あの日。
あの階段の踊り場。
途方にくれた子供のような顔で、落ちていく姉。
伸ばした手は、途中で迷うように、諦めたように彷徨う。

けれど、誰の手をとることもなかった。


そして姉は、俺の前から姿を消した。



***




「よ、元気?」
そのいつでも明るい耳障りなほどに陽気な声。
決して慣れたくないのに、近頃では誰よりも慣れてしまったその声。
「また来たんですか」
俺の心底嫌そうな声にもたじろがない。
眼鏡の奥の好奇心に満ちた目は、いつでまでも変わることはない。
細いくせに感情を雄弁に映す、光にあふれた目。
「だってー、俺の大学に近いんだもん」
目の前の相手に分かるようにため息をつくと、体をずらし招かざる客を迎え入れた。
男は子供のように悪戯っぽく笑うと、図々しく靴を脱いであがりこむ。
手に持っていた酒らしきものを俺に押し付けると、勝手知ったる様子で上がりこんだ。
必ず手土産を持ってくる。この男の妙に律儀なところ。

狭いマンションの中。
客のはずの男はなぜかソファを陣取り、俺は床に直接座っている。
いつのまにか決まってしまった、定位置。
土産の酒を飲みつつ、しばらく上滑るような世間話をしていたが、その内に不意に問いを投げかけられる。
「清水元気?」
清水。
生まれた頃から慣れ親しんだ、その姓。
けれどこの男が指しているのは俺じゃない。
治りかけの傷を引っかかれるような、鋭くじんわりとした痛み。
「………元気みたいですよ」
俺の手からも目の前の男の手からも逃げ出し、自由を手に入れた裏切り者。
遠く離れてしまった今では、両親から伝え聞く噂しか聞かない。
一時期よりも激しくはないが、けれど未だに身をかきむしる焦燥感。
「そっか。よかった」
俺はまだこんなにも痛みを感じるのに、目の前の男は本当に嬉しそうに笑った。
それは、あの女に対する懐かしさと、愛情のようなものに満ちている。

この男は、なんでこんな目を出来るのだろう。

初めて会った時から、感じていた。
言いようのない敗北感。
そこそこに器用で、常に人の上に立っていた俺にはあまり感じることのないもの。
それを、この男から与えられる。

この男が、大嫌いだ。

ふと、眉間に長い筋張った指が触れる。
「千尋君ってばー、まーた眉間に皺寄せちゃって。いい男が台無しよ」
「嫌いな人間といれば、皺ぐらい寄りますよ」
男はひっどーいと言いながら大げさなリアクションで傷ついた表現を見せる。

この男がいなければ、俺の腕の中にはまだあの女がいた。
この男がいなければ、俺は手放さずにすんだ。
この男がいなければ、俺はこんな感情を知らずにすんだ。


この男がいなければ、俺はまだ、囚われたままだった。


「ほらほら、沈まない沈まない。お酒は楽しく飲みましょうよ」
くしゃくしゃと髪が乱される。
馴れ馴れしい、不快な仕草。
なのに俺は、自然とソファに座る男の膝に顔を埋める。
男からは太陽と、埃の匂いがする。
「あんたが……大嫌いだ……」
「俺は、お前が結構好きだけどね」


囚われていたかった。
ずっと一緒にいたかった。
解放なんて、望んでなかった。


けれど、この男の髪を撫でる手を払いのけられないのはなぜだろう。

消えることのないと思っていた傷は、歪ながらも修復を始める。
疼くものは、以前ほどの痛みを感じない。

「あんたが、大嫌いだ……」
男は黙って、俺の髪を玩ぶ。
俺は、それを受け入れていた。





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