しばらくして、美香が藤原君を伴って現れた。
ていうかなんで藤原君まで。
いや、いいんだけど。

「あ」

思わず声をあげた私を、美香はちらりと一瞥すると、すぐにカウンターの向こうのジンさんに顔を向けた。
その仕草に、胸がキリキリと痛む。
美香が私を見てくれなかったことが、辛い。

「こんばんは、ジンさん」
「いらっしゃい、美香ちゃん。それに藤原君も」
「あ、こんばんは」
「お邪魔しちゃってごめんなさい」
「いえいえ、またお会いできて嬉しいよ」
「私もです」

にこやかなに穏やかに挨拶を交わす二人。
ジンさん、このままとりなしてくれないかな。
いや、駄目だ。
また私は逃げようとする。
美香は、真正面から私に向かってきてくれた。
なら、私も美香に、ちゃんと向き合わないと。
ちゃんと、逃げないで、謝らないと。

「………美香、あの、あのね」

私は、カウンターのスツールから立ち上がると、美香の前に立った。
藤原君がごくりと、唾を呑む音が聞こえる。
私も、喉が渇く。
貼りつく唇を無理矢理はがして、なんとか口を開く。

「あの、ね」

美香がゆっくりとこちらに向き合う。
その表情にいつものかわいらしい朗らかな笑顔はなく、ただじっと私を見ている。
美香の無表情が、こんなに怖いと思わなかった。

「あ、あの」

頑張れ由紀、女は度胸だ。
自信を持て。
化粧をしたし、今の私は少しだけ強い。
私はかわいい、そこそこ!

「あの、ごめんなさい!」

そして、勢いよく頭を下げた。
部活でのお辞儀のように、きっちり90度に腰を折って頭を下げる。

「………」
「………」

顔が、上げられない。
今美香はどんな顔をしているのだろう。
睨んでいるだろうか。
怒っているだろうか。
それとも呆れているだろうか。

「み、美香、あのね、本当に、本当に、ごめんね」

怖くて、震える声で、頭を下げたままもう一度謝る。
許してくれるまで、何度も謝ろう。
拗ねてふてくされる私に、何度も美香が話しかけてくれたように。
美香と、これきりなんて、絶対に嫌だ。
野口を失った今、もう美香まで失いたくない。
そんなの、嫌だ。

「由紀、顔あげて」
「あ」

言われて、恐る恐る顔を上げる。
美香は私のすぐ前まで来ていた。
そしてその細い腕を思い切り振りかぶる。
構える暇なく、風を切って、それは私の顔に下ろされた。

「痛!!!!」
「一発お返しね」

思い切り頬を叩かれて、私は横を向いてしまう。
確かに殴ったけど、これは、私のよりずっと力が強くないか。
なんか不公平じゃないか。
かなり頬がひりひりするぞ。

「………いったあ」

頬を抑えながら、改めて前を向くと美香は安心したように小さくため息をついた。
そして、ちょっと俯いてから、美香も頭を下げる。

「で、私もごめん。本当にごめんね。どうも私、自分がいいと思ったこと、押し付けるところ、あるから」

そして頭を下げたまま、謝ってくれる。
私は頬を抑えたまま、美香のつむじを見つめる。

「由紀のペースとかあるのに、色々言って、焦らせたりして、ごめんね。許して、くれるかな」

そしてがばっと顔を上げる。
その目は、一昨日最後に見た時にように哀しそうな、切なそうな、苦しそうな顔をしていた。
美香に、そんな顔は似合わない。
そんな顔はさせたくない。
私は、思い切り頭を縦に何度もふる。

「う、うん!うん!わ、私、私はね、美香のそういうところ、すっごい助かってるんだ。ほんと、助かってるんだ。私、うじうじして、鬱になること多いから、美香にひっぱってもらうの、本当に、助かってるんだ」

美香が、ちょっとだけ顔を和らげて、それでも暗い顔のまま不安そうに小さな声で問う。

「私、ウザくない?」
「しょ、正直、ウザイって思う時もあるけどね、でもね、やっぱりね、美香のこと」

正しくて、強くて、綺麗なところが、たまらなく鬱陶しい時がある。
本人が言うとおり、自分の意見を押し付けてくるところが、嫌な時がある。
でも、それ以上にやっぱり。

「そ、その、好き、だから」

何度も何度も、喧嘩して、それでもやっぱり、出す結論は同じ。
美香が、嫌いで、でも、美香が好き。

「大好き、だから」
「私も!」
「わ!」

言った途端、思い切り抱きつかれた。
小柄な美香だけど、勢いよく飛びこまれるとやっぱり支えきれず後ろに一歩下がってしまう。
でも、その温かさに、また涙が出てきそうになる。
けれど、化粧をされたことを思い出して、ぐっとそれをこられる。
それで、その代わりに美香の華奢な体を思い切り抱きしめた。

