「さよなら」をいつ君に告げたらいいんだろう。 「今日は、吉岡と約束があるんだ」 そう言うと、彼女は一瞬顔を曇らせた。 しかしすぐに健気に、微笑んでみせる。 「そっか、分かった」 俺に気を使わせないように、精一杯明るく笑ってみせる。 どうしようもなく、胸がかきむしられる。 罪悪感に押しつぶされそうになる。 もう、顔を見ていられない。 「じゃ」 そっけなくそう言って、逃げるように背を向ける。 お願いだ、もう笑わないでくれ。 もう、泣かないでくれ。 お願いだ、もう。 もう、苦しい。 その場から逃げ出したかったのに、俺は振り向いてしまう。 そこに、彼女がいることを確かめたくて。 3メートルほど後ろに、やはり彼女はそこにいた。 どうしたらいいのかわからない、迷子の子供のような顔をして。 ああ、彼女にそんな顔をさせる俺を、いっそ殺してしまいたい。 もう、どれだけ彼女の陰りのない笑顔を見ていないんだろう。 どうして、こうなってしまったのだろう。 どうしたら、俺は彼女を解放してあげられる。 「………ごめんな」 謝ることしか、できない。 「さよなら」なんて言ってあげられない。 君が傷つくことでしか、俺は安らぎを得られない。 恋なんて、もうできないと、思っていた。 それなのに、その時俺はうなずいていた。 「す、好きです」 「…………」 「だから、付き合ってください」 ああ、来てしまったと思った。 彼女が、俺に好意を抱いているのは、なんとなくわかっていた。 時々試すように投げられる視線。 自然を装って触れてくる指。 そのすべては女の媚態を表していたから。 がちがちに緊張しながらの、食事。 人気のないところに連れ出されて、そわそわと落ち着かずに視線をそらす。 目があえば顔を赤らめて。 ここまでくれば、どういう展開が待っているかなんて、どんな鈍い奴でもわかるだろう。 でも、それを口にしてほしくなかった。 俺は、このままの関係でいたかった。 この落ち着く、安らいだ気持ちを、持ち続けていたかった。 彼女といると、とても気楽だった。 いてもたってもいられなくていつも焦りを感じていた女性とは違う。 ただ安らいだ。 運命の出会いなんて感じなかった。 とっている一般教科が一緒だったとか、音楽の趣味が一緒だったとか。 若くない趣味をお互い持っていて、散歩好きだとか。 そんな些細なことが降り積もっていって、気がつくと俺は彼女でいっぱいになっていた。 一緒にいた時間はほんの少しなのに。 彼女が隣にいるのがとても自然だった。 「ほんと、あんたってじじくさいよね」 彼女はそう言って、呆れたように笑う。 でも、馬鹿にしてはいない。 そこには純粋な好意を含んでいた。 だから俺は微笑んでふざけかえす。 「お前もばばくさいだろ」 「うっさい!」 顔を赤くしてかみつかれる。 そんな触れ合いが、楽しかった。 できればずっと、彼女とこんな風に過ごしたいと、思っていた。 無邪気な反応がかわいかった。 自分が感じたものを、精一杯俺に伝えようとする彼女が愛おしかった。 ただ黙って一緒に歩くと、穏やかな気持ちになれた。 膿んで腐臭を放っていた傷が、じわりと癒されていく。 冷え切った心が、春の日向でねっ転がったときのように暖かくなっていく。 だから、本当は、このままでいたかったんだ。 君を傷つけないように。 ファミレスで俺は本当は気付かないふりをしようと思った。 このままでずっといたかったから。 それなのに、俺は聞いてしまった。 「………なんか、俺に話あるの?」 どういう反応が返ってくるのかわかっていたのに。 彼女が俺を好きなことなんて、知っていたのに。 「す、好きです」 「…………」 「だから、付き合ってください」 顔を真っ赤にして、わずかに期待をにじませて。 緊張していたけれど、恐れはあまりなかった。 ふられると思っていないのだろう。 そりゃそうだ。 だって俺も彼女が好きだから。 「………」 でもいざ言われてしまうと、答えられなかった。 