ぴちゃり、ともう一滴水が洗面台に落ちる。
屋敷の様子から、廃屋になって随分経つだろう。
それなのに、水道から水が出ることって、あるのだろうか。

「………水道代払ってなくても、水道、止まってない場合ってあるのかな」
「………場合によっては、あるんじゃない」
「だよ、ね」

近づいて、洗面台を覗き込む。
薄汚れて埃がたまっていて、わずかに据えた匂いがするが、変わった様子はない。
洋風の十字の形をした蛇口に手をかけて、捻る。
錆び付いて堅くなってはいたものの、きゅっと音を立てて蛇口は回った。
水は、でない。

「………」
「………やらなきゃいいのに」
「………うん」

やっておいて、後悔した。
まあ、水道管から水が漏れ出ることがあったりすることもあるのかもしれない。
理論的なことは分からないけど、きっとある。

「もど、ろうか」
「うん」

ゆっくりと顔をあげると洗面台の前についた鏡がすぐそこにある。
さっきの部屋と同じように薄汚れて水垢のようなもので白く曇っている。
曇っていて自分の顔もろくに見えない。

でも、はっきり見えるものが一つだけあった。
鏡の右上に、逆さにつり下がったような状態で、血走った目が二つ映っていた。
こちらを見ている。

「う、わ!」

思わず後ろに飛びずさって鏡から離れる。
飛び跳ねた心臓を抑えながらもう一度見直すが、もう目はなくなっていた。
鏡に背中をむけるのが怖くて首だけで後ろを向くと、雫さんも真っ青な顔で鏡を凝視していた。

「雫さん、見えた?」
「見えた」

震える声で、雫さんが頷く。
ではやっぱりあれは、見間違いという訳じゃなかったのか。
まだ心臓がバクバクしている。

「気配は、感じないのに」
「気配が濃厚過ぎて、分からないのかな」

周りの空気はやっぱりねっとりと身にまとわりつくようで、水の中にいるようだ。
この部屋にも大きな窓が洗面台とトイレの間に付いているが、先ほどより薄暗く感じる。
日が、落ちてきたのだろうか。
日が暮れる前に、どうにかしたいのに。

ジャー!

「………っ」

二人同時に音のした方に振り向く。
さっきは蛇口を捻っても何も起こらなかった水道から、水が大量に溢れ出てきている。
錆び付いているせいか赤茶色をしていているそれは、まるで血のように見えた。

「………なん、で」
「………っ」
「雫さん?」

雫さんが口の中で何かをつぶやく。
そちらを向くと、雫さんが顔を赤くして拳を握りしめていた。

「あー、もう、あったま来た!」
「え、雫さん?」
「絶対これ、私達ビビらそうとしてるでしょ!それが目的だよね!?そういうことだよね!?」
「え、う、うん、多分そう、かな」

邪や鬼や闇といったもの、神ですら、人の畏怖を好み、人の恐怖を煽ろうとする。
人の恐怖を喰らい、弄び、より力をつけようとする。
だから恐れず平常心でいなければいけないと、何度も言われたことだ。
雫さんが警棒を握りしめると、仁王立ちで言い放った。

「だったら迎え撃ってやるわよ!怖がってなんかやらない!」
「え、え、え、雫さん!?」

そしてそのままスタスタと流れる水を気にせずに、部屋から出て行ってしまう。
驚いてしまって、止める暇もなかった。
慌ててその後ろから付いていく。

「私だって、管理者の一人なんだから!」
「ちょ、待った、雫さん!」

怒りのあまり足音も荒い雫さんを追って部屋から出ると、部屋の前に大きな窓が一つ。
弱い光が差し込んでいて眩しくて一瞬目を眇める。

「どっかにさっきの奴、いるんでしょ!」
「待ってってば!落ち着いて!」

雫さんが玄関から二個目、すぐ隣の部屋の乱暴にドアを開く。
警戒も何もあったもんじゃない。
でも雫さんの全身には赤い力がみなぎっていて、なんだか周りの嫌な空気も少し軽くなった気がする。

「雫さん!」

でもやっぱり危ないだろう。
俺も雫さんに続いて、その部屋に入り込む。

「雫さ、わ」

そしてそこで雫さんにぶつかって止まる。
顔が雫さんの後頭部にぶつかりそうになったのはなんとか留まった。
やっぱり背が同じぐらいだなって、こんな時なのに思った。

「雫さん、どうし………っ」

黙って立っている雫さんの肩越しに部屋の中を覗き込んで、俺も言葉を失う。
先ほどの部屋と同じように部屋の奥に大きな窓があって明りを取りこんでいる。
だから、薄暗いけれど分かった。
がらんとした部屋の薄汚れた白い壁一面に、不思議な模様が付いているのを。
模様ではなく、染みだ。
ぶちまけらたペンキのような染み。
壁だけではなく天井にまで染みついたそれは、黒かった。
いや、黒ではない、茶色い。
いや、赤黒い、のだろうか。

