廊下を誰かが歩く音がして、俺は部屋から飛び出した。
今日は一兄が早く帰ってくるって聞いていたので、待ち伏せしていたのだ。

「一兄、一兄、おかえり!」
「ただいま、三薙、どうした?」

廊下で呼びとめられても気を悪くせずに一兄は振り返る。
今日もきっちりスーツを見事に着こなし、穏やかに微笑んでいる。
大人の男って感じがして、一兄のスーツ姿は本当にかっこいい。

「あのね、藤吉達に、一兄達がいけるかもって言ったら、大歓迎だって、でね、日にちは11月の三週目の土日はどうかって言ってるんだけど、平気?駄目そうだったらずらすって。それで場所はね、高原リゾートとかいいねって言ってて」
「分かった分かった。ちょっと落ち着け」
「あ、ごめん!」

一兄は苦笑しながら、俺の頭をぽんぽんと撫でる。
ちょっと興奮しすぎてしまったようだ。
恥ずかしくなって、ちょっと顔が熱い。
子供のようだ。

「で、三週目の土日だって?」
「うん!双兄と天は大丈夫そうって。………一兄は、平気?」

一番忙しいのは一兄だ。
でも、一番来てほしいのも一兄だ。
藤吉達は日程はいくらでもずらしてもいいとは言っていた。
だから、出来れば一兄との予定が会う日がいい。
一兄はちょっと考え込むように首を傾げて、ゆっくりと頷いた。

「ちょっと後で確認するが、多分大丈夫だ。今日中に返事をする」
「やった!」

これで全員が揃う。
全員で旅行。
藤吉と岡野と槇と佐藤と、一兄と双兄と四天。
皆で旅行。

気が付けば一兄がじっと俺の顔を見ていた。
なんか変な顔をしていただろうか。
ちょっと浮かれ過ぎてにやにやしていたが。
恥ずかしい。

「何?」
「なんか、昔みたいだなと思って」
「昔?」

一兄は懐かしそうに目を細めて、俺の顎を掴む。
軽く顔を持ち上げると、一兄の男らしい端正な顔がそこにある。

「ほら、小さい頃。お前、俺が帰ってきたら必ず迎えてくれただろう」
「あ………」




***




「一矢お兄ちゃん、一矢お兄ちゃん!」

俺は小さい頃から一兄べったりで、とりあえず帰ってくるなり玄関で出迎えた。
一兄はあの頃から忙しかったから、そういう少しの間を狙わないと一緒にいれなかったのだ。
話がしたくて、毎日頑張って一兄の帰りを待っていた。

「ただいま、三薙」
「おかえりなさい!」

一兄は慣れた様子で、靴を脱いで俺を待っていてくれる。
手を広げて座りこんでいる広い胸に、俺は思い切り飛び込む。
一兄は難なく俺を受け止めて、そのままいつだって抱っこをしてくれた。
そして優しく笑って毎日聞いてくれるのだ。

「今日はいい子にしてたか?」
「うん、してたよ!」

今考えれば、あの頃一兄は多分まだ小学生か中学生だ。
そんなにでかい訳でも大人な訳でもない。
それでも小さい俺には、一兄はとっても大きくて、大人な人だった。
父さんと同じぐらい大人だと、思い込んでいた。

「また泣いたのか?」

頬の涙の後に気付いたのだろう、一兄が手の甲でそっと拭う。
あの頃の俺も泣き虫で、毎日泣いていた。

「………」
「どうしたんだ?」

俺を抱っこして居間に向かいながら、一兄はいつものように聞いてくれる。
一兄と話せる時間を無駄にしないよう俺は必死で話しかける。

「………あのね、さっきね、双馬お兄ちゃんと鬼ごっこしててね、僕ね、転んじゃったんだ。でもね、泣かなかったんだよ。僕、泣かなかった」
「うん」
「でもね、双馬お兄ちゃん、泣いてないのに、泣き虫って言って、泣き虫毛虫挟んで捨てろって、泣いた泣いたって言うの。僕泣いてないのに。泣いてないのに意地悪言うの」
「まったくあいつはしょうがないな」
「………でね、言われてたら、哀しくてね、泣いちゃった」

