9月はまだまだ夏の暑さを残して、教室内をサウナに変えている。 下敷きでパタパタと仰ぐが熱い空気が動くばかりで、まったく涼しくはならない。 それでもやらないよりはマシだ。 「あー、学校だるい」 「夏休みが恋しいねえ」 美香も同じようにシャツをパタパタと動かして空気を入れている。 胸が大きいから見えそうで見えなくて目のやり場に困る。 私がやるとガサツな仕草でも、美香がやるとかわいらしくてちょっとセクシー。 男子が見てたぞ、今。 私が汗を掻いても汗臭そうなだけだけど、美香が汗を掻いてるとなんか色っぽい。 ああ、本当にこの世は不公平。 「ねえねえ、この前、本当はどうだったの?」 美香が机にひっつきながら、上目遣いに訪ねてくる。 それはあの日から何度も繰り返されている問いかけだ。 「ったく、しつこい。だから何度も言ってるでしょ、何もない」 「えー」 「あいつ、風邪でぶっ倒れてたんだって」 「ぶっ倒れてなかったら、えっちしてた?」 思わず持っていた下敷きで、小さな頭をはたいてしまった。 まったくこの女は、人のことだと思って面白がりやがって。 「痛いなあ」 「うるさい!」 美香は頭を撫でながら口を尖らせる。 ああ、しかし何やってもかわいいからムカつく。 「じゃあ、それからは?」 「何もない!」 本当に何もない。 あれから夏休みが終わるまでに何回か会ったが、全く進展はなしだ。 何回かキスしたくらいで、それ以上は何もない。 けれど美香は疑り深い不審そうな目で見てくる。 「だって、せっかく一人暮らしなのに」 「せっかくってなんだせっかくって!」 「私たちなんて二人きりになるのも大変なのにー」 ぶーぶーと文句をたれる。 まあ、美香の家はご両親とお兄さんがいるし、藤原君の家もご両親がいるしな。 私の家だって妹とお母さんとお父さんがいる。 お父さんは夜まで帰ってこないけど。 高校生で一人暮らしっていうのは、逆にあまり聞かない。 確かに人によっては、すごいうらやましい環境なのかもしれない。 「あれから家行ったりしたの?」 「してない」 「なんで?」 「なんでも!」 行けるか、馬鹿。 けれど、詳しい事情を美香に言う気はない。 覚悟はまだ、完了できていない。 「あの、さ」 「んー」 美香が汗を拭きながら、だるそうに返事をする。 聞こうか聞くまいかちょっとだけ迷って、でも思い切って聞いてしまう。 他に聞けるような人もいない。 「………えっちって、付き合ってからどれくらいの期間で、するものなのかな」 「えー、どうなんだろ。人それぞれじゃない?」 そんなのは分かってる。 でも、相場ってものが知りたいんだ。 「………美香は一カ月とちょっと?」 「それくらいかな」 「早くない?」 「どうなんだろ」 ああ、本当に役に立たねえ。 人のことを気にしない、美香らしいけど。 一か月か。 そういえば、私も野口と付き合い始めてそれぐらいか。 なんか友達付き合いしてたのが長かったから、もっと長かった気がする。 一か月ぐらいが相場なのだろうか。 そうなのだろうか。 ソフト部の友達にも聞けないし、まして家族になんて聞けない。 そろそろヤらせた方が、いいのだろうか。 「………うう」 「何、えっちするかしないかで迷ってるの?」 「う………」 ストレートに聞かれて、答えに困る。 まあ、言ってしまえば、そういうことなんだけど。 美香は私から下敷きを取り上げて、パタパタと仰ぐ。 「したくないならしなければいいんじゃない?」 「そんなあっさり」 「したいの?」 「………」 どうしてこの子はこんなかわいい顔して、こういうところ恥じらいがないのか。 もっと恥じらいを持て。 乱れた性の現状を憂う。 美香はどうでもよさそうに一応答えてくれる。 「したくないのに無理にする必要はないと思う。したいなら、してもいいんじゃないかな」 「美香は、したかった?」 「うん。このままで藤原君何もしなさそうなんだもん」 「あー………」 「キスして、ハグして、そしたらなんか、もっと触りたくならない?」 「………」 「まあ、興味はあったかも。でも、私は触りたかった。ムラムラしてきて、襲っちゃった」 「ムラムラって、あんた」 「後悔はしてないよー」 「………」 本当にこういう時、この子が心底羨ましくなる。 迷うことなく、ずばっと自分のことを決められる強さ。 自分に自信があって、行動をためらわない。 