「はい、一と、二、はい、お滑りしっかり」 舞のお師匠様である桐生さんの言葉に、足をひく。 腰に力がいるから、優雅でゆったりとした見た目とは違い重労働だ。 舞は、中々に全身運動で、ハードだ。 「三薙さん、要返しがぎこちない。もっと自然に」 「はい」 足に気を取られると、手が今度はおろそかになる。 勿論、お師匠様が見逃すはずがなくぴしゃりと叱られる。 つっと、こめかみから汗が伝ったのが分かった。 「栞さん、腰に力が入っていません。運びにもっと意識して」 「はい」 隣で舞を合わせていた栞ちゃんも、白い顔を上気させている。 その隣にいる、五十鈴姉さんも同様だ。 桐生さんはおっとりとした穏やかな壮年の女性という外見と話し方とは裏腹に、ものすごいスパルタだ。 宮守の人間が祭りなどで身につけなければいけない舞の流派の家元。 40代そこそこのはずだが、30代に見える若々しい女性。 若くして一統を任されたという実力はさすがに確かなのだが、なんにしろ厳しくて怖い。 おっとりと怒られると、背筋が凍る思いをする。 それでもなんとか倒れ込む前に、一通りの稽古を終えこることが出来た。 「では今日はここまでといたしましょう」 パンと、手を一つ叩いた音が稽古場に響いて、お師匠様が終わりを告げる。 俺達三人はその場に膝をつき、頭を深く下げた。 『ありがとうございました』 「はい、お疲れさまでした」 その言葉にゆっくりと顔を上げる。 冬だと言うのに汗をびっしょり掻いていて、稽古着が湿っている。 しかし安堵したのもつかのま、いかにも優しげな良家の奥様といった風情のお師匠様は穏やかに笑ったままダメ出しをしてくる。 「皆さん、もっと自分達でお稽古しておいてくださいね。これを奉納されたら、奥宮も驚いてしまいますよ」 「………はい」 「返事はもっとはっきりしましょうね」 「はい!」 あくまでもその言葉は柔和で優しい。 けれど中身はピリリとスパイスが効いている。 「まあ、皆さん忙しいでしょうしね。基本の型だけは忘れずに毎日確認してください」 「はい、ありがとうございます」 一人ずつダメ出しとアドバイスを貰って、稽古が今度こそ終わる。 体の疲れもそうだが、なにより精神的にもかなり疲労する。 しかし謳宮祭の奉納舞は、かなり重要な儀式でもあるので、仕方ない。 失敗は、許されないのだから。 「三薙さん」 「は、はい!」 退出しようとしたところで、俺だけ呼びとめられる。 五十鈴姉さんと栞ちゃんが心配げにこちらを見るが、俺は苦笑しながら頷いて先に行ってもらう。 心配してくれるのは嬉しいが、怒られるところを見られるのは嬉しいものではない。 「なんでしょうか、お師匠様」 背筋を伸ばして、お師匠様の前に立つ。 とても小柄な人だが、その伸ばした背筋と優雅な仕草のせいか随分と大きく感じる。 怒られるかとビクビクしていたが、予想に反してお師匠様はにっこりと笑った。 「随分上達しましたね」 「ほ、本当ですか」 滅多に貰えない賞賛の言葉に、思わず声が上擦ってしまう。 俺のそんな様子に、お師匠様はゆっくりと頷いた。 「ええ、よくお稽古していること」 「ありがとうございます!」 剣術も武道も、一通りたしなんではいるが、それほど得意ではない。 俺でもなんとか他の兄弟達に負けないと言えるのは、舞だけだ。 だからこそ、舞は他のものより一層の努力をしていた。 それが分かってもらえた気がして、とても嬉しかった。 お師匠様は目を細めて、俺を見上げる。 「三薙さんの舞は、懐かしいわ」 「え、懐かしい?」 懐かしいも何も、ここのところずっと稽古を見てもらっている。 