部屋の中は、急にしんと静まり返る。
嫌な臭いも薄れ、気配も消え失せる。

「消えた、か?」
「多分」

水垣を振り向き問うと、ひとつ小さく頷く。
多分ってなんだ、多分って。

「終わりか?」
「とりあえずは」

とりあえずってどういう意味だと問う前に、水垣は支えていた高橋に優しく問う。

「高橋さん、平気?」

放心してぼやっと水垣の手に背中を預けていた高橋が、急に起き上がる。

「う、うん」

慌てて水垣の手から背中を離し、何度もこくこくと頷く。
そして、一瞬目を伏せ、胸に手を当て、確かめるようにして言った。

「………うん、平気。もう、大丈夫。ありがとう、水垣君。ありがとう」
「うん」

そうか、平気なのか。
なんでもないのか。
それならそれでいい。

「よし、だったら片付け手伝え」
「は?」
「お前のせいで汚れてんだよ。手伝え」
「え、え」

蛍光灯が壊れたせいで夕メシも、その周りも台無しだ。
掃除をしなければならないと思うとうんざりする。
そんでもって、とりあえず腹が減った。

「大丈夫なら働け。水垣も働け」

そう言うと、水垣はため息をついて高橋の肩を一度叩くと、そっと立ち上がる。

「でも確かにこのままだと危ないね。俺は蛍光灯の代わりと救急箱持ってくる。原田、片付け頼む。怪我が痛いなら後でいい」
「分かった」

水垣がそう言って、高橋から離れ、廊下に向かう。
高橋は、困惑したようにキョロキョロと周りを見まわす。

「高橋、玉野、お前ら怪我は?」
「な、ないです」
「………」

玉野がぶんぶんと首を振って否定する。
高橋は困惑したように俺を見上げるだけだ。
ざっと見るが、怪我はないな。

「じゃあお前ら、とりあえずそこの食事、キッチン持ってけ。ガラス気をつけろよ。怪我すんなよ。面倒だから」

これ以上血が周りに散るとか勘弁してほしい。
ガラスを踏まれても治療が面倒だ。
玉野が俺の言葉に慌てて動きかけて、ふと立ち止まる。
そして少し恨めしげにこちらを見る。

「………最後に面倒だからってつけなければ、優しく感じるのに」
「十分優しいだろうが。ほら、キリキリ働け」
「はい!」

そして玉野が動き、高橋もノロノロと動きテーブルの上の皿を片付け始める。
俺も掃除のために椅子をどかそうとすると、腕にツキンと痛みが走る。

「っ」

ああ、もう、高橋のせいだ。
くっそ、腕がいてえ。

「くそ」

毒づいて、それでもなんとか椅子を端に寄せる。
もう近頃、怪我しまくりだな。
回復が早いからまだいいけど。

「っと、次は掃除機か」

部屋の隅の収納場所から掃除機と雑巾を引っ張り出してくる。
共有スペースの掃除は基本水垣の仕事だから、あまり馴染はない。
その掃除機と雑巾を高橋と玉野に渡す。

「ほら、そこのガラス片付けろ。玉野、お前は雑巾。洗面所で濡らしてきてガラスの小さいの拭け」
「は、はい!」」
「………分かったわよ」
「よし」

玉野がいい返事をして、高橋がしぶしぶ頷く。
そうしているうちに、奥の物置から取り出した蛍光灯と救急箱を持って水垣が帰ってくる。

「原田ちょっとそこで待ってろ。今蛍光灯代える」
「おう」

腕がまだずきずきと痛むので、大人しく待っていることにする。
高橋と玉野は大人しく、せっせと掃除をしている。
水垣はテーブルに乗ると、蛍光灯を手早く代える。

「ま、眩しい」

蛍光灯をつけ辺りを照らすと、部屋の中は一気に明るくなった。
石の下に蠢く虫のような玉野が、目を隠してかさかさと隠れる。

「二人とも、ごめんね。ガラス片付けておいてくれるかな。原田の怪我の手当てするから」
「は、はい!」
「うん」
「原田、キッチン来い」
「へいへい」

水垣はそう言うと身軽にテーブルから降りて、俺の元へとやってくる。
キッチンに一緒に向かうとむき出しになって血が滲んでいる腕を見て顔を顰める。

「また腕か。腕以外に怪我あるか?」
「腕だけ」
「前の怪我は?」
「あー、もう治ったぽい。風呂入っても痛くないし」
「………動物」
「ああ!?」

言いながらも水垣が俺の怪我の様子をてきぱきと確認していく。

「ちょっと傷開くぞ。我慢しろ」
「いって!!許可とってからやれ!」

水垣が言い放ってからにすぐに、俺の腕の怪我を開き、中を検分する。
痛い。
めっちゃ痛い。
涙が浮かんでくるぞ。
怪我した瞬間とかその後は痛くないが、その怪我見た時とか、手当してる時とかのほうが痛い。

