風呂に入って自室に戻り、ベッドに横たわりさっそく圧力鍋の説明書を読む。
ああ、わくわくが押さえきれない。
使い方はそう難しくもなさそうだ。
さっそく明日、作ってみようか。
何を作ろうか。
カレーか、軟骨か、角煮か、肉じゃがなんかもいいらしい。
こいつは俺を悩ませる。

そういえば時間がかかるために今まで二の足を踏んでいた、鶏のコンフィも短時間で出来るのかもしれない。
それもいいかもしれない。
明日は一日寝かしておいて、明後日に調理、とか。
いや、でも最初は簡単なものから始めた方がいいだろう。
鍋の性格、癖、全てを知ってから、難しいものには手を出そう。
あの鍋のすべてを知り、付き合い方を学ばなければならない。
ずっと、末永くキッチンを共にする仲間なのだから。
となると、やはり最初に作るのはカレーか。
いや、でも、角煮も捨てがたい。

ああ、悩ましい。
あの鍋は俺を惑わせてならない。
くっそ、なんて罪なやつなんだ。
でもそんなところも愛おしい。

コンコン。

真剣に悩んでいる最中に、ドアがノックされた。
時計をちらりと見ると、もう11時だ。
そろそろ寝た方がいいかもしれない。

「はい?」

とりあえず返事をするとドアがカチャリとゆっくりと開けられる。
そこに現れたのは、寝間着代わりのジャージ姿の水垣だった。

「水垣?何?」
「………」

水垣は返事をせずに、すたすたと部屋の中に入っててきてこちらに来る。
よく見ればその手には枕を持っている。

「おい、水垣?」

俺のつっこみは聞かずに、そのまま黙って俺のベッドの横に寝っころがる。
いきなり領地を侵害された。

「………何してんの、お前」
「ここで寝る」
「は?つーか、部屋の主の許可とれよ」
「ここで寝かせてくれ」

いや、本当に狭いんだが。
しかし水垣は気にせず枕に頭を預け、目を瞑る。

「今日は四天サンいるじゃねーか」
「………」

不満そうに黙っている様子は、なんだか子供のようだ。
いつもは、いの一番に四天サンのところに行くくせに、意地を張っているように見える。

「何拗ねてんの」
「………」

思わず言ってしまった言葉に、水垣が目を開けて俺を睨みつけてくる。

「え、マジで拗ねてるの」
「だって、四天が、縁と、同じ女と………」

唇を尖らせてぼそぼそとつぶやく子供のような姿に、何の話だと思い返して、さっきの会話のことを思い出す。
四天サンと志藤さんを手玉にとった魔性のビッチの話か。
さっき確かに不機嫌そうにしていたが、もしかしてまだ引きずっていたのか。

「は?なに、あの二人が魔性のビッチに惑わされたこと気にしてんの?」
「………」

水垣は俺を強く睨みつけてくる。
マジかよ。
ガキか。

「なんだそれ。子供かよ、お前。そりゃ、あの二人だっていい年の男なんだからそれくらいあるだろ」

まあ、四天サンは俺と3つほどしか違わないので、いい年ともいえない。
まして俺にはそんな経験はないのだが。
しかし、あの二人はモテるだろうし、女の一人や二人、寝ることぐらいあるだろう。
でも、水垣はまだ不満そうだ。

「………四天はずっと前から、彼女がいる」
「え、マジで」
「ああ」

そんなの、聞いたことなかった。
まあ、興味もなかったからそもそも聞く気もなかった。
今はちょっと興味がある。

「何度か会ったことがある。………体が弱くて、外には中々出られない。でも、仲が良くて、あの人も四天を大事にしていて、四天もあの人をすごく大事にしていた」
「へえ。美人?」
「すごく綺麗で優しい人だ」

マジか。
それムカつくな。

「あ、もしかして、その人が、魔性のビッチ?」
「違う。縁とも一緒に会いに行ったことがある。でも、そんな気配全然なかった」
「うーん?」

だったら、その彼女と、魔性のビッチはまた別の人間なのか。
彼女がいるくせに、ビッチにひっかかったのか。
世の中乱れてるな。
つーかそんな簡単にヤらせてくれる女がいるなら、俺も一発ヤらせてくれないだろうか。

