「お兄ちゃん」 白の長着と灰緑の馬乗袴を身につけた幼い少年。 俺を見上げて、あどけなく笑う。 懐かしい、高く甘い声。 これは、夢だ。 だって天はもうこんなに小さくない。 俺を見て笑わない。 こんな風に、無邪気には笑わない。 いや、でも天の笑顔は、こんな風だったっけ。 あの頃の天はもっともっと屈託なく、全ての好意を表わしてくれるように笑っていた。 この笑顔は、違う。 どこかに毒を含み、嘲るように笑うようになったのは、いつからだったっけ。 いつからか無邪気さは失われていた。 「ねえ、お兄ちゃん、こっち来て」 そして小さな手が、俺を木々の中に誘う。 そちらには行きたくないと思った。 「夢、か」 目を開けると、視線の先には見慣れた天井。 カーテンからは光が漏れていない、まだ夜だ。 今日は疲れたから随分早く眠ってしまっていたんだった。 枕元の時計を見ると、日付が変わってから少し経った辺りだった。 「………森の中、小さな天、俺は、天を怖がってる」 最近、何度かぼんやりと見る夢。 昔の、天の夢。 起きた時には記憶はうっすらとしてるし、細部を全然覚えていない。 思わせぶりな儚い夢。 まるで天の言葉のように。 起きたらすぐに霧散してしまうので、あまり気にしていなかった。 今日はいつもより少しだけ、鮮明だった。 夜の冷たい空気も、木々の匂いも感じられそうなぐらいに。 「………昔ひどいことしたって、この時なのかな」 なんとなく、そんな気がする。 でも、あんな小さな天が、俺に何かするなんて出来るのだろうか。 今でこそ認めたくないけど、俺の方がちょっぴり体格が小さい。 でもあの頃はさすがに俺の方が大きかったはずだ。 そんな天が俺に何が出来るというんだろう。 「………」 しばらく考えてみるが、やっぱり思い当たることがない。 気のせいなのだろうか。 あの頃の天は、どんなだったっけ。 気がつくと、なぜだか仲が悪くなってしまっていたれど。 まだ仲が良かった頃じゃなかったっけ。 「駄目だ、お茶でも飲もう」 考えても分からないことは考えすぎてもどうにもならない。 もうすぐ天が、全部教えてくれるはずだ。 弟は約束を破らない。 温かいお茶でも飲んで、寝てしまおう。 ベッドから下りて部屋を出ると、廊下は空気が凍るようにキンと冷え切っていた。 「………」 もう二月も半ばだ。 俺が選択するまでに許された時間は、三月いっぱい。 後、一月半だ。 早いような、遅いような。 俺は、一兄と天のどちらに寄生して生きていくことを選べばいいのだろう。 「おおー、ため息か青少年!なんの悩みだ!聞いてやろう、お兄さんが聞いてやろう!金かシモか女か!」 息をついたところで、廊下の向こうから男性の声が聞こえた。 うんざりするほどテンションの高いこの声は、次兄のものだ。 思わず今来た道を帰ろうと足が動く。 「待て!」 「うわ!」 しかし酔っ払いのくせに驚くほど素早い動きで近づいてきた双兄に捕まってしまう。 ヘッドロックをかまされてぐいぐいと締め上げられる。 苦しいより前に、漂う甘い臭気に軽く眩暈がする。 「今逃げようとしただろう!優しいお兄様から逃げようとするとはどういうことだ!いっちょ揉んでやろうじゃないか!」 「ちょ、臭!酒臭!双兄、どんだけ飲んだんだよ!」 「なんだ!成人のお兄様が飲んで何が悪い!さてはお前自分が酒飲めないからって嫉妬してるな!」 「なんでそうなるんだよ!ちょ、息吹きかけないで!」 顔に息を吹きかけられると、本気で吐き気がしてくる。 この前の二日酔いを思い出してしまう。 なんとか双兄の腕から逃げ出して距離を取る。 甘いアルコールの匂いが纏わりついているような気がする。 「たまに顔見せたと思ったらなんでベロベロに酔っ払ってるんだよ!」 「そうか、三薙はお兄ちゃんに会えなくて寂しかったんだな。よしよし悪かったな。さあ、お兄ちゃんの広い胸に飛び込んでこい!」 「ヒョロいくせによく言うよ!」 大仰に手を広げる兄の骨ばった体を揶揄すると、また掴まってしまう。 そしてぐりぐりと頭に拳を押し付けられる。 「んだと!」 