「ガラスは、入ってないぽいな」
「いてえってば」
「ちょっと待て。水で流すぞ」
「え、ちょ、いてえ!」

腕をぐいっとひっぱられて、流しっぱなしにした水に傷口をあてられる。
傷が水にあたる痛さと、腕を引っ張られる痛さ、どっちも痛い。

「いてえ!いてえって!」
「ちょっと我慢しろ」

暴れようがなじろうが、水垣は淡々と俺の傷を水で流す。
鬼か、こいつ。
そしてしばらくしてもう一度傷をじっと見つめる。

「よし」
「よしじゃねーよ!」

やっぱり俺の抗議は一切聞かない。
救急箱から取り出した何かの薬を塗りながら、ガーゼと包帯を巻きつける。

「痛みが続くようなら病院に行くから言えよ」
「………はいはい」

もうなんでもいい。
痛くなければなんでもいい。
痛いというなら、こいつの手当てが痛かった。

「じゃあ、片付けるぞ」
「へーい。お前ら掃除終わったか」

拷問のような手当を終えて、ダイニングの方に意識を向ける。
掃除機と雑巾で、あらかた掃除は終えているようだった。
高橋が俺の言葉に顔を思いっきり顰める。
まあ、そんな赤くて黒い面白い顔してたら何も怖くないんだけどな。

「偉そうに」
「偉いんだよ。ここは誰の家だと思ってる」
「四天と縁の家だろ」

隣から小さく突っ込みが入る。
そんなの知るか。

「俺も住んでるから、えっと、キョジューケンってのがあるんだよ。少なくとも高橋よりは偉い!」
「はいはい」

水垣が諦めたようにため息をつく。
それから、ちらりとキッチンに並べてあった、メシの残骸に視線を向ける。

「メシ、もう駄目そうだな」

そうだ。
まだ食べかけだったのだ。
まだ、腹は満たされてなかったのだ。

「あー………、俺のアヒージョ、俺のクスクス、俺のディップ」

まだ、お前たちを味わい尽くす前だったのに。
まだ、お前たちと語らいあう時間はあったのに。
ガラスにまみれて、今は見るも無残な姿だ。
こんな姿にさせたかった訳じゃない。
俺はこいつらを、最後まで味わってやるはずだったのに。
ああ、この前の弁当といい、なんて悲しいんだ。

「………ガラス取り除いたら食えないかな」
「やめろ」

メシをじっと見つめながらつい言ってしまうと、即座に制止された。

「だって」
「食事だって、最高の状態で食べられたいだろ」
「………うん」
「こいつらには謝って、次においしいご飯を作ってやれ」
「うん」

そうだよな。
そうだな。
水垣の言うとおりだ。
ただ俺はこいつらに謝りながら、次を誓えばいい。
次はこんな姿にはしないと。
水垣はたまにいいことを言う。
よし。

「じゃあ、なんか作る。腹減った」
「怪我は大丈夫か?」
「腕だから平気」

一番大事な手は無事だ。
まあ、腕も使うが、メシのためならどうってこともない。
なんかしら作れるだろう。

「高橋、お前メシ食ってる?」
「え、な、はあ?え、ううん?」

一応問うと、高橋はなんだかよく分からない答えを返す。
どっちだよ。

「食ってきたのか?食うか?」
「え?」
「食わないのか」
「え、た、食べる?」
「分かった。じゃあ、水垣、ダイニング整えとけ」
「はいはい」

まあ、一人も二人も変わらない。
冷凍庫からこの前の角煮と冷凍ご飯を取り出し、レンジにかける。
後は卵と、葱か。
フライパンを火にかけ、葱を切り、卵をかき混ぜる。
そうしているうちに十分温まったフライパンにごま油を敷く。
ああ、なんていい匂いなんだ。
ごま油の匂いだけ、ご飯何杯もいけるよな。
匂いって、最高のご馳走だ。
いつか鉄製の中華鍋を買うんだ。

