後一歩の勇気。 後少しの覚悟。 臆病で卑怯な私は、まだ人の手を必要とする。 散々後押ししてもらって、それでもまた他人の言葉が欲しい。 「ねえ、美香」 「なあに?」 久々に二人で歩く、帰り道。 すっかり早くなった夕暮れは、すでに菫色に染まって、星が見え始めている。 「野口は、私のことが好きだと、思う?」 「思う」 美香はありがたくも潔く即答してくれた。 思わず苦笑が漏れる。 「ものすごい早いな」 「だってどう見ても好きじゃん」 正直、野口は私のことを気に入ってくれているとは、分かる。 たとえおもちゃ扱いでも、紛れもなく、私のことが好きだろう。 それは、確かだと思う。 でも、それはずっと続くのだろうか。 「何があっても、私のことが好きかな」 「さあ、それは分からないけど。先のことなんて分からない」 変なところで現実的な親友は、私の欲しい言葉はくれない。 でも、なんとなくこう返ってくるだろうなってことは分かっていた。 美香は、口先だけの慰めなんて、今はもう口にしないだろう。 「でも、由紀は、野口君のことが好きなんでしょ?」 小さく小首を傾げて、どんな表情をしていてもかわいい親友が私を見て悪戯ぽく笑う。 美香はとてもかわいい。 それがとても悔しくて、そしてとても誇らしい。 美香が親友なことが時折たまらなく嫌で、それ以上の頻度で嬉しいと思う。 「大切なのは、由紀が野口君のことが好きってことじゃないの?」 ゆったりと歩きながら、美香が諭すように言う。 美香の言うことは、正しい。 「好きだったら、相手にも自分がずっと好きでいてもらおうって、努力するでしょ?そうして、頑張ってお互い好きでいるんじゃないかな。何があっても好きか、なんて分からない。何があっても好きでいよう、好きでいてもらおうってやっていくのが、大切なんじゃないかな」 綺麗な言葉。 綺麗な美香は、綺麗な言葉を吐く。 嘘くさいぐらいに、厳しくて綺麗で正しい言葉を口にする。 あんたみたいに自信があって、真っ直ぐなら、確かにそうかもしれない。 でも私は、汚くて卑怯な野良犬の私は、努力して報われるって信じられない。 報われなかったらどうしようって方を考える。 「………」 「また卑屈なこと考えてるでしょ?」 「………」 黙りこんだ私に、美香が小さく肩を竦めた。 そしてため息をついて、軽く私を睨む。 「由紀は結局私が何を言っても、信じてくれないもんね」 「そん、な」 「いいけどね。でも、私が由紀をかわいいって思って、好きでいるのは、本当だから」 確かに私は美香の言葉を信じられない。 コンプレックスだらけの私は、美香が褒めてくれても一段上からの勝者の憐みの言葉だと思うし、今みたいな正しい言葉も、なんでも持っている人の無神経な言葉だと感じる。 理性では、美香は私のことをが好きだろうし、美香が言っていることが正しいと分かってはいるのだけど。 感情が、それを認められない。 でも。 それでも。 「………私も、美香が、好きだよ」 それは本当。 それは、確かなこと。 コンプレックスを抱かされて、隣にいるとみじめになって、その真っ直ぐな性格に苛立ちを覚えて。 でも、憧れて、楽しくて、嬉しくて、一緒にいたい、友達。 「うん」 美香が、とびっきりの笑顔で笑う。 相変わらず、何をしても、かわいい、私の理想の女の子。 こんな子に生まれていたら、きっと何もかもうまくいったんじゃないか、なんて思う。 「美香が、好きだよ」 「うん」 美香はそっと私の腕に自分の手を絡めて寄り添う。 柔らかい感触と、甘いいい匂いがふわりと漂う。 「由紀が欲しい言葉はあげられないかもしれないけど、由紀がふられたら、慰めてあげる。一緒に泣いて、野口君を殴ってあげる」 「………不吉なこと言うな」 すごいありえそうな未来で困る。 