「はー、疲れた」 帰ってきた四天さんは、そう言ってソファに座る俺の膝の上に倒れこんだ。 もうこんなことにも慣れてしまった。 このような無防備な姿を、俺にお見せになられるようになって久しい。 「お疲れさまでした」 「ほんとに疲れた。もーやだ、働きたくない。俺ずっと寝てたい」 ごろりと寝返りをうち、むずがるように言う。 まるで猫のような人だと思う。 その毛並みのよさも、育ちのよさを感じる仕草も、気まぐれな身勝手さも。 近づいてきたかと思えば、尻尾ではたいて去っていく。 それでも昔に比べれば、随分懐いてくれたものだ。 「ふふ」 「なに?」 「いえ、昔のあなたからは想像できないような発言だと」 発言、だけではなく、態度もだけれど。 昔のこの方は、もっと冷淡で、研ぎ澄まされた刀のようだった。 こんなだれた言動を、俺の前で、お見せになることなんて決してなかった。 栞さんしか、見たことはなかったんじゃなかろうか。 まだ少年だったのに、誰にも頼らず何もかもを背負い、痛々しいまでに一人で立っていた。 「俺は昔から言ってたよ。できれば働きたくないってね。義務だからやってただけで」 「では今も義務ですね」 「分かってるから働いてるでしょ。愚痴ぐらい言わせてよ」 四天さんは不機嫌そうに口を尖らせる。 そんな拗ねた口調も、気を許してくださっているのだと感じることができる。 人に懐かない不愛想な猫が、俺にだけ見せる甘えた態度は、優越感をくすぐる。 「何、にやにやして」 「いえ、あなたに愚痴を言っていただけるなんて光栄だと思いまして」 「犬相手なら気楽なもんだしね」 「ええ、犬ですから、あなたに付き従い、黙って愚痴ぐらい聞いて差し上げますよ」 すべてを失い、絶望していた俺を拾ってくださった方。 多大なる恩義と尊敬、そして恐れながら親愛を感じている。 この方が俺を犬と言うのなら、俺は喜んで犬となろう。 「ほーんとかわいくなくなったよね」 「どなたかの薫陶のたまものですね」 「俺って調教師になれるかも」 四天さんはつまらなそうに鼻を鳴らすと、また寝返りをうった。 いつもならもう少し嫌みや人を揶揄する言葉の一つや二つ飛んでくるところだが、本当にお疲れのご様子だ。 「お茶でもお淹れしましょうか」 「んー。ううん。今はいいや、あとで朝日に美味しいもの作ってもらうから、その時お願い」 「はい、かしこまりました」 朝日さんの意思は完全に無視だが、まあ仕方ない。 この家で、四天さんの言うことは絶対だ。 朝日さんも文句を言いながら、逆らいきることはできない。 二人のじゃれあう姿を見ているのもまた、微笑ましいのだが。 「まだまだ足りないなあ、何もかも」 四天さんが天井に手を伸ばし、己の手を透かすようにして見上げる。 その長い指で、何かを掴もうとするように。 「あなたは十分に色々お持ちです。まだ、これからも手に入れられます。どうぞ、焦らないでください」 「全然足りない。これくらいの年になったら、もっと色々、手にしてると思ってた」 まだ成人にも達していないのに、そんな自分に甘えようとはしない。 常に自分を厳しく律し、追い込もうとするこの方は、見ているこちらが苦しいほどだ。 もどかしい気持ちは十二分にわかるのだが、この方にも無理はしてほしくない。 「初めて出会った頃、私はあなたと同じぐらいの年でしたが、そのように見えましたか?」 「………あー、そう言われればそうだね。全然何も持ってるように見えなかった。じゃあ、俺がまだまだ未熟でも当然かな」 「そこでそんなに納得されると複雑なのですが」 思わず苦笑してしまう。 今よりもっとずっと弱く脆かったので、そう言われても当然なのだが。 あの頃より、俺は、少しは、強くなれただろうか。 強いと言ってくださったあの方を、落胆させはしないくらいには、なれただろうか。 「あなたは、出会った頃からお強く、沢山のものをお持ちでした。そして、出会った頃より、今はずっと頼もしくおなりです」 自分よりずいぶん年若いこの人が、出会った頃よりずっと頼もしかったのは本当だ。 今も俺よりもはるかにお強く、信頼できる。 「………そう」 四天さんがふっと息を吐いてそっと目を瞑る。 そして、俺を見上げて悪戯っぽく笑った。 「志藤さんも、出会った頃よりは、頼もしいよ」 懐かしい呼び方に、笑いがこぼれる。 この方は嫌みも言うし、揶揄いもするが、俺に嘘は言わない。 ひねくれた表現ながら、それは真実なのだろう。 ならば、それはとても誇らしい。 「光栄です」 四天さんは苦笑してから、もう一度目をつぶった。 「少し寝る。司狼と朝日が帰ってきたら起こして」 「はい、かしこまりました。お休みなさい。お疲れさまでした」 毛並みと仕草の美しい、猫のような方。 俺にだけ見せる甘えた仕草に、軽く優越感を抱く。 けれど猫はその優美な姿とは裏腹に、どう猛な肉食獣。 時折、ちらりと覗かせる牙に、畏怖と尊敬を覚える。 美しい猫が自分の膝の上でくつろいでいる。 それはひと時の、穏やかな時間。 |