違う、答えなんて用意してなかった。 彼女が何を言うのかわかっていたのに、俺はそれに対する返事を用意してなかった。 彼女はよく俺を大人っぽいと言う。 俺は大人ぽくなんてない、大人な振りをずっとしてきただけだ。 落ち着いて、感情なんて揺れないように。 そんな風に装っていただけだ。 だから、俺は彼女に告白を許したし、それなのに今、どうしようもなく焦って、困惑している。 何度も何度も考えて。 俺がどうしたいのか、どうしたらいいのか考えて。 言えたのは、どうしようもなくバカっぽい言葉だけ。 「……このままじゃ、ダメかな」 「え………」 「このままで、いられないかな」 いられるわけはない。 そんな訳はない。 それは誰よりも、俺がわかっていることじゃないか。 彼女は俺の態度を拒絶と受け取って、泣きそうに顔をゆがめる。 「あ、わたし、のこと、好きじゃ、なかった?」 「違う、そうじゃない、違う!」 思わず、焦って打ち消す。 違う、そんな訳はない。 もう一度、好きになれる女ができるとは思わなかった。 俺は間違いなく、彼女が好きだ。 一緒にいてほしい。 でも、隣にいたいわけじゃない。 これ以上近づきたくなんて、ない。 この優しい距離を保っていたい。 「………このままじゃ、いられない?」 「…………」 健気にも俺の答えをじっと待つ彼女に、おれは愚かにももう一度問う。 本当に、おれはどこまで馬鹿なんだ。 最低だ。 彼女の隣にいたくない。 でも一緒には、いたいんだ。 自分勝手で最低な望み。 大人ぽくなんてない。 ガキみたいに我儘を言って、人の心を傷つける。 でも一縷の望みはすぐに打ち砕かれる。 彼女はうつむいたまま、痛々しく小さく首を横に振る。 それはそうだ。 自分をふった男となんて、一緒にいれるはずがない。 当り前のことだ。 彼女に告白を許した時点でそんなの想像できたじゃないか。 それがいやだったら、告白をさせなきゃよかった。 そうしたら、ずっとこの距離を保っていられた。 どうして許してしまった。 どうしたらいい。 彼女と一緒にいるにはどうしたらいい。 彼女のくれる温かいものを感じているには、どうしたらいいんだ。 俺は彼女が、好きなんだ。 「………一緒にいられなくなるのは、いやだ」 「………え」 彼女は驚いたように顔をあげる。 俺の告白を信じられないように目を丸くしている。 その目には涙がの膜が張っていて、罪悪感にさいなまれる。 俺はきっと、彼女をこれから傷つける。 それでも俺は君と一緒にいたい。 君が踏み込んでしまったから、もう俺は自分をとめられない。 「………付き合おうか」 うめくように告げたその言葉に、彼女はしばらくして頷いた。 初恋の女性は、家庭教師をしてくれていた5つ年上の女性だった。 奔放で魅力的な、とても綺麗な人だった。 ガキだった俺は夢中になった。 彼女が教えてくれるものが、俺のすべてだった。 彼女にふさわしい男になろうと、精一杯だった。 ガキっぽい行動を馬鹿にして、大人ぶって世を斜に見て。 大人の男になろうと必死だった。 それが何よりもガキの証拠なのに。 それでも俺は、それが彼女に近づく唯一の方法だと、信じていた。 彼女は俺にいろいろな物を教えてくれた。 勉強に、酒の飲み方、夜の遊びに、セックス。 激しい感情、夢中になる熱、あたたかな快楽。 裏切り、嫉妬、憎しみ、諦め。 彼女は俺をいたぶるのを楽しんでいた。 甘やかしたあとには、わざと傷つける。 デートをした後に、そのまま他の男の元へ行く。 約束を破った後に、甘い言葉で腕をからめる。 他の男の痕をつけた体に嫉妬して激しく抱く俺が好きだと言った。 裏切られて泣く俺が愛しいと言った。 いつでも俺は不安定で。 彼女をつなぎとめることにがむしゃらになっていた。 彼女が好きでたまらなくて、それ以外はどうでもよかった。 それに不安を感じていたけれど、止まれなかった。 