玄関を開けると、すでに日が沈みかけ、菫色に染まる空があった。
吹き抜ける風は屋敷の中の澱んだ空気と違って、涼やかで気持ちがいい。
初夏に向かう季節では、この時間の風はまだ肌寒い。

「朝日さん、大丈夫ですか?」

空を見上げていると、不意に穏やかな声がかけられた。
聞きなれた、けれど想像していなかった声に、慌ててそちらを向く。

「志藤さん?」

屋敷の玄関から少し離れた場所で、長身の若い男性が優しげに笑っていた。
眼鏡をかけた、どこか女性っぽさも感じる繊細な顔立ちの人だ。
あの家の中で話が通じる唯一の人間。

「あんたも来てたの!?」

慌てて駆け寄ると、いつものように志藤さんはにっこりと笑う。

「司狼さんお一人じゃ、足がありませんから」
「あ、なるほど」

不便な場所だし、水垣を送ってきたのか。
水垣にはなんとも思わないが、この人に手を煩わせてしまったのはちょっと心苦しい。
志藤さんは俺の姿を見て眉間に皺を寄せる。

「お怪我をされてますね。手当をしましょう」
「舐めときゃ直るよ」
「肩や脇腹が、舐められるんですか?」

困ったように笑う人からは俺を心配している気持ちが伝わってきて、こちらも心がほぐれていく。
本当にあいつや水垣とは大違いだ。

「帰ってからでいいよ。こいつもいるし」
「うへえ!?」

一歩後ろで黙ってみていた玉野を指さす。
急に話を振られた玉野が、奇声を上げる。
本当にこいつは少しは可愛らしい態度はとれないのだろうか。

「えっと」

志藤さんが、玉野の姿を見て困ったように首を傾げる。
誰なのかが分からないのだろう。

「えーと」
「俺と原田のクラスメイトの玉野さんだよ。縁」

なんて説明したらいいか分からずにいると、水垣が玉野の横に立ち紹介する。
そういえばクラスメイトだったな。

「で、いいのか、玉野?」
「はい、それで相違ないです!」

玉野はこくこくと何度も頷く。
そんなに顔を動かすと眼鏡がとれそうだが、そういえば屋敷の中でも眼鏡は一度もとれなかったな。
接着剤か何かでくっついてんじゃねーか、これ。

「玉野さん、ですか?初めまして、志藤と申します。朝日さんと司狼さんの、その保護者のようなものです」
「は、はい、はじめまして」

玉野が俯いて、またこくこくと何度も頷く。

「なんか一緒にクラスの奴らに閉じ込められた。いじめられてるらしい」

俺も一応紹介のために付け加える。
すると玉野が慌てて俺にしがみついてきた。

「そ、そんな、アグレッシブにはいじめられてないですよ!?」
「マイルドにいじめられたんだろ?」
「は、原田君もいじめられてるんですからね!?」
「ああ?」
「ひっ」

俺はいじめられてた覚えはないぞ。
まあ、確かにこんな事態にはなったが、あいつらにいじめられた覚えはない。
というか、いじめられたらやり返す。
とことんまで、潰す。

「お前と一緒にすんな」

玉野を捕まえて、そのこめかみに拳をあてぐりぐりと回す。

「いた、いだいだ、いだい!」
「出たら殴ってもいいんだろ?」
「ほ、本気だったんですか!?」
「俺はいつでも本気だ」
「一応、女の子ですよ!?」
「本当に一応な。お前に気遣う気力は全部使い果たした」
「痛い痛い!ごめんなさい!」

泣き言を封じるために更に力を強めると、ようやく謝罪が入った。
ビビりのくせに図々しいというか生意気というか。

「ま、まあまあ、朝日さん、落ち着いて」

志藤さんが困ったように俺と玉野をやんわりと引きはがす。
そして髪が乱れた玉野の頭をそっと撫でる。

「大丈夫ですか、玉野さん」
「は、はい」
「お怪我はないですか?酷い目に遭いましたね」
「え、えっと」

酷い目と言えば、確かに酷い目にあった。
何より水垣に助けられ、志藤さんに迎えにきてもらったという事態が屈辱だ。
こんな事態になったのは、全部全部、あいつらが悪い。

「そういえばあいつらにきっちり仕返ししないとな」
「ああ、朝日さんをこちらに連れてきたお友達ですか?」
「そう。友達じゃねーけど。閉じ込められた」

クラスメイトと幽霊屋敷に行くというのは、バスの中で水垣にメールをしておいた。
それで、志藤さんも知ってるのだろう。

「それならあちらに」

志藤さんはにっこりと笑うと、自分の後方に手を差し出す。
そこには倒れてぴくりともしない、男女の群れがいた。
遠目で顔はうっすらとしか見えないが、同じ制服の男が二人と女が二人。
多分、あいつらなのだろう。