「………なんかこう、背中がむず痒くなるなあ」
「甘酸っぱいですねえ」

カウンターにいたおっさんが呆れたようにつぶやいて、ジンさんがにこにこと笑っている。
ちょっと恥ずかしいけれど、それでもあまり気にならなかった。
この温かさをもう一度手に入れられてよかった。
失うことがなくて、よかった。
取り返しがつかなくなる前で、よかった。

「で、お前は?」

人が感動に浸っていると、おっさんがぼっと突っ立っていた藤原君に視線を送る。
藤原君は慌てて居住まいを直した。

「あ、えっと、はじめまして。すいません、ご挨拶が遅れました。俺は、野口の友人で、雪下の、か、彼氏です」

赤くなって聞いてないことまで答える藤原君。
その様子を見て、おっさんは眉根を寄せた。

「………お前、良に何もされてないか?」
「え?」

ジンさんがそのまま同じ質問をするおっさん。
ああ、本当に藤原君って、あいつの好みのタイプなんだなあ。

「………その人は大丈夫」
「そうか。これ以上複雑にならなくてよかったな」

困っている藤原君のために、代わりに答えるとおっさんはにやりと笑って肩竦めた。
ああ、確かにそうだ。
もうこれ以上複雑な関係になんてなりたくない。

「で、由紀はなんでここに来たの?野口君のこと?野口君と仲直りしようと思ったの?」

美香がようやく離れると、キラキラした目で聞いてくる。
ああ、私が野口とよりを戻そうとするためにここに来たのかと思っているのか。
まあ、違ってはないけれど。
ジンさんに呼ばれたのが理由だが、野口のことを聞きたいと思っていたのは事実だ。

「えっと」
「僕が呼んだんだよね。なんか最近良が荒れてるから、どうしたのかなって。何かあるなら、力になりたいからね」

ジンさんが穏やかに、助け船を出してくれる。
しかしその言葉に、輝いていた美香の顔は曇った。
眉をつりあげ、ジンさんに向き直る。

「荒れてるって?」
「うーんと、由紀ちゃんと付き合う前の状態になってるというか、もっとひどくなってるというか」
「喧嘩、とかはしなさそうだよね、あの子」
「しないね。しても弱いだろうし」
「………じゃあ」

ジンさんが困ったように、首を傾げる。
まあ、そういうことなんだろうな。
あいつ、遊んでそうだったもんな。
あ、ムカムカズキズキする。
なんか、吐きそう。

「………もう一発殴っておけばよかった、あいつ」

ぼそりとらしくない低い声で美香が吐き捨てる。
怖い。
て、え。

「………殴るって、美香?」
「あ」

美香がしまったというように口を抑える。
殴ると言ったあの日、私は必死で止めたのだ。
なんか友人に代わりに攻撃してもらうって、惨めで、嫌だったのだ。
美香も分かったって言ってたのに。

「だ、だってさ、由紀がいくらとめてもさ、やっぱムカつくじゃん、人の親友弄んで捨てるとかさ」

美香は目を逸らしながら、手をそわそわと絡めたり離したりしている。
てことは、こいつは殴りにいったのか、野口を。

「………」
「え、えへ?」

思わず睨みつけてしまうと、美香は誤魔化すように頭を掻いて笑う。
ちくしょう、そんな笑い方もかわいい。

「お、怒った?」
「い、や、うん。私のことを思って、やってくれたことだもんね」

うん、ここで怒るのはやめておこう。
ようやく仲直り出来たところだ。
怒るようなことじゃない。
うん。
友達にかばってもらうって、なんか、情けないけどね。

「………あいつ、なんか言ってた?」
「何も。ただ黙って殴られてた」

ふるふると首をふる美香。
そうか、やっぱり無反応か。
怒ったり、いい訳したりする価値も、ないのかな。

「………そう」
「珍しく」

私が失望して頷くと、美香はそうつけ足した。
意味が分からなくて、問い返す。

「珍しい?」
「珍しいよ。あの子が素直に殴られるって」

何を言っているのか分からなくて、一瞬言葉に詰まる。

「私、殴りまくってたよ?」
「由紀さ、藤原君と付き合ってた頃、野口君殴れた?」

ていうか野口ってなんでそんな殴られてばっかりいるんだ。
すごい質問だなあと思いながら、思い返す。
あれ、そういえば、あの頃って、あんまり、殴らせてくれなかったような、気がする。
避けたり、されてたっけ。
あれ。
でも、最近は、あいつなんの抵抗もしないで、殴られてるよね。
あれ。

「え、あれ」
「由紀が野口君殴ってるのって、野口君が由紀のこと好きって言い始めてだった気がするんだよね」
「………そんなこと」
「あの子、理由がなかったら殴られてくれないよ。理由があったらたまに殴らせてくれる」

ていうか、美香がなんでそんなに野口を殴ろうとしているのかが謎だ。
いつのまにそんなバイオレンスな仲になってたんだ、こいつは。
あ、今ちょっとムカっとしてしまった。
こんなところで嫉妬するな。
本当になんでこんな嫉妬深いかな。
そういうんじゃなくて。