今は好きだと言ってくれていても、ずっと一緒にいてくれるなんて、信じられない。 振られてしまう方が、よっぽどリアル。 「あはは」 抗議すると、美香は朗らかに声をあげて笑う。 そして隣で、にやりと意地悪そうに、それでもやっぱりかわいく笑う。 「ま、大丈夫。ふられてもすぐ次が見つかるよ!」 「だから不吉なことを言うな!」 もう、本当にこいつは、外見に似合わずストレートにきつくて、男らしい。 こんなところも、この子の魅力。 「だって、由紀はかわいいんだから」 でも、だからこそ、少しだけ強くなれる気がする。 だって、こんな強い子が、私の味方なんだから。 泣いても、慰めてくれる人が、いるんだから。 休日を、二人でただダラダラと過ごす。 下らないことを話しながら、街中を一緒に歩く。 「………」 「どうしたの?」 ふと黙りこんだ私に、野口が首を傾げて聞いてくる。 すっかり見慣れてしまった、眼鏡の奥の冷たい目。 もう、何回目のデートだろう。 付き合って、どれくらいになるんだろう。 季節はもう、秋になる。 知り合ったのは、春だった。 藤原君と付き合って、別れたのは春だった。 野口に告白されたのも春だった。 夏に付き合って、一緒に過ごした。 自分の気持ちを認めて、キスをした。 そしてもうすぐ3つ目の季節がくる。 「………野口は、私が好き?」 「好き。大好き」 目を逸らさずに聞くと、野口もまっすぐに返してくれた。 その言葉にためらいはない。 だからこそ、どこか信じることが出来ない。 「嘘くさい」 「本当なのに」 無表情のまま、軽く肩をすくめる。 信じたい。 きっと本当。 例え三番目だとしても、それは確かに本当。 「どんなところが、好き?」 「本音がいい?建前がいい?」 真面目な顔で聞き返されて、一瞬言葉に詰まる。 こういうところ、変わらない。 付き合う前も付き合った後も、本当を突き付けるところ、変わらない。 「………本音。でもちょっとマイルドに」 「なるほど」 並んで歩きながら、少しだけ沈黙が落ちる。 ちょっとしてから、まず一個目と口を開く。 「卑屈なところ、好き」 「いきなりそれかよ」 「うじうじしてて自分に自信がなくて、常に人に肯定してもらおうとしてるところ、好き」 「どの辺がマイルドなんだよ、おい」 「じゃあ、もっと厳しく言った方がいい?」 「やめろ」 これ以上厳しくされたら、立ち直れる自信がない。 こいつは、私の痛いところばかりをつく。 卑屈だの、人に認められようとしてばっかりだのってのは、いつも言われてるからいいけどさ。 「こうして、俺から肯定の言葉を引き出そうとしている卑怯なところ、好き」 「………悪かったな」 聞いても無駄だって知ってたよ。 別に、肯定の言葉が欲しい訳じゃない。 それは、今回については、間違ってる。 「女扱いしてほしい癖に、本当に女扱いされると少し嫌な気分になる、矛盾してるところ、好き」 「………」 本当は女の子らしくて弱いよねって言ってほしい。 でも女だから弱いって思われるのも嫌。 「強くいたいって思って、強がって、それでも強がりきれなくて、弱くて、人に頼ってるところ、好き」 強くなりたい。 だから気が強いふりをする。 何にも負けないって態度をとる。 でも、本当は弱いから、美香や野口に憧れる。 私は人に寄りかからないと、立っていられない。 強くありたい。 でも弱い。 そしてそれを見透かされたくない。 「なんだかんだで、自分に好意を持ってる人間を付き離せない、臆病で弱いところ、好き」 人が頼ってくれると、嬉しい。 私は必要とされると、思えるから。 縋ってくる手が、嬉しい。 私しかいないと、思えるから。 「同情しやすくて、そんな自分に酔っちゃうようなところも好き」 「………私、最低じゃん」 人に優しくしていると、自分がいい人のように思える。 