「こんにちは、君が司君?」 初めて会ったその人の声は、まるで歌っているかのように感じた。 「こんにちは、司君」 「あ、駿河さん」 名前を呼ばれて後ろを振り返ると、ほっそりとした背の高い人がいつものように柔和に笑っていた。 男には見えない白い肌と整った目鼻立ちは、初めて見た時は本当に生きているんだろうか、なんて思うぐらい生々しさを感じない人だった。 「学校の帰り?」 「はい。駿河さんはどうしたんですか」 「僕も仕事の帰り。最近はこの近くで打ち合わせるすることが多いんだ」 いつだって優しく穏やかに話す人は、その声もその外見に似合って優しい声をしている。 男性にしてはやや高めな、けれど全く聞き苦しくない、不思議な声。 その不思議に心地いいテンポを、歌うようだ、と思ったことがある。 「誰?」 隣にいた早苗が、好奇心を顔に浮かべて小さく聞いてくる。 同じく小声で答える。 「あ、えっと、母さんの友達」 駿河さんはそんな俺達を見て小さく笑うと、手をひらりと振る。 「それじゃあね」 「はい」 相変わらずその仕草の一つ一つが優雅な人だと思う。 そのすらっとした後ろ姿を見守っていると、早苗が感嘆のため息をつく。 「なんか、かっこいい人だね」 少なからず好意を持っている女の子が、別の男を褒めているのを聞くのは、あまり楽しいものではない。 駿河さんがかっこいいというのは認めるが、それを俺の前で言わないでほしい。 だから返事は自然と、不機嫌なものになった。 「………うん」 「おばさんも若いけど、あの人はなんかもっと若く感じるね」 「まあな。結婚もしてないみたいだし、金持ちだし」 金に余裕があると、あんな風に優雅になるのかなあとたまに思う。 生活に追われることが多い俺としては羨ましい限りだ。 ひがみだけど。 「へえ、お金持ちなんだあ」 更に早苗の興味を引くことを自分から言ってしまったことに気づき、後悔する。 言わなきゃよかった。 「………うん、小説家さん」 「あ、だからお母さんと友達なんだ!うわあ、すごいね、小説家!初めて見た!」 「………うん」 小説家なんてピンからキリだ。 売れてる奴もいれば、売れてない奴もいる。 いいものばっかりじゃないんだぞ、と言いたいが、生憎駿河さんは売れている。 なんか賞も取っているらしく、きっとペンネームの方を言えば早苗だって知っているだろう。 活字なんて読んで3行で眠くなる俺は、一冊も彼の著書を読んだことはないのだけれど。 「はあ、なんか別世界って感じ」 劣等感が刺激されっぱなしだったが、早苗が現実を見てくれる女の子であったことが、何よりの救いだ。 『お仕事遅くなりそう。ごめんなさい。ご飯食べてね』 住み始めて半年になるアパートに戻ると、母からメールが入った。 勤め始めて二カ月になる職場は、中々忙しいらしい。 夕飯なんて心配しなくていいって言ってるのに、全く母は心配症だ。 「ふう」 牛乳をパックからラッパ飲みして一息。 自然に見えた煤けた天井をみる生活が始まって、もう半年になるのだ。 父と母が離婚して、もう1年近いと言うことか。 昔住んでた家はもう売り払われて、父はそろそろ再婚するって話だ。 随分前から不仲だった両親を見ていたので、それは全然構わなかった。 むしろ、ようやく、と言った感じだ。 ピンポン。 そんなことを考えていると、チャイムが来客を告げる。 玄関先からスコープで外を見ると、それは一昨日合った母の友人だった。 慌てて玄関を開ける。 「駿河さん?いらっしゃい」 「こんにちは、司君」 駿河さんは初夏の陽気の中でも一人別世界にいるように涼しい顔をしていた。 別にこの人が嫌いではないけれど、何を話したらいいのか分からない。 母も不在だし、さっさと帰ってもらおう。 「えっと、今、母は不在ですけど」 「うん、知ってるよ」 「え、と」 なら、なんで来たんだと聞こうと思う前に、その理由を教えてくれた。 