黒く大きな塊になったギイギイが、俺の体を食らおうとするように覆いかぶさってくる。

「う、わっ」

咄嗟にギイギイに向けようとしていた力を自分を守るものへと変化させる。
結界の張り方をここのところ練習していたこともあり、スムーズに移行させることができた。

キイィィィィィン。

金属が触れ合う音によく似た音が辺りに響いて、脳を揺らす。
俺の薄い青の力に、ギイギイの黒い力がぶつかって、空間を揺らす。
結界ごと覆いかぶさろうと触れるたびに、ビリビリと体が痺れる。

「ギイギイ!」

ギイギイはまるで大きな黒い布のように広がった体を、今度は錐のように鋭く尖らせ結界を突き破ろうとぶつかってくる。
何度も何度も一点を集中して狙われると、だんだんとそこから結界がほころび始める。
ギイギイの狙っているところに力を集めて、耐久度を上げる。

「やめろっ」

すると今度は他の場所が弱くなり、その隙にギイギイの体が二股に分かれ、その一方が頭の部分を狙ってくる。
駄目だ、今度は耐えきれない。

「くっ」

突き破られ、頭をそのまま突き刺されそうになる。
あれに突き刺されたどうなるかは、分からない。
けれど本能的な恐怖から、咄嗟に身をひねって避けようとする。
しかし、避けようとした体を、今度は残っていたもう一方の錐が狙う。
それを更に避けようとして、ブランコにぶつかりバランスを崩す。

「う、あ!」

みっともなく尻餅をついて転んでしまう。
ギイギイの体が目の前まで迫っている。
思わず、目を瞑る。

ギィン。

響く金属音。
脳が揺れて、気持ち悪い。

「………っ」

痛みは、ない。
攻撃は、当たらなかった?
恐る恐る目を開くと、目の前には懐剣を手に立ちはだかる兄の姿があった。

「い、一兄っ」
「油断するな」

きっちりと着こなしたスーツを乱すことなく、一兄はギイギイの錐状になった体を懐剣で危なげなく捌く。
キン、という金属音に似た音が何度も何度も鳴り響き、ギイギイの体の錐が増えていく。
その全てが一兄を狙って執拗に繰り出される。
けれどその全てを時には懐剣でいなし、時には結界で防ぎ、ブランコを使ってかわし、体をひねって避ける。
一兄の力の使い方は、力に満ち溢れた天のように派手さはない。
けれど堅実で洗練されていて、無駄がない。
見ていて安心出来る、完璧なまでにお手本通りの動き。
一兄の力の色は、深い深い青色。
俺の憧れてやまない、たゆまぬ修練の先にある色。

「禍つ者、宮守の血に置いて命ずる、この地に留まりその身を縛れ」

懐剣を振いながら左手で懐から出した札を、ブランコの周りに何枚か撒き散らす。
朗々と呪を唱えると、ブランコ周りに結界が形作られる。
これでギイギイは、ここから逃げられない。

「邪魔を、するな」

ギイギイの声は、相変わらず感情がこもらないがどこか苛立っているように感じる。
その瞬間、ギイギイの体は糸状に広がり、幾百もの細く鋭い針のような黒い力が一兄に降り注ぐ。

「一兄っ」

とても避けられるようなものではない。
俺は慌てて立ち上がり、一兄に向かう力を少しでも逸らそうとする。

「この身に宿りし絆を持ちて、この身を守る刃となれ」

けれど一兄が呪を唱えると、懐剣に宿る力が増す。
そしてそれを振り払うと、一際大きな青い力が一斉に放出され、糸状に広がったギイギイの体が飲み込まれる。

「あ"い"ぃ"あああ」

ギイギイのくぐもった悲鳴が、響く。
それはあどけない子供の声だけに、思わず眉をひそめてしまいそうなほどの痛々しさが籠っていた。

「分散させれば力は弱くなる。そうすればこちらも弱い力で祓うことが出来る」

冷静にギイギイを見据えていた一兄が、ちらりと俺を振り返る。

「三薙、見ているだけか」

言われて、首を思い切り横に振る。
見ているだけなんて嫌だ。
嫌なんだ。

「お前なりにやってみろ」
「はい!」

すでに、ギイギイの力はかなり失われている。
まだ力を集めて錐状になろうとするが、先ほどのまでの勢いはない。
一兄が弱らせてくれたのだから、今のうちにやらなくてはいけない。
改めて鈷に力を込めて、呪を唱える。