「彼女が、いるのに」

別のことに想いを馳せていると、水垣がでかい体を丸めようにしてぼそっと言う。
まだ言ってんのか、こいつ。

「で、お前は何を気にしてんの?」

水垣は俺の胸に顔を埋めるようにして、俯く。
こいつ体温高いから、あっついな。

「………四天は、彼女を、大事にしていた。だから、他の女に、惑わされるなんて、有り得ない」
「はあ?」

なんだ、何を怒ってるんだ。
よく分からない。
他の女に惑わされるのが許せないって、いうことは、えっと。

「えーと、四天サンの浮気に怒ってんの?」
「………」

四天サンの浮気に怒るって、なんでだ。
考えて、一つだけ納得する答えを思いつく。

「あ、何、お前その彼女が好きなの?」
「違う」

なんだよ、違うのか。
彼女が好きだから、彼女を傷つける四天サンが許せないとかじゃないのか。
つーかまあ、そういやそもそもこいつは四天サンとラブラブだしな。
よう分からん。

「じゃあ、なんで。なんでそんな拗ねてんだよ」
「………大切な人がいるなら、その人だけ、大切にしないと、駄目だろう」
「へ?」

一瞬何を言われたか理解できず、呆けた声を出してしまった。
こいつはいったい何を言ってるんだ。
一人の恋人を愛する。
いや、まあ、それが理想ではあるな。
だが、それが出来ないときもあるだろう。

「男なら下半身優先の時だってあんだろ?」

俺はモテた経験も恋人がいた経験もないから分からないが、いたとしても綺麗なナイスバディのお姉さんに攻め寄られたらくらっとするだろう。
それがたとえ友達の彼女だったりしても、一発ぐらいヤッちまうかもしれない。
まあ、最低だってことは分かってるから実際どうなるかは分からないが。
そもそも彼女も友達も、俺はいない。
しかし水垣はやっぱり不満そうだ。

「………」、
「意外と潔癖なんだな、お前」

めっちゃ遊んでいろんな女とヤリまくってそうなのに、なんでこんな頑ななんだ。
大好きな四天サンも許せないのか。

「んー、お前、童貞?」
「………違う」
「なんだよ、違うのかよ。ムカつくな」

俺は童貞なのに。
つーか童貞じゃないのにそんな文句言ってんのかよ。
なんなんだ、こいつ。
あ、いや、恋人一筋だったのに、恋人に浮気されて、浮気ダメ絶対になったとかか。
そうか、そうに違いない。

「何、昔、恋人に浮気でもされたの?」
「違う。恋人なんていたことない」
「おい」

恋人なんていないのに童貞じゃないってどういうことだ。
こいつも、不特定の奴とヤったってことじゃないのか。

「恋人じゃない奴とヤったことあるってことか?」
「………」

水垣は答えない。
つまりそれが答えだろう。

「お前四天サンのこと、色々言う筋合いねーじゃねーか」
「………」
「はー」

子供が両親はエッチしたことがないと思ってるとかいうアレか。
そういう生々しいことに嫌悪感を覚えるお年頃なのか。
自分はヤリまくってくるくせに、どんな我儘だ。

「お前、四天サンにどんだけ夢見てんだ」
「違う」
「なにがだよ」
「ただ、俺は………」

水垣が、俺の腰を引き寄せ、俺の胸に顔を埋める。
息が胸にかかって生あったかい。
俺は抱き枕か。

「想いのない、セックスなんて、いらない」
「なんだそりゃ」
「………」

分からん。
さっぱり分からん。

「あ、恋人がいる女に弄ばれてフラれたとかか。自分が浮気相手だったとか」
「………」

水垣は俺の胸に顔を埋めて、これ以上話す気はないようだ。
ビンゴだったのだろうか。
とりあえず、なんて無駄な時間だ。
こんな無駄な時間を過ごすなら、もう寝よう。

「あー、はいはい。もー、分かったよ。とりあえず寝ちまえ。夜は考えが暗くなるらしいぞ。俺はよく分からないが」

夜は明日の朝メシを考えるのも、明日の夕メシを考えるのも、レシピを読みふけ妄想するのも楽しい時間だ。
そんなことしているうちに、すぐに寝てしまう。

「………」
「お前電気消せ。俺が動けねーじゃねーか」
「分かった」

水垣が一旦体を起こし、枕元の電気に手を伸ばし、電気のスイッチを切る。
部屋が、真っ暗になる。
しかしやっぱり、水垣が出ていく様子はない。
その上また俺の腰を抱いて、セミのようにひっつく。
本当にここで寝るのか。
まあ、いいけどな。
ただちょっと、動きづらい。

