「あ、由紀、遅かった………由紀!?」 教室に戻ると、美香が待ち構えていた。 私の顔を見て、にこやかだった顔が一瞬にして曇る。 あれ、なんで美香が、ここにいるんだ。 「どうしたの!?」 焦ったように近づいてきて、私の肩を掴む。 細い指が肩に食い込んで痛みを感じて、ようやく意識が少しだけはっきりする。 そうだ、美香と、放課後、一緒に出かける約束してたんだ。 待っていて、くれたのか。 ちらりと教室の前にかけられた時計を見ると、結構時間が経っていた。 「由紀、どうしたの?」 「え?」 「なんでそんな顔色悪いの?どうしたの?」 「どう、って、どうも………」 ぼんやりとしたまま答えると、美香が睨みつけるように目を細める。 私の目をじっと見て、形のいい小さな唇を尖らせる。 「嘘」 言い切られて、息を飲む。 嘘、か。 うん、確かに、嘘だ。 でも、どうしたの、なんて、私が聞きたい。 どうしたって、聞かれても何も答えられない。 「わかん、ない」 「野口君が何か言ったの?」 「わかんない、わかんないよ」 「こっち来て」 美香が私の手を引っ張る。 まだ教室には何人かクラスメイトが残っている。 そのうち何人かはこっちの様子に気づいてちらちらとこっちを見ている。 ああ、また噂になっちゃう。 もう、いやだな。 ようやくこの前の話が落ち着いたばっかりなのに。 「野口が」 人気のいない方向に向かう美香に、ただ引っ張られるままにぼんやりと着いていく。 周りに流れる景色が、なんだかカーテンの向こうのようにぼやけている。 頭がもやもやとして、何も考えられない。 「うん?」 美香がちらりと後ろを見て、頷く。 その心配そうな顔に、なんだか胸の痛みが増して、涙が出そうになる。 さっきからずっと、胸がシクシクと、痛んでいる。 悪い病気のように痛くて痛くて、倒れてしまいそうだ。 馴染み深い痛み。 そう遠くない昔に、感じた痛み。 もう、感じたくなかった痛み。 「………野口が、別れようって」 「は!?」 美香が立ち止って、体を反転させる。 手を掴まれていた私はつんのめって転びそうになり、美香の肩に捕まる。 薄く柔らかで華奢な頼りない肩。 それなのにとてもしっかりとした力強さを感じる。 「………わかんないよ、美香」 なんで、こんなことに、なったのか。 『別れよう』 『は?』 何を言われたのか分からなくて、私は馬鹿みたいに首を傾げた。 また、いつもの野口のタチの悪い冗談かと思った。 反応したら、焦った?とかまた意地悪く笑われて、馬鹿にされるのだ。 いつものそんな、冗談。 そうに決まってる。 それなのに野口は淡々と、撤回することもなくそのろくでもない冗談を続ける。 『今までありがとう。振り回して、ごめん。色々ひどいこと言ってごめん』 『………な……に、なんで、何言って』 野口はいつになく優しく笑う。 いつもより穏やかな、優しい声で穏やかに話す。 『三田なら俺よりずっといい奴、すぐに捕まえられる。三田は優しくてかわいいから。俺といるより、ずっと幸せになれる』 『な、に』 『本当にありがとう。ごめんね』 ごめんね、なんて謝りの言葉は聞きたくない。 そんな優しい言葉は、野口らしくない。 いつも私の汚いところをズバズバと切り開いて、突き付けて、馬鹿にしてどん底まで落とす。 それが、野口だ。 こんな、私を褒める野口、全然野口らしくない。 いつもより、手の込んだ冗談。 本当にこいつはタチが悪い。 『………あんた、馬鹿じゃないの』 『うん、馬鹿。色々と、ごめん。俺が馬鹿だから、三田に本当に迷惑かけた』 『そんな、の、聞きたくない!』 そんな言葉が聞きたいんじゃない。 私はただ、今の言葉が冗談だと、ただその一言が聞きたいだけだ。 今までの中で、とびきりにタチの悪い冗談。 でも、今だったら許してやる。 一発殴って、チャラにしてやる。 『嘘、嘘つき。また、そんな…冗談、言って……』 笑おうとしたのに、うまく笑えない。 こんなの嘘だ。 嘘に決まってる。 嘘に決まってるのに、どうして、私の目は熱くなってくるんだ。 どうしてこんなに不安で、景色が歪んでいて、足元がぐにゃぐにゃする感じがするんだ。 胸を掻きむしりたくなるほどの、焦りと恐怖。 もう嫌だ。 もう、こんなのは嫌なんだ。 『ごめんね、三田』 けれど野口は真顔のまま、もう一度繰り返した。 なんで。 どうして。 昨日まで、こいつは、私を好きだと言っていた。 ヤりたい、なんて言ってばかりで、こっちが困るほどにスキンシップをとってきた。 それなのに。 『嘘つき!好きだって言っただろ!あんた、私のこと好きだって言った!すぐには飽きないって言った!』 『でも、飽きないとは言ってない』 『………っ』 なんだ、それ。 飽きたって、ことか。 私は、飽きられたのか。 また、私は捨てられるのか。 なんで、今私は、ふられようとしてるの。 また、私はふられるの。 意味が分からない。 『それじゃ、俺バイトだから』 『ま、待ってよ!』 思わず、その細い腕にすがりつく。 ああ、なんてみっともないんだろう。 捨てられたくなくて、男に縋りつく、可哀そうな女。 頭の片隅で、そんなことをちらりと思う。 『待って………っ』 でも、嫌だ。 こんなのは、嫌なんだ。 だって。 だって、私は。 『ばいばい、三田』 けれど、私の手はやんわりと振り払われた。 野口が私に背を向ける。 手は宙を浮いたまま、もう伸ばすことはできない。 私を振り払う野口は、見たくない。 もう一度拒絶されることは、耐えられない。 だから私はその薄い背中を、ただ見送った。 廊下には、人がいるのに、目が熱くなってくる。 なんとかこらえようとするけど、一粒だけ涙がこぼれた。 急いで拭って、目をぎゅっとつぶる。 「なに、それ」 美香の掠れた、険のある声が、聞こえる。 ぎゅっと、握った手に力が込められる。 「………わかんない、美香」 ただ、分かることは一つだけ。 私は、また捨てられたのだ。 |