噛みしめる米が、味がしなくて砂のようだ。

「………」

今日は珍しく、父と母と一兄と四天が勢ぞろいした。
いつもなら嬉しい状況が、今はお通夜のようにすら感じる。
双兄だけは外出しているため不在。
せめて双兄がいてくれればまだ違ったのに。

「三薙、食が進んでいないようだな。体調でも悪いか」
「あ、いえ。大丈夫です」

父の質問に慌てて首を横に振る。
体調は別に悪くない。
ただ、胃がむかむかとして、食事を受け付けないだけだ。
あれ以来、このメンバーで食事を取るなんて機会が今まで幸運にもなかったからよかったのだ。
こうして顔を合わせると、気持ちが悪くなってくる。

「………」

どうして皆、普通の態度で食べられるんだろう。
皆、俺があんな儀式をするって、知ってるんだよな。
母さんも知っているのだろうか。
そう考えると、恐怖と羞恥と、体温が下がって行く。

「三薙さん、本当に大丈夫?」

母さんが心配そうに顔を曇らせて、覗き込んでくる。
心臓が大きく跳ね上がる。
もう、だめだ。

「………すいません、寝不足かもしれません。早めに休みます」
「そうしてね」

母さんは頷いて、後で温かいものを持っていくわねと言ってくれた。
ありがたく頷いて、食卓を立つ。
部屋から出て、ようやく息をついた。

いたたまれない。
一兄と天とあんなことをしたってことを、父さんも母さんも知っている気がする。
いや、知らなくてもこれからするってことは知っている。
羞恥と恐怖と怒りと、なんかそんなような感情がごちゃまぜになる。
なんで、こんなことになっちゃったんだろう。

「三薙」

廊下にぼけっと立っていると、耳によく馴染んだ深みのある声がした。
後ろを振り返ると、苦笑をした長兄の姿。

「………一兄」

いつもは嬉しくなるその笑顔が、今だけはまっすぐに見れない。
視線を逸らして俯いた俺に、一兄が笑い交じりに息をついた。

「辛いか?」
「………辛いっていうか、なんか、気まずくて、どんな顔したらいいか分からない」
「まあ、それはそうだな」

そっと、一兄の大きな手が俺の頬に触れる。
大げさなぐらいにびくりと震えてしまった。

「そんなに怯えるな」

一兄の手が、優しく俺の顔を持ち上げる。
それでもやっぱり直視はできなくて、視線だけを落とす。

「俺が怖いか?」
「怖くは、ないけど」

怖くはない。
いや、怖いのだろうか。
怖いのかもしれない。
この前の時のようなことにはなりたくない。

「嫌だったか?」
「………」

答えられない。
嫌ではなかった。
嫌悪感が、なかった。
それが、余計に怖い。

「悪かったな。急過ぎた」
「うん………」

一兄の手が、俺の頭をゆっくりと掻きまわす。
その頼もしい手は、昔と変わらず嬉しくなるものだ。
この手が、好きだ。
それは本当に、昔と変わらないのに。

「………あのさ」
「うん?」
「母さんも、知ってるの?その………」

濁した語尾を正確に受け取って、一兄が首を横にふった。

「いや、お前の体のことと儀式をしなければいけないことは知っているが、内容については知らされていない」
「………そっか」

それなら、まだよかった。
息子同士でそんなことをしなければならないと知っていてあの態度だったら、母さんにどんな感情を抱けばいいのかも分からなくなる。
知らないのなら、よかった。

「そっか………、それなら、よかった」
「ああ。お前には酷かもしれないが、母さんの前では普通にしておけ。変に詮索されても困るだろう」
「………うん」

そうだ、何も知らないなら、普通にしておこう。
父さんが告げないのなら、母さんが儀式の内容を知ろうとすることはないだろう。
けれど、気になるだろうし、心配はかけたくない。