「由紀?」 「駄目だ。私には無理だ」 「なら、別にいいんじゃない?」 「………はあ」 怖いってのはある。 恥ずかしいってのはある。 まだ早いってのもある。 なんだか取り返しのつかなそうって気はある。 こんなに早くに許していいのだろうか。 でも、興味はある。 してみたくないわけでも、ない。 「何、野口君にヤらなきゃ別れるとか言われてるの?」 「いや、そこまでは」 「じゃあ、別にまだいいじゃん。迷ってるなら」 くそ、あっさり言いやがって。 そんな簡単に片づけられるなら、こんなに悩んでない。 「………でも、ヤらせなかったら、飽きられないかな、とは思う」 「えっちしたって、飽きられる時は飽きられるよ」 「う」 えっちしたって、飽きられる時は飽きられる。 それもまた、悩みの一つだ。 自分の体に自信はない。 こんな体見られて、嫌われたらどうだろうって思う。 経験豊富そうなあいつは、私なんかつまらなくてすぐに飽きて捨ててしまうんじゃないだろうか。 「なら、してから飽きられた方が損じゃん。させないくらいで飽きるような男だったらいらないよ。捨てちゃえ捨てちゃえ」 「………時々美香って、すっごい野口に似てる気がする」 「え?」 どこか割り切った考え方が野口っぽかったので言ってしまうと、美香は不快感を全面に表わした。 こんな顔を歪めた美香を初めて見た。 「………すごい嫌そう」 「ものすごい嫌」 「ごめんなさい」 心底嫌そうに顔を顰める美香に思わず素直に謝ってしまう。 なんだ、なんか前々から思ってたけど、この二人、結構仲が悪いのか。 ていうか美香が実は野口のこと嫌いなのか。 「まあ、とにかく、そんな理由でするなんて、つまらないじゃん」 「つまらない、か」 そういうところも、ちょっと野口に似てるなあと思ったけど言わないでおいた。 楽しいか、楽しくないか。 私はそんなこと考えられるほど、余裕ない。 「野口君なら、待ってくれると思うけどね」 「………そうか?」 「そうだよー」 あのケダモノは、待つ気があるのだろうか。 けれど美香は机に懐いていた体を起こして、にやりと意地悪そうに笑う。 「だって由紀隙だらけじゃん。ヤろうと思えば簡単にできそう」 「おいこら」 「褒めまくって、ヤらせないと別れるとか言ったら、簡単にヤらせてくれそう」 「人を馬鹿女みたいに言うな」 「由紀押しに弱いもん。ていうか今も飽きられそうとか言って悩んでるし」 「う」 ものすごい心外なひどい言い草だが、確かにそれは、あるかもしれない。 野口がいざヤらせなければ私を捨てると言ったら、私は迷いながらも頷いてしまうかもしれない。 うわ、私本当に馬鹿女だ。 美香に恥じらいとか言ってる場合じゃない。 「でも野口君、由紀の隙につけこむけど、最後までしないでしょ?」 確かに野口は、隙につけこみまくって変態な言動を繰り返すが、ギリギリで引く。 ほんっとーにギリギリだが、一応引いている。 「だから、私は野口君なら由紀を任せられるよ」 美香はにっこりとかわいらしく笑う。 「由紀は安心して思う存分、悩むといいと思うよ」 安心して思う存分悩むって、どんなんだ。 今日も野口は部活が終わるまで待っていてくれた。 日が落ちるのが段々早くなってきて、もうそろそろ辺りは暗くなってきている。 二人で短い家までの距離を、並んで帰る。 バイトとか用事がある時は先に帰るが、何もない時は結構待っていてくれる。 そんなに待ってなくていいと言ったら、趣味は彼女だと言われた。 こいつは本当に時々どうしようもなく馬鹿だ。 「………あのさ」 「うん?」 一歩前を歩く白いシャツの背中に、話しかける。 野口は振り返らずに、小さく頷く。 「えっと」 「うん」 「………野口は、付き合った人と、どれくらいでえっちした?」 首だけで振り返って、眼鏡越しにちらりとこちらを見る。 その目が、意地悪く笑いを滲ませている。 「どうしたの?」 「………」 どうしたって言われても、応えられない。 私だって、自分が何を聞いているのか分からない。 答えずにいると、野口は小さく肩をすくめた。 「まあいいけど。即日、3日、1週間、1カ月ってところかな。誤差はあります」 「………はえーよ。何人だよ。お前いくつだよ」 「ヤりたい盛りだったからな。年上が多かったし」 ああ、もう、どこからつっこんでいいのか分からない。 即日ってなんだよ。 この変態。 