「原田君は、なんだかんだで、優しいですよね」

水垣の代わりのひょこひょことキッチンに入ってきた玉野が鍋の中を覗き込む。
なんだか嬉しそうに、鍋と俺を見比べている。

「ああ?」
「怖くて乱暴で口悪くて厳しいけど、おいしいもの食べさせてくれます」
「それは、優しいの定義なのか」
「………あれ、なんか違う?」

まあ、俺としてもメシを食わせてくれる奴はいい奴だ。
優しいやつだ。
ってことは合ってるだろう。

「ま、いいけど」

なんでもいい。
それに確かに俺はいい奴だ。

「ところで呼んでないんだけど。なんでこっち来てんだよ」

別に手伝えることはない。
こいつがここにいても、邪魔なだけだ。
しかし玉野は離れる気はない。

「………あっち、眩しんです」

本当にこいつは、自分を変える気配は一切ないな。
うざいけど、まあいいか。
仕方なく玉野を放置したまま解凍し終えたご飯やら角煮を入れてチャーハンを作り始める。
香り立つごま油と葱と角煮の匂い。
ああ、この匂いだけで満たされてしまいそうだ。
玉野は、横からじっと鍋を見ている。

「………おいしそうです」
「お前腹いっぱいって言ってなかったか」
「え!?」
「いらないだろ」
「ひ、ひどい!そんな!こんなチャーハンを前にして!」

玉野が俺の腕にしがみついてくる。
涙目になっていて必死だ。
女ってそんなメシ食わないイキモノなんじゃなかったっけ。
よく知らないけど。

「た、食べさせてください!食べたい!チャーハンは別腹です!」
「なんだそれは」

まあ、気持ちは分かる。
俺も別腹だ。
甘いものも辛いものも炭水化物もタンパク質も別腹だ。
いくらでも入る気がする。
仕方ない。
玉野の分も作るか。

「ほら」

それからさっさと調理を終えて、玉野に手伝わせてダイニングに向かう。
豚の角煮を使ったチャーハンを4皿。
そして、鶏ガラスープの元と味付け海苔と醤油と葱などの簡単な中華スープ。

「………あんたが作ったの?」
「そうだ」
「………食べれるの、これ」
「食いたくなきゃ食わなくていい」

高橋が俺のメシを見て、目を丸くしている。
スプーンを握りながらおどおどとし、ためらっている。
そんな高橋に、さっさと自分たちは食い始めた水垣と玉野がフォローを入れる。

「大丈夫だよ、高橋さん、食べられるよ」
「平気です!高橋さん!原田君は料理の腕だけは確かです!」

ていうか、これはフォローなのか。
まあ、ただのチャーハンだけどな。
材料残り物だし。
二人の食べる様子を観察するように見て、高橋が恐る恐るスプーンで掬ってチャーハンを口に運ぶ。
そして一口、口の中に入れて、驚きの表情を浮かべる。

「………おいしい」
「よし」

このおいしいと言わせたときの満足感は何者にも代えがたい。
相手を屈服させた気分だ。

「おいしい」
「おう」
「おいしい………」

高橋はもう一度つぶやくと、いきなりまたボロボロ泣き始めた。
なんだ、メシの時間に。
わさびとか辛子はいれてないぞ。

「………ごめん、なさい」
「ああ?」

それから、消え入りそうな声でそう言った。
スプーンを握ったまま、まるでチャーハンが喉に詰まったような苦しそうな顔をしている。
人のメシを食ってる時に、そんな失礼な顔をするんじゃない。

「あんなとこ連れてって、閉じ込めて、ひどいこと言って、ごめんなさい」
「はあ?」
「ごめんなさい、原田、玉野。ごめんなさい」

しゃくりあげて、俺たちに頭を下げる。
なんて今更だ。
ていうかなんで今。

「い、いいんですよ!気にしてないですよ!」

玉野は驚いたように手をパタパタと振る。

「謝られれても許す気ないけど、まあ反省できたことはよかったな」

俺は許す気はない。

「は、原田くん!」
「なんだよ、謝ってすむもんでもねーだろ。こいつ散々ひどいこと言ってるし」
「いや、でもほらここは、気にしてないよとか男前に言うところじゃないですか!?」
「そういうのは水垣の役目だ」
「モテたいんじゃないんですか!?」
「努力せずにモテたいけど、気を使う気はない」
「さ、最低です!」

