冬子(とうこ)は教室の扉の前で、一回大きく息を吸った。
それからようやく扉に手をかける。

冬子は軽く緊張していた。
こんなに緊張したのは、入学初日以来かもしれない。
不安と、少しの期待。

期待?
何を期待しているのだろう。
そんなことがあるわけないのに。
そんな自分を少し笑った。
思い切ってスライド式の、少しゆがんでいる扉を開ける。
教室の中はいつもどおり、始業前の賑わいを見せている。
友人と話す生徒、授業で当たるのか教科書に向かっている生徒、本を読んでいる生徒。
一瞬扉を見る人間もいるが、入ってきたのが冬子だと知るとすぐさま視線を元に戻した。
それは本当に、いつもどおりの光景。

けれど冬子の行動は、普段と少し違った。
いつもなら脇目もふらず自分の席につき、本を広げるところだ。
しかし今日に限って、扉の前で立ち止まるとさりげなく辺りを見回す。

春日(かすが)の姿を探していた。


結局、昨日はちゃんと礼を言うことが出来なかった。
春日はきちんと冬子の家の前まで送り届けてくれた。
そして、礼を言おうと思いながらも、なかなか言い出せないでいる冬子に、いつものどこか人を喰ったような笑顔を浮かべ、帰ってしまった。
冬子は別にいい、と言っているのに、春日が勝手に送ったのだ。
礼は、必要ないかもしれない。
冬子の兄や姉なら、そう言うだろう。

けれど一応、世話になったことは確かだ。
それなら礼のひとつぐらいは言うべきだと思う。
人として、当然のこととして。
礼儀を知らない人間には、なりたくなかった。

いない…。

教室内をぐるりと見渡しても、春日の姿は見えなかった。
目立つ男だ。いつでも教室の中心で笑っているような印象がある。
一つ息をついた。
いつの間にか強張っていた肩からも、力が抜ける。
思いの他、緊張していたようだ。

よかったのか、悪かったのか。

安堵はしていた。
けれど気を張っていた分、どこかがっかりもしていた。

仕方がない。また別の機会にしよう。

そうして席に向かって歩き始めようとした瞬間。
冬子が先ほど閉めた扉が開いた。
反射的に、後ろを振り向く。

そこには探していた人物がいた。

「あ……」
春日君、昨日はどうもありがとう。
そう、言おうと思った。
昨日から言おうと決めていた。
そして冬子は、一度決めたことはやり通すくらいの意思の強さを持ちたいと、常々考えていた。
だから、礼を言おうとつい今の今まで思っていた。

春日の両脇にいる、女子生徒を見るまでは。

冬子の眉間に皺がより、嫌悪感をむき出しにした。
いつでも楽しそうに女性と話し、ころころと隣にいる人間を変える春日の軽薄な一部分を、冬子は心から軽蔑していた。
春日を嫌っていた理由の、大きな割合を占めている。
先ほどまで礼を言おうと、堅く決めていた心はどこかへ去ってしまった。
視線を元に戻すと、さっさと机に向かおうとする。
しかし、その背中に気に障るほど明るい声がかかった。

「あ、館乃蔵(たちのくら)じゃん。足大丈夫?」

それは、間違いなく自分にかけられた声だった。
けれど冬子はその問いかけを、耳に入らなかったことにして黙殺した。
そのまま足を進める。
けれど人の感情を読むことをしない、無神経な男はもう一度声をかけてくる。
「おーい、館乃蔵ってば?聞こえねーの?」
聞こえない。
「何?一清(かずきよ)、館乃蔵さんなんかに用があんの?」
春日のどちらかの腕のまとわりついていた1人が、とても嫌そうな声をだした。
なんか、の部分に力がこめられていた。
別に、それぐらいは慣れているのでかまわない。
「足って?どうかしたの?」
おそらく、もう一方の方の女子。
冬子は後3歩ほどで、窓際の自分の席に辿り着く。
聞こえないふりをしながらも、しっかりと聞こえてくる高い声に苛立った。

昨日の出来事を、人に吹聴されるのは愉快なことではない。
しかし、それも仕方がないと思う。
春日の自転車に乗ってしまった時点で、予想できたことだ。
嘲笑は冬子のなにより嫌いなものだったが、覚悟はしている。

……あの時だって我慢できた。自分の誇りは傷つかなかった。
今回だって平気だ。

軽く目を伏せ、机につこうとした瞬間、春日の声が耳に入った。

「あー、昨日、ユッキーのところから帰る途中で館乃蔵と会ってさ。館乃蔵ってば、意外なことに、かわいらしい小さい花柄のピンクのパン……」

冬子は光速で踵をかえすと、いつものお嬢様然とした姿らしからぬ猛ダッシュで春日の腕を掴み、教室の外へ連れ出した。
これまた冬子らしからぬ、乱暴な所作で扉を閉める。
春日の横にいた女子は突然のことに反応できず、今まで隣にいた男の名前をつぶやいた。
「……一清?」


