目覚めは唐突に訪れた。
驚くほど自然に、覚醒した意識。
見知らぬ天井と、頬に触れる冷たい空気。
布団は掛けられている。
ここは、そうだ、仕事で訪れた立見の家だ。

「………」

ぼんやりとした頭を振りながら、半身を起こす。
頭は痛いが、体は軽い。
力が満ちて、全身の隅々まで熱が行き渡っている。
頬がぱりぱりと渇いて、痛い。
この感触には覚えがある。
泣いた後、涙が渇いた後の、痛みだ。

「………っ」

思い、出した。
寝てしまう前に何があったか思いだした。
脳裏に蘇った、生々しい記憶に、叫び出しそうになる。
慌てて目を閉じて、口を押さえる。

「………!」

叫び声を押し殺してから、目を開く。
辺りを見渡すが、広い部屋の中、布団は二つ敷かれている。
けれど隣の布団には誰もいなかった。
寝た跡はなく、きっちりと敷かれてそのままだ。

「………天っ」

いなくてよかったのか、いたほうがよかったのか、分からない。
さっきの羞恥と屈辱を思いだして、全身が怒りで熱くなる。
また、意志を無視された。
また、好き勝手に嬲られた。
物のように扱われた。
志藤さんにも、みっともなく泣きわめいて弟に好き放題にされる姿を見られた。

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ、嫌だ!」

自分で自分の体を強く抱きしめる。
そうしなければ、バラバラになってしまいそうだ。
俺は物じゃない。
弱くても、馬鹿でも、天に縋って生きていかなければいけなくても、俺は意志を持っている。
あんな風に好き勝手にされるようないわれはない。

志藤さんはどう思っただろう。
こんなみっともなくて情けない俺に失望されてしまっただろうか。
弱くて弱くて弱くて、どうしようもなく弱い。
あんな姿、見られたくなかった。

強いと言ってくれたのに。
友達になりたいと言ってくれたのに。
もう、呆れて軽蔑されて嫌われただろうか。

志藤さんは、どこへ行ったのだろう。
あの後、二人はどうしたのだろう。

「い、やだ」

嫌だと言ったのに。
やめてほしいと言ったのに。
俺の希望は、何一つ聞いてもらえなかった。
天はやっぱり、俺の意志を、何一つとして認めていない。
意志のある人間だと、認識してもらえないことは酷く哀しく、惨めだ。

「………っ」

カタリと、障子の向こうで音がした。
天が帰ってきたのだろうか。

「いや、だっ」

嫌だ。
こんな感情のまま、会うのは嫌だ。
まだ、好きにされてしまうかもしれない。
怖い。
嫌だ。
惨めだ。
悔しい。
哀しい。
怖い怖い怖い。

感情のまま、部屋を飛び出す。
天が帰ってくる可能性があるあの部屋に、今は少しでもいたくなかった。
皆もう寝ているのだろう、静まり返った屋敷の廊下を足音を殺して走る。
どこに行けばいいかなんて分からない。

この地に俺の知る場所はない。
一兄の部屋のように逃げ込む場所はない。
泣いていたら慰めてくれる大きな手はない。

自然と知った道を辿って行くうちに、当主の部屋に辿りついた。
障子が僅かに開かれ、そこから冷気が吹き込んできている。
夜も窓が空いているのだろうか。

「………あ」

そっと隙間から覗き込むと、そこは一面青い世界だった。
広い畳敷きの部屋は、窓が全て開け放たれて、湖を一面に映している。
月明かりに青い白く輝く湖が、そのまま部屋の中も冷え切った色で照らしている。
明りはついていないのに、全てが見通せるほどに明るい。

その一面の青の世界に、白い浴衣を纏った女性が佇んでいた。
凛とした白い横顔に、黒く長い髪。
それは思わず見とれてしまうほどに、神秘的で幻想的な世界。
今までの嵐のような感情の波が、思わず一瞬で静まってしまうほどに、静謐な空間。

「おや、三薙さん、眠れないのですか?」
「つゆ、こさん………」

俺の声に気付いたのか、女性がこちらを振りむく。
それはさっき会った時と同じ朗らかな笑顔で、神聖さが緩和されて安心する。
一瞬、露子さんが人ではないように見えた。

「す、すいません」
「何を謝っているのですか?」
「え、と、邪魔してすいません」
「私も眠れなくて暇つぶしをしていただけですよ。嫁入り前の娘は、期待に胸を膨らませて眠れないものだ」

緊張なんか一切感じない声と表情で小さく笑う。
そして俺に向かって手招きをした。

「よろしければどうぞこちらへ」

このまま立ち去るのも部屋に戻るのも気が進まなかったので、招き入れられるがままに部屋の中に入る。
人と、話したかったのかもしれない。

「寒くはないですか?」

そう言われて、ようやく自分が浴衣一枚なことに気付いた。
寒さも、あまり感じていなかった。
湖に面したこの部屋は、冷凍庫の中のように寒い。
しかし、露子さんも浴衣一枚だ。