それでも彼女は俺を好きだと言ってくれていたから、俺はそれを信じるしかなかった。 俺の世界には彼女しかなかった。 苦しくて熱くて夢中で、熱病に侵されたような一年間。 夢のような悪夢のような苦しい想いは高3の夏に、彼女の一言であっさり終わった。 彼女は古い服を捨てるように、俺を切り捨てた。 「君には飽きたわ。元気でね」 信じられないとすがりつく俺を、彼女はせせら笑う。 隣に従えた男と一緒に、指をさして笑う。 俺の好きな彼女の笑顔。 それが、俺の最後の彼女の記憶。 彼女はいつだって笑っていた。 電話を拒否られ、大学を卒業した彼女は引っ越していき、俺は取り残された。 彼女はおれのすべてだった。 だから、彼女を失った俺は空っぽになった。 何も手につかず、ただ時間を無為に過ごして、受験に失敗した。 それでも、事情も分からないまま心配する両親の叱咤と励まし。 友人のいたわり。 そして何よりも優しい時間の流れが、少なくとも勉強をするぐらいの気力を取り戻させてくれた。 現実を、思い出すことができた。 ただ飯食らってる場合じゃないことぐらい、認識はできた。 俺はすっかり熱いものを失っていた。 それはすべて彼女が持って行ってしまった。 現実をどこかぼんやりと感じるようになっていた。 でも、ようやく、どうにか立ち直っているふりをするぐらいには、なれた。 彼女にみじめに捨てられて1年半たって、大学に無事に入学できた。 俺は、そこで出会ってしまったのだ。 そして俺は思い知る。 熱は失ってなんかいなかった。 ただ燻って、じりじりと燃える時を待っていただけ。 相変わらず情けない俺はそれを制御できなくて、ただ熱病に侵される。 ずっと俺は、泥の中で沈んでいればよかったのに。 彼女と付き合い始めて、1週間がたった。 楽しくてしかたがない。 怖くてしかたがない。 いつ、彼女は俺を裏切るのだろう。 いや、彼女はそんなことをしない。 するはずがない。 彼女は、俺のことを好きでいてくれる。 でもそれは、本当だろうか。 彼女は俺で遊んでいるだけじゃないだろうか。 そんなはずない。 『明日、楽しみだね』 ぼんやりとしていた耳元で、弾んだ声で彼女が笑う。 その明るい声が、涙がでそうなほど愛しい。 「ああ、遅刻すんなよ」 俺も楽しい。 彼女といると、安らぐ。 彼女が笑うたびに、俺は泣きそうになる。 膿んでふさがらなかった傷が、癒されていく。 温かな気持ちで満たされていく。 『しないよーだ!じゃ、おやすみ!』 「おやすみ」 久々に、会話がはずんで遅くまで話し込んでしまった。 最近はずっと、距離が取りづらかったから。 だから、温かな気持ちのまま、眠れそうだった。 でもそう思って布団にもぐりこんだ次の瞬間に、不安がじわりと襲ってくる。 彼女は本当に俺を好きでいてくれるのか。 ずっとずっと、このまま好きでいてくれるのか。 そんなはずない。 彼女も離れていくはずだ。 いや、もう彼女は俺のことなんて好きじゃないかもしれない。 好きだ。 怖い。 好きだ。 怖い。 信じろ、彼女を信じろ。 信じられない 信じたい。 信じられない。 近づけば近づくほど、不安は増していく。 どうしたら信じられる。 どうしたら、彼女をただ好きでいられる。 俺はただ、彼女を好きでいたいだけなのに。 彼女のそばにいたいだけなのに。 それでも不安は俺を飲み込んで食らいつくして。 黒い気持ちで埋め尽くされて。 そして、俺は次の日、約束を破った。 約束を破って、それから何も連絡がなくて。 やっぱり彼女は俺のことなんてどうでもいいのかと思った。 俺だったら、こんなことをされたら耐えきれない。 問い詰めて、ののしって、縛り付ける。 彼女はそんなこと、しないのだろうか。 俺にそんな価値はないのだろうか。 確かめるように、彼女の家まで来てしまう。 最低だ。 突き放して、今度は離れられていくのが怖くて、すがりつく。 自分で自分が何をしているのかわからない。 