三田の汗は甘い匂いがする。 ソファにならんで座って、甘い甘い紅茶を飲む。 紅茶の香ばしい匂いに混じって、シャワーを浴びて体が温まっている三田から、甘い匂いが漂っていた。 俺はその首に顔を埋めて、肺いっぱいに吸い込む。 それは汗の匂いで、確かに人によっては不快かもしれないが、俺には甘酸っぱいいい匂いに感じる。 「甘い匂い。三田の匂い好き」 「………単に汗臭いだけだろ」 「男って、女の汗の匂いをいい匂いって感じるんだって。確かに甘い匂いだなって感じてたけど、三田の匂いが一番甘い。いい匂い」 「………」 女の子の汗の匂いは男と違って甘い匂いがするなって前から思っていたが、三田のが一番甘い気する。 三田は汗っかきだから、すぐに汗を掻く。 本人はすごく嫌がっているが、俺としては大歓迎。 つい、匂いにつられて汗ばんだ首筋を舐めてしまう。 「うわっ」 「………ムラムラしてきた」 「無理!もう無理!絶対無理!」 「分かってる」 さすがに処女相手にそこまで無理をさせるつもりはない。 かなり痛がって半泣きになっていた。 またその泣き声に頭に血が上って、自制が効かなくなってしまったんだが。 スポーツをずっとしてきたせいか、血がでなくてショックを受けている姿は、かわいかった。 処女だからね、なんて主張されなくても、丸わかりだ。 かわいいかわいい、俺の子犬。 「痛!だから噛むな!」 「あ、ついうっかり」 気が付いたら首筋に噛みついていた。 今日は優しくしたつもりだったが、テンションが上がって気が付いたらかなり噛みついていた。 終わった後に、体育の時間どうするんだとベッドから蹴り落とされた。 「うっかりじゃない!歯型だらけだったんだからな、私の体!」 「いいな、俺の痕でいっぱい。これは、俺のもの」 「………っ」 でもその体を見て、ものすごいいい気分だった。 これで、三田は誰にも体を見せられない。 俺の痕でいっぱい。 俺でいっぱいの三田。 「三田も噛んでいいよ。爪を立てても、抉っても、刺しても」 「だからそういう怖いことを言うな!」 本当にいいのに。 俺にも三田の痕をつけてもらいたい。 俺は三田のものだと、皆に主張したい。 「甘い匂いだから、噛むの?」 三田が、ちょっと考えてから不思議そうに聞いてくる。 「え?」 「なんか、こう、食べたくなるとか。食欲が沸くとか」 思わず笑ってしまった。 ああ、食欲。 確かにこの飢える感じは、食欲かもしれない。 三田の前では、常に喉が渇く感じがする。 空腹感が続いている。 「笑うな!」 馬鹿にされたと思ったのか、三田が顔を赤くして殴ってくる。 そんな仕草がかわいくて、俺は余計に笑ってしまう。 「はは、は」 「だから笑うなって!」 「あっは。どうなんだろ。食べたい、かな。そうだな、食べたい。食べちゃいたい。頭から足先まで骨一つ残らず食べてしまいたい。体液も全て飲みほしてしまいたい」 「………お前が言うと本気臭くて怖いからやめろ」 「本気なんだけど」 「余計にやめろ!」 三田は真っ赤になってもう一度殴ってくる。 ああ、かわいいな。 本当に、食べてしまいたい。 「本当にいいの、送らないで?」 「いい!」 「体、平気?」 「っ………」 「顔が赤いよ。本当に平気?」 一気に顔が赤くなった三田に、おでこを近づけて熱を測る。 三田は思い切り飛び上がって後ずさった。 「へ、平気!!」 ああ、もう予想通りの反応で、ベタベタでいいなあ。 三田って本当にベタベタでいいなあ。 「つかお前、分かってやってるだろ!」 「勿論」 「いっぺん死ね!」 思いっきり腹を蹴られると、そのまま三田は飛び出して行った。 乱暴にバタンと玄関が閉められる。 ちょっと歩き方が不自然だったのが、ひよこみたいでかわいかった。 「あはは」 心が、浮ついているのが分かる。 上質なシャンパンの小さな炭酸の泡のように浮き立っては、はじけていく。 パチパチと音を立てて、気持ちよく消えて行く。 「本当に、三田って、楽しいな」 こんなに俺を楽しくしてくれるのは、三田だけだ。 かわいくて、面白くて、いじりがいがあって、綺麗で、汚くて、優しくて、厳しくて。 ああ、三田が一緒にいてくれたら、ずっと楽しいんだろうな。 ずっとずっと、一緒に。 くすぐったいような気持ちに頬が緩む。 ああ、そうだ、夕食を食べなきゃ。 また三田に怒られてしまう。 俺を心配してくれて怒る三田を見ているのは、とても楽しいのだけれど。 それが同情だろうと、義務感だろうと、偽善だろうと、怒られるのは、嬉しい。 心配されているって感じがする。 