「でも、私の理由って、単にムカついただけだけど」
「由紀に殴られるのは愛情表現だと思う。殴られて嬉しいんだと思う」
「………」

なんでちょっと嬉しくなってるんだ、私。
本当に、いい加減にしたほうがいい。
こんなことで嬉しいって、絶対おかしい。

「私が野口君殴ろうとしても、殴らせてくれないもん」
「ていうかそんな何度も殴ろうとしたの?」
「え、うん、まあ」
「………美香って、野口のこと、嫌い?」
「そんなことないよ?」

目をそらしながらかわいくて首を傾げられても、信用できない。
まあ、いっか。
二人が仲良くしなきゃいけない理由ないし。
美香が誤魔化すように話を強引に戻す。

「でね、今回素直に殴らせてくれたってことは、自分が悪いってのは、分かってるんだよね」
「………そりゃ」

謝ってたし、俺が悪いって言ってたし、悪いってのは、分かってるだろ。
まあ、少しは謝罪の気持ちもあるんだろうな。

「でね、全然話さなかったんだ」
「え?」
「だから、絶対まだ由紀のこと、好きなんだと思ったんだよね。だから、由紀にけしかけちゃった」

どう話が繋がってるのか分からなくて、私の頭はハテナでいっぱいになる。
美香はそれが分かったのか一瞬考えてから、自分でも確かめるように説明する。

「あの子、結構おしゃべりでしょ。えっとね、なんていうのかな。ちゃんと自分も納得しているような理由あるなら、絶対にしゃべる。それが自分が正しいっていうか、それしかないからそうしたっていう理由があるなら、べらべらしゃべる。あの馬鹿にしたような口調で、人が納得しないって分かっていても、自分がどうしてこうしたのか、ってしゃべる」

えっと、まあ、確かにあいつは実は結構おしゃべりだ。
冷たそうな外見とは裏腹に、饒舌だ。
黙っている、なんてこと、そういえばなかった。
何を言っても、偉そうに見下すようにからかうように、けれど正直になんでも答えた。

「美香ちゃんて、鋭いね」
「んー、なんていうか、分かりたくなくても分かるっていうか」

ジンさんの笑い交じりの言葉に、美香がどこか嫌そうに顔をしかめた。
それから私に視線を合わせて、握りこぶしで力説する。

「だからね、野口君は多分、由紀と別れたこと、自分でも納得してないんだよね。まだ絶対、由紀のこと好きなの」

断定系の強い言葉。
強い、美香の視線。
ぐらぐら揺れる私の心に、その強い言葉が支えを作る。
またほんの少しだけ、勇気がジワリと湧いてくる。

「それにさ、由紀ちゃん。良が好きでもない人間に、そんなにちょっかいかけると思う?あんな手間暇かけて、そんな面倒なことしないでしょ。あの子、どうでもいいと思った人間には本気で興味がないっていうか、視界に入らない」

ジンさんがくすくすと笑って言う。
前に、藤原君が言った言葉と同じ。

確かに、野口の全てが演技だったとは、思わない。
思えない。
そもそも、そんな手間暇かけてまでヤるような価値、私にはない。
それこそ、ヤるだけだったら、もっと後腐れない人間が、野口の周りにはいるだろう。
私みたいな面倒な処女、遊ぶだけにかける手間はもったいない。

「で、でも、もしかしたら、飽きたの、かも」
「飽きたってのがまずあり得ないけど、まあ、飽きたと仮定して、飽きたんだとしたら、それこそ別なふりかたをする。こんな風に追いかけまわされるような面倒くさいことしない。本気の相手にはとことん不器用だけど、どうでもいい相手には嫌に器用だからな」

おっさんがグラスを傾けながら、にやりと酷薄に片頬をあげて笑う。
そうなのかな。
確かにそんな気が、しないでもない。
あいつなら、器用に後腐れなく、別れることが、出来たんじゃないだろうか。
今みたいに、私が未練たらしく追うような別れ方、しなかったんじゃないかな。

「前にも言ったでしょ、由紀ちゃん」
「え」

ジンさんが、悪戯っぽく笑う。
そうやって笑うと、本当に女性的でなぜかドキドキとしてしまう色気がある。

「良はね、馬鹿な子供。人との距離のとり方が分からない、甘えたの寂しがり屋」

風邪をひいて、べたべたに甘えてきた、野口。
傍にいてほしいって言った。
私が欲しいって言った。
そう、言っていた。
確かに、言っていたのだ。

「あの子の行動は単純で、それでいてとても馬鹿だから分かりづらかったりするだけ」

臆病で卑怯な私は、確証を得ないと動けない。
誰かに大丈夫だよって言ってもらわないと、背を押してもらえないと、動けない。
怖くて、足がすくんでしまう。
一人で踏み出すことはできない。

私は、皆の言葉を、信じても、いいだろうか。
もう一度だけ、勇気を出して、踏み出すことが、出来るだろうか。





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