「宮守の血に宿りし力を持ちて、歪みし哀れなる神、安らかなる浄化に………」

青い青い海。
一兄のように深い青ではないけれど、よく晴れ渡った日の、空の色を吸い込んだ青。
その青を集め、綺麗な色を作り出す。
ギイギイが俺を狙ってくるが、間一髪で呪が間に合う。
凪いだ海のように美しい青で、ギイギイを包み込む。

「優しき眠りに誘わなん」
「あ、あ"ああああ"あ"あ"あ"ぁ」

ギイギイを食らいつくすように飲み込むと、耳をふさぎたくなるほどに苦しげな声を上げる。
けれど耳を塞いではいけない。
目を閉じてはいけない。

「あぁ…………」
「………」

悲鳴が止むと、辺りはしん、とすっかり静かになった。
気がつけば、すっかり日は落ちている。
暗い暗い幼稚園は、昼間とは違いすぎて、その静けさが酷く寂しい。

「………ギイギイ」

ブランコの間に、子供がうずくまって座り込んでいる。
けれど姿はかすれ、今にも消え去ってしまいそうなほどに弱々しい。
なんと声をかけたらいいのか分からず黙りこむ。

「力が戻っていれば、お前達などには消されなかった」
「………うん」

それは、そうなのかもしれない。
神はそこらへんの妖や邪とは同じだけれど、違う存在。
その力も段違いなことが多い。
数は少ないがいくつか見たことのある神は、どれも圧倒的な存在感を放っていた。
今の目の前の小さな神も、かつてはそのような存在だったのだろうか。

「ギイギイ、これで、終わりだ」
「消えたくない」

ギイギイはやはり表情を浮かべないのっぺりとした顔のまま、言った。
その大きな目は、何も映さず、瞬きもしない。
人の姿をしているが、人とは違うもの。

「寂しい」

けれど、そんな風に訴える姿は、まるで本当に幼い子供のようで。
胸がキリキリと締め付けられて、苦しくなる。

「寂しい、人から忘れられるのは、寂しい。もう忘れられたくない。寂しい、寂しい」

どこか老いを滲ませた子供の姿をした神は、寂しいと何度も繰り返す。
神や妖なんてものは、人を弄ぶだけの、人を見下しているだけの存在だって思っていた。
ギイギイだって、人と同じように人を愛している訳ではないのだろう。

「人と、共にありたい」
「………ギイギイ」

けれど人といたいと訴えるギイギイは、やっぱり悪意は感じない。
ただただ、哀しいまでの痛みを感じる。
痛い痛い痛い。
消したくない。
この存在を、消したくない。

「お前の、本当の名前は、なんて言うんだ」

かつて、神であった時。
その時、名前があったはずだ。
聞いたところでどうなる訳ではない。
ただ、この哀しい神の名前を知りたかった。
ギイギイを消すまでの時間を、少しでも引き延ばしたかったのかもしれない。

「忘れられた名前なんて、いらない。僕は、ギイギイでいい」

そして俺はまたギイギイを傷つける。
本当に、俺はどこまでも愚かで傲慢だ。
天の言うとおり、余計なことばかりして、場を乱し、引っ掻きまわし、誰かを傷つけてばかりだ。