*




春日の腕を引っ張ったまま、屋上へと続く踊り場へつれてきた。
屋上は昼休み以外は閉鎖されているため、今の時間は人気がない。
一気に階段を駆け上ったせいで、冬子は息を切らし、激しく胸を上下させた。
勢いでここまでこれたものの、先ほどから酷使された右足首が悲鳴を上げている。
せっかく収まっていた痛みが、再燃していた。
一方連れてこられたほうは、息も乱れず飄々としている。
「足ひねってんのに、ダッシュしたらまずいんじゃねーの?」
「誰の…っ…、せいだとっ……」
「え、俺のせいなの?」
きつい視線を目の前の長身の男に向けながら、深い呼吸を繰り返し少しでも落ち着けようとする。
最後に一つ息をつくと、痛む足も苦しい心臓も押さえつけて背筋を伸ばした。
顎を上にあげ、視線をしっかりとあわす。
「あなたね、何言ってるのよ!」
「何って?」
「だから、さっき、その…教室の前で……」
聞き返されて、言葉に詰まる。少し視線をそらした。
「ああ、さっき話してたこと?一乃蔵のパンツが意外にかわいらしかったって。絶対清楚な白のレースか、思い切ってセクシー系だと…」
「ちょっと!!」
ろくでもないことを言い出す男を大きな声で遮る。
階段に反響して、声が響いた。
冬子の白い顔は、林檎のように紅くなっている。
「やめてちょうだい!失礼な人ね!」
「なんだ、やっぱり聞こえてたんじゃん」
「え?」
冬子の怒りなど、気にもとめずに春日は上から見下ろしていた。
冬子と言い争う時に見せる、唇の右端をあげた、意地の悪い笑いを浮かべている。
「お前、さっきシカトしたじゃん。恩人、しかもお前の心配している人間をシカトすんのは、失礼なことじゃないの?」
「そ、れは……」
冬子は下唇を強く噛んだ。
その通りだ。
春日の言っていることは、正論である。
「……私は、助けてくれなんて言ってないわ。心配してくれとも、言ってない」
けれど、口から出たのはそんな言葉だった。
言ってしまった後に、後悔が襲ってくる。
これでは本当に、礼儀を知らない人間だ。
自分で自分が恥ずかしくなる。
しかし言ってしまった言葉はもう戻すことは出来ずに、気まずい沈黙が踊り場を支配した。

長い息をついたのは、春日だった。
「まあ、な。そりゃそうだ。悪うございました」
そう言って、ポンと冬子の肩を叩くと、すれ違いに階段へ向かった。

怒らせてしまった、と思う。
それはそうだ、誰だって好意でやったことをこんな風に言われたら怒るだろう。

「あ…」
頼りなげに小さな声をもらし、冬子も背にしていた階段へと振り向いた。
下り階段の一段目へと足をかけていた春日がいた。
「あ」
春日も同じような小さな声でつぶやき、動きが止まる。
そして振り返り、冬子に手を差し伸べた。
「え?」
「お前、まだ足痛いんだろ?ひねってんのに走ったり階段登ったりしてんじゃねえよ。ほら、手貸してやるよ」
薄い色の目は、まだ怒っていた。
けれど、大きな手は差し伸べられている。
「あ……でも……」
手を胸元に置いたまま、冬子は逡巡した。
確かに足は痛い。…けれど。
そんな冬子の様子に、春日はさも飽きれたようなため息をつく。
それから階段をまた上ると、強引に冬子の腕をとると肩にまわし、腰を腕で支えた。
「ちょ、ちょっと……!」
いきなり体に触れられて、冬子は動揺する。
「あー、もう、黙って肩貸されてろ。だっこされたいのか」
「………」
その言葉で冬子は黙った。
この男は、やると言ったらやるだろう。
「よし。……これは俺が勝手に心配して、勝手にやってることだから気にすんな。俺は女の子には優しくするって決めてんだよ。お前みたいな可愛げのないのでもな」
そう言って、ほとんど冬子を抱えるようにして階段を降り始めた。
身長差があるため、高い位置にある春日の肩に腕をまわすと、冬子が足をつくことも難しい。
もう一方の手でも無意識に春日の肩をつかみ、しがみつくようにして3Fまで辿り着いた。朝のHRがもうすぐ始まるため、階段付近には人が少ない。冬子はほっと心をなでおろした。
「あー、疲れた。お前マジちょっと重いよ」
「失礼ね!」
階段を降りきったところで、そんなことを言われる。
条件反射で言い返した。
けれど、右足に負担がかからないようにゆっくりと冬子を立たせる仕草は、丁寧で優しい。
「あー、もう予鈴なっちまったな。人いねえし。ほら、さっさといくぞ」
先に歩き始めるものの、春日の歩みは足を痛めた冬子にあわせてか、ゆっくりだ。
その背中を見て、下唇を強く噛んだ。