何を言っているのか分からなくて首を傾げると、お師匠様は答えをくれた。 「二葉さんによく似ています」 二葉さんというのは、父さんのすぐ下の妹。 若くして亡くなってしまったという、叔母さんだ。 「お師匠様は、二葉叔母さんを知っているんですか?」 「ええ、昔、親しくさせていただいていたわ」 言ってから、愚問だということに気付いた。 お師匠様は父さん達と一緒に先代から舞を習っていたらしいから、父達兄弟と全員親しいのは当然だ。 「まあ、二葉さんの舞はもっと華やかでしたけどね。指先まで美しかったわ」 「………努力します」 「そうしてね」 褒めたままにはしてくれないお師匠様に、俺は内心ため息をついた。 稽古場から出ると、五十鈴姉さんと栞ちゃんは稽古着のまま待っていてくれた。 五十鈴姉さんが心配そうに顔を曇らせて首を傾げる。 「大丈夫だった、三薙ちゃん?怒られなかった?」 「五十鈴姉さん、ちゃんはやめてってば。大丈夫だったよ」 「ああ、ごめんなさい!つい、ね」 幼い頃からそのままの呼び方に、思わず苦笑してしまう。 お師匠様とは違って、外見もその中身もどちらもおっとりとした従姉はやや天然なところがある。 箱入りで大事に育てられたお嬢様でもあるし、どこか浮世離れしている。 垂れ目がちの目と柔和な笑顔、長い髪がよく似合う美人で、穏やかな日差しな性格は一緒にいるとこちらまでのんびりとしてきてしまう。 「もう、五十鈴姉さんは何回言っても覚えてくれないんだから」 「本当に、ごめんなさい」 しゅんとしてしまうところを見ると、これ以上何も言えなくなってしまう。 こんなところが憎めない、可愛らしい人だ。 俺達のやりとりを見ていた栞ちゃんもくすくすと笑っている。 「お師匠様は相変わらず厳しいですね」 白い肌をいまだに上気させている栞ちゃんは、いつもよりずっと細く見える。 どこか疲れを滲ませているようだ。 「本当にね。栞ちゃん大丈夫?疲れてるみたいだけど」 「期末の勉強もあるから、忙しくてくたくたです」 「そっか、テストだ」 「はい、三薙さんもですよね?」 「まあね」 もうすぐ期末テストだ。 一応いつも勉強はしているが、小心者の俺はテスト前の復習は欠かせない。 役立たずは役立たずなりに、勉強ぐらいは恥ずかしくないぐらいの成績を収めたい。 「二人ともそういえば学生さんだものねえ」 「いいですね、テストがないの」 「私だって、昔はテストがあったんだから」 「私も早くテスト、なくなってほしいです」 「それはそうね」 確かに、テストの度に精神が削られる気がする。 まあ、大人になったら、もっと大変なことがいっぱいあるんだろうけど。 でも学生にとってはテストは高くそびえる山にも見えるぐらい、大きな障害だ。 「二人とも、頑張ってね。でも、ちゃんと休まないと駄目よ」 「うん。五十鈴姉さんは最近忙しくないの?」 「ピアノの方はぼちぼち、よ。宮守の家のお仕事の方はそこそこね」 五十鈴姉さんは宮守の稼業の手伝いの他に、音大を出ていてピアノ教室の先生をしている。 俺と力の質が似ている五十鈴姉さんは積極的に祓いの仕事なんかには出ない。 場を清めたり儀式なんかに駆り出されるのが主だ。 俺よりは全然力があるし、仕事もしているけれど。 「忙しそうだね」 「そこまでじゃないわ。二人の方が忙しそう」 「三薙さんこそ、顔色悪いですよ。大丈夫ですか」 「あ、うん。俺も勉強疲れ、かな」 「ゆっくり休んでくださいね」 「うん、ありがとう」 確かに、体の調子が悪い。 