」
「ちょっと待てー!!!!」

とんでもない単語が出そうになって慌てて止める。
指をさしてにこにこと教えてくれる桜に目線を合わせる。

「おい、そんなにストーカーがいるのか?」
「あ、今のところはこのお三方だけです。他の方は少々行過ぎた方ばかりでしたので、こちらに引っ越す前にそれなりの処置を取らせていただきました」

相変わらず少女らしく控えめに、おっとりと義也を見返す。
その姿は見るものをほんわかとさせるかわいらしさに満ちていた。

「……おい」
「どうも私、こんな地味な外見でしょう?ストーカーさん好みらしくて……。恥ずかしい……」

呆然として思わず隣をじっと見つめる義也。
桜は頬を赤らめて、照れたように目を伏せる。

「いや、ていうかいやいやいや、そこまで分かってるならなんか対策とらないのか!?」
「害が及びそうな場合は注意させて頂きますけど、大人しい方ばかりですから。まあそうでもなければこんな粘着質なストーキングしてないでしょうけど」

おっとりと、けれど辛らつなことを笑顔で言い放つ。
義也はまた痛み出したこめかみを押さえながら、頭を何回かふる。

「でも、こう、うざったくないのかよ!」
「いえ、あの人たちそれなりにお金持っているらしくて、プレゼントとかしてくれるんですよ。だいぶ前からうちの家計火の車だったので、それを質屋に流して助かってたんです。でもそうですね、水無瀬のおじ様のご好意でしばらく落ち着きそうなので、あの人たちにはお引取り願った方がいいかもしれませんね」

もはや義也は何も言えず、ただ黙って20センチほど下にある小さな顔を見つめる。

「義也さんが気になるようだったら、明日からは来ないように注意しておきます」
「……そうしてください」






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