「………何、ここ」
「………」

雫さんもさっきの勢いをなくして声が震えている。
この赤黒い模様が何か、なんて考えたくもない。
目を逸らして辺りを見回すが、部屋中についたその染みは視界から離れてくれない。
酸っぱいものが喉奥にこみあげる。

部屋は、多分元々子供部屋だったのだろうか。
白い壁紙に、シンプルで重厚な作りの家具が揃っているがそのどれもサイズがやや小さい。
ベッド、クローゼット、空っぽの本棚、勉強机。

「なんかある」

雫さんの視線の先、扉の横手にあった勉強机の上に、紙が一枚見えた。
雫さんが唾を一つ飲み込んで、近づいていく。
そしてその今にも破けそうな、茶けた紙を掴みあげる。

「………何?」
「ノートの切れ端、かな。どっかからか破かれたみたいだけど。日記かな」

雫さんの横から覗き込むと、一番上に日付が書いてあったので、日記なのだろうか。
表面は何も書かれてなかった。
自然な動作で、裏返す。

「………な、に」

雫さんが息を飲む。
そこには焦りを表わすような乱雑な字で、書き殴られていた。

あの子を隠さなきゃ
危ない
あの子を隠さなきゃ
あの子が危ない
隠さなきゃ隠さなきゃ隠さなきゃ隠さなきゃ
怖い怖い怖い

「………」
「………」

乱れてはいるが、おそらく女性の字だろう。
細く柔らかい字だ。

「………手が込んだこと、してくれるじゃない」
「なんなん、だろう」

雫さんが絞り出すように言って、歯をギリっと噛みしめる。
これも、俺たちを怖がらせて恐怖を煽るための演出、なのだろうか。
あの子とは、誰だろうなのだろう。
書いたのは誰なのか。
なぜ危ないのか。
なぜ隠すのか。
気になるけれど、これも全部まやかし、なのだろうか。

コツ、コツ、コツ、コツ。
コツ、コツ、コツ、コツ。

考え込んでいると、またあの足音が聞こえてきた。
ゆったりとした、重い足音。

「あ、まずい。ドアが開きっぱなしだ」
「いいわよ、私が倒してやる!」
「ええ!?」

雫さんが力をみなぎらせて、警棒を握りしめる。
そして、そのまま扉に向けて歩きだす。

「ま、待った!」

もうここで怯えているよりは、その方がいい気もするけれど、倒せるだろうか。
俺たちの力でどうにか出来るものなのだろうか。
それ以上に、倒していいのだろうか。
この前のようになるのは、絶対御免だ。

「雫さん、待った!落ち着いて!」
「待たない!」

興奮している雫さんの腕を掴んで引っ張る。
ドアの手前で、ようやく足が止まった。

バタン!

そしてその時、大きな音がして、雫さんの目の前でドアが閉まった。
後少しで顔を打つすれすれだ。
勿論俺たちは、触れてもいない。
少しの風で閉まることはないだろう、重く厚い扉だ。
そもそも、風の動きも、感じない。

「………」
「………」

瞬きが出来ないぐらい驚いて、声が出ない。

コツ、コツ、コツ、コツ。
コツ、コツ、コツ、コツ。

その間も足音はゆったりとした足取りで近づいてくる。
そしておそらく隣の部屋の前までくると、立ち止まる。

コンコン。
コンコン。

今度もまた、ノックを始める。
雫さんがその音に我に返って、ノブに手をかける。
けれどいくら捻っても、ドアは開かない。

「な、んなの」

コツ。
コツ、コツ、コツ、コツ。
コツ、コツ、コツ、コツ。

足音が、来た時と同じようにゆったりと去っていく。
しばらくして、音が一切聞こえなくなった。

カチャ、リ。

すると、さっきまでどんなに捻っても引っ張っても開かなかったドアが開く。
最初の部屋と、同じように。

「どういうこと?」
「………俺たちを、あの足音と、合わせたくない、のかな」

足音と鉢合わせしないようにされているようだ。
もしかして最初の時もそのために閉じ込められたのだろうか。

「なんか、かばわれてる、みたい」
「………」

雫さんがぼそりとつぶやく。
そういうことなのだろうか。
分からない。

「あ、そうだ日記」

雫さんが手に持ったままだった紙の存在に気づく。
くしゃくしゃになってしまったそれを慌てて広げると、さっきまで何も書かれてなかった表側にも字が増えている。
さっきの女性の字とは違って、クレヨンで描いたような太く幼い字。

『ぼくをみつけて』

そこにはそう書かれていた。





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