そんなの知ってる。
まあ、今はいい。
今大事なのは目の前の高橋だ。

「許されたいなら詫びをしろ」
「え」
「そうだな」

謝られただけで許されるなんて、随分甘い考えた。
世の中のほとんどは謝ってもすでにどうにもならないことばっかりだ。
と、何かの本で読んだ。
つまり、謝る以外の+αが大事ってことだ。
それが今後の人生に影響を及ぼすってもんだ。

「駅前に出来た、新しいパスタ屋のおごりでいい」
「え」

まあでもこいつも大変だったみたいだし、これくらいで許してやろう。
俺はなんて優しいんだろう。
しかし水垣はなんか横からつっこみを入れてくる。

「お前、いい加減にしろ」
「じゃあ、フォアグラでいいよ。ネット通販で3000円ぐらいのあったから。それで」
「おい」

食べたことないから、フォアグラ焼いて食べてみたかったんだよな。
つーかあれ、レバーだよな。
おいしいんだろうか。
少なくとも水垣と四天サンは苦手そうだ。
てことはあんま大量にあっても困るか。

「反省する気持ちがあんならそれくらいできんだろ」

謝ることなら誰でも出来る。
何かの漫画で読んだ、鉄板の上で土下座させるとか求めないんだから良心的だ。
パスタ屋だったら3000円かからないしな。

「お、おごるよ。でもあんたと一緒に行くなんて嫌だからね」
「こっちだって嫌だよ。金だけ払え。後でレシート渡す」

別にこいつと一緒に食べに行きたいってことは一切ない。
むしろ付いてこないなら面倒じゃないだけでいい。

「た、たかりです」
「カツアゲだな」
「うるせえ。正当な労働の報酬だ」

玉野と水垣が何かぼそぼそと言っているが、聞こえない。
俺は働いた報酬と、台無しにされたメシのバイショーを求めてるだけだ。
むしろ良心的なはずだ。

「それで手打ちにしてやる感謝しろ」
「………さすが原田君です」
「うん」

なんか言ってるが、知らん。
とりあえず話しながらチャーハンを食い終わったので、最後の締めに入ることにする。

「デザートは何がいい?」

玉野がその言葉にキラキラと目を輝かせる。
本当にこいつはこういう所に食いつきやがって。

「何があるんですか!」
「お前本当、こういう時だけ反応いいよな。さくらんぼ。それとプリン作ってみた。でもデザート作ったの初めてだからうまいか分からん」
「食べてみたいです!」
「どっちだ」
「プリン!」
「よし」

ナイス実験台。
こいつはやっぱり、これからも大事にしよう。
失敗しても何を入れても食ってくれそうだ。
冷蔵庫で冷やしてあったプリンを取り出し、ダイニングまで運ぶ。
四天サンと志藤さんのがなくなったけど、まあいいか。

「ほら」
「プリンです!」
「ああ、プリンだ」

玉野がニコニコと笑いながらプリンを口にする。
水垣と高橋も恐る恐るといった感じでプリンを口にする。

「おいしい」
「おいしいです!」
「普通のプリンだな」
「最初だから普通でいいんだよ」

まあ、確かに特別おいしいって訳でも特別まずいって訳でもないプリンだ。
やや硬めの歯触りで、カスタードというより牛乳の味が勝っているような。
でもまあ、まずくないだけ、上出来だろう。
今度はデザート作りも検討してもいい気もする。

「………あんた、結構、いい奴なんだね」

皆でプリンをつついていると、ぼそりと高橋がそんなことを言う。
あんたって誰だ。
視線がこっち向いてるな。
俺か。

「は?」

思わず、何を言われたのか分からず首を傾げる。

「励ましてくれたし、こんな風に優しくしてくれるし、ムカつくけど、いいこと言うだけが、いい奴じゃ、ないもんね。あんた私を思って、ああいうこと、言ってくれたんだよね」