「………えっと、なんであんなことになってんの?」
「屋敷の前でおろおろとされていらっしゃいました。騒がれると少し困るので私と司狼さんで」

意識を奪ったのか。
野球しかしてこなかったらしい俺とは違って、水垣と志藤さんはなにか武術をやってるようで強い。
あんな奴ら、ひとたまりもなかっただろう。

「少しやりすぎたかと思ったのですが、朝日さんをこんな目に遭わせた方たちなら、やりすぎでもなかったようですね。むしろもう少し教育的指導をしたほうがよかったでしょうか」

やっぱりにっこりと穏やかに、優しい声でそんなことを言う。
誰にでも物腰穏やかで、優しく気の利く奴だが、時折酷く冷徹な物言いをする。
特に身内を傷つけられた時とかは、こちらがひやりとするほど冷酷になる。

「………うーんと」
「朝日さん?」
「あれどうするの」

団子のようになって倒れてるやつらを指さす。
志藤さんと水垣がやったなら、別にひどい怪我とかは負ってないだろう。

「そのうち目を覚ますでしょうから、そのままにしていきましょう。ああいう方たちにはいい薬かと思います」

いつもは心配になるほど人が良くて献身的な奴が、あっさりと言い放つ。
まあ、あいつらをあのままにしていっても、このままなら風邪をひくぐらいか。

「………ま、いいか」

あいつらが風邪を引こうがどうしようか、俺が知ったことじゃないし。
俺達にしたことに比べれば温情的なものだろう。
うん、俺たちは優しいな。
よし、放置しよう。

「縁、玉野さんを送ってもらっていい?」
「ええ、勿論です。お乗りください」

水垣が玉野の肩を押して、志藤さんに伺う。
志藤さんは玉野に優しく笑いかけて頷いた。

「え、えっと、いい、いいんでしょうか?」
「いいんじゃねーの?」

なぜか俺に聞いてくる玉野に頷く。
全員乗れるなら、別に問題ない。
こっから一人で帰れっつーのも、いくら玉野でも少し可哀そうな気がするしな。

「ええ、玉野さん、どうぞ遠慮なく」
「玉野さんも疲れたでしょう?ごめんね」

志藤さんと水垣にステレオ放送で言われて、玉野が真っ赤になる。
そして慌てて、俺の後ろに隠れる。

「………だからなんで俺に隠れるんだよ」
「い、イケメン二人に囲まれて、正気でいられる自信がないです」
「だから、俺はなんなんだよ」
「痛い痛い痛い」

相変わらずナチュラルに失礼な発言に、頭のてっぺんをぐりぐりと拳で小突く。
玉野が逃げよつうとするので腕を押さえつけ、更に力を込める。

「痛い!痛いですってば!」
「お前がいじめられる主な原因って、その余計なひと言じゃねーの。本当に言わなくていいこと言うよな」

こんな余計なことばっかり言ってるから、友達もいなくなるんじゃないだろうか。
というか、まあ、本当に友達のいない俺が言うことじゃないけど。

「や、やめてください!」

玉野は俺の手からなんとか逃げ出すと、頭を押さえながら涙目になる。

「………だから、なるべく黙ってるようにしてるんです。それはそれでマイルドにいじめられるようになりましたけど」
「はあ?」

半泣きで言う発言の内容が、あまりにも馬鹿馬鹿しくて変な声が出てしまう。

「つ、つい口から色々漏れちゃうんで、私」

ああ、もう、本当にこいつは、馬鹿だなあ。
とことんまでアホだなあ。

「はは」

あまりにも馬鹿すぎて、笑いがこみあげてくる。
そりゃマイルドにいじめられるはずだ。
俺よりタチが悪いんじゃないだろうか。

「は、はははは、はは!アホだな、お前ほんとに、アホ!くっそ馬鹿!」
「………うう」
「あっはは!」

俺の罵りにも、玉野は頭を押さえて呻くだけだ。
大人しくて害がないのだけが取り柄のような外見をして、随分面白いやつだ。

「………」
「………」

涙まで出てきたので拭っていると、水垣と志藤さんがじっと俺を見ていた。
驚いたように、眼を丸くしている。

「………なんだよ」

凝視されるのが落ちつかず、睨み返す。

「………お前がそんな風に笑うとこ、初めて見た」

水垣は俺をじっと見たまま、ぼそりとそんなことを言った。
突然言われて、頸を傾げる。

「そうか?」
「ああ」

そういえば、そうだったかな。
そうだったかも。
笑うこと自体、少なくなった。
それにこいつらの前で、こんな風に楽しくなった記憶もない。
ムカつくことばっかりだしな。

「私も初めて拝見しました」
「そう?」
「ええ」

志藤さんも、目を何度も瞬かせ、そんなことを言ってくる。
そして玉野に向き合い、穏やかに微笑みかける。

「玉野さん、どうか今後とも、朝日さんをよろしくお願いしますね」
「へ、え!え?」

玉野はいきなりの依頼に、目を白黒させてきょろきょろと、挙動不審な動きをする。
今後とももなにも、今までもよろしくされた覚えがない。
足手まといでうるさくて、随分振り回された。