「………」
「そんな顔をするな、祓い人」

けれど心優しい神は、俺を見上げてそう言った。
今にも消え去りそうな体をなんとか引き留めながら、しっかりと俺を見ている。

「忘れられた時からこうなるが定めだ。分かっていた。ただ、寂しかった。忘れられたまま、消えたくなかった。無駄な足掻きだ」

子供の姿も子供の声も、ただの仮初の姿。
少なくとも、俺の何倍も生きているだろう、人外のもの。
それでもやっぱり、寂しがる子供のように見えて、胸が痛い。

「祓うがいい。お前の言うことは正しい。僕はもう、人のためになることは出来ない」

どこまでも、人のことを考える、人のために存在した神。
子供と一緒にいるのが、楽しいと言った。
子供が温かいといった。

「………きっと、健吾君は、忘れないよ」
「忘れる。子供の記憶など霞のように儚く脆い。皆、僕を忘れていく。仕方のないことだ」

それは、確かに、そうなのだろう。
子供の頃の記憶なんて、酷く曖昧。
大事な思い出も、どうでもいい思い出も、年が経つにつれて、忘れてしまう。
俺自身、昔の記憶なんて、ぼんやりとしている。

「………でも、じゃあ」

でも、それでも、健吾君には覚えていてほしい。
それが、無理なら、誰でもいい。
誰かにこの寂しい神の存在を覚えていてほしい。

「………じゃあ、俺が覚えてる」

それなら、せめて俺が、覚えている。
俺だけは、ギイギイのことを、覚えていよう。
人間を愛し、人間に忘れられ、人間と共にあろうとした心優しい哀しい神。
そして、俺がこれから、消し去る、異形の者。

「俺が、覚えてるよ、ギイギイ」
「どうせ、すぐに忘れる」
「………」

一歩近づいて、ギイギイの前に座りこむ。
小さな子供の姿をした神は、ただ俺をじっと見ている。
手をギイギイに伸ばしても、動くことも攻撃することもない。
一兄の制止の声も、入らない。

「ギイギイ」
「………何を」

力をほとんど失い今にも消え去ろうとする存在は、触れることすらできない。
けれどその姿になぞるようにして抱きしめる。

「こんなの、意味は、ないかもしれないけれど」
「………」

自分の中の力を、なんとか練り上げる。
力の交換を行うために、腕の中の存在との波長を合わせる。

「せめて、俺と一緒にいたら、少しは、寂しくないかな」

ギイギイは、動かない。
だから、俺はそのまま術を、作り始める。
どんなに丁寧にやっても、人とは違う力の塊。
うまく飲み込めないだろうけど、どうにかして、取りこみたい。

「人より生じし、人を愛し、人に愛された神よ、人に帰れ。宮守の血に神の力受け入れ、その力、その心、わが身に戻れ」

ギイギイも抵抗せずに、俺の力に、自分の力を重ねてくれる。
大半は失われたとは言え、やはりギイギイの力は黒く、そして強くて、苦しい。
ギイギイが協力してくれるからなんとか耐えられるが、痛くて、苦しい。
内臓が中から何かに食い荒らされるような、血が溢れだすような痛み。
肺が圧迫されて、呼吸が苦しい。
鼻がツンと痺れて、涙が出てくる。

「くっ、ぅ」

思わず声が漏れるが、歯を食いしばって堪える。
受け入れろ。
拒絶するな。
受け止めて、自分の力と、融合させる。

「人は、温かい」

ぽつりと、ギイギイが言う。
わずかにギイギイの想いのようなものが感じられる。

裏切られた寂しさ、痛み、苦しさ。
そして、ずっと共にあった隣人に対する懐かしみ、親しみ、優しさ。

「………」

想いがあまりにも切なくて、目頭が熱くなってくる。
零れた涙が頬を伝って落ちると、ギイギイがいた空間をとおって、地面に染みを作った。
ギイギイの、僅かに残っていた力が、消えうせる。
最後の一欠片まで、なんとか飲み込む。

「………忘れ、ない、ギイギイ」

腹の中の痛みを抱えてうずくまって、堪える。
体の痛みと同じくらい、胸が痛かった。





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