「痛い痛い痛い」 そんなことをしていると、膝から力が抜けたようで急にがくっとその場に双兄が座り込む。 とろんとした目は、今にも寝てしまいそうだ。 「もう、何やってんだよ。部屋まで送るから行くよ」 「あー………」 肩を貸してなんとか立ち上がらせる。 ずっしりと体を預けてくる兄は、結構な重量だ。 細身で骨ばっているが、上背があってそれなりに筋肉もついてる。 これは部屋までいくのが大変そうだ。 「本当に、最近飲み過ぎだよ、双兄」 「んー」 「………なんか嫌なこととかあったの?」 やっぱり酒量は増えている。 前は酒は好きでも、こんな無茶な飲み方はしなかったはずだ。 節度を弁えて飲んでいた。 と思うんだけど。 「なーんでお前はそうなんだろうなあ」 「何、が?」 双兄が呂律の回らない口調で、ぼそりと言う。 兄の体を支えるので必死で、うまいこと返事は出来ない。 「俺さ、お前に結構意地悪とかしたじゃん」 「うん。そりゃもう」 虫を投げられるわ殴られるわ池に落とされるわ、今考えると本当にひどいことされてるな。 なんでか虫を捕まえる双兄かっこいい強い双兄かっこいいって変換されてたあの頃の俺、本当に馬鹿だ。 「でもさ、お前、ついてくんのな、俺の後。どんなに邪険にしても目ぇ、キラキラさせてさ」 「な、そ、そんなことねーよ!」 「だからやっぱ、可愛いしさあ」 ぐしゃぐしゃと頭が撫でられる。 いじめられてたら助けてくれて、木に登って木の実を取ってくれて、知らないものを沢山教えてくれた。 意地悪でも、それでも強くてかっこいい次兄は尊敬の的だったのだ。 それは、確かだ。 「俺は、何してるんだろうなあ」 なんだか切なげに言うから、次兄の顔を見上げる。 双兄は、思いのほか真剣な顔で、俺を見ていた。 「………双兄?」 「こんなにイケメンで家柄もよくて頭もいいのに………」 「自慢かよ!」 一瞬本気で心配して損をした。 なんなんだ。 ただの酔っ払いか。 「こんなところで、燻ぶってたら駄目だよなあ」 「何が!?」 双兄が俺の肩から腕を離し、いきなり真っ直ぐに立つ。 そして握りこぶしを握り、キラキラとした目で俺を見てくる。 「でかい男に、俺はなる!」 「どっかの海賊かよ!何言ってんだかわかんねーし!」 「よし、三薙、黙って俺に付いてこい!」 「だから何言ってんだよ」 そこでまたふにゃりと崩れ落ちそうになるから、慌てて支える。 双兄が俺の肩にしがみつく。 「俺はさあ………」 「うん?」 その後、がくっと全身の力が抜けた。 咄嗟のことで支えきれなくて、一緒に廊下に座りこむ。 「ちょ、双兄!ここで寝ないで!俺じゃ支えきれないし!」 しかし耳元で聞こえてくるのは穏やかな寝息。 本当になんなんだこの酔っ払い。 「くっそ、重!」 「何してるの?」 なんとか双兄の体を持ち上げようとしているところに、涼しげな声が割って入った。 そこには薄い水色の浴衣姿の弟の姿。 この苦境に思わぬ助けで、声が弾んでしまう。 「天!助かった、天!助けて!」 「え、やだ」 「おい!」 即座に拒否されて、つっこんでしまう。 そして力が抜けてしまってまた双兄が廊下に沈み込む。 なんで無駄に背が高いんだよ。 「そこに転がしとけば」 天は無表情に、汚物でも見るように次兄を見下す。 「そういう訳にもいかないだろ」 「自業自得だよ。酔っ払いに近づきたくない」 「この冷血人間!」 相変わらずのコールドブラッドだ。 ていうか天は、一兄は尊敬してるみたいだけど、双兄は割と俺と同じ扱いだよな。 「寒いし、風邪ひくだろ」 そこまで言うと天は心底嫌そうにため息をついた。 そして近づいてきて、反対側から双兄の体を支える。 俺の体にかかっていた重力が半減して、ようやく立ち上がれる。 「ありがとう」 しかしなんで俺が双兄のためにお礼を言わなきゃいけないんだ。 何かがおかしい。 「臭」 「………うん、ごめん」 天が思わずといったように綺麗な顔を歪める。 咄嗟になぜか謝ってしまった。 双兄と比べると俺も天も背が低いから、まるで引きずるように運ぶ。 