「よろしくするのをお願いするのは、どう考えてもお前だろ」
「そ、その通りです!」

玉野も握り拳を握って、そんな変な主張をする。
それから顔を改め、俺の前に立ち、じっと俺を見つめる。
一回深呼吸してから、顔を真っ赤にして見上げてくる。

「あ、あの、原田君」
「なんだよ」
「その、ありがとうございました。すごく、助かりました」

本当に、お世話したのは、俺の方だ。
こいつがいなきゃ、もう少し楽だったろうに。
まあ、こいつがいたおかげで、楽しくはあったけどな。

「よし、もっと感謝しろ」
「勿論です。ありがとです」
「………」

思いもよらぬ素直な謝意に、言葉を失う。
真っ直ぐに見つめられストレートに礼を言われると、正直どういう反応をしたらいいか分からない。
こんな風に礼を言われることなんてめったにない。
礼を言われるようなこともすることがない。
よって、どうしたらいいか分からず戸惑う。

「えっと、水垣君も」
「ん?」

戸惑っていると、玉野は今度は水垣に向きなおした。
そして深々と丁寧に頭を下げる。

「その、ありがとうございました」

俺には頭を下げてなかったよな。
やっぱりなんか俺と態度が違くないか。
俺に対しては、結構ぞんざいな扱いしてると思うんだが、こいつ。
本当にいい性格してる。

「君に怪我がなくてよかった」

水垣がにっこりと玉野に笑いかける。
やっぱりその笑顔は違和感があって、気持ちが悪い。
けれど玉野はいとも簡単に真っ赤になる。

「う、いえ、そ、そんなことは」

けれど慌ててまたこそこそと俺の後ろに隠れる。

「だから俺に隠れんなって」

つっこむが、そんな言葉は聞いていない。
俺の背中を掴んでプルプルと震えるだけだ。
わざとなのかわざとじゃないか、水垣がそんな玉野に一歩近づく。
覗き込むように顔と近づけてにっこりと笑う。
いや、これはわざとだな。

「ひ、ひっ」
「悪いんだけど、俺と原田のことは内緒にしておいてもらっていいかな」
「は、はい!はい!喜んで!」

だから居酒屋か。

「ではみなさん帰りましょうか。もう遅いです。冷えてきました」

車を敷地の外に置いてあるといって、志藤さんが俺たちを促す。
車で来てるんだよな。

「………あいつも来てたりすんの?」

恐る恐る聞くと、志藤さんは苦笑して首を横に振った。

「いいえ、あの人はこういうお屋敷はお嫌いですから」
「………ふん、チキンなやつ」

本当にあいつは、なまけものだ。
力は弱いくせに、エラそうで、いつでもふんぞり返っている。
そのくせ出不精で、まったく働かない。
まあ、今いなくてよかった。
怪我なんてしたから、喜んでからかってきただろうし。
本当にいなくてよかった。

「ただ、夕食が遅れたことにご不満のようでした」
「………あいつはそれしかないのか」

さっき水垣もそんなこと言ってたっけ。
少しは心配しろよ、あの冷血漢。
働かないくせにメシだけは食いやがる。

「あの人は、朝日さんのお作りになる食事がお好きですから」

志藤さんが俺の言葉に苦笑して、フォローのようなものをいれる。
食事の用意、か。
今日はもう面倒で何もしたくないんだが。

「………レトルトで許されるかな」
「私からはなんとも」
「………」

この空気だと、許されないだろうか。
これから夕食を作らなければいけないとなると、面倒くささにくらくらする。

「お前が悪い」
「………」

水垣が俺の頭を軽くはたく。

「………ほんと、最悪だ」

疲れるわ怒られるわたぶん馬鹿にされるわ。
今日は何かの厄日だろうか。
もう絶対あんな奴らについていったりしない。

「あの」

びくびくと怯えた様子でかけられた声に、隣を見下ろす。
すると玉野が、引きつったままなんとか笑顔で俺を見上げる。

「本当に、ありがとう」

そして震える声でそう言った。

「ほんと、面倒だった」
「ご、ごめんなさい!」

ま、しょうがねーか。
俺がいかなかったら、こいつどうなったか分からないし。
俺がいてよかったのだろう。
だったらまあ、いいか。

「まあ、じゃあ、帰るか」
「ええ、四天さんもお待ちですよ」
「俺のメシを待ってんだろ」
「朝日さんと朝日さんの作る食事を待っています」

帰宅したいという気持ちが一気に薄れる。
志藤さんの唯一の欠点は、あいつにベタベタに甘いってところだ。
でもまあ、俺が帰る場所は結局あそこしかないのだ。

「………帰るか」

屋敷をちらりと振り向くと、何かが窓で蠢いた気がした。
でもまあ、俺にはもう関係ない。
腹も減った。

さっさと帰ろう。
楽しい、我が家へ。





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