「今日は君に会いに来たんだ」 「俺に、ですか?えっと、あ、とりあえずどうぞ」 恩のある人なので、邪険にすることも出来ない。 仕方なく家の中にあげる。 狭い2DKの部屋のダイニングは、なんともこの家に不釣り合いな人だ。 「はい、おみやげ」 「あ、ありがとうございます」 差し出されたケーキの箱は、素直に嬉しい。 自然と顔がゆるんでしまうと、駿河さんはにこりと笑った。 子供みたいな反応をしてしまったことが恥ずかしくなって俺は箱を持ったままキッチンに向かう。 「あ、えっと、お茶淹れますね。どうぞ座ってください」 しかし、手が急に引っ張られ、つんのめる。 掴まれた手首が、ひんやりと冷たい。 「あ、駿河、さん?」 振り返ると、すぐ後ろで駿河さんはいつも通り穏やかに笑っていた。 「ねえ、司君。君が好きなんだ。付き合わない?」 「………は?」 そう、いつも通りだった。 だからこそ、何を言っているのか分からなかった。 駿河さんの態度はあまりにも、いつも通りすぎたから。 「君に一目惚れしたんだ」 「え、と」 あまりにも唐突で、あまりにも意外で、あまりにもあり得ない状況に頭が働かない。 返答が何通りもの答えが脳裏に浮かぶが、そのどれもまとまらず、結局口から出たのはなんとも単純な言葉。 「俺、男、ですよ?」 「女の子には見えないね。ああ、僕はどちらでもいいんだ」 どちらでもいいって言われても。 そういう人だとは知らなかった。 と言っても、そんなに付き合いがある人でもないんだけど。 「………お、俺は、女の子が、好き、なんで」 「ああ、この前の女の子?彼女?」 「あ、いや、まだ、そういう訳じゃ………」 まだ友達以上、彼女未満ってところだ。 でも二人きりで遊ぶところまで持ちこんだので時間の問題だと思っている。 きっと早苗も、俺に好意を持ってくれているんじゃないかと思う。 いや、今はそういうことじゃない。 いや、でもこれでいいじゃないか。 「で、でも、俺、好きな人、いるから」 「そう。じゃあ、仕方ないね。ごめんね、変なこと言って」 「い、いえ………」 そこであっさりと駿河さんは手を離した。 まるで何事もなかったかのように、元通り。 「じゃあ、僕はこれで失礼するね。いづみによろしく」 「は、はい」 残された俺は、ただ茫然として突っ立っていた。 そして腕時計の電子音で、ようやく我に帰る。 時計をちらりと見ると、訪問から15分ほどしか経っていない。 なんだか随分長い時間がかかっていたような気がした。 「冗談、だったのかな」 笑いどころもオチもないが、そうだったとしか思えない。 それくらい、あっさりとした一時だった。 「はあ」 あの出来事から1週間。 すっかり駿河さんのことなんて忘れかけていた頃だった。 母さんが俺の作ったパスタを食べながら、ため息をつく。 最近、ため息をつくことが増えた気がする。 離婚前の泥沼の頃を思い出すから、俺は母さんのため息が好きではない。 「どうしたの、母さん」 力になれるかどうかは分からないが、お茶を淹れながら聞いてみる。 すると母さんはもう一度ため息をついて、肩を落とす。 「なんかね、仕事がさ、急にきつくなって。ほら、私契約だからちょっと気を抜くとすぐ切られちゃうしね。プレッシャーがひどくて」 夏なのに、なんだか背筋が寒くなる気がした。 じわりじわりと、なんだか気持ち悪いものが胃にのしかかる。 「なんて、子供に愚痴ってる場合じゃないわよね。ごめん!」 母さんはようやく笑うが、それは無理しているのがよく分かった。 俺はなんて言ったらいいのか分からない。 「駿河にせっかく紹介してもらったんだし、頑張らなきゃね」 更に黒く重たいものが胃に一杯に広がって、ズキリと痛む。 「………仕事、駿河さんに、紹介、してもらったんだよね」 「うん。やっぱあいつ業界に顔広いしね」 母さんは昔はライターをしていた。 大学時代同じサークルに入っていた母さんと駿河さんは似た夢を志していたらしい。 