思われているって、感じることが出来る。 ああ、また怒られても、いいな。 そんなことを考えながら、リビングに続くドアを開く。 「………」 そこは嫌に広く感じた。 ずっと生活していた場所のはずなのに、なぜか途方もない違和感を感じる。 まるで初めて来るような、居心地の悪さと、心細さ。 テーブルの上には、一緒に飲んだ紅茶のカップが二つ。 『野口』 俺のシャツを着て、ソファに座っていた三田が、笑う。 照れくささから不貞腐れたように頬を膨らませながら、それでもお茶を渡したらわずかに笑った。 決して美人ではない。 それでも、そのはにかむような笑顔がかわいくて。 かわいくてかわいくて、愛しくて。 欲しくて。 処女相手にだいぶ無理をさせた後だったのに、喉が渇くようにもう一度欲しくなった。 「………っ」 急に訳もない焦燥感に襲われて、玄関に駆け戻る。 さっき締まったばかり玄関をノブを回すのももどかしく開ける。 ガチャリと音をてて開くドアは嫌に重く感じた。 「三田っ」 左右を見回す。 そこに三田の姿はない。 裸足のまま飛び出して、エレベーターホールまで走る。 階段室を見下ろす。 当然ながら、三田はすでにいない。 足が速い三田のことだ、もうだいぶこのマンションから遠ざかってるだろう。 当たり前だ。 さっき見送った。 いないのは、当たり前だ。 「………三田」 今すぐにも追いかけたい。 追いかけて、抱きしめて、キスして、噛みついて、その存在を感じたい。 あの笑顔を見たい。 自分の下で泣いていた、あの声がもう一度聞きたい。 いますぐ、もう一度会いたい。 見たい。 聞きたい。 「………は、あ」 エレベーターホールの壁にもたれかかる。 ぐちゃぐちゃになった頭を掻きまわして、なんとか冷静になろうと努める。 落ち着け。 落ち着け。 なんでもない。 明日にはまた会える。 学校で、明日にはまた会えるんだ。 きっと三田は照れくさそうに笑って、憎まれ口を叩くだろう。 俺がからかったら怒って殴りながら、それでも笑ってくれるだろう。 「そう、だ。大丈夫」 何やってんだ、俺。 裸足のまま、こんなところまで来て。 ご近所に見られたら、噂になるだろ。 大丈夫。 大丈夫だ。 ゆっくりと足の裏の感触を確かめるように歩く。 じゃりじゃりした砂の感触が、気持ちが悪い。 幸い家に帰るまでは誰にも会わなかった。 明りについた家には、当然のことながら誰もいない。 さっきまでいた。 でも、今はいない。 「………かんが、えるな」 そうだ。 夕食。 夕食を食べないと。 そうだ、怒られる。 三田に怒られる。 今日はバイトもない。 だから、家で夕食を食べなきゃ。 今日は、ずっとこの家で、一人なのだから。 台所に向かうと、スーパーの袋が調理台におきっぱなしだった。 何かあの中の材料で、俺にも作れるものがあるだろうか。 それとも、今度三田が来るまで、置いておいた方がいいかな。 肉じゃが、作ってくれる約束だし。 でも、また今度きたら、また押し倒してしまうかもしれない。 ガサガサとうるさく音を立てる袋を探ると、リビングに座りこんだ三田がふいに脳裏に浮かぶ。 『き、緊張して、も、もう無理』 真っ赤になって、俯いて、絶え絶えの小さな声。 面白くて、たまらない愛おしさがこみ上げた。 怖くても、プライドが邪魔しながらも、俺を引き留めたくて、俺のために体をくれた。 抱きしめてくれた。 堅い、筋肉のついたしなやかな体。 痛がって泣く顔。 小さくあげた甘い声。 「………三田」 会いたい会いたい会いたい。 いますぐ会いたい。 なんでいないんだ。 なんでなんでなんで。 さっきまで傍にいてくれたんだ。 それなのに、なんで、今はいない。 なんで今ここにいないんだ。 触りたい。 抱きしめたい。 喉が渇く。 飢える。 落ち着け。 落ちつけよ。 「落ち着け」 駄目だ、混乱してる。 落ち着け。 明日には、会えるんだから。 熱に浮かされたように、寝室に行く。 まだ後始末をしていない、乱れたベッド。 部屋中に、甘い匂いが立ち込めている。 三田の、匂いだ。 ベッドに倒れ込むように、顔を埋める。 息を思い切り吸うと、甘い、三田の汗の匂いでいっぱいになる。 「……三田」 会いたい。 すぐに会いたい。 電話しようか。 駄目だそんなことしたら余計に会いたくなる。 声を聞いたら走り出してしまう。 姿を見たくなってしまう。 触りたくなってしまう。 会っても、どうせすぐに別れないと行けない。 夜は三田は家に帰る。 家で寝る。 バラバラだ。 俺の隣にはいられない。 