ホテルのラウンジの奥まった一角。
植木に囲まれた席は、静やかな空気が流れている。
ふかふかの絨毯と綺麗な白いクロスがかけられたテーブルは、俺みたいなみすぼらしい学生には不釣り合いだ。

「何か相談があるんだっけ?ああ、どうぞ座って」

白いシャツをラフに着た人が、向かいの席を指す。
カジュアルな格好なのに、気品なんてものを感じてしまいそうなほどに様になっている。
半袖のシャツから伸びた腕は、クロスと同じくらい染み一つなく白い。
クーラーの効いた室内だがらというのもあるが、夏の陽気を全く感じない涼しい顔をしている。

「何か注文は?ここのチーズケーキは美味しいんだよ」
「………あなたの、言うことを聞けば、母の仕事は、大丈夫なんですか」

メニューを差し出す駿河の言葉を遮って、俺は本題を切りだす。
こんな卑怯な人と、楽しく会話なんて出来やしない。
権力や金で、人を好きにしようとする人と、仲良くなんて出来ない。
初めて母の後輩だと紹介された時は、優しい、いい人だと思っていたのに。
男なのに随分綺麗な容姿と歌うような話し方を不思議に思ったことを、はっきりと覚えている。

「………駿河さん」
「アイスティーを」

駿河がにっこりと笑って俺の後ろに向かって告げる。
それで後ろにウェイトレスが来ていたことに気付いた。
今の言葉を、聞かれていなかっただろうかと思うと、背筋が一気に冷たくなる気がした。

「かしこまりました」

ウェイトレスは駿河の綺麗な笑顔に頬を染めて、メニューを取り、去っていく。
どうやら話は聞かれていたなかったらしい。
胸を撫でおろしていると、駿河が穏やかに笑ったまま小さく首を傾げる。

「なんのことかな」
「………母さんの、仕事のことです」

半ば脅すように母の仕事に対するこの人の影響力を教えられた。
駿河の紹介で入った職場なら、駿河の一言であっさりと失うこともあり得るだろう。
正社員ではなく、まだ契約社員だ。
その頼りない立場はある程度の地位を築いている目の前の男とは比べ物にならない。
けれど駿河はやっぱり不思議そうに眉を吊り上げて見せる。

「いづみの仕事がどうかしたのかい?」
「あんたが、言ったんだろう!」

悪びれない態度に、頭に血が上る。
思わず声を荒げて、テーブルを叩いてしまう。

「周りの人が見てるよ。聞かれてもいい話なのかな」

しかし駿河は俺の興奮を気にする様子はなく、静かに笑っている。
慌てて辺りを見渡すと何人かの人間がこちらを何事かと見ていた。
俺は慌てて口を閉ざして、視線から逃げるように俯く。
こんな話、誰かに聞かれる訳にはいかない。

「………」

俯いていても、駿河のあの穏やかな視線が俺に絡みついているのを感じる。
優しげで柔和な態度の下に隠された、人を値踏みする肉食獣のような鋭さ。
さっきまで暑かった体はすっかり冷え切って、指先が凍えるぐらいに冷たい。

「おまたせしました」

ウェイトレスが、アイスティーを置いて去っていく。
綺麗なグラスが汗をかいて、白いクロスに染みを作る。
俺は何を言ったらいいのか分からなくて、テーブルの上で拳を握る。

「それで、いづみの仕事がどうしたって?」

黙りこんだ俺の代わりに、駿河が聞いてくる。
何かに抑え込まれるように顔を上げることが出来ず、俺は俯いたまま答える。

「母が、仕事場の人が、急に冷たくなったって………」
「それは心配だね。いづみは明るくて誰にも好かれるタイプなのに、何かしてしまったのかな」

思わず顔をあげて、睨みつけてしまう。
けれど駿河はやっぱり穏やかな笑顔を浮かべたままだった。
俺に怒りなんて、取るに足らないものなのだろう。
あくまで対等として扱われないことに、苛立ちと怒りと、そして恐怖を感じる。

母とそう年も変わらないはずなのに、ずっと若々しく見える年齢不詳の男性。
やっぱり生き物の気配がしない。
前は若くて羨ましいなんてことを思っていたが、今はその若さすら化け物じみていて恐ろしく感じる。

「………駿河さん」
「僕から理由を聞いてみようか、いづみの職場に」
「………」
「いづみは大切な友人だし、司君が心配してるなら、僕にとっても他人事じゃないしね」

テーブルの上に置いた手に、ひやりとしたものが触れる。
滑らかなシルクのような心地のよい触り心地。
けれど、その瞬間ぞわぞわと、悪寒が全身を駆け巡った。

「………っ」

その手は、あっさりと離れていった。
その代わりもっと気持ちの悪いものを投げつけられる。

「僕は、君が好きだから」

何を寝言を言ってるんだ、こいつは。
ふざけるな、と言って、その綺麗な顔を殴りつけたかった。
けれど、そんなこと出来るはずがない。
怒りと気持ち悪さと恐怖を抑えて、俺はなんとか、口を開く。
叫び出して、しまいそうだ。