私は、軽蔑しているこの男よりも失礼な人間だ。

「春日君」
「んー」
後ろを振り向かないまま、気のない返事をする春日。
「……あ、ありがとう」
昨日よりも大きな声で言えた。けれど、声は震えていた。
「え?」
驚きの声をあげて、春日が後ろを振り向く。
面食らった顔だった。
冬子は背筋を伸ばすと、もう一度必要な言葉を繰り返す。
「ありがとう。昨日…とそして今も。とても助かったわ」
今度はもっと大きな声だった。相変わらず少し震えてはいたが。
顔が熱くて、火照っていた。
さっさと立ち去ってしまいたかった。
けれど背筋を伸ばし、視線をそらさなかった。
誠意には誠意を。

それが冬子の望む自分だ。



少しして、冬子がいい加減本当に立ち去りたくなってきた頃。
春日の表情が鮮やかに変わる。
こちらも微笑んでしまいそうになるくらいあどけない、子供のような笑顔。


「なんだ。ちゃんとありがとうって言えるんじゃん」
そんな感想にちょっとむっとしたが、自分のせいだと思い直す。
「礼を言うべきところでは、礼を言える人間に……なりたいと思っているわ」
語尾が小さくなった。
今の自分には少し恥ずかしい。
「けど、さっきはすんげー失礼な態度だったけどな」
「……それは、悪かったわ」
からかわれるように言われて、更にむっとする。
けれど重ねて我慢し素直に謝った。
「ほんとーに館乃蔵家のお嬢様は可愛げがないんですから」
「な!」
珍しく殊勝な態度をとっているのにも関わらずそう続けられて、さすがに言い返そうとする。
けれど春日は八重歯を見せて笑った。
「でも、お前ってそういう奴だよな」
その嬉しそうな笑顔に、冬子は言葉を失った。

春日は腕時計を見ると、表情をかえた。
「やべ。本鈴なっちまう。行くぞ」
「あ、ええ」
冬子も続こうとして、一つ言い忘れたことを思いだした。
「春日君」
「何?」
焦りながらももう一度振り返る春日。
「その、さっきのことは、誰にも言わないで」
「さっきのこと」
「だから、あなたが教室で話そうとしてた……」
「ああ、館乃蔵のパン……」
言い切る前に平手打ちをした。
もちろん、手加減はしたが。
「いってーな!」
「私は可愛げがないかもしれないけれど、あなたは恥知らずだわ!」
春日の肩あたりぐらいにある小さな顔が、紅く染まっている。
怒りながらも恥ずかしそうに言う冬子に、春日が小さく笑う。
「恥知らずって…また古風な」
「とにかく!言わないで!」
言い切ると、今度は冬子が春日を追い抜き、歩き始めた。
足を痛めてるとは思えないほど、よどみない。
「待って待って、言わないって!ごめんごめん!俺はすべての女の子に優しい男よ?」
「そう願いたいわ」
振り返らずに切り捨てた。
前を向く顔は、春日からは見えないがおそらく紅い。
そのまま前を向いたまま、冬子が口を開いた。
「この借りはいつか返すわ」
「借りって…」
「あなたには世話になったわ。だから、その借りは返す」
きっぱりとした口調。
春日は後ろに続いて歩きながら、困ったように頭をかく。
「そんな、おおげさな」
「いいえ。借りを作ったままでは、気持ち悪いもの」
聞きようによっては、とてつもなく失礼な言葉。
好意をつっかえすようなものだ。
けれど冬子には精一杯の好意。
「あー……、あ、そうだ!じゃあ今日の昼飯おごって」
困ったように綺麗にセットされた頭をぐしゃぐしゃとかいていた春日は、思いついたようにポンと手を叩くと、そんな提案をした。
「え?」
「学食で。学食ならそんなに高くねえし」
「が、くしょく?」
「そ」
と、春日が短い返事をしたと同時に、スピーカーから鐘の音が鳴り響いた。
「あ、まず!和さん来ちゃう!俺、遅刻やべーんだよ!ほら、早く行くぞ」
そして、冬子が呼び止める隙もなく、すでに前まで来ていた教室の中に入っていってしまった。

「……学食」

そのまま廊下に立ちすくんでいた冬子は、後ろから来た担任に珍しく怒られることとなった。






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