まだ生活に支障をきたすほどではないが、体に常に帯びているだるさが酷くなってきている。 でもそれは、勉強疲れなんかじゃないことは自分でよく分かっている。 喉の渇きに似た飢えが、絶え間なく続いている。 「そうよ、三薙ちゃんは育ちざかりなんだから。一杯食べて一杯寝なきゃ」 「だから、ちゃんはやめてってば!」 「あ、ごめんなさい」 二人には不調を悟られないように、なんとか笑顔をつくる。 さっきの稽古で力を少し使ってしまったから、余計だ。 完全に力が、足りなくなってきている。 「稽古は終わったのか?」 その時、耳に心地よい低く落ち着いた男性の声が廊下に響いた。 よく慣れ親しんだ声にそちらを向くと、予想通りにそこには長身の男性の姿。 「あ、いち」 「一矢さん」 俺が長兄の名前を呼ぶより先に、五十鈴姉さんが駆け寄る。 どこかはにかんだように、頬を染めながら。 「五十鈴、久しぶりだな」 「ええ、お久しぶりです。お元気にしてましたか」 「見ての通りだ。五十鈴も元気そうでよかった」 一兄は男らしく整った容貌に、女性なら誰でも見とれてしまうような笑顔を浮かべている。 案の定、五十鈴姉さんは一兄の顔にくぎづけで、夢見るようにうっとりとしている。 思わず俺と栞ちゃんは顔を見合わせてちらりと苦笑する。 「二人とも、夕飯は食べていけるのか?よかったら外に食べに行こうか」 一兄が五十鈴姉さんと栞ちゃんに視線を送って聞く。 俺と栞ちゃんはもう一度視線を交わす。 「あ、私は家に用意されてるので、帰りますね」 そして栞ちゃんは、にっこりと笑ってやんわりと断った。 一兄も特に気分を悪くした様子はなく一つ頷く。 「そうか。三薙は?」 本当なら、行きたい。 一兄が連れて行ってくれるレストランは、どこも美味しいところばっかりだ。 それに一兄と話したいこともいっぱいある。 でも、いまだに頬を染めながらにこにことしている五十鈴姉さんを見ているそんな我儘は言えない。 まあ、五十鈴姉さんは別に俺が付いていっても喜んでくれるだろうけど。 「あ、えーと、俺は、実は帰りに藤吉と一杯買い食いしちゃったせいでまだお腹空かないんだよね。一兄と五十鈴姉さんだけで行ってきて」 「そうか。ちゃんと食事もとるんだぞ」 「う、うん!」 ポンポンと頭を大きな手で撫でられる。 やっぱりちょっと一緒に行きたいなって思うが、嬉しそうにしている五十鈴姉さんを見るとこの選択が正しいと思える。 それになにより、体の調子が悪いのでベッドにさっさと倒れ込みたい。 「じゃあ、五十鈴、俺と二人だが行くか?」 「は、はい!着替えてきますね!」 「ああ。居間で待ってる」 「はい、急いできますから、ちょっと待っててくださいね」 「ゆっくりでいい」 わたわたと慌てる五十鈴姉さんに、一兄が苦笑しながらその頭を撫でる。 すると五十鈴姉さんは今にも倒れてしまいそうなほどに、より一層顔を赤らめる。 不明瞭な言葉を何か口にして、逃げるようにその場から去っていってしまった。 年上の女性なんだけど、全然そんな風に感じない本当に可愛い人だ。 思わず俺と栞ちゃんはくすくすと笑ってしまった。 それから栞ちゃんは、ぺこりと頭を下げる。 「それじゃ、私は失礼しますね」 「四天には会って行かないのか」 「お稽古の前に会いましたよ」 「そうか。では車を回そう」 「えーと」 「駄目だ」 また一人で帰れるって言おうとしたのだろうが、それを許さず一兄は先周りする。 栞ちゃんは困った様子で苦笑した。 「はい」 「いい子だ」 大人しく頷いた栞ちゃんの頭を撫でて、一兄は大きく頷いた。 