当たり前だ。 ごく普通の高校生だ。 ずっと一緒なんて、いられるはずがない。 当然のことだ。 なんで、一緒にいれないんだろう。 どうやったら一緒にいられるんだろう。 一緒にいたい。 体温を感じられる距離にいたい。 息が触れる距離で話したい。 さっきまで一緒にいたのに。 ああ、この前は、朝起きたら、三田がいた。 家の中に、三田がいたんだ。 あの時の胸に広がる満足感。 充足感。 俺がまた病気になったら、一緒にいてくれるだろうか。 看病をして、朝まで一緒にいてくれるだろうか。 風邪ぐらいじゃ、もう一緒にいてくれないだろうか。 ああ、足や手でも折れば、何もできない俺のために何日か一緒にいてくれるんじゃないだろうか。 日常生活が出来なかったら、世話してくれるんじゃないだろうか。 手の方がいいだろうか。 そうだ、足だったら杖や車いすを使ったら移動できる。 できてしまう。 それなら腕でも折れば三田は甲斐甲斐しく世話してくれるんじゃないだろうか。 きっとそうだ。 してくれる。 それなら、腕を折ればいいだろうか。 ああ、でも駄目だ。 そんな何日も泊まれるはずがない。 あの普通のお母さんがそんな何日も外泊を許すはずがない。 毎日通いで来てくれるかもしれないが、一日中一緒なんて無理だろう。 そんなの足りない。 足りない。 足りない。 足りない。 いっそ三田の手足を折ったらいいだろうか。 そしたらこのベッドに寝かせて、俺が世話を見よう。 食事の世話からトイレの世話まで全部全部見てあげよう。 ずっとずっと、俺の傍にいてくれる。 それで、三田が見るのは、俺だけだ。 俺以外の誰とも話さない。 見ない。 触れない。 藤原とも雪下とも、会えない。 誰にも笑いかけない。 俺だけ見て、俺だけに笑う。 「………ははっ」 そこまで考えて、思わず笑ってしまった。 ああ、本当に馬鹿だな、俺は。 また繰り返すのか。 成長なんて、全然していない。 どんなにかっこつけて背伸びしても、俺は全く変われない。 このどうしようもない独占欲と所有欲。 不安感、焦燥感、飢餓感。 抑えきれない、子供のような我儘な欲望。 いっそ食べてしまいたい。 三田をバラバラにして、頭から食べたら、俺は満足できるだろうか。 このどこまでも満たされない飢えを、満たすことが出来るだろうか。 三田と一つになれることで、ようやく安心できるだろうか。 「三田、三田、三田、三田」 シーツを抱きしめると甘い匂いとともに、三田の笑顔を思い出す。 怒って、笑って、殴られて、抱きしめらて。 くるくると変わる、感情豊かな、卑屈で意地っ張りで素直でかわいい女の子。 閉じ込めて、誰にも見せたくない。 泣きわめいても、憎まれても、俺だけのものにしてしまいたい。 そうしてしまいたい。 笑わなくてもいい、話さなくてもいい、俺に笑わなくてもいい。 ただ、傍にして。 俺の手が届く場所にいて。 「………でもやっぱり、三田が笑わないのは、嫌だなあ」 閉じ込めたら、三田は、笑わなくなるだろうな。 それでもいいとも思うけど、他に誰もみなくなるなら、それでもいいと思うけど。 やっぱり、三田には、笑っていて、欲しいなあ。 「大事に、出来ると、思ったんだけどなあ」 優しいものだけで包んで、安心させて、まあ、たまにからかうけど、それでも、守って笑わせてあげられると思ったんだ。 穏やかな時間を過ごせると、思ったんだ。 温かい時間を一緒に過ごせると、そう思っていたんだ。 「だから、三田、だったのに」 でも、もう、優しくなんて出来ないかもしれない。 三田が藤原に笑いかけたら、俺は藤原を殴り倒してしまうかもしれない。 三田に二度と話すなと命令するかもしれない。 反抗されたら、縛り付けてしまうかもしれない。 傷つけて傷つけて泣かせて憎まれて、それでも傷つけて。 雪下に笑いかけるのも許せない。 俺以外の誰にも笑ってほしくない、見て欲しくない。 「三田」 今手元にあるのは、三田の甘い匂いだけ。 確かめたい。 あの体が、自分だけのものだと、確かめたい。 全身を舐めまわして噛みついて痕を残して、何度も何度も中に精液を吐き出したい。 泣きわめいて嫌がる体に、俺の汚い体液を上からも下からも注ぎ込んでぐちゃぐちゃにしてしまいたい。 俺でいっぱいにして、あの甘い匂いと俺の匂いしかしない体にしてしまいたい。 「………ああ、そうか」 もうとっくに、そんなの無理だったんだ。 穏やかに、愛するなんて、不可能だったんだ。 できるはずが、なかったんだ。 だって、こんなに、三田が好きになっていたんだから。 |