「………あなたは、何を、望むんですか」
「望み?そうだな、僕の望みは、君が僕を好きになってくれることかな。想像するだけで舞い上がってしまいそうだね」

そのふざけた物言いに、拳を更に握り締めて怒りを抑える。
俺を嬲って遊ぶ、最低な男。

「それが、代償ですか?それで、母の仕事は、大丈夫なんですね?」
「不思議なことを言うね。代償ってなんだろう。僕はただ君が好きだから、君にも僕を好きになって欲しいだけ。それは恋する人間にとっては、ごく普通の感情だろう?」
「………」

目の前の人間が、自分とは違う生き物のように感じる。
穏やかな肉食獣は、じわりじわりと俺の心の柔らかいところを侵蝕して食らいつくそうとする。
真綿で首を絞めるって、こういうことなのだろうか、なんて思った。

「ああ、でも、君が僕を好きになってくれるなら、もっと君に力添えはしていきたいね。勿論今だって、出来る限りの力にはなりたいけれど、ただの友人の子供と恋人では手を出せる範囲も違ってくるしね」
「………」

すっかり汗はひいたけれど、冷や汗が背筋を濡らす。
氷の溶けかかったアイスティーが、カランと音を立てる。
白いクロスが脳裏に焼き付いて眩暈がする。
頭が、痛い。

「さて、話はこれくらいかな。悪いけど、まだ仕事が残っていてね。そろそろ部屋に戻るよ」

缶詰なんだ、と言って駿河が笑う。
それは以前と全く同じような、母の友人の優しい人そのものだった。
別に特別に好きな人って、訳ではなかった。
でも、感謝と好意を持っていた。
その感情を踏みにじられて、引き千切られる。

「んで」
「ん?」
「なん、で、俺、なんだよ」

睨みつけて問うと、駿河は立ち上がりながら、くすりと笑った。
そしてあっさりと答える。

「僕は君が好きだからだよ」

うそだうそだうそだうそだ。
こいつは嘘つきだ。
罵って殴ってやりたいのに、去り際に肩を触れられただけでびくりと震えてしまう。
俺の怯えに気付いて、駿河が楽しそうに笑う。

「僕の部屋は2605なんだ。もしよかったら、おいで」

耳元で囁く声はまるで歌うように楽しげで心地よかった。
それなのに、俺は、恐怖で動くことが出来ない。

「ああ、でも、僕をなんとも思ってないなら来ないでほしい。そんなの切なすぎるからね」

そして駿河は去っていく。
俺は完全にアイスティーの氷が溶けるまで、席から動くことが出来なかった。



***




「………」
「やあ、司君」

チャイムを鳴らすと、しばらくしてドアが開かれる。
俯いて、赤い模様の入った絨毯を見つめる。
握りしめた拳が、震える。

「………」
「部屋に入るかい?」
「………」

入りたくない。
入りたくない。
逃げたい。
怖い。
入ったら何が待っているか、なんて考えたくない。

「入る気がないならここでお別れだね」

母が仕事が楽しいと言っていたことを思い出す。
昔やりたかったこととは違うけれど、それに近い場所にいるのが楽しい、と。
ずっとふさぎこんでばかりだった母の生き生きとした顔が、脳裏から消えない。
初めて見る、母の楽しそうな顔だった。

「どうする?」

それに、父は養育費を払ってはくれているが、微々たるものだ。
すでに新しい家庭を持とうとしているから、俺を迎え入れてくれることもないだろう。
母が仕事を失ったら、俺と母はどうすることもできない。
そんな打算もないまぜに、苦い唾を飲み込む。

「………いれて、ください」

だから、俺にはこの道しかない。
恐怖と怒りと屈辱でぐちゃぐちゃになりながら、震える足をとどめる。
今にも逃げ出したいのに、逃げ出せない。

「どうして、入りたいんだい?」

ほっそりとした指で、顎がそっと持ち上げられる。
見上げた先には、まるで人形のように整った顔。
最後の最後まで、この人は逃げ道を潰して行く。
言い訳を許してくれない。
どこまでも卑怯な人間。

「………駿河さんが、好き、だからです」

駿河が嬉しそうににっこりと笑う。

「ああ、嬉しいな。両想いだね」

手が離れ、駿河さんが一歩後ろに下がり部屋に入る。
そして歌うように言う。

「さあ、部屋に入って。自分から、ね」

目を瞑って、唇を噛みしめる。
手の平に食い込む爪にも、もう痛みを感じない。

「………は、い」

震える声で頷いて、俺は一歩踏み出す。
この先の道がどこに続いているのか分からない。

パタンと静かな音を立てて、ドアが閉まる。
それは、ほんの少し前まであった明るい日常と切り離す、ギロチンの音に聞こえた。






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