栞ちゃんは照れた様子でもう一度笑って、頭を下げて着替えるために奥の部屋へと消えていった。 「一兄って………」 「なんだ?」 「ううん、なんでも」 一兄の頭を撫でるのって、癖なんだろうな。 あんな風に女性の頭を自然に撫でられるって、どんだけスキル高いんだよ。 俺には絶対無理だ。 この女たらし。 レベルの違いを思い知らされて、やっぱり悔しい。 それに、一兄が他の人を撫でているのを見るのは、ちょっと嫌だ。 「三薙」 「ん?」 なんてことを考えていると、一兄が俺の顎を持ち上げて目を覗き込んでくる。 探るように見つめる深い黒の目に、引きこまれそうになる。 「顔色が悪い」 「え」 「供給してないな」 「………」 一兄に隠せるはずなんてなく、俺は視線を逸らす。 けれど顎を掴まれていては、完全に逃げられるはずもない。 「供給は怠るなと言っているだろう。常に体調を万全に整えておくのはお前の役目だ」 「………はい」 低い声で叱られると、ぎゅっと心臓が氷につけられたように冷たくなる。 一兄に怒られると、どうしても哀しくて怖い。 けれど一兄はそれ以上怒ることはせずに、少しだけ声を和らげた。 「四天と喧嘩でもしたか?」 「そういう、訳じゃ、ないんだけど」 喧嘩はしていない。 喧嘩にも、ならなかった。 あの供給を思い出してしまって、供給を頼むのが躊躇われる。 天にどういう態度をしたらいいのか分からない。 天に近づくのが怖い。 でも、旅行中に聞いた言葉の意味も知りたい。 天の行動の意味を知りたい。 でも、心なしか天も俺を避けているような気がする。 俺が避けているから、そう感じるだけなのかもしれないけれど。 怖くて近寄れない。 でも、聞きたいことがいっぱいある。 「そんなに、四天と合わないか?」 「………」 天とは、元々そりが合わない。 でもそれは俺が一方的に嫌っているだけだと思っていたが、そういう訳ではないのだろうか。 「だが、そろそろ供給しないとお前の体にも支障をきたす」 旅行中に供給してもらってから、もう1週間。 しかもあれは、中途半端に供給されただけだ。 体はかなり限界に近付いている。 後2、3日もすればかなりな飢えを感じることになるだろう。 力が足りなくなった時の酷い渇きを思い出して、眉間に皺が寄ってしまう。 あんな苦しい思いを、したい訳ではない。 「俺が供給するか?」 「………」 見上げると一兄は優しい目で俺を見下ろしていた。 思わず縋りつきたくなる。 一兄に供給してもらったら、どんなに楽だろう。 一兄だったら、きっとあんな悔しくて苦しい思いはしなくてすむ。 「………ううん、大丈夫。もうちょっと天と話してみる」 でも、俺の供給相手は天だ。 一兄にしてもらうこともあるが、甘えてばかりではいられない。 俺の供給は、かなり負担になる。 忙しくて疲れることも多いだろう一兄にそう頼めない。 無尽蔵の力を持つ天だからこそ、先宮も天を供給相手にしたのだろう。 「そうか。頑張れ」 「………うん」 一兄は苦笑して、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。 その大きな手に、強張った心が少しだけ解きほぐされる。 どっちにしろ、逃げてばかりはいられないのだ。 「どうしても困ったなら言え」 「………分かった」 返事は自分でも呆れてしまうほど弱々しかった。 一兄が気付いて俺の頬を撫でながら苦笑する。 優しい一兄に、縋ってしまおうかと考えてしまう。 でも、一兄に甘えてばかりでは何も変わらないとも思う。 天に近づくのは、怖い。 でも、天が何を考えているのか、知りたい。 |