それは人というより獣の姿をしていた。 けれど犬とかよりは、手足が長くアンバランスな形。 四つん這いになった、手足の長い人間、というのが、一番近いかもしれない。 全身は黒い毛で覆われ、獣の匂いを撒き散らしているが。 「俺が押さえていますから、力の流れを意識してください。どこが中心か分かりますか?」 熊沢さんのこんな時でも飄々とした響きをなくさない明るい声が、問う。 それは俺に敵意をむき出しにしながらも、手足を地面に縫いとめられて、動くことが出来ない。 吐き気がするような闇を撒き散らしながらも、ただ、その毛に覆われて目も鼻も見えない顔で唯一のパーツである牙を覗かせて威嚇している。 「………頭の、中心?」 「はい、そうです。それともう一つあります。一つ見つけたからと気を抜かないで、力の流れを常に感じて、最初に必要なのは『目』に集中すること」 目、というのは、顔についている目という意味ではない。 力を感じる、異形の者を見る、視界とは違う、感覚。 顔についている目は閉じ、その感覚を広げることに集中する。 その獣の形をした鬼の中で、黒い黒い力が、常に体の中を動き回っているのが分かる。 そしてそれは、二か所だけ濃い闇になっている。 一つは頭の中心。 それと。 「………喉」 「はい、そうです。どういう流れか分かりますか?」 「えっと、喉から、頭へと、抜けてく……?」 「正確には、喉が入り口、力が放出されるのが頭です。どちらを狙えばいいですか」 先ほど力を叩きつけられ攻撃された。 あれは頭から出ていたのか。 焦ってちゃんと見ることが出来なかったが、この短時間で熊沢さんはそこまでは把握してたのかな。 やっぱり俺は、注意力とか、そういうの、足りないな。 「えっと、喉を攻撃、する?」 「はい、今回は喉です。一人で祓う時は最初に攻撃されるところを潰した方がいいかもしれませんが」 「はい」 そっか、今は熊沢さんが押さえてくれてるから、悠長に狙えるけど、一人だったらこうはいかないもんな。 先に攻撃する手段を潰した方がいい時もある。 「では、どうぞ。大きな力は必要ありません。一点を狙うだけでいいです。省エネでいきましょう」 「はい」 熊沢さんらしい言葉に、ちょっと頬が緩む。 いい感じに、力が抜けた。 気負わなくていい。 普段やっているように、やればいい。 「宮守の血の盟約に従い……」 すでに力は用意してある、あとはこれを高めて叩きつければいいだけだ。 事前に力を纏わせたものを用意しておく。 それだけで行動は早くなる。 天でいえば、あの水晶のストラップ。 俺は今回は鈷に、力を纏わせておいておいた。 長くはもたないが、短時間なら十分だ。 「闇より出でしもの、闇に返れ!」 呪を結び、鈷に纏わせた力を投げるようにして、放出する。 そのまま力を叩きつけた方が威力は大きいが、今回は遠距離から攻撃するための練習だ。 なんとか致命傷を食らわせられるぐらいの力を作ることができた。 「………っっっ」 黒い獣は、喉に力を叩きつけられ、声もなく、もがき苦しむ。 そして、霧のように空気に溶け込み、消え去った。 人気のない空き地は、しん、と静まり返る。 辺りの気配を探って、どうやら完全に終わったことを知る。 強張っていた体から、力が抜ける。 「は、あ」 「はい、お疲れさまでした」 「ありがとう、ございます」 スーツ姿の熊沢さんが、肩をぽんと労うように叩いてくれた。 なんとか終わって、ほっと一息つく。 今まで勢いでやっていたようなことを、一つ一つ確かめるようにして行うのは、思いの他、神経を使った。 本当に俺、あんまり何も考えてなかったんだな。 いつも、結構無駄に力を使っていた気がする。 「全然大丈夫じゃないですか。