「おい、動けない。暑苦しい。ちょっと放せ」
「………」

だが水垣は俺の腰を抱いたまま、動かない。
面倒くせえな。

「はあ」

仕方なく夏掛けの布団を引き寄せ、カブトムシのように俺にくっついている水垣にも被せる。
まあ、もう、眠いし、追い出すの面倒くさい。

「じゃあ、おやすみ。お前これ、貸しだからな」
「………うん」

気持ち悪いほどに素直に頷く気配がする。
こいつは夜になると、ガキみたいだ。

弟とでも思えばいいか。
そんな可愛いものでもないな。



***




朝起きると、隣ででかい男がすやすやと眠っている。
もう貸しも3つめか。
本当に何で返させよう。
幸い腕は離れていたから、水垣を乗り越えベッドから降りる。

「おはよう」

家族の写真に恒例の挨拶。
確かに親しみを感じるし、好きなんだけど、実感が沸かない。
この人たちを愛したことは、思い出したくはあるな。
人を大事にしたり、好きになる感情って、よく分からない。

「ま、そのうちそのうち」

深く考えても仕方ないので、さっさと階下に降りる。
するとリビングではすでに着替えていた志藤さんが、新聞を読んでいた。

「あれ、志藤さん、早いね」
「ええ、今日は仕事で少し早めにアポイントメントがあるので」

そうか、それは大変だ。
こんな胡散臭い仕事で、俺たちを養うのも楽ではないだろう。
まあなんか、カブだとかなんだとか、他のことも四天サンとやってるらしいが。

「15分でメシ用意できるけど、食ってく時間ある?」

働いてくれてる人には、しっかり食わせたい。
志藤さんは嬉しそうににっこりと笑う。

「よろしければいただきたいですね」
「おっけー。待ってて。パンとご飯どっちがいい?」
「では、ご飯がいいです」
「よしきた」

昨日のうちに米は研いで炊飯器にはタイマーがかけてあるので、ご飯は炊きあがっている。
時間はそんなないし、何作ろっかな。
あいつらの分を別で作るのも面倒だし、一緒に作れるのがいいな。
そういえばこの前作っておいたそぼろのストックがまだあった。
四人分ぐらいあるだろう。
よし。

冷蔵庫からストックのそぼろを出し、洗ったほうれん草をラップで包んだものと一緒にレンジ。
その間にさっさと煎り卵を作る。
茹で上がったほうれん草を調味料と和えて、そぼろと卵と一緒にどんぶりご飯の上に乗っける。
そして、最後に刻んだ紅ショウガを乗せ、二人分の三食そぼろ丼が完成。
味噌汁と一緒に、ダイニングまで持っていく。

「はい、どうぞ。味噌汁はインスタントだけど」
「十分です。おいしそうですね。ありがとうございます」

手を合わせていだだきますと律儀に言うので、俺も手を合わせてから、そぼろ丼をかっこむ。
うん、やっぱり生姜を多めに入れた方が俺は好みだな。
卵は俺と志藤さんは甘さ控えめで塩味効いてる方が好きなんだが、水垣と四天サンは甘い方が好き。
とりあえずあの二人はいないから、甘さ控えめにした。
後で作る分は砂糖をもっといれよう。

「ああ、おいしいですね」
「うん」

志藤さんは、早く食べながらも、見苦しくなくとても綺麗に箸を使う。
そういやこの人も、水垣も四天サンも箸使いとかうまいよな。
これがお育ちの違いってやつか。

「朝日さんは本当に手際がよくなりましたね」
「最初に教えてくれた人がよかったんだろ」
「ふふ、そう言っていただけると幸いです」

この家に来るまで、料理を作ることなんてなかった。
志藤さんが作らないときは店屋物やコンビニばかりだったので、飽きてきた。
都合よくいつも食べたいものがある訳でもない。
自分が食べたいものを食べたくて、ためしに志藤さんに習って作り始めたのが最初だ。
最初は、しょうが焼きだったっけ。
自分で料理を作って食べられると知った時の感動はなかった。