節操無し。 本当に私とは違う次元に生きている人間だ。 「前にも言ったけど、別に焦らなくていいよ」 野口がその場で立ち止まり、振り返る。 私は背中ではなく、今度は白いシャツのボタンを、じっと見る。 「………」 「セックスって、楽しいものでしょ?愛を確かめ合う行為。どちらかが嫌々だったら、成立しないでしょ」 「………お前が言うと嘘くさい」 「ひどい」 無表情にひどいと言われても、何を考えているのかさっぱり分からない。 だって、こいつは今まで散々ヤりまくっていたくせに。 そこに、愛はあったのだろうか。 確かに焦らなくてもいいと言われている。 前にも言われた。 「義務感とか焦りで足開かれても嬉しくないって」 「でも、あんた、すぐヤりたいって言うじゃん」 「だってヤりたいし」 「どっちだよ」 そんなにヤりたいなら、ヤらせてあげないと悪いだろうか。 飽きるだろうか。 そんな勿体ぶるような大したものじゃないのに、とか考えてしまう。 美香だったら、なんでそんな下手にでなきゃいけないのって怒るだろうけど。 でも私は、自分に自信がない。 俯いてしまったから分からないけれど、野口が喉の奥で笑った気配がした。 「でも、待てるよ。ヤりたいけど、あんたがその気になるまで待つ」 「鳴くまで待たないって、言ったくせに」 「だから行動してるだろ?ものすごい鳴かせてみせてる」 「………」 「三田も鳴く寸前でしょ?だからこんな質問してる。ちょっとヤってもいいって気になってる」 「ば、ばっかじゃないの!死ね!」 「じゃなかったらこんなこと聞かないだろ」 「………」 「俺との距離を測ってる。怖いから保険を欲しがってる。後一歩、背中を押されるのを待っている」 ああ、顔が熱い。 夕暮れでよかった。 赤い顔は夕日の赤で誤魔化されて、見たって分からないだろう。 それでも、この男には全部バレバレなんだろうけど。 「でも俺は押さない。待ってる。あんたが決断して」 「………根性悪い」 「知ってる」 「………あんた、強引なくせに、なんで、肝心な時に引くの?私なんて簡単に騙せるだろうにさ」 いっそ、強引に押し倒しでもしてくれたら、楽だろうに。 何も考えずに、こいつのせいに出来る。 こんな風に私に決断を押し付けられるのはものすごいプレッシャー。 変なところで遠慮しやがって馬鹿野郎。 「だろうね。あんた自分に自信がないし、ふられるの怖がってるし、頭悪いし」 足を思いっきりあげて、目の前の足を蹴りつける。 「殴るぞ」 「殴ってから言うなよ」 痛い、ひどいとぼやきながら、野口がズボンについた足形を払う。 一歩近づいて、私の顔をつかんで持ち上げる。 触れられた手は冷たいのに、接しているところが熱を持つ。 体が熱くなっていく。 まっすぐに見ている眼鏡の奥の切れ長な目から、目を逸らせない。 「まあ、やろうと思えば出来るだろうね。でも、そんなの何にも楽しくないし」 そこでチェシャ猫のようににやりと笑う。 心底意地悪そうな、野口の性格そのままの笑い方。 「それに、この焦れ焦れプレイを楽しんでるんだってば。なんか勿体ない気もしてさ」 「勿体ない?」 「楽しい小説ってさ、なんとなく読み終わるのが嫌じゃない?。美味しいケーキとかも食べ終わるの、寂しいだろ。そんな気分」 首に腕を回され、私の肩に、顔を埋める。 薄いシャツ越しに、熱い湿った息が、触れる。 「最後まで行かないこのギリギリ感がたまらない。振り回されるのが楽しくて仕方ない」 首筋の産毛を軽くなぞるように、唇が触れる。 膝から力が抜けそうになると、野口が私の腰を支える。 「………っ」 一旦顔を離して至近距離で顔を覗き込んでくる。 「ね、キスしていい?」 「………」 「するね」 私の答えを待たないまま、野口が断言する。 ちゅっと音を立てて、頬と唇と額に冷たい唇が触れていく。 目を瞑って、ただじっとそれに耐える。 最後に唇を舐められて、体が跳ねてしまう。 「………っ」 もう一度ぎゅっと体を抱きしめられる。 そして吐息を吹き込むように耳元で囁かれる。 「それに何より、あんたがそうやって悩んでぐるぐるしてる姿にゾクゾクする」 「………この真正変態」 「ひと思いに食べるのもいいけど、ゆっくりと食べるのも楽しいね」 変態変態変態。 この変態。 最低のエロ眼鏡。 「だからもっと味わわせて?」 目を恐る恐る開けると、野口は楽しそうに笑っていた。 |