俺たちの様子を不審そうな眼で見ていた運転手さんにこれ以上怪しまれる訳にはいかなかったので、家のかなり手前で下ろしてもらった。
人気のない山裾の家で下ろしてもらったら、下手したら通報もされるかもしれない。
逸る心を抑えつつ、足早に家を目指す。

家は最初に訪れた時と変わらず、闇を纏ってそこにいた。
朽ちるに任せたままの、日本にはそぐわない大きな洋館。
まだ日が暮れるまで大分あるのに、家の周りだけがどんよりと薄暗い。

「ここ?」

隣の雫さんが、わずかに息を弾ませながら聞いてくる。
俺は黙って頷いた。

「嫌な、空気。フシイシよりはいいけど、気持ち悪い」
「………うん」

こんな空気の中にいたら、岡野の体にも影響が出そうだ。
でも岡野はそういうことに鈍い方だから、逆に大丈夫かもしれない。
でも、それでもここは、死の匂いが充満している。
こんなところに、いつまでも岡野を置いていたくない。
すぐにでも中に入りたい。
でも、天を待つのが、約束だ。
早く岡野の顔を見たい。
無事な姿を確かめたい。

「大丈夫、大丈夫だよ、三薙」
「………うん」

雫さんが俺の腕にそっと触れて、繰り返してくれる。
心配をかけたら、いけない。
大丈夫。
阿部も、岡野にそんなひどいことはしないはずだ。
そうだ、大丈夫。
大丈夫だ。

「………なんで、岡野、阿部と一緒、だったんだろ」

そうだ。
岡野は、阿部と一緒になんて出かけたりしない。
あんなに、きつい態度を取っていた。
それに、そうだ。

「そうだ、藤吉と一緒だったって言ってたのに」
「藤吉?」
「そう、友達。一緒にいるって言ってた………。大丈夫か!?」

言いながらも携帯を取り出して、藤吉の名前を呼び出す。
そうだ、藤吉と一緒だと聞いて、嫉妬していたのだ。
もしかして藤吉も一緒なのだろうか。
大丈夫だろうか。
コールが一回で、すぐに繋がった。

『宮守?』

のんびりとした声が聞こえて、座り込みそうになるぐらいほっとする。
藤吉は、大丈夫なのだろうか。

「あ、藤吉、大丈夫か!」
『え、うん?』

俺の焦った声に驚いたように、戸惑った声を出す。
でもそんなの気にしていられない。

「あの、あのさ、今日、さっきまで岡野と一緒にいたんだよな?」
『へ?』
「商店街で、岡野と一緒に出かけてたって」
『あ、ああ。うん、ちょっと会って、すぐ別れたけど』
「そう、なのか」
『何?ヤキモチ妬かなくてもいいって。本当に偶然だから』

笑い交じりの藤吉の声に、少しの苛立ちと焦りが浮かぶ。
伝わらなくてもどかしいのに、うまく言葉に出来ない。

「違う、違うんだ。その後、阿部と会ったりしなかったか!?」
『は、阿部?なんで阿部?』
「阿部と岡野が、一緒にいるらしくて」
『は、なんで?えっと、どういうこと?何?』
「なんか二人で、あの家にいるらしいんだ」
『家?片山町の?どうしてそんなところにいるんだ?なんで、岡野が………』
「分からない!」

その時携帯を持つ俺の手を、冷たい手が押さえた。
そのひやりとした感触で、頭がすっと冷える。

「三薙、落ち着いて」
「あ………」

そうだ。
また、頭に血が上ってしまった。
こんなじゃ、駄目なのに。

『おい、宮守、大丈夫か!?おい!』

藤吉の混乱して焦った声が、携帯の向こうから響いている。
藤吉にも、心配をかけてしまった。

「………ごめん、ちょっと取り乱した。大丈夫」
『おい、岡野に何かあったのか?大丈夫か!?』
「ごめん。なんか、阿部が、岡野と一緒にいるらしくて、何があるか分からなくて………」
『今、片山町の家にいるのか?危ないんだろ、そこ?』
「………うん」

こう言ったら余計に心配をかけるかもしれないけれど、今更だ。
ここでなんでもないと言って切ったら余計に心配をかけるだろう。
もっと慎重に話さなきゃいけなかったのに。

『俺も行くか?』
「あ、大丈夫。ごめん、心配させて。大丈夫。天も来るから、平気」
『本当に?』
「うん、変な電話して、ごめん………」

藤吉にも迷惑をかけてしまった。
こんな時に一兄や天だったら、もっとうまく話せるだろうに。

『四天君が来るなら、平気だと思うけど………。俺が行ったとしても、何もできないと思うし………』
「そんなことないけど、でも、俺も一応腕っ節はそれなり、強いから、平気。取り乱して、ごめん」

そうだ。
大丈夫。
相手は人間だ。
場所が場所だから心配だけど、阿部はそこまでひどいことしないだろうし、変なことにはならないはずだ。
そうだ、そのはずだ。

『………分かった。じゃあ、何かあったらいつでも電話してくれ』
「うん、ありがとう。ごめんな。後で連絡する」

最後に藤吉は気をつけてとだけ言ってくれた。
通話を切って、胸の中のもやもやとした気持ちを吐きだすように、息を吐く。

「大丈夫?」
「うん、ごめん。友達、岡野とさっきまで一緒にいたらしいんだけど、何も知らないみたいだ。阿部のことも、見てないみたいだし」

雫さんが心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
どうして俺はこうなんだろう。
もっと冷静でいなきゃと思うのに。
最近は少しは冷静でいられるようになってきたと思っていたのに。
でも、岡野のことを考えると、冷静でなんていられない。