そんな事実は一切ない。
なに言ってんだ、こいつ。
いや、まあ、そう思うならそれでいいけど。
しかし、隣と前から即座につっこみが入る。

「いや、高橋さん、買いかぶりすぎ。こいつは生きたいように生きてるだけだから」
「騙されたらいけません、高橋さん。原田君は結果的に割といい人ですが、過程は別にいい人じゃありません!」
「おい」

後でこいつら絶対しめる。
特に玉野。

「あの、でも、勿論、水垣君に一番感謝してるけど」

ワイワイと騒ぐ水垣と玉野を放って、高橋が、ぼそぼそと、その先を告げる。
顔は相変わらずぐちゃぐちゃだが、随分すっきりしたように見える。
少しだけ顔を赤らめてはにかんで、笑う。
そう言う顔してたら割とかわいいのに。

「………原田、あんたも、ありがと」
「おう、感謝しろ」

何がなんだか分からないが、感謝されたらしい。
まあ、いいか。
働いたのは確かだからな。
感謝して当然だ。

「だ、騙されてます」
「そのうち気づくよ。大丈夫」

そして水垣と玉野。
お前らはうるさい。



***




いきなり、夢の世界から呼び起される。
なんかふわふわとした、楽しい夢を見ていたはずなのに。
後ろに感じる、誰かの気配。
腰を抱く腕の重さ。
馴染んでしまった爽やかなような甘いような匂い。

「………おい、寝る前に来いって言わなかったっけ」
「一人で寝ようとしたけど、寝れなかった」
「………そうですか」

まったく悪びれない様子につっこむ気力もなくす。
また起こされた。
これで、えーと、貸しはいくつめだ。
まあ、いい。
とりあえず眠い。

「なあ、原田」
「ん?」

もう一度目を瞑ろうとしたところで、後ろから話しかけられる。
真夜中にベッドにもぐりこんできた上に話しかけてくるとか、どんだけ俺の安眠を妨害したいんだ。

「お前は俺が死んでも悲しくないのか」
「んー?」
「誰が死んでも、何も思わないのか」

そしてまたクソ面倒くさいことを聞いてくる。
眠いのに。
半分寝ながら、とりあえず答える。

「んー、多分。悲しくない気がする」
「四天も縁も、玉野さんも?」
「多分」

言われたうちの誰が死んだと聞かされても、何も思わない気がする。
まあ、四天サンと志藤さんがいなくなったら不便かなとは思う。
施設には絶対戻りたくないし。

「………っ」

水垣が俺の体をぎゅうっと締め上げる。
寝ようとしていたのに、苦しさに目が覚めてきてしまう。
こいつ、力が強いんだからやめろよ。

「おい、苦しい」
「俺は、四天も縁もいなくなったら嫌だ」
「おう。だからなんだ」
「それに、お前が、いなくなってほしくない。お前がいなくなるなんて、もういやだ」
「………」

なんだこいつ。
何言ってんだ。
普段俺をすっげ俺を嫌ってるくせに。
ああ、これがツンデレって奴なのか。
いや、ねーな。
意味分からん。

「誰も、消えないでほしい」

周りの奴らが誰もいなくなってほしくないってことなんだろうか。
そんなこと今言われても困る。
俺だって、俺が死ぬのは嫌だ。
しかし、今何か言っても睡眠が遠ざかるだけだ。
とりあえず俺は、ただ寝たい。

