野口がボールに浸かっている魚を不思議そうに眺める。 「これはどうするの?」 「それは、そのまましばらくつけておいて、味が沁みたら焼くからおいておいて」 「はーい。俺、何すればいい?」 「これ、丸めて」 「はい」 いつも冷静で酷薄さを感じさせる男は、今はなんだか上機嫌に肉を丸めている。 こちらの手元を覗き込む目は、子供のように無邪気に見える。 「やっぱり三田、手際いいな」 「あんたも、料理しない割には手際いいよね」 「バイト先でたまに調理はするよ。ただ簡単なものだから、三田みたいな煮たりしみこませたりとか無理。やっぱり料理出来るって、いいよな。尊敬する」 「ふーん」 気のない返事を返しながら少しだけ頬が引きつってしまう。 こいつがこんな素直に褒めるなんて、めったにない。 斜め上の褒め言葉はもらうが、ストレートな賞賛なんて、おみくじの大吉確率ほどだ。 それに、ひとつでも野口に勝ってるものがあるのは、嬉しい。 「嬉しそうだね」 ポーカーフェイスのつもりだったが、野口が顔を覗き込んでそんなことを言う。 至近距離で見る顔は、地味だけれど割と整っている。 「な、何が」 「褒められて嬉しそう。あんま褒められることないしね。俺に優越感感じてる?」 「うっせー、死ね」 全てが図星なことに余計にイラっとして、悪態をつく。 本当にこいつは、どうして最後まで落とさずにいられないんだ。 「でも、三田の料理は普通においしいし、素直に褒められておいて」 「お前が素直にさせないんだよ」 「三田も、レスポンス早くなってきたよね」 「鍛えられたから」 こんなスキルだけ上がってても、何も嬉しくない。 もっと平和的に優しい会話が出来ればいいのに。 なんて、それじゃ、きっと物足りないんだろうなって気もしてしまう自分が怖い。 「あ、こら、つまみ食いすんな」 野口の丸めた肉団子を焼いて餡に絡めていると、横から手が伸びてくる。 ぴしゃりと手を叩くと、今度は頬にキスをされる。 「じゃあ、三田をつまみ食いしていい?」 「あ、あほか!」 「やっぱりさ、エプロンで台所に立たれるっていいよね。夢が詰まってる。更に下が制服。これは襲わないと、むしろ礼儀に反するだろ」 「真面目な顔で何言ってんだ、お前は」 「男のロマン」 「………本当に、お前、一回どっかに頭ぶつけろ」 そしたらきっと、まともになるんじゃないだろうか。 前言撤回、やっぱり物足りないなんてことはない。 私はもっと平和的な会話がしたい。 「制服もいいけど、今度はべたに裸エプロンなんかもぜひ」 「おい、変態セクハラ!」 野口がエプロンの裾をぴらりとつまみ上げる。 別に制服だからなんともないのだけれど、なぜか恥ずかしく感じて一歩飛び退く。 そんな私を見て野口が笑う。 そして、逃げる暇なくぎゅっと抱きしめてきた。 「あー、かわいいなあ」 「あ、あほか!危ない!」 「料理してていいよ」 「出来るか!」 前から抱き着かれててどうやって料理しろって言うんだ。 ていうか心臓が痛い。 いつまでもこうやって、ドキドキしてしまう。 もう散々、抱きつくぐらい、しているのに。 「ただいまあ」 その時いきなり、廊下の先の玄関が開く音がした。 高い女性の声が響く。 「え!?」 「うわ」 驚いて慌てて野口を突き飛ばす。 私よりも軽そうな男は、そのままよろけて尻もちをついた。 「ただいま、良ちゃん」 リビングに入ってきた女性は、床に座り込む野口ににっこりと微笑む。 中年の、でも若々しい、可愛らしい印象の女性。 ただいまってことは、まさか。 「おかえり、母さん。どうしたの?帰るって言ったなかったよね」 「優ちゃんの荷物取りに来たの。すぐに出るから」 「そう、お疲れ様」 やっぱり、お母さんなのか。 やばい、一気に緊張してきた。 野口はまるで驚く様子も、慌てる様子もなくゆっくりと立ち上がる。 そこでようやく野口のお母さんらしき人は、私に視線を向けて、慌てた様子で目を丸くする。 ああ、なんだか、そんな仕草も可愛らしい。 どこか、少女めいた人だ。 野口にまったく似ていない。 「あれ、お客様?わ、女の子!もしかして良ちゃんの彼女!?」 「あ、え、えと」 咄嗟のことに、返事が何も出来ないでいると、野口が私の肩を抱いてくる。 「そう。かわいいでしょ」 「本当だ、かわいいね。こんにちは」 にっこりと笑って挨拶をされ、慌てて野口の手を払いのける。 そして、勢いよく頭を下げた。 「あ、す、すいません、勝手にお邪魔しちゃって、えっと、私、三田由紀て言って、その、えっと」 ああ、ぐだぐだだ。 はじめての挨拶は、もっとちゃんとしようと思っていたのに。 準備とかしたかった。 手土産すらもってない。 