そして一方は著名な小説家に。 そして一方は夢破れて、今は一人で子供を抱えて契約社員、だ。 「あいつがあんな小説家様になるなんて、思わなかったわ」 そうこぼす母さんの声には、どこか苦いものが含まれている。 結婚してらもしばらくは、ライター続けていたらしい母さん。 やめてなかったらどうなっていたのかしらという言葉は耳にタコが出来るほどに聞いている。 そして離婚して無職になった母は今、出版社に駿河さんの口利きで入っている。 「まったく、駿河様々よ」 そう、俺達家族には、駿河さんに、恩がある。 「ああ、司君、また偶然だね」 駿河さんは、今度は担当さんらしい大人の女性を連れて歩いていた。 今日も穏やかに柔和に笑っている、作り物のように綺麗な人。 その姿を見た瞬間、全身の血の温度が下がった気がした。 「こんにちは!」 隣にいた早苗が黙りこんだ俺の代わりに明るく挨拶する。 駿河さんは女の子だったら誰だって憧れるようなくっきりとした二重の目で早苗を見る。 「こんにちは。君は司君の彼女?」 「やだ、違いますよ」 顔をやや赤らめながら、早苗が照れたように頭を掻く。 俺はそれに嫉妬したりする余裕もない。 夏の日差しのせいか、頭が痛んで眩暈がする。 「………ごめん、早苗。俺、駿河さんに、話があって」 「あ、そうなの?分かった。じゃあ、私先に帰るね」 「………うん」 「日曜日の約束、忘れないでね」 「分かった」 早苗は屈託なく笑って、駿河さんにも頭を下げて駆けていく。 俺は唾を一つ飲み込んで、俯きながら駿河さんに話しかける。 「あ、の」 「ごめん、ちょっと先に行っててくれる?」 駿河さんが、隣にいた女性に告げる。 それから一歩俺に近づいた。 一瞬逃げ出しそうになって、なんとか体を押しとどめる。 「話があるの?」 男性でも女性でもない、不思議と中性的な気持ちのいい声。 俯き加減になっているので、シャツから伸びている白い腕が目に入る。 「何かな?」 「………あの、母の、仕事って」 「ああ、頑張ってるみたいだね。いづみは頭がいいし、紹介した僕としても安心だよ」 「………」 周りの人が聞いたら、ただの世間話だろう。 何もおかしいところのない返事だ。 それなのに、俺の眩暈は酷くなる一方だ。 「母さんの、仕事って、あなたが………」 「大丈夫だよ。紹介した出版社は僕ととても関わりが深いところだからね。僕の後ろ盾があれば何も不安はないよ」 ぎゅっと、心臓が鷲掴みにされた気がする。 離婚後、ずっと落ち込んでいた母さん。 その前もずっと、仕事を続けたかったと言い続けていた。 そして今、出版社で働くようになって、生き生きと楽しそうにしている。 駿河さんの紹介というのにコンプレックスを刺激されるようだが、それでもそれ以上に楽しそうにしていた。 「顔色が悪いな。大丈夫?」 「………っ」 ひんやりとした手が、頬にそっと触れる。 飛び上がりそうになる体を必死に堪えるが、びくりと小さく震えた。 その反応に、駿河さんがくすくすと笑う。 「大丈夫かな。暑気あたりかもしれないね。今日は帰った方がいい」 すっと頬を撫でられる感触に、ぞわりと悪寒が走った。 駿河さんはポケットから名刺入れを出すと、中から小さなカードを取り出し俺のワイシャツの胸ポケットに入れる。 「これ、僕の名刺。悩みがあったら、よかったら連絡してね」 そして、綺麗な声で、耳元で囁いた。 くすりと、耳元で笑う気配がする。 「そうだな。今度の日曜日なら、僕は暇だよ」 それじゃあねと言い置いて、駿河さんは優雅な仕草で去っていく。 まるで生き物の気配がしない、植物のような人。 「………」 眩暈が、する。 日曜日、俺は立ち入ったこともない豪華なホテルのロビーまで来た。 ラウンジでコーヒーを飲んでいた長身のほっそりとした人が、柔和に笑う。 「こんにちは、司君」 駿河さんの声は、まるで歌っているかのように感じた。 |