力の使い方はさすがに手慣れていますし、俺が教えることなんてないですよ」 「いえ、今回無事に終えたのはも熊沢さんのサポートがあったからです」 「またまたご謙遜を。これまでの仕事も、三薙さんはちゃんとやってらしたと思いますよ。後は、実戦経験が足りないだけで」 「………俺はいつも皆に迷惑かけてばかりです」 確かに、経験が少ないせいか、焦っていつも以上に力が出せないことは多い。 昔からやっている捨邪地の簡単な祓いは、すでに準備が完全に整えられていることが多かった。 俺は最後の仕上げをするだけ。 特に何も考えることなく、落ち着いてことに当たることが出来た。 闇に魅入られた時だって、俺は逃げていただけ。 いつだって家族に助けてもらっていた。 ちゃんとした仕事をするようになって、どんだけ自分が役立たずなのかを思い知った。 「まあ、四天さんはスパルタですからね。獅子の子落とし並みですね。賢く強い人ですから、なんでも自分でしようとしちゃいますし、あんまり教えるのには向いてないかもしれませんね」 「………あいつは、なんでも出来るから、出来ない奴がなんで出来ないのか、なんて分からないんですよ」 出来ない俺の気持ちなんて、分かることはない。 俺がなんで出来ないのか、なんて分からないんだろう。 天才がどういう思考回路をしているのか分からないように、天才は凡人がどうして何もできないのか分からないのだろう。 小さく、熊沢さんが笑う。 「確かに。単独行動に慣れてらっしゃいますから、秘密主義なところありますし、自分で結論が出るまで人に情報シェアもしようと思われないみたいですし、人に教えたり、対等な人間と行動するのって、あんまり向いてないんじゃないですかねえ。俺ごときが偉そうに言うことじゃないですけど」 本当に、うちにいる使用人の人達ではありえない言動だ。 うちで仕事をしている人達は宗家の人間にはとにかく絶対服従で、口をきくことすらあまりない。 まして歴代でも稀な力を持つと言われる四天について、こんなことをぽんぽんと言うのは熊沢さんだけだろう。 「………なんで俺、あいつと一緒に仕事、してるんでしょうね」 「さて、俺には先宮の深遠なるお考えは分かりません」 まあ、俺が供給を受けるのに、四天が一番都合がいいからだろうけど。 何かあった時、力をもらえる人がいないと、どうにもできない。 「俺みたいなのが宮守宗家の方に教えるってのも分不相応って感じですけどね」 熊沢さんが肩をすくめる。 この前見た熊沢さんの力の使い方が参考になりそうだったから、今回は父さんに頼んで熊沢さんの仕事に同行させてもらったのだ。 熊沢さんは、見るだけでいいと言った俺に、丁寧に仕事の手順を教えてくれた。 あまり力も強くない鬼だったが、たった一回の祓いで、随分得るものがあった。 「すごい勉強になりました。………俺は、宗家なんて名ばかりだし」 「はい、そういういじけた発言は駄目ですよ」 指を一本立てて、飄々とした大人の男性は笑う。 真面目な外見なのに、どこかふざけた印象を受ける、面白い人。 「根拠がなくてもいつでも自信満々でいた方がいいです。胸を張って、俺はなんでも出来るんだって感じで。自信のある人は、実力以上に大きく見えるものですから」 「それって、嫌な奴じゃ………」 「人の都合を考えない嫌な奴が、結局この世で一番強いですよ。いじけた人は、どんどんつけこまれて余計にいじけるだけです。人にも闇にも飲まれるだけ」 そう習ったでしょう?と悪戯っぽく聞かれて、思わず笑ってしまう。 いじけるなんて表現はしないが、確かにそういったことを言われている。 弱い心に、邪は忍び込む。 強く前向きで明るい心には、闇は近づかない。 「………はい。いじけてる暇あったら、自信が持てるように、精進します」 「その方が健康的ですね」 ああ、本当に、いい人だな熊沢さん。 