どうしたらいいのか、わからない。 自分の感情も行動も、制御できない。 俺は二年前から何も変わっていない。 はやる心を抑えるように深呼吸をして、チャイムを鳴らす。 一度目は、出なかった。 あのまま出かけてしまったのだろうか。 身勝手な失望が、身を包む。 祈るように、もう一度チャイムを押す。 すると、今度はインターフォンを取り合える音が響いた。 『……はい』 しわがれた声。 期待に、胸が騒ぐ。 彼女は、傷ついてくれたのだろうか。 「……あ、俺……」 『ガチャ!ガチャガチャガチャ』 名乗ったとたん、すごい音が聞こえた。 びっくりして目を見開くと同時に、薄い壁の向こうからどたどたと音が聞こえる。 鍵が乱暴に開けられる音がして、思い切りよく扉があいた。 鼻をぶつけそうになって、急いで身を引く。 「だ、大丈夫か?なんかすごい音が……」 どうでもいい言葉は、そこまでしか出なかった。 彼女の顔を見たら、もう何も言えなかった。 泣き腫らして、化粧が落ちてしまって、思わず笑ってしまいそうなほど滑稽な情けない顔。 罪悪感に胸が押しつぶされる。 それと同時に、どうしようもなく彼女が愛おしくなる。 その抑えきれない感情のままに、彼女の華奢な体を抱きしめる。 驚いたように固まってしまう彼女が、たまらなく愛しい。 好きだ。 好きだ。 好きだ。 激しい感情が暴れ狂う。 彼女をこのまま抱きつぶしてしまいたい。 どうして彼女を泣かしたんだ。 最低だ。 本当に俺は最低だ。 本当にどうしたらいい。 「ごめん、ごめんごめんごめん」 謝り続ける。 彼女を失わないように。 いや、本当はこのまま、嫌われたほうがいい。 もう、これ以上彼女を傷つけないように。 俺のわがままで、これ以上彼女を傷つけたくなんかない。 でも、彼女を離すことなんて、できない。 「本当にごめん、怒っていい、殴っていいい、本当にごめん、ごめん」 俺を見捨ててくれ。 俺を、見捨てないでくれ。 俺は卑怯にも、謝り続ける。 優しい彼女が、許してくれることを期待しながら。 彼女が卑怯な俺を嫌って切り捨てることを望みながら。 「ごめん、ごめんごめん」 「…………うん、わかった」 それなのに、彼女はそういった。 そうして、俺の背に手を伸ばす。 小さい手が、シャツをぎゅっと握る。 その弱々しい力が、痛々しくて、愛しい。 「……怒らないの?」 「……怒ってるよ。もう、しないでね」 俺を許して。 俺を許さないで。 「……もう、俺のこと、嫌いになった?」 俺を嫌いにならないで。 俺を嫌いになって。 「…ううん、好きだよ」 なのに、君は俺を許してしまう。 だから俺はすがりついてしまう。 俺は君の手を、放せない。 「………俺も、好きだ」 それでも不安でしょうながい。 君はいつまで俺を好きでいてくれる。 君はいつまで裏切らない。 君はいつまで一緒にいてくれる。 信じたい。 信じられない。 君を試すことでしか、俺は君を信じられない。 俺の傷をそのまま君に押し付けることでしか、満たされない。 癒されたいと望むのに。 君を笑わせたいと望むのに。 こんなはずじゃなかったのに。 ただ、笑って一緒にいたかっただけなのに。 俺は君を裏切り続ける。 それなのに、君は俺に温かさを与え続けてくれる。 早く、君の手を、放さなきゃいけないのに。 君を解放してあげなきゃ、いけないのに。 君を傷つけたくなんかないのに。 でも、君を傷つけることで、俺は安らぎを得る。 君が俺を好きでいることに、喜びを感じる。 お願いだ、もう笑わないでくれ。 お願いだ、もう泣かないでくれ。 お願い、おれを嫌いになって。 お願い、俺を見捨てて。 君を見るとと苦しくて、息ができない。 君がいないと苦しくて、息ができない。 毎日思ってるんだ。 君に「さよなら」を告げなきゃならないって。 それでも「さよなら」なんて言えないんだ。 卑怯な俺は、君が手を放してくれないと、君を解放してあげられない。 君の手を、放せないんだ |