「あー、うん。多分、俺が変なんだと思う。だから、お前が言うこと、理解できるようになったら言う」
「………うん。頼むから、何も思わないとか、言うな」

んなこと言われてもなあ。
ああ、もう、眼が冴えてきちまった。
どうしてくれるんだ。
眠かったのに。
ああ、そうだ、ちょうどよかった。

「なあ、貸し、いくつめかだよな」
「ん?」

水垣の腕の中で体制を変えて、水垣に向かい合う。
綺麗に整った顔に、綺麗な薄茶の髪と、薄茶の目。
暗闇の中で薄茶の瞳は月のようで、とても綺麗に光って見えた。

「貸し、返せよ」
「何を?」

ああ、水垣の匂いがする。
ぞくりと背筋に走る、欲望。

「唾液、舐めさせて」
「はあ!?」

血はあれだけ、おいしかった。
四天サンの言うとおりだったら、きっと唾液もおいしいに違いない。
水垣の匂いに、欲望が押さえきれない。
舐めたい、舐めたい舐めたい。

「待て、ちょっと待て、待て!」

水垣が、俺から離れようとしてずりずりとベッドを移動する。
それを許さず、その腕を掴む。
まあ、いざとなったら水垣の方が腕力あるけど。

「ちょっとでいいから」
「おい!」
「舐めるだけ舐めるだけ」

でも全力で抵抗されないから、引き寄せて顔を近づける。
ああ、おいしそうだ。
自然、喉が鳴る。

「待て待て待て待て、お前、誰かとキスしたことあるのか?」
「え?」

キス、したことあるんだろうか。
この2年間はもちろんない。
それ以前の記憶も一緒に探ってみるが、やっぱりそこにもない。

「んーと、ないな」
「じゃあ、初めては大事にとっとけ!」
「いや、これ、キスじゃないし。ただの味見」
「何言ってんだ!」
「な、少しだけ。一緒に寝てもいいから。ちょっとだけ」
「お前っ、ん」

抵抗する水垣の口をふさぐように、自分の口を重ねる。
意外と柔らかいんだなと思った。

「ん、はらっ」

口を離そうとするのでその頭を掴み押さえつけ、唾液を舐めようと舌を差し出す。
ぎゅっと唇を引き結んでいるので、頬を掴んで広げる。
するとわずかに、唇が開かれた。
その隙を逃さず、舌を水垣の口の中に入れる。

「ん!」
「んんっ」

舌先に感じる唾液。
縮こまる水垣の舌。
それを引っ張り出して、自分の舌に絡める。
ぬめりとして弾力のある、ゴムのような感触。

「ん………」

何より、甘い甘い、水垣の味。
血よりも濃厚ではなくあっさりとしている。
でも、甘く、香しく、今まで味わったことのない味。
花の蜜よりも甘く、いい匂いがする。
おいしい、おいしいおいしい。

「ん、ん、ん」

夢中で舐めてしまう。
だって、おいしい。
おいしいおいしいおいしい。

「おい、し」

息継ぎのために唇を放した瞬間に、いきなり体勢が替わる。
気が付けば、水垣が俺の上にいる。
俺の肩を押さえ、ベッドに押し付け、俺の腹に乗り上げている。
いつのまに体勢を変えられたんだろう。

「はら、だっ!」
「………なあ、みずがき、もっとちょうだい。舐めたい」

でも、どうでもいい。
そんなの、どうでもいい。
もっと、水垣の味を、感じたい。

「…………っ」
「ん!」

苦しそうに顔を歪めた水垣が俺の唇に、自分に唇を重ねてくる。
今度は水垣の舌が、俺の口の中に入ってくる。
厚ぼったい、大きな口と舌。

「ん…………んっ」

俺の舌を引っ張り出す様に吸い、絡め、ついばむ。
くちゃくちゃという音が耳に響く。
なんだ、これ。
おいしい。
でも、おいしい以外もある。
全身が痺れている。
水垣が触れるたびに、ざわりと寒気が走る。
なんだ、これ。
なに。

おいしいおいしい。
ぞくぞくする。
へん。
へんだ。

「これ、な、に」

水垣が一度顔を離したので、息を吐くとともに、なんとか聞く。
ああ、体に力が入らない。
頭がぼうっとしている。

「お前、そんな顔できんだな」
「え」
「超エロい顔」
「わかん、ない」

俺に分かるのは、ただのこの目の前の男が俺にいいことをしてくれるというだけだ。

「なあ、もっと」
「………っ」

腕を伸ばして引き寄せると、水垣は顔を酷く歪める。
だが、引き寄せられるままに俺に唾液を与えてくれる。

「ん、ん、あ」

舌が絡み合うのが、ぞくぞくとする。
唾液が甘い。
おいしい。
口の中を無茶苦茶に、探られるのが、びりびりとする。
ふわふわとするくせに、体中が鋭敏になる。
頭がくらくらとしてきて、背筋に寒気が走る。
ああ、そうか。
分かった、この感触。

「きもち、いい。おいしい」

そうだ、気持ちがいい、だ。
気持ちがいい。
おいしい。
気持ちがいい。

「………くっそ」
「ねえ、水垣、もっと」

水垣が眉を寄せて、怒ったような顔をする。
けれど、もう一度ねだると、唾液をくれる。

ああ、なんて気持ちが、いい。
なんて、おいしい。





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