あの日。 あの階段の踊り場。 途方にくれた子供のような顔で、落ちていく姉。 伸ばした手は、途中で迷うように、諦めたように彷徨う。 けれど、誰の手をとることもなかった。 そして姉は、俺の前から姿を消した。 「よ、元気?」 そのいつでも明るい耳障りなほどに陽気な声。 決して慣れたくないのに、近頃では誰よりも慣れてしまったその声。 「また来たんですか」 俺の心底嫌そうな声にもたじろがない。 眼鏡の奥の好奇心に満ちた目は、いつでまでも変わることはない。 細いくせに感情を雄弁に映す、光にあふれた目。 「だってー、俺の大学に近いんだもん」 目の前の相手に分かるようにため息をつくと、体をずらし招かざる客を迎え入れた。 男は子供のように悪戯っぽく笑うと、図々しく靴を脱いであがりこむ。 手に持っていた酒らしきものを俺に押し付けると、勝手知ったる様子で上がりこんだ。 必ず手土産を持ってくる。この男の妙に律儀なところ。 狭いマンションの中。 客のはずの男はなぜかソファを陣取り、俺は床に直接座っている。 いつのまにか決まってしまった、定位置。 土産の酒を飲みつつ、しばらく上滑るような世間話をしていたが、その内に不意に問いを投げかけられる。 「清水元気?」 清水。 生まれた頃から慣れ親しんだ、その姓。 けれどこの男が指しているのは俺じゃない。 治りかけの傷を引っかかれるような、鋭くじんわりとした痛み。 「………元気みたいですよ」 俺の手からも目の前の男の手からも逃げ出し、自由を手に入れた裏切り者。 遠く離れてしまった今では、両親から伝え聞く噂しか聞かない。 一時期よりも激しくはないが、けれど未だに身をかきむしる焦燥感。 「そっか。よかった」 俺はまだこんなにも痛みを感じるのに、目の前の男は本当に嬉しそうに笑った。 それは、あの女に対する懐かしさと、愛情のようなものに満ちている。 この男は、なんでこんな目を出来るのだろう。 初めて会った時から、感じていた。 言いようのない敗北感。 そこそこに器用で、常に人の上に立っていた俺にはあまり感じることのないもの。 それを、この男から与えられる。 この男が、大嫌いだ。 ふと、眉間に長い筋張った指が触れる。 「千尋君ってばー、まーた眉間に皺寄せちゃって。いい男が台無しよ」 「嫌いな人間といれば、皺ぐらい寄りますよ」 男はひっどーいと言いながら大げさなリアクションで傷ついた表現を見せる。 この男がいなければ、俺の腕の中にはまだあの女がいた。 この男がいなければ、俺は手放さずにすんだ。 この男がいなければ、俺はこんな感情を知らずにすんだ。 この男がいなければ、俺はまだ、囚われたままだった。 「ほらほら、沈まない沈まない。お酒は楽しく飲みましょうよ」 くしゃくしゃと髪が乱される。 馴れ馴れしい、不快な仕草。 なのに俺は、自然とソファに座る男の膝に顔を埋める。 男からは太陽と、埃の匂いがする。 「あんたが……大嫌いだ……」 「俺は、お前が結構好きだけどね」 囚われていたかった。 ずっと一緒にいたかった。 解放なんて、望んでなかった。 けれど、この男の髪を撫でる手を払いのけられないのはなぜだろう。 消えることのないと思っていた傷は、歪ながらも修復を始める。 疼くものは、以前ほどの痛みを感じない。 「あんたが、大嫌いだ……」 男は黙って、俺の髪を玩ぶ。 俺は、それを受け入れていた。 |