ああ、本当に、こいつの言葉は突き刺さって痛い。 手術をするように淡々と、自分が見たくない嫌な部分を切り開いては見せてくる。 「そんなことないんじゃない。それって、優しいってことだと思うよ。優しいところ、好き」 私は自分が優しいだなんて、思えない。 ただ、自分が大事で、保身で動いている小心者。 野口の世話したのだって、野口に嫌われたくないからだ。 野口に頼ってもらって、自分がいい気分になりたいからだ。 野口のためなんて、結局考えてないのかもしれない。 「私、優しくない」 「そうかもね。でも俺は優しくされた。それが嬉しかった。それは俺の主観だから、客観はいらない。俺は俺の感じたことが本当」 そっと、隣から細くて滑らかな手が、私の堅い手に絡まってくる。 相変わらずひんやりとして、体温を感じさせない。 「堅い手が好き。引きしまった腹が好き。小さい胸が好き」 「やかましい」 胸が小さくて悪かったな。 でかくたって、後で垂れるだけだぞ。 「頭を撫でてくれるところ好き。料理がおいしいところ好き。抱きしめてくれるところ好き。キスしてくれるところ好き」 「………」 私も、野口がたまに、優しくしてくれるのが、嫌いじゃない。 なんだかんだで私を肯定して受け止めてくれるのが嫌いじゃない。 嫌なとこを受け止めて、それでも好きだと言ってくれるのが、嫌じゃない。 「抱きしめたい、キスしたい、セックスしたい。舐めまわしてつっこみたい。精液上からも下からも注ぎまくって、俺でいっぱいにしたい。ドロドロになって溶けたい」 こんな最低な下ネタを言われても、嬉しくなってしまうから、本当にアホだ。 欲しがられてるっていうのが、気持ちがいい。 「………変態」 「うん、変態より。あ、でもセックスはノーマルだから」 「そういうことは聞いてない!」 「でも大事なことだから。期待してたらごめんね」 「なんの話だ!」 「セックスの話」 「アホか、死ね!」 でも、こんな野口のアホな発言のせいで、素直になることはできない。 嬉しいって認めるのは、なんだか人間として大切な何かを失ってしまいそうだ。 それなのに、野口が今みたいに、嬉しそうに笑うと、心臓がびくりと震える。 体温がじわじわと上がって、顔が熱くなっていく。 「そうやって俺に厳しいところ、好き。俺のこと怒るところ、好き。俺の言葉をいつだって真剣に真を受けてくれるところ、好き」 握った手が、私の指を一本一本なぞって遊ぶ。 指と指の間を優しく撫でられ、手の平を引っ掻かれて、ぎゅっと握られる。 「大好きだよ、三田。好き、大好き」 私の手を弄びながら、野口が言う。 どこか切羽詰まったような、かすれた声。 触れられた手から、熱がじんわりと移っていく。 「………」 野口は、私が、好き、なのだ。 それは、確か。 でも三番目。 きっとあのおっさんよりも、かつての藤原君よりも、下だろう。 捨てられたくない。 ふられたくない。 あのおっさんに負けたくない。 「………のぐ、ち」 「うん」 焦りや、義務感は、あるだろう。 好奇心だってある。 「………」 でも、多分それ以上のものも、ある。 野口に触れたい。 野口に触れて欲しい。 その感情は確かにある。 野口は私の言葉をじっと待っていてくれる。 この男は、結局は私を受け入れ、肯定する。 大丈夫。 大丈夫だ。 「あの、さ。今日、夕飯、作りにいこうか?」 「え」 野口が珍しく驚いたように声をあげて、足を止める。 つないだ手に引きとめられて、私も足を止める。 向かい合って、もう一度、はっきりとそれを口にする。 顔を逸らしたいが、理性を総動員して、視線を合わせる。 「あんたの家に、夕飯を作りに、行く」 もう逃げない。 大丈夫。 覚悟を、決めよう。 |