どこか双兄に似てるけど、ずっと大人で、ずっと余裕がある。 一兄と同じか、それくらいだっけ。 二人とも、俺と7つしか変わらないのに、なんでこんな大人なんだろう。 「どうでしたか、今回の仕事は?少しは勉強になりましたかね?」 「はい、すごく。もう少し、こういうあまり複雑じゃない仕事、こなしたいです」 「そうですね。そちらの方がいいかもしれないですね。四天さんが任される仕事は面倒なのばっかりですから」 本当に、その通りだ。 四天の仕事を俺が手伝うって、ビート板で25Mがやっとの奴が、トライアスロンやるようなものだ。 もうちょっと地道に、力をつけたいな。 力が足りなくなっても、熊沢さんとかがいれば、ある程度は平気なんじゃないだろうか。 最近はちゃんと供給も怠らないようにしているし。 「父さんに、頼んでみます。もしかしたらまた熊沢さんにご迷惑、おかけしちゃうかもしれないんですけど………」 「俺に任されるとは限りませんが、大歓迎ですよ。仕事が楽になる」 俺がサボれますから、なんて軽く言う。 それは、嘘だ。 俺のサポートをして、俺に力の扱い方を教えながらやる仕事はいつもよりずっと手間だろう。 でも、熊沢さんの気持ちが嬉しくて、俺はただ頭を下げた。 「ありがとうございます」 「いえいえ。俺のためでもありますから」 こういう、さらっと人を気遣えるような人間になりたいな。 俺が宗家の人間だから、気を使ってくれているだけかもしれないけど。 でも、それでも、この優しさが嬉しい。 「本来なら他の宗家の方にご指南いただいたほうがいいでしょうが、一矢さんはお忙しいでしょうし、双馬さんはまた仕事の質が違いますしね。普通の仕事もしてますけど」 確かに、一兄に教えたもらえたら、それが一番いいんだろうな。 熊沢さんに迷惑をかけることもなくなるし。 でも、一兄は副業も本業も次期当主見込みとしての勉強もある。 俺の面倒を見てくれ、なんて言えない。 双兄の力は、俺とは全く異質だしな。 一通りの祓いはできるみたいだけど、あの人の本領は、夢喰いと言われる、その力だ。 「………あ、そうだ、熊沢さん、双兄と、仲いいんですよね?」 「仲がいいっていうとなんだか恐れ多いですが、親しくさせていただいてますね」 今時身分がどーのこーのってもんでもないから、別に友達って言っていいと思うんだけど。 でも、宮城さんとかその辺うるさいし、仕方ないのかな。 「………その」 幼馴染で、今も友人らしい熊沢さんなら、知っているだろうか。 双兄の中にいる、もう一人の俺の姉弟のことを。 「はい?」 「熊沢さんは………」 もし知らないなら、それは双兄が知らせてないってことだから言わない方がいいよな。 なんて言ったらいいのか、分からない。 もし知っていたら、双姉の話を聞きたいんだけど。 語尾を濁して黙りこんだ俺に、何かを察したのか熊沢さんが手を叩く。 「ああ、そういえば、もう一人の双馬さんにお会いしたんですっけ?」 「あ、やっぱり、知ってるんですか!」 思わず、声が少しでかくなってしまって、慌てて口を抑えた。 熊沢さんはそんな俺を笑いもせず、頷いた。 「ええ、ご存じの人は少ないですけど、俺は幼馴染のよしみで」 「会ったこと、あるんですか?」 「はい。何度かありますよ。お綺麗な人ですよね。優しくて強い」 にっこりと優しく笑って言われた褒め言葉が、なんだか自分のことのように嬉しくなる。 双姉のことを、俺達兄弟以外にも、知っている人がいるのが、とても嬉しい。 あの人のことを話せる人がいるのが、嬉しい。 「双姉にも、修行してもらい始めたんです。あの世界で力使うの練習すると、こっちでもやりやすくなるって」 あの夢の出来事の時に、修行をしろと言われたが、本当に実行されるとは思わなかった。 