「露子さんの方がずっといたなら寒いでしょう」
「私は慣れていますから」

露子さんは湖に視線を向けて、穏やかに笑う。

「幼い頃からここで、この湖を見て育ちましたから」

その愛おしく温かみのある表情に、露子さんのこの場所に対する愛情のようなものが感じられた。
こちらまでなんだか心が温かくなる。

「目を赤く腫らして、なにやら訳ありなようですね」

ぼんやりと露子さんを見ていると、こちらを見て首を傾げる。
咄嗟に視線から逃れるように、顔を背けてしまう。

「………っ」
「言いたくないのなら聞かないですよ」

露子さんが俺の態度に、小さく笑う。
馬鹿にするでもなく、安心させるように。

「そもそも私は他家に興味がない。というかぶっちゃけたつみ以外のものに興味がない。事情を聞かされても親身に相談に乗ると言うことも不可能だしな」

きっぱりさっぱりさばさばした言葉は、拍子抜けしてしまう。
とりあえず詮索されることも、同情されることもないのは助かるが。

「………露子さんは、たつみを、愛してるんですね」
「そうですね。愛している」

一切の躊躇いのない首肯。
その迷いのなさを、羨ましくも感じる。

「そんなに、家が、大事ですか」
「ふむ、それは難しい問題だ」

けれど、質問に、今度は迷うようなそぶりを見せる。
不思議に思っていると、逆に質問される。

「三薙さんは、家が好きですか?」
「………家族が、好きです。だから、家が好きです」
「私も家族は大切だ。伯母も父も母も姉も弟も愛している」
「そう、なんですか」

俺の答えに満足げに頷く、露子さん。
家ではなく、家族を愛しているということなのだろうか。
俺と同じで。
いや、俺は、本当に家族を愛せているのだろうか。
天に、これまでと同じように近づこうと努力することが出来るのだろうか。
俺の意志を無視するような、男に。
俺を裏切った男に。

「露子さんは、お姉さんとは………」

ああ、また俺は聞き過ぎようとしている。
他家の事情に関わるな。
霧子さんと露子さんの仲と、俺と天の問題は全くの別問題だ。
人に答えを、求めるな。

「………その、ごめんなさい」
「霧子が逃げたことは別に恨んでいない」
「あ」

俺が飲み込んだ質問に、露子さんが答える。
恥ずかしさに顔が熱くなる。

「ふふ、だから笑っていてください。からかいたくなってしまう」

露子さんは、くすくすと朗らかに笑う。
俺の失礼な態度を気にすることもない。

「まあ、得体のしれないものと寝ろと言われたら、姉のような人間には無理だろう」
「ね、るって」
「同衾するということですね。婚姻とは名ばかりのものではない」

頭ががつんと横殴りにされたような衝撃を受ける。
つまり、それは、龍神と、関係を持つということなのか。
驚きに言葉を失っていると、露子さんが指を一本立てて悪戯っぽく首を傾げる。

「方法については企業秘密です」
「なら、余計に」

裏切った姉を、許せなくないのか。
家に縛られるのは、嫌ではないのだろうか。

「言ったでしょう。嫌ではない」

また俺の言葉の先を引き取って、露子さんは首を横に振る。
そして穏やかに嬉しそうに笑った。

「私は、何よりこのたつみを愛しているんですよ」

だからと言って、そのために露子さん一人犠牲になるのは、許されるのだろうか。
いや、許す許さないではない。
でも、女性が、神と添い遂げる。
それは、今後の幸せを享受することは出来ない、ということではないのか。

「そんな泣きそうな顔をしないでほしいな。私は全てを受け入れている。同情されるような類のものではないのだが。本当に」

露子さんが転んで泣く子を見るような表情で、困ったように笑う。
本人が受け入れているのなら、俺が何かを言うことではない。
それは、おこがましいことだろう。
それは分かっている。
分かっているのだが。

「………湊さんは、そのこと」
「知っているだろうね」

何でもないように、一つ頷く。
その後、少しだけ思案するように口元に手を当てた。

「………ああ、なるほど。だから最近暗いのか」
「露子さんのこと、すごく尊敬してるみたいでした」
「もしかして私のことを心配してくれていたのかな。気づかずに申し訳ないことをしたな。私はそういう感情の機微に疎いんだ」