言われているうちに、どうしようもなく哀しくて、悔しくて、泣いてしまった。
あの頃は自分の感情の発露がうまくいかなくて、中にたまったものを泣くことでしか発散できなかった。
言いたいことがまとまらなくて、言い返せなくて、何も言えなくて、結局泣いてしまう。

一兄は困ったように笑って、背中をぽんぽんと叩く。
その大きな手は、いつだって俺を慰めてくれた。

「そうか。今度は泣かないようにしような」
「………うん」
「双馬は俺が叱っておこう」
「あ、それでね、僕が泣いちゃったらね、お母さんに見つかって、双馬お兄ちゃん、お母さんに怒られたの。だからね、もう怒っちゃ駄目だよ。可哀そう」
「そうか。三薙がそう言うなら仕方ないから叱らないでおこう」

一兄は静かに話を聞いてくれて、穏やかに笑っている。
だから俺は話を聞いてほしくて、一生懸命話を続ける。

「えっとね、それでね」

一兄は子供のつたない、脈絡を得ない話を我慢強く聞いていてくれた。
話が途切れたところで、一兄が俺の顔をそっと持ち上げる。

「ちょっと顔色悪いな。そろそろ供給しておいたほうがいいな。夕食の後にやろう」
「うん!」

あの頃の俺は、供給の意味がよく分かっていなかった。
体の調子が悪い時にやってもらうと、気分がよくなって、気持ちよかった。
だから、あの頃は供給が好きだった。
よく一兄がやってくれて、そのまま一兄の部屋で寝てしまった。
朝起きて、目の前に一兄がいるのが嬉しくて仕方なかった。

「よし、いい子だ」
「僕いい子だよ!」
「今度は双馬にからかわれても泣かないようになったらいい子だな」
「もう泣かない!」

そんな一時が、楽しくて仕方なかった。



***




「変わらないなあ」

一兄が俺の頭をぽんぽんと叩く。
思いもよらぬ昔話に、顔がどんどん熱くなっていく。
あの頃の俺は、本当に一兄べったりで恥ずかしいくらいだ。
遊んでいたのは双兄や四天の方が多かったのだが。

「いつの話だよ!かなりガキの頃だよ!もう全然違うだろ!」
「相変わらず泣き虫だけどな」
「泣いてない!」

あんまり。
そんなに泣いてない。
多分泣いてない。

「よっと」
「うわあ!?」

いきなり腰に腕を回され、持ち上げられる。
逃げようと暴れるが一兄の長い堅い腕は、俺を易々と囲い込んで逃がさない。
小さい頃のように抱っこされてしまう。

「ああ、確かに随分でかくなったな。かなり重い」
「俺もう高校生だよ!?重いに決まってるじゃん!下ろしてよ!」

抗議するが、一兄は楽しそうに笑うだけだ。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
でも、なんか、懐かしくはある。
あの頃は毎日こんな風にして、一兄に抱っこしてもらうのが、嬉しかった。

「でもまだまだ軽いな。ちゃんと食べてるか」
「食べてるしちゃんと鍛えてるのに、でかくならないんだよ!」
「ほんとだ、細いな、お前」
「細くない!」

一応修行に加えて筋トレも増やしてるんだぞ。
なんでこんな筋肉つかないんだこの体。
プロテイン。
やっぱりプロテインしかないか。

「………お前ら廊下で何やってんの?」

そのまま言い争いをしていると、声が聞こえた。
慌ててそちらを見ると、双兄が心底呆れたような顔で俺たちを見ていた。

「お帰り双馬」
「あ、違う、これは違うんだ!」

一兄は動じないで、挨拶をする。
ああ、よりによってこの人に見られるとは。

「いい加減にブラコン卒業しろよ」

双兄は、疲れたように言った。
俺はブラコンじゃない!とは今の状況では言い返せなかった。






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