「いい子だ」

頷いた俺の頭を、くしゃくしゃと掻き混ぜる。
じんわりと訳もない不安で強張った心が解けていく。
そうか、不安か。
俺は、不安なのだ。

「後で何か消化にいいものを持っていこう」

一兄がそっと俺の顔の輪郭をなぞる。
今までも普通にされていた触れ合いなのに、居心地が悪い。
変な感覚で、背筋がもぞもぞとする。

でも、不安に蝕まれた心に、その感触は心地よかった。



***




「あ、酔っ払い」
「不良だ不良ー」

登校すると同時に、俺と佐藤の席の周りで待っていた岡野と藤吉が俺の顔を見て囃したてる。
情けない姿を見せてしまったことが恥ずかしかったこともあって、つい声を荒げてしまう。

「あんなことはほとんどないってば!」
「ほとんどってことはたまにあるんだ?」
「………槇」

にこにこと穏やかに笑う槇は、今日も鋭さが冴えわたっている。
穏やかでにこやかなのに、その言葉はたまに凶器と化す。
まあ、ほとんどは朗らかないい子なんだけど。

「いいなー、三薙、今度私とも飲もうよ!」
「未成年の飲酒は法律で禁止されています!駄目です!」

佐藤は佐藤で、また本気かなんなのか分からない提案をしてくる。
慌てて叱りつけると、岡野が冷たく言い放った。

「お前が言うな」
「はい」

確かにその通りです。
返す言葉もなく俯く俺の肩を、藤吉が笑いながら叩く。

「まあ、あんまりハメ外しすぎるなよ」
「うん、ありがと」

その時、予鈴の電子音がスピーカーから鳴り響く。
好き好きに過ごしていたクラスメイト達が、椅子の音をガタガタと立てて、慌てた声をあげ、教室内が一気に騒がしくなる。

「っと、席もどろ」

岡野達もぱたぱたと素早く自席に戻って行く。
つい、その岡野の背中をじっと見つめてしまう。
離れていくと、なんだか寂しさを感じる。

「ねえ、三薙ってさ、アヤのこと好きなの?」
「は!?」

隣の席の佐藤が、なんでもないように聞いてくる。
思わず大声をあげてしまうと、クラス中の視線が俺に集まった。
慌ててごめんと言いながら身を縮こまらせる。

「声を大きいよ」
「な、な、な、急に、なっ」

佐藤が悪戯っぽく笑いながら、指を一本立てしーっと言う。
誰のせいだと思ってるんだ。

「すごい慌てぷりだー」
「………なに、急に」
「ううん」

佐藤は首を振って、それでももう一度聞いてくる。

「それで、好きなの?」

一体どうしたんだろうか。
答える義務なんて、ない。
でも、真面目な問いなのだろうか。
いつも明るく笑っている佐藤がじっと俺の目をまっすぐに見ている。
だから、誤魔化すことなく正直に答えた。

「………分からない」

掠れた、佐藤にだけ聞こえる声で答える。
佐藤は俺の言葉に、小さく頷いた。

「そっか」

どこか困ったように笑ってもう一度大きく頷く。
そして背もたれに体を預けて大きく背伸びをした。

「そっかあ」
「何、どうしたの?」
「んーん」

佐藤らしい、明るく元気な笑顔でにっこりと笑う。

「アヤに先に彼氏が出来たらやだなあ」
「大丈夫だよ、そんなことにはならないから」

俺は、何があっても岡野と付き合うことはないだろう。
そんな、資格はない。
首をふった俺に、佐藤がからかうように笑う。

「三薙が相手とは言ってないよ?」
「う」

それはそうだ。
確かにそうだ。
三人娘の誰が先に彼氏が出来てもおかしくない。
全員かわいいし。

「まあ、でも、うん、わかった」
「何が?」
「なにもかも!」

何がなんだか分からなくてもう一度聞こうとしたが、その前に教師が入ってきてしまった。
それきり聞く隙もなくて、佐藤はその後はいつも通りだった。



***




放課後、岡野と帰る約束をした。
先生に呼びとめられていたので少し遅くなってしまって、足早に下駄箱に向かう。
登下校の生徒が一段落ついて人気が少なくなった玄関口に、ぼそぼそと二つの声が響いていた。
近づくにつれ、それが険悪な雰囲気なことが分かる。