「野口、えっと、野口君とは、その………その、お、おつ………」 そして、そこまで言って、恥ずかしくて、顔が熱くなってくる。 「その先が聞きたいんだけど」 「う………」 「さあ、どうぞ」 つっこんだのは、お母さんではなく隣の眼鏡だった。 お母さんがいなきゃ、殴ってやるのに。 ちくしょう。 「あ、あの、お、おつきあい、させて、もらってます」 「うん、やばい、燃える」 殴りたい。 「きゃあ、本当にかわいい!もう、初々しいなあ」 「でしょ」 「うん!私と、優ちゃんが付き合い始めたころみたい。懐かしいなあ。あの頃は私もそんな風だったなあ」 「へえ」 お母さんはテンションをあげて、きゃあきゃあ言いながら楽しそうにはしゃいでいる。 なんだか本当に、可愛らしい人だ。 野口のお母さんなんだから、うちのお母さんと同じぐらいなのだろうけど、まったく見えない。 悪く言えば、幼くて、女らしい。 同級生だったら、友達にはならなかったと思う。 「母さん、時間平気?」 「あ、そうだ。早く帰らないと。最終なくなっちゃう」 野口の言葉に、お母さんははっと顔を上げて時計を見る。 そして慌ただしく何か荷物をまとめて、荷造りを完成させる。 「ごめんね、えっと、由紀ちゃん、ゆっくりできなくて。また今度、ゆっくり会おうね。今度は優ちゃん、えっと、良ちゃんのお父さんと一緒に」 「え、と、は、はい」 まるで台風のように慌ただしく賑やかな人は、にっこりと笑って私に頭を下げる。 「じゃあ、由紀ちゃん、良ちゃんのことよろしく。良ちゃんも、体に気を付けて」 「はい、母さんも気を付けてね。父さんによろしく」 「うん。じゃあね」 そして滞在時間は30分ほどで、お母さんは去っていく。 賑やかだったせいか、急に部屋がしんとして、静かに感じる。 「………」 たった、30分にも、満たない、時間だった。 はじめて会った。 何度もここには来ているのに、会ったことはなかった。 「どうしたの。そんな変な顔して」 野口が私の顔を覗き込んで、頬をつついてくる。 「………どんな顔だよ」 「眉間に皺が寄ってる」 そして眉間にキスをされる。 確かに力が入っていたようで、力を抜ける。 「今にも目の前の人間を殴りそう」 「あんたじゃん」 「そういえばそうだ。出来れば抑えて。まあ殴りたかったら殴ってもいいけど。むしろ、それもいいけど」 「殴るか、この変態」 いつもとまったく変わらない態度に、なんだかイライラしてしまう。 本当に、慣れているのか。 「………お母さんと会ったの、どれくらいぶりなの?」 「えーと、この前の連休の時だから、二か月ぶりぐらい?」 「………」 むかむか、もやもやする。 「どうしたの?」 「あんたは」 何かが言いたい。 でも、言葉が出てこない。 「………」 拳を握りしめて、唇を噛んだ私に、野口が笑う。 どこか皮肉げに、チェシャ猫のように、人をなぶろうとする時の笑顔。 「同情した?俺が可哀そうだった?」 「………そう」 楽しげに聞いてくる野口に、ひとつ頷く。 目をじっと見つめて、口を開く。 「彼氏が、寂しそうだから、同情して、慰めたかった」 「………」 野口は目を丸くして、言葉を失う。 「………あっは」 それからしばらくして、吐き出す様にして笑う。 くすくすくすくす、さも楽しげに笑う。 「もう、本当に、俺のツボをピンポイントにえぐりこんでくるなあ」 それからぎゅっとまた抱きしめられる。 今度は私も、そのシャツを掴む。 「大好き、三田。俺、別に寂しくないよ。だって、三田が傍にいてくれる。だから、本当に、それ以外のこと割とどうでもいいんだ」 優しく甘い、穏やかな声に、その言葉が嘘じゃないと伝わってくる。 肩に顔をうずめるようにしてすり寄る男は、本当に猫のようだ。 「すっごく今、幸せ」 そして顔をあげて、楽しげに笑いながら首を傾げる。 「ねえ、腹を満たす前に、他のものを満たしていい?」 「………何がとは、聞かない」 「あれ、聞いてくれないの?」 聞いたら絶対後悔する。 首を思いきり横にふる。 すると野口は小さく笑って、キスをしてきた。 「まず、心を満たしたい。好きだよ、三田、大好き」 何度も何度もキスを顔に落としてから、にっこりと笑う。 繰り返される告白に、けれど、ちょっとだけ拍子抜けしてしまう。 「あれ、何考えた?」 「何も考えてない!」 「そう?」 ああ、だから本当にこいつはタチが悪い。 「それから腹を満たして」 そしてもう一度キスをされる。 今度は、舌がちらりとつついて、去っていく。 野口が唇を舐めて、いやらしく笑う。 「心行くまで、性欲を」 「………死ねっ」 ドキッとしてしまったことを誤魔化すために、殊更乱暴に言い放つ。 野口は、楽しげに声をあげて笑った。 |