でも確かに、あそこでするイメージの練習は、役に立つような気がする。 今日の力の放出も、大分楽だった。 「あの人はスパルタでしょう?」 「まだ、一回しかやってないんだけど、すごい殴られてます」 はは、っと声をあげて熊沢さんが笑う。 双姉は本当にスパルタで、少しでも気を抜くと容赦なく叩かれる。 熊沢さんは懐かしげに眼を細めた。 「小さい頃も、何度か夢でお会いしました。変わりませんね、あの人は」 「昔からあんな、えっと、元気だったんですか?」 乱暴とか、激しいとか、なんかうまい言い方が思いつかず、元気という表現にした。 それに気付いたのか、熊沢さんはちらりと笑いながら、思い出すように頬を撫でた。 「ええ、俺もよく殴られました」 「ははっ」 熊沢さんが、双姉に殴られているシーンが思い浮かんで、思わず笑ってしまう。 小さい頃の二人は、どんな子供だったのだろう。 家にいたらしいけれど、俺は全然、熊沢さんの小さい頃を覚えていない。 「あの世界では、双馬さん二人が存在できないのが残念ですね。二人の双馬さんと遊べたら、きっと楽しかったでしょうね」 双兄は夢をつなぎ安定させるために、夢の中に入ることはできないらしい。 双姉と意思疎通はできるようだが、そのほかの夢の中の人間と会話とかは出来ない。 確かに、二人と一緒に遊べたら、きっと楽しいんだろうな。 小さな双兄と双姉と、熊沢さんで遊べたら、どんなに楽しかったんだろう。 「仲、よかったんですね」 それを想像して、鼻がつんと痛くなった。 堪えるように頭を何度も振る。 「どうしたんです?」 「いえ、双姉にもちゃんと、友達がいたんだなって、思って」 俺達兄弟だけじゃなく、ちゃんと話して、遊ぶ人間が、いた。 それが、こんなにも、嬉しい。 熊沢さんは優しく目を細めて笑う。 「あの人も、ようやく弟に会えて嬉しいでしょう。僭越ですが、是非どんどん会ってください」 「でも、双兄が家にいないんです」 「それもそうですね」 俺としてはもっと双姉に会いたいんだけど、双兄が家にいなさすぎる。 いつでもいいって言ったくせに、まだ一回しか会えてない。 もっと合わせてくれればいいのに。 「今度は二人で会いに行きましょうか?」 「そんなこと出来るんですか!?」 「ええ、双馬さんの消耗が激しくなるんで、短時間になりますが」 それは、とても楽しそうだ。 きっと双姉も喜ぶだろう。 あの世界はなんでもあって穏やかで綺麗だけど、そこにもっと人がいたら、きっともっと楽しい。 「行きたいです!ああ、だったら一兄とか天とかも一緒に行きたいな」 「4人は……さすがに双馬さんがぶっ倒れるかもしれませんね」 「あ………」 熊沢さんが困ったように、上を向いて頬を掻く。 そうだ。 人が増えれば増えるほど、夢を繋ぐ双兄の負担が増える。 てことは、皆で会いにいくっていうのは、無理なのか。 何人まで、いけるんだろう。 「それに」 「はい?」 熊沢さんが顔を引き締めて、声を低くする。 何を言われるのかと、俺も背筋を伸ばして身構える。 「三薙さんと双馬さんはいいとして、一矢さんと四天さんと布団並べて寝る度胸ないですねえ。特に一矢さんの隣とか、緊張して眠れませんよ」 その言葉に、俺と一兄と双兄と四天と熊沢さんが布団を並べて寝たところを想像する。 なんて、ありえない、光景。 「ぶ、あ、ははっ」 「ね、無理でしょう?」 確かに、それは無理そうだ。 一兄はとても優しくていい人だけれど、使用人の人達とは一線を引いている。 宮守を継ぐ人間として、そうしなければいけないのだろう。 熊沢さんが真面目な顔を崩して、悪戯っぽく笑う。 「ですから今度、二人で会いに行きましょうね」 「はい!」 きっと双姉は、大歓迎してくれるだろう。 |