「でも、もう私よりずっとうまくなってしまいましたね。毎日おいしいご飯を食べられて、本当に朝日さんには感謝します」

そんなことを言いながら、穏やかに笑っている。
同じ眼鏡でも、玉野と全然印象が違うよな。
この人の眼鏡には、リチテキとか、チセイとかの言葉が似合う。
あいつの眼鏡は、暗いとか、グズとかいう形容詞が似合う。

「なんつーか、志藤さんは大人だよなあ」
「は?」
「そつがなくて完璧な、理想の大人って感じ?」

人に嫌な思いをさせることもなく、たとえ叱る時でも穏やかだ。
それでいて説得力があって、納得させられてしまう。

「理想、ですか?」
「そうそう。大人って言ったら思い浮かべる感じ」
「あ、はは」

志藤さんは困ったように眉をさげて笑ってから、悪戯っぽく聞いてくる。

「では、朝日さんが大人になったら、私のようになりたいですか?」

聞かれてちょっと考える。
穏やかで理性的で、自分を抑えて、人に気遣って、人当たりのいい大人の俺。
ないな。

「ううん。俺、志藤さんみたいになるならずっとこのままでいいや」

首を横に振ると、志藤さんが苦笑する。

「手厳しいですね、朝日さんは」
「俺は志藤さんのこと好きだよ。一緒にいて楽しいし、落ち着く。優しいし、好き」
「なんかこそばゆいですね」
「でも俺がそんな風に他人を受け止めるの無理。だって俺、自分が一番大事だし。志藤さんみたいに人に気遣うなんて出来ない。したくないし」

大人になっても、人に気を使うなんてこと出来そうにない。
口にしてみると割と最低だな、俺。
俺って、どんな大人になれるんだろう。
将来、どうしようかな。
料理、作ってたいかもしれない。

「朝日さんは、確かにそのままでいてほしいです。私もそんな朝日さんが、好きですよ」
「そーしそーあいだな」
「ふふ、ですね」

志藤さんが、目を伏せて、静かに笑う。

「朝日さんと司郎さんと一緒にいると、私は、そしてきっと四天さんも、心が軽くなります。ほっとします」

そう言ってくれるのは嬉しいが、あの四天サンがそんなこと思ってる訳がないと思う。
とりあえず俺は四天サンや水垣といてもほっとすることはない。

「たまに私ももっと、朝日さんのように自分に正直に動けばよかったと、そう思います。例えもう一度過去に戻っても、きっと出来ないのでしょうけどね」

過去を懐かしむような、悔いるような、微妙な表情。
過去になんかあったのだろうか。
志藤さんの、後悔するような過去。

「あ、それってあの魔性の女のこと?」
「ぶはっ」

志藤さんが味噌汁を吹き出した。
慌ててティッシュで口元を拭いながら、目を白黒させる。

「な、なにを」
「志藤さん、四天サンに負けたの?ふられたの?」
「な、あ、朝日さん」
「ねね、どっちが勝ったの?」

志藤さんが、ため息をつく。
そして表情を消す。
あ、なんかたまに出す怖い空気。

「………四天さんには負けていませんよ」
「そうなの?」
「ええ」

そして無表情に、静かに、言う。

「私も四天さんも、どちらも、負けたんです」

一瞬言われたことが分からなかった。
そして、理解して、思わず立ち上がりそうになる。

「………マジか。え、二人ともふられたの!?」
「ええ」
「やっぱすげー、魔性のビッチだな」

この二人と寝て、手玉にとって、そして両方ふるとか、どんだけの手練れ。
俺なんて近づくだけで溶けてしまうのではないだろうか。
一体どんな女なんだ。

「………そうですね。あの方は、とても、残酷でした」

そして少しだけ表情を和らげ、目を細めるようにして笑う。

「でも、とても優しく強い人です」

残酷で優しくて強いタチの悪い魔性のビッチ。
マジでどんな女だよ。
世の中には、まだまだ俺の知らない世界があるんだな。





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