本当に困ったように、頬をぽりぽりと掻く。
いつも飄々としている人だから、そんな動揺した様子がなんだか微笑ましかった。

「後は、自分の家の関わり方、とか」
「そういえば、そんなことを質問された気がしたな。そうか、そういうことだったのか。別に湊も逃げたければ逃げてもいいんだけどね」

そこで静まり返っていた湖が、バシャリと跳ねた。
びくりと飛び上がる俺とは反対に、露子さんがくすくすと笑う。

「おや、またお怒りだ。そう怒るな」

外に向かって話しかけるが、湖は波紋を残しながらもまた静まりかえる。
本当にここには、龍神がいるんだ。
龍神がいて、龍神の花嫁がいる、たつみ。

「………そういえばご両親は?」
「二人とも商売で家を空けがちなんですよ。たつみでは希少な香木や花が取れるんだが、それが中々高値で売れてね。今は拠点を外に置いてるんだ。湊もそれを継げば将来は安泰なんだが」

それが、たつみの恵みなのか。
捨邪地を持つ古い土地は、経済的には潤っていることが多い。

「後はもう一つ、今は姉を追っている」

露子さんが悪戯ぽく瞳を輝かせる。

「姉と言うよりは、家宝をね」

首を傾げると、露子さんが部屋の奥の床の間を指さした。
昼間は気付かなかったが、そこには刀掛けが置いてある。
けれど、刀掛けの上に乗せられているべき、刀はない。

「あそこに刀があったんだ。止水と言ってね、龍を制して従わせたと言う伝説の名刀だ」
「しすい」
「ああ、切刃造りの綺麗な刀だったんだが、姉の失踪の日に一緒に失われてしまってね。両親は姉と共にそれも探しているんだ」

家宝の刀。
龍を制した。
なんか、嫌なフレーズだ。

「………ないと、儀式に、影響が出る、とか」
「うん、まあ、そういうこともあるね」
「ええ!?」

俺が思わず声をあげてしまうと、動揺が楽しかったのか露子さんがまた笑った。

「はは、大丈夫。安心してくれ」

何が大丈夫なのか、さっぱり分からないが、露子さんが言うのなら大丈夫なのだろうか。
本当に大丈夫なのか。
龍が制しきれないとかないだろうな。

「そういえばこんな綺麗な月の夜だったね、霧子が出ていったのも」

俺がぐるぐると考えていると、露子さんが外を見て目を細める。
その途端、またばしゃりと湖が跳ねる。
魚とは思えない、大きな水飛沫。

「まだ、未練があるのか、情けない男だ」

揶揄するように露子さんが言うと、もう一度ばしゃりと水が跳ねる。
こちらに水飛沫がきそうだ。
ていうか、龍が襲ってきそうで怖い。
なんか露子さんは、龍が怒りそうなことばかり言うな。

「さて、そろそろ寝ないと明日も辛いだろう」
「あ」

じっと湖の波紋を見つめていると、露子さんが声をかけてくる。
そうか、明日も仕事だ。
俺に役目があるかどうか分からないが、体調は万全にしておかなければいけない。
それが、俺の務めだ。
でも、部屋にはまだ戻りたくない。

「………」
「軽く体でも動かすか。汗を流せば嫌なことなど忘れてしまう」
「え」

露子さんが部屋の隅にすたすたと歩いて行くと、床の間の地袋を開く。
そして二振りの竹刀を取り出した。
なんでそんなところに竹刀があるんだ。

「どうぞ」
「わ、え、なに」

放り投げられたそれを咄嗟に受け取ってしまう。
露子さんは俺が受け止めたのを見届けて、素早く駆け寄ってくる。

「さて、では不意打ち御免」
「う、わ!」

いきなり突きだされた竹刀を、慌てて自分の竹刀で防ぐ。
露子さんは一つ笑って、一旦体を引いた。

「ふふ、さすがは宮守の直系。反応が早い」
「ちょ、ちょっと」
「さて、次行きますよ」

言葉通りもう一度、片手に持った竹刀を今度は腹をめがけて突いてくる。
それも咄嗟に防いで、今度は俺が距離ととる。
露子さんは逃がすまいとするように、踏み込んでくる。

「わ、た、た」
「打ってきてもいいんですよ」

剣道ではなく、宮守と同じ古武術の流れを組むものらしい。
形式ばった型ではなく、的確に俺を仕留めようと打ち込んでくる竹刀は、中々に重い
一兄や天ほどとは言わないが、女性の非力さを遠心力と踏み込みでカバーしている。

「く、っ」
「おっと」

やられっぱなしでもいられないので、打ち込まれた竹刀を弾き、今度は俺が踏み込む。
突きいれた竹刀は、露子さんによって防がれる。

「はっ」

更に逃がすまいとして打ち込むと、露子さんがそれをうけて眉を顰める。
いけるだろうか。
そのまま、下段から掬いあげるように露子さんの腕を狙う。

「いいね。浴衣姿の少年が足元を肌蹴て顔を上気させているという図は中々に艶めかしい」
「な!?」

寸前で防がれ距離をとられたところで、露子さんがからかうように笑う。
そういえば浴衣一枚だったので、足元が肌蹴てしまっている。
さっきのことも思い出されて、咄嗟に動きが鈍ってしまう。

