雫さんはその長身に見合って、足が速い。 背、俺と同じぐらいかな。 人の家の廊下を行儀悪く走って、必死で追いかける。 けれど雫さんはあっという間に外に出てしまい、そのまま駆けて行く。 靴をはくのももどかしく、履きながら走る。 初秋の夜の空気は冷たくて、風に一気に体温が奪われ体が大きく震える。 何か羽織ってくればよかった。 「ま、待って、えっと、雫さん!」 でもそうも言ってられない。 ちょっと目を離したら、雫さんの姿はあっという間に見えなくなってしまうだろう。 まだ、追いつける距離にその背中はある。 「待って!」 「付いてくんな!」 て言われても、そういう訳にもいかないし。 足、早いな。 俺も遅い方じゃないんだけど。 距離がじりじりとしか縮まらない。 息が上がってきた。 食べた後だから、わき腹痛い。 「雫さん!」 「来んなって、言ってるでしょ!」 雫さんの息も上がっている。 話すのが苦しそうだ。 よし、後少しだ。 「来るな!」 「え!」 もう少しスピードを上げようと足を速めた時だった。 雫さんがくるりと振り返って、何かを投げつけるような仕草をした。 風に乗って、白いものがすごい勢いでこちらに向かってくる。 「あ、わ、うわ!」 それは鳥のような蝶のような、白い羽を持った、質量のない生き物。 蝶に近い気がするけど、それは嘴を持っていて、しかもつついてくる。 「わ、ちょ、やめ!」 恐らく昼間雫さんが放った使鬼のようなものなんだと思う。 が、咄嗟のことに力も練れずに、俺は必死に両手で顔をかばう。 「いた、いたたた!」 ちくちくちくちくと顔をかばう腕がつつかれる。 しかも皮膚が啄ばまれるその度に、力が食われている気がする。 やばいな、これ、地味に。 「いた、痛いって」 えっと、力を練らなきゃ。 まさか攻撃されるとは思わずに、油断しすぎた。 水を、綺麗な流れる水をイメージ。 「うわあ!」 イメージしようとして、目をつつかれそうになり、咄嗟に目を瞑る。 そして平衡感覚を失って、俺はその場に前から倒れ込んだ。 膝を強か打って、骨に響く。 「いってえ!」 て、こんなことしてる場合じゃない。 早くあの使鬼をどうにかしないと。 「て、あれ」 いつのまにか、攻撃が止んでる。 何事かと思って地べたに座り込んだまま、辺りを見回すとそこには昼と同じに、白い飾り切りのような綺麗な形をした紙が落ちている。 何か書かれているのは、呪かな。 なんでいきなり力を失っているんだろう。 「………何やってんの、あんた」 そこでいきなり凛と澄んだ声が、降ってくる。 四つん這いみたいな格好のまま上を見上げるとそこには呆れた顔をした雫さんの姿があった。 あ、戻ってきてくれたんだ。 足と地面についた手は痛いが、安心して息をつく。 「何やってるって、言われても………」 それは俺が聞きたい。 ていうか仕掛けたのは雫さんなのに、それはひどくないか。 「………あんた、宮守の人間なんじゃないの?」 「宮守の、人間だけど」 「あいつは、簡単に振り払ってたじゃない」 「………その、俺、弱いから」 あいつって、天のことだよな。 そう言われると、言葉がなく正直に答えた。 雫さんはその言葉に、顰め面のまま首を傾げた。 「力、ないの?」 「ない訳じゃないけど、強くないし、うまく作れない」 そう答えると、ますます眉間に皺を寄せる。 「………なんで仕事に来てるの?」 「………勉強中なんだよ」 痛いところをつかれて、もごもごと応える。 駄目だ、話を変えよう。 俺はその場に落ちていた白い札を取り上げる。 一瞬触るのが怖かったが、特に嫌な気配は感じない。 雫さんの力がまだわずかに帯びているが、綺麗な赤い力だ。 うん、綺麗だな。 「これ、えっと、雫さん、がやったの?」 「そう」 雫さんは俺の手から札を取り返して、ポケットにしまう。 そしてやっぱり不機嫌そうに軽く頷いた。 「すごいね。ほとんど独学なんだろ?」 「でも、あの生意気なガキには簡単にあしらわれた」 「でも、俺は出来なかったよ」 「だってあんた弱いじゃない」 「ゆ、油断してなきゃ出来たよ!」 雫さんは何も言わなかった。 ただ、呆れたように目を細めただけだった。 は、恥ずかしい。 「………その」 「とりあえず、立てば?」 「あ、う、うん」 雫さんが白くて長い指を持った手を差し出してきた。 綺麗な、細い指をした女性らしい手。 ちょっとなんか照れくさかったが、雫さんは全く何も気にしていなかったので俺も気にしないように努めてありがたく借りる。 なんとか立ち上がると、右膝がひりひりと痛んだ。 服は破けてないけど、もしかしたらすりむいたりしたかも。 「ありがとう」 「まあ、私のせいだし」 「雫さんは、こういう術、どうやって勉強したの?」 「家の文献読んで」 「すごいね」 あの膨大な量の文献を探って、自分で勉強したのか。 俺には出来ないかもしれない。 すごい、努力家なんだな。 