「………そう。何が、あったんだろうね」
「………」

何があったんだろう。
岡野は、何もないのだろうか。
なんでこんなところに、いるんだ。

もしかして、阿部は岡野の携帯を拾っただけかもしれない。
それで悪戯でこんなことをしている。
それなら、それでいい。
そうだったら、いい。

「………待つのって、辛いな」
「そうだね。早く、四天来ないかな」
「………うん」

何も出来ずただ待つだけというのは、こんなにも苦しいものなのか。
時計を何度見ても一分も進んでいない。
早く早く、天早く来てくれ。

「あ」

その時携帯がゆれて、着信を知らせた。
天かと思って慌ててポケットからもう一度取り出すと、それは岡野を示していた。
急いで通話ボタンを押す。

「あ、阿部!?」
『いるんだろ、そこに。早く入って来いよ』

出てきたのは岡野ではなく、やっぱり阿部。
ねっとりとした話し方に、吐き気を覚える。
俺たちは今、玄関から少し離れた家の影で待機している。
家の中から、見えているのか。
どこから。
きょろきょろとあたりを見渡すが、それらしき影はない。
屋敷の二階の窓も見えるが、やはりいない。

『どうしたんだ?早く来いよ』
「おい、阿部、岡野は!岡野はどうしたんだよ!そこ危ないんだよ!話があるなら聞くから、とにかく出てきてくれ!」
『お前が入ってくればいいだろ?』
「危ないんだ、頼むから!なあ、阿部!」
『宮守、玄関』
「え」

その言葉に、顔を上げて10メートルぐらい離れた先にある玄関に視線を送る。
玄関が開け放たれていて、そこには顔と体を赤く染めた女性が立っていた。
短いスカートに長い栗色の髪、手にはゴツゴツの指輪をいっぱいつけている。

「岡野!」

なんで、いつの間に。
そんなこと考えている暇もなかった。
考える間に、足が動いていた。

「あ、三薙、駄目!」

岡野岡野岡野。
嫌だ。
いやだいやだ。

「岡野、岡野っ!」

岡野は家の中にするりと入り込む。
その後を追って、ひたすらに走る。

「三薙!」
「雫さん、危ないから待ってて!」
「待てる訳、ないでしょ!」

ようやく玄関に着いた時には、大きな重い扉はゆっくりと閉まろうとしていた。
それをこじ開けて、なんとか中に滑り込む。

「岡野!」

扉から続く長い廊下には、岡野の姿はなかった。
左手には廊下に面した窓がずらっと並んでいる。
右手には扉が並んでいる。
昼もなお薄暗い、瓦礫とゴミに溢れた空間が広がっていた。
窓から太陽の光は差し込んでいるはずなのに、森の中のように暗い。

「………いない」
「岡野さんがいたの?」
「さっき、玄関に、血まみれで」
「私には、ただ扉が勝手に開いたようにだけ、見えた」

その言葉に雫さんを振り返ると、困ったような顔で頷く。
雫さんが嘘を言うはずはない。
つまりさっきのあれは、俺しか見えなかった。

「………じゃあ」
「おびき寄せられた、んじゃないかな」

そういえば、さっきのあれは、本当に岡野だったか。
服装や髪形は、確かに岡野だったが、顔は見えなかった。

「………玄関、は」
「開かない」

雫さんはもう試したのだろう。
もう一度ノブに手をかけるが、完全に閉じた扉はがちゃがちゃと音を立てるだけで開くことはない。
力を使えば開くだろうか。

「ちょっと、力を使ってみる」

目を瞑って、乱れた意識を、集中させる。
青い青い海。
晴れ渡った空の下の、凪いだ海。
千々に乱れた心が、少しづつ集約されていく。

尖ったナイフ。
細くて鋭い、槍のような刃。
力を練り上げて、ドアに絡みつく蔦のような黒いものを切り裂く。

「開けて!」
「うん!」

けれど雫さんが開けるよりも前に、するするとすぐに黒いものは絡みつく。
もう一度試しても同じだった。

「………前は、すぐに空いたのに」

俺たちを絶対に出さないようにする、という悪意を感じる。
力をもっと使えば、多分扉は開けられる気がする。

「………もっと、集中して使う」
「うん。私も手伝う」
「うん」

息を吸って、集中をしようとする。
けれどその前に、俺は雫さんに向かって頭を下げる。

「………ごめん。本当にごめん」
「仕方ないよ。でも、慎重に行こう。冷静さを失ったら駄目だ」
「………うん」

雫さんの言葉に、もう一度深く頷く。
駄目だって、思ったばかりだったのに。
岡野に何かあったらと思うと、胸が引き裂かれそうだ。
怖くて怖くて、叫び出しそうになる。

「にしても、おかしいね。その阿部って奴、普通の人なんでしょう?」
「………うん、そのはずだ」
「でも、それなら、なんでそんなこと出来たんだろう」

おかしい。
確かにおかしい。
さっきのあれを差し向けたのは、阿部だろう。

「………本当に阿部、なのかな」
「え」
「阿部の振りをした、何かだったりするのか」

そうだ。
もしかしたら、話ているのは阿部じゃないんじゃないか。
それなら、こんな行動をとる理由もなんとなく納得もできる。
だからといって岡野の安否が気にかかるのは変わらないのだが。

「もう一つ可能性がある」
「え」
「闇に魅入られて、操られてる」

雫さんが苦いものを噛みしめるように顔を顰める。
あの人のことを、思い出しているのだろうか。
ぎゅっと、胸が引き絞られる。

カチャ、リ。

その時、長い廊下の、俺たちがいるところから3つ目の扉がゆっくりと開く。
風か何かで開いたのかと一瞬考える。
けれそんな勘違いは、許されない。
重厚な作りのノブがしっかりと、回っている。

「誰、だ」

きい、と軋んだ音を立てて、扉が開く。





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