「はは!どうかな、私も中々色っぽいだろう?」
「ええ!?」

つい、露子さんの足に目が行ってしまう。
白い太腿が、大胆に露わになっている。
綺麗だ。

「あ」
「ほら、一本」

駄目だ、と思った瞬間に、頭をパシリと叩かれていた。
痛くないので、軽くだったのだろう。

「………」

納得いかない。
とても卑怯だ。

「精神統一が足りないな、三薙さん」
「………強い、ですね」
「はは、ありがとう」

まあ、確かに、俺の修行が足りないのかもしれない。
これが一兄や天だったら、こんな言葉には惑わされなかっただろうし。
でも、やっぱり卑怯だ。

「………ご兄弟全員やってるんですか?」
「姉は一切やってなかったね。湊はやっているがまだ私の方が強いようだ」
「必須じゃないんですか」
「ないね。まあ、推奨はされている。立見の先祖は剣の腕をもって龍を従えたのだから」

推奨されている剣を持ち、聡明で、行動力もあり、なにより家を愛し、里を愛する女性。
ちょっと接しただけだが、とても当主に相応しい女性だ。
噂に聞いた霧子さんよりも、ずっと露子さんの方が適任だと感じる。

「………なぜ、龍は………」

最初、露子さんを選ばなかったのか。
また失礼なことを言おうとして、口をつぐむ。
けれどやっぱり露子さんは俺の疑問を正しく拾う。

「この地の龍は中々に保守的なようでね。変化を嫌うようだ」
「変化?」
「さっさと降伏してしまえばいいのにね」

どこか意地悪そうににやりと笑う。
露子さんの言葉の意味は、よく分からなかった。
保守的だから、霧子さんを選んだ。
霧子さんの方が、めちゃくちゃやってるのに。

「どうかな、少しは眠くなりそうかな」
「………そう、ですね」

体は温まり、手足がだるく感じる。
動いたせいで、余計な考えも、薄れた。
そろそろ、眠れるかもしれない。
部屋に天がいなければ、だが。

「………」
「どうしました?」

就寝の挨拶をして、去ろうと思った。
けれど一つだけ気になり、立ち去りがたい。
逡巡する俺を、露子さんが促す。

「その、露子さん、こういうことを聞いていいのか、分からないのですが」
「なんだって聞くといい。大抵のことは私にとって瑣末なことだ」

本当になんというか、ある意味男らしい人だ。
さばさばとしていて、はっきりとしていて、竹を割った性格っていうのだろうか。
なんか俺の周りって強い女性が多いな。

「その、露子さんは、龍と、その………」
「寝ることかな?」
「………」

やっぱり、俺の疑問は簡単に拾われてしまう。
ていうかもう、心が読まれているんじゃないかって思うレベルだ。
この人の感情を読み取る能力がすごいのか、それとも俺がバレバレなのか。

「儀式、とか、そういうことで、そんなこと、するの、嫌じゃないんですか」

露子さんが疑問を聞きながら、じっと俺の顔を見つめる。
何もかもを見透かされてしまいそうで、目を少し逸らす。
露子さんが小さく首を傾げた。

「察するに三薙さんもそういうことをすることがあるのかな?」
「………っ」

息を、飲んでしまう。
どうしよう。
言い訳をしなければ。
そんなことないと、言わなければ。

「ああ、別に追及するつもりはない。そんな青い顔をしないでくれ」
「………」

露子さんが困ったように笑う。
一歩近づくと、安心させるように俺の肩をポンポンと叩いてくれた。

「可哀そうに、潔癖な少年には辛いだろう」
「露子、さん」

辛いと、慮ってくれるのは、安心する。
優しい笑顔に、心がほわりと緩む。

「しかし私はあまり参考にならなそうだ。嫌じゃないからね」
「な、んで」
「そうだな、そもそも私は性行為に対してそこまで抵抗がない。純潔とか貞操観念といったものが希薄なものでね。ああ、まだ処女だけどね」
「なっ」
「本当に潔癖だね。あまり気に病まなくてもいいんじゃないか。セックスの一回や二回、減るもんじゃない」

年頃の女性の赤裸々な言葉に、顔がどんどん熱くなっていく。
露子さんが見ていられなくて、顔を伏せる。

「それに言っただろう。私はたつみを愛している」

露子さんは黙りこんだ俺を気にせず先を続ける。

「このたつみと添い遂げられるなら、私には本望だからね」

迷いの一切感じられない、晴れ晴れとした口調でそう言った。





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