「うぜーな、お前。ストーカーかよ」
「んっだと」
「臭い息かけんなよ、歯ぐらい磨け、タコ」

この人の心を抉るような発言の声の主はすぐに分かった。
優しいけれど当たりのきついクラスメイト。

「お、岡野!?阿部!」

下駄箱の影では、顔を真っ赤にした阿部が、今にも岡野に掴みかからんばかりにしていた。
慌てて駆け寄り二人の間に割り込む。
すると阿部がますます顔を赤くして、忌々しそうに舌打ちした。
お洒落で整った顔をしていてモテそうな容姿なのに、嫌悪と憎悪で顔を歪めていると酷く歪つに見える。
阿部をこうしているのは、俺なんだろうか。

「………また、お前かよ」
「ど、どうしたんだよ、二人とも」
「知らね。その馬鹿がいきなり喧嘩売ってきたから」
「………っ」

岡野は阿部の怒りなんて意にも介さず、あくまで挑発的な態度を崩さない。
こっちがはらはらするぐらいだ。
ギリと歯を噛みしめた阿部が、吐き捨てるように言う。

「後で、お前が後悔するんだからな」
「何その映画ですぐやられる敵役みたいな台詞。かっこつけて言ってんのかもしれないけど寒い」
「岡野岡野、ストップ!」

どうしてこんなに攻撃的なんだ。
ここまで言わなくてもいいのではないだろうか。

「阿部も、落ち着けよ」
「うるせー!何もかもお前が悪いんだよ!」

叫ぶような阿部の声に、僅かにまわりにいた生徒たちの注目を一斉に浴びる。
こちらを見て、ひそひそと何かを言っている。

「阿部、落ち着けって!」

焦って周りに視線を巡らせ、阿部の注意を促す。
阿部も空気に気付いたらしく、肩で息をしながらも口を閉ざす。

「………お前が消えればよかったんだよ」

そして呪うような低い声で吐き捨てて、俺を睨みつける。
ずきずきとした、胸の痛みが蘇る。

「………」

阿部は最後にもう一度睨みつけると、乱暴な足取りで玄関から出ていった。
残されたのは、俺と岡野の二人。

「………」
「………」
「帰ろうか」

周りの視線もあったから、そう促すと岡野は黙って頷いた。
会話をしないままゆっくりと歩きはじめる。
しばらくして校庭の真ん中で岡野が不機嫌そうに聞いてきた。

「なんで何も言い返さない訳?」

答えることができない。
言い返すことなんて、出来ない。

「………」

自分が消えればよかったとは思わない。
俺は消えたくなんてない。
そう思うたびに、罪悪感に押しつぶされそうになる。
俺の力不足で消えてしまった人がいるのに。

「何度も言うけど、あれはあんたのせいじゃない。あんたは精一杯頑張った。だからうじうじすんな!下見るな!うざい!」

苛々した声に驚いて顔を上げると、岡野が綺麗にメイクされた猫のような目で俺を睨みつけていた。
その指輪だらけの手を振りかぶると、思い切り俺の頭に振り落とす。

「いい加減殴るぞ、このへたれ!」
「痛っ!もう殴ってるよ!」

ごつい指輪は、当たると本当に痛い。
涙目になるが、岡野は鼻を鳴らしてばーかとだけ言う。
本当に強くて、優しい子。
阿部にも、平田にも申し訳なくてたまらないのだけれど、でもやっぱり岡野と一緒にいれることが嬉しい。
自分が消えなくてよかったと思ってしまう。
それが阿部にも分かっているから、あんなに攻撃的なのだろうか。

「………阿部、なんか変だったな」
「元々だろ。知らねーよ」
「………うん」

気にしても仕方ない。
前を向かなければいけない。
過去はもう、やり直せない。

「あんたは、俯く必要なんてないんだからね」

ああ、でもやっぱり申し訳ないと思う。
だって、今の俺はこんなにも幸福だ。
罪悪感を抱えながらも、嬉しくて泣いてしまいそうだ。
なんて自分勝手な俺。

「………うん」

どうしても、この子が隣にいてくれる幸福を手放せない。





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