きつい表情の整った顔は、確かに真面目そうな印象を受ける。 けれど俺の言葉に、雫さんは悔しそうに唇を噛んだ。 「文献を読んで勉強しても、実際に大切なところは、書いてないことが多い。こんな弱い術しか使えない。おじさんもお兄ちゃんも簡単な術しか使えないし」 「………そっか」 「悔しい。力は、あるのに」 確かに、ほぼ独学でここまで出来るってことは、結構強い力を持ってるんじゃないだろうか。 使い方を、あまり知らないだけで。 「………いいな。俺は、力がないから」 「でも、教えてくれる人がいるじゃない」 「………そっか。そうだよな」 でもやっぱり、力を持っているのは、羨ましいな。 強い力が欲しい訳じゃない。 いや、強ければ強いほどいいけど。 最低限、誰の手も借りないで生きていけるぐらい、欲しいな。 雫さんからしたら、俺は恵まれた環境に見えるんだろうし、実際そうなんだろうけどさ。 「あのクソ生意気なガキと兄弟なんだっけ?」 「うん。あいつは、俺と違って、強いよ」 「いいじゃない、お兄ちゃんに教えてもらえば」 一瞬、何を言われてるか分からなかった。 そしてそれを理解して、頭に一気に血が上った。 「お兄ちゃんじゃない!あいつが弟!」 「え?」 「俺が兄貴!あいつ中学生!俺は高校生!」 「嘘!」 うわ、逆に傷つくなその反応。 まだ、わざととかのほうがよかった。 まあ、いいけどさ。 分かってたけどさ。 「え、あんたいくつなの?」 「高校二年!」 「ああ、そうよね。それくらいよね。うん。でもてっきりあいつが兄貴かと思った。なんでだろう」 「………」 雫さんが不思議そうに首を傾げている。 まあ、あいつの偉そうな態度とか偉そうな態度とか偉そうな態度とかがそう思えたんだろう。 そうに違いない。 俺は確かにそんな背は高くないけど平均的だし、別に童顔でもないし、雰囲気が幼いってことはない。 後はまあ、力が弱いってところからそう思えたんだろう。 そう思いたい。 そういうことにしておこう。 「雫さんはいくつなの?」 「高三」 「あ、一つ上なんだ」 「そうよ」 うん、確かにそのショートカットと釣り気味の目のきつい印象と相まって大人っぽいしな。 背は、ちょっとだけ俺の方が高い。 よかった。 でも165センチはありそうだ。 「………あいつが中学生ね」 「あいつは、気にしない方がいいと思うよ。化け物だから」 「………」 それでも雫さんは俯いて、もどかしそうに手を握る。 なんで、そんなに、力を求めているんだろう。 一人で、怪異を解決しようとするなんて、なんでそんなに、気負っているんだろう。 「ね、雫さん。俺たち、別に雫さんの邪魔しようと思ってないよ。ただ、怪異の原因を突き止めて、解決したいだけなんだ。協力、できないかな」 「………」 雫さんは胡乱な眼で俺を見る。 その視線に少し怯むが、でも、なんとか見つめ返して続ける。 だって、このままじゃ雫さんの身も危ない。 「雫さんが、怪我をしたら、祐樹さんやご当主も、哀しむよ」 「あのおじさんが私のことを心配するもんか」 「………え」 「あの人は、お兄ちゃんを当主にしたくて仕方ないんだから。私は邪魔なの」 別に怒ったりしている様子もない。 どこか、諦めのようなものを感じた。 俺は、何も知らないから、そんなことないよ、なんて言えない。 「………」 「………別にそんな顔することないわよ。変なこと言った。気にしないで」 情けなく何も言えず黙り込んでしまうと、雫さんは軽く笑った。 初めて見た笑顔だけど、痛々しくて、辛い。 「で、でも、祐樹さんはすごい心配してた!」 「………うん、お兄ちゃんは………」 「うん、心配してたよ」 祐樹さんの心配は、きっと本物だと思う。 雫さんは、ちょっと悲しげに眉をひそめて視線を落とす。 祐樹さんのことは、雫さんも、大切に思ってるんだ。 よかった。 「ね、だから、石塚の家や、雫さんと、協力して、一緒に解決できたらいいんじゃないかな」 「………」 「え?」 雫さんが、小さな声で何かを言う。 かすかな音で聞こえなくて、聞き返すと、雫さんは落としていた視線を上げた。 強い感情に満ちた目に睨みつけられ、息を呑む。 「うるさい!」 「雫さん………」 「私は、やらなければいけないの!あんたたちの手なんて借りない!私がやらなきゃ、いけないのよ!」 急に感情を荒げた雫さんは、そのままくるりと俺に背を向ける。 「雫さん!」 「早く帰れ!」 言い置いて、駆けだす雫さんを追いかけようとする。 しかしもう一度白い羽を持つ生き物が俺の顔に向かって飛んでくる。 「うわ!」 今度は少し身構えていたので、寸前で力を作ることが出来た。 なんとか手に力を集中して、顔をかばう。 するとそれは俺の手に当たってはじかれ、ひらひらと地面に落ちて行った。 地面に横たわったそれは、もう何も力をもたない、ただの紙だった。 「………雫さん」 顔を上げても、そこにはもう、長身の少女の姿はなかった。 |