「双兄、何か悩みとか、あるのかな」 「さあ。悩みがあったとして、酒に逃げるなんて最低な選択だね。なんの問題解決にもなってない」 「………それは、確かに、そうだけど」 でも、酒に逃げたいくらいの悩みがあるのだったら辛いのではないだろうか。 俺は酒が嫌いだからそんなに飲むって気持ちも分からないけど、大人の人はよく酒を飲む。 双兄ぐらいの大人になると、悩みも深刻なのだろうか。 「双馬兄さんは、基本的に問題から目を逸らすしね」 「………そうなのか?」 「俺の印象ではね。決断力がないから」 大分年上の兄に向かって、随分な評価を下す。 俺からしたら双兄も天も、勿論一兄も強くて決断力があるように見えるのだが。 天には双兄がどう見えているのだろう。 「おや、双馬さんこんなところにいらしたんですか」 「あ、熊沢さん!」 「こんばんは、三薙さん、四天さん」 熊沢さんが相変わらずにっこりとどこか胡散臭いような笑顔で現れた。 なんだか千客万来だ。 いつもは人気のない廊下でこんなに次々に人に会うとは。 「帰るって連絡があったのに、中々帰ってこないから心配してたんですよ。弟さん達にも迷惑かけるというのはよろしくないですね」 どうやら双兄を探していたらしい。 近づいてきて、俺たちに引きずられている双兄の顔を覗き込む。 「双馬さん、大丈夫ですか?」 「あー………、亮平か」 「ええ。今日も大分酔ってますねえ」 困ったもんだとつぶやいた後に、熊沢さんが後ろを振り向いた。 そして手をメガホンのように口元にあてる。 「志藤君、しとうくーん!」 「は、はい、ただいま行きます」 夜だったから声は潜められていたが、熊沢さんの声に廊下の曲がり角から志藤さんが小走りに走ってくる。 そして俺たちの姿を認めて目を丸くする。 「み、三薙さん!あ、それに四天さんも」 そしてその間にいる人を見て、首を傾げる。 熊沢さんの影になってよく見えなかったのだろう。 「えっと、それは?」 「それってひどいですね。宗家の次男ですよ」 熊沢さんの苦笑しながらのつっこみに、飛び上がる。 そして慌てて近寄ってきて同じように双兄を覗き込んだ。 「双馬さん!?失礼しました!だ、大丈夫ですか?」 「ただの酔っ払いです。外にまで行く必要がなくなってよかった。寒い思いしなくてよかったですね、志藤君」 「は、はあ」 どうやら二人で外まで探しにいくところだったようだ。 外で酔い潰れることってあるのだろうか。 さすがにそれは洒落にならない。 「てことで志藤君、双馬さんを部屋まで持ってってもらってもいいですか?」 「え、は、はい」 熊沢さんに指示されて、志藤さんがためらいなく頷く。 そして双兄の腕に手をかけた。 「では失礼いたします、双馬さん」 そのまま軽々と危なげなく肩に手をまわし支えてしまう。 上背はやっぱり双兄の方があるのに、ふらつく様子もない。 「すご」 細身に見える志藤さんだが、どうやら大分力があるようだ。 鍛えているのにどうにも非力な身としては羨ましい限りだ。 「志藤さん、力持ちなんですね。細く見えるのに。いいなあ」 「え、そ、そんなことないですよ」 「筋肉って結構ついてるんですか」 そんな風には見えないので、服の上からつい腕を掴んでしまう。 おお、堅い。 「み、三薙さん!」 志藤さんが上擦った声をあげた。 しまった、思わず触ってしまったが、今は双兄を抱えているのだ。 「あ、ごめんなさい、邪魔して」 「い、いえ」 志藤さんは首を横に振るが、顔が赤い。 簡単にしているように見えるが、やっぱり力がいるのだろう。 「いやあ、微笑ましいですね」 熊沢さんがにこにことそんな志藤さんを見ていた。 まるで弟を見つめる兄のようだ。 「それじゃ俺はこれで」 「ええ。お疲れさまでした。ありがとうございます」 天は双兄から解放されると、せいせいしたというようにさっさと離れる。 しかし行く前に志藤さんにちらりと視線を送る。 「そうだ、志藤さん。後で手が空くようだったら部屋に来ていただいてもいいですか」 「え、は、はい。もう夜遅いですが………」 「志藤さんがお忙しいようでしたら後日で問題ありません。メールでご連絡します」 「いえ、私は問題ありません。承知いたしました。本日、後ほど伺わせていただきます」 その親しげなやりとりに、胸がチクチクと痛む。 親しげというのとは違うかもしれないが、メアドとか知ってるんだな。 志藤さんは俺と、友達なのに。 「………」 「仕事の話だよ」 「………分かってる」 天が俺が黙りこんだのに気付いて、呆れたように言う。 こんなことで嫉妬してしまうなんて、本当に心が狭くて嫌になる。 「それじゃね」 「………四天、生意気だぞ、お前」 天がするりと去ろうとしたところで、ぼそりと声が割って入った。 その声の主は志藤さんに抱えられている双兄のものだ。 天が小さく笑って振り返る。 「それはごめんね」 「俺が、起きてたの、分かって言ってんだろ」 「さあね」 起きてたのか、さっき。 いつからいつまで。 さっぱり分からない。 「俺だって、色々考えてるんだからなー………」 「まあ、考えてるだろうね。人間なんだから、思考はするよ、誰だって」 「………本当にお前は生意気な奴だなあ」 双兄が胡乱な眼で末弟を見ても、天は皮肉げに笑うだけだ。 なんだか喧嘩のようで、慌てて割って入ってしまう。 「双兄、大丈夫?」 「あー………」 双兄が少し表情を緩めて俺に視線を向ける。 「平気平気。ありがとよ」 「………うん」 「よーし、熊沢飲むぞー!」 「何言ってんだよ!」 いきなり元気を取り戻した次兄に思いっきり突っ込みを入れる。 このままじゃ奈良漬になるぞ。 「熊沢さん、見張っていてくださいね!」 「謹んで拝命いたします。てことで双馬さんすいませんね、ちょっとは休肝してくださいね」 熊沢さんが胸を叩いて頼もしく頷く。 双兄が恨めしそうにそんな熊沢さんを睨みつけた。 「お前はどっちの味方なんだああ」 「今現在三薙さんですね。三薙さんが双馬さんの味方ですから、結果的に双馬さんの味方ってことですよ」 「ならよし!」 いいのか。 まあいいならいいんだけど。 「それじゃあ、お手数おかけいたしました。志藤君行こうか。四天さんも待ってるだろうし」 「は、はい、では」 熊沢さんと志藤さんがぺこりと頭を下げので、俺も慌てて頭を下げる。 「あ、おやすみなさい。双兄をよろしくお願いします」 「それじゃ、おやすみ、双馬兄さん。飲み過ぎに気をつけてね」 「あいよー」 天の皮肉にひらひらと双兄が手を振る。 俺は最後に志藤さんに視線を向ける。 「………あの、志藤さん、おやすみなさい」 天との仲に嫉妬して、うまく感情が消化できない。 俺より四天の方が好きなんだって、どこの子供だ。 我ながら幼すぎる。 志藤さんはそんなことに気づいてはいないのだろう。 にっこりと優しく微笑んだ。 「はい、ゆっくりお休みください。また今度」 「はいっ」 でもまた今度と言われただけで嬉しくなってしまった。 そうか、友人って俺、学校の四人を別にすると、志藤さんだけなのだ。 男の友達は、藤吉と志藤さんだけ。 だから、こんな風に思うのだろうか。 うまく距離を取るようにしないと、ひかれてしまうかもしれない、気をつけよう。 そのまま、双兄を連れて熊沢さんと志藤さんは部屋に戻って行く。 残されたのは俺と天。 「志藤さんと仲良くしてるみたいだね」 「………うん」 天が歩きはじめながら聞いてくる。 キッチンの方に向かっているのは、天も何か飲もうとしていたのだろうか。 「駄目、かな?」 「俺に聞かれても。宮守の家の人間として言うなら駄目。俺個人としてはどうでもいい」 まあ、そうだよな。 そういう意見になるはずだ。 やっぱり、俺自身の問題なのだ。 「ま、うまくやれば?駄目だって言われてもやめる気ないんでしょ」 「………うん、ない」 そうだ、こんなこと言っても、志藤さんと友人関係を止める気はない。 あのかわいくて強い人と、使用人と主人の関係になんかなりたくない。 「兄さんにとっては、多分いいことだと思うよ」 「え」 天がそこで振り返って、肩をすくめて小さく笑